唱吾は歌乃の為に借りているマンションに次の試験の課題曲を伝えるために訪れた。歌乃は早速練  
習に取りかかった。彼女が弾くベートベンは唱吾の感覚から見ても素晴らしいできだった。そして  
彼女の演奏を聞きながら唱吾は残っているメンバーに思いを巡らしていた。マザーの残したメッセ  
ージを5人のパートナーに当てはめてみる。  
「ANGEL、DEVEL、GOD.....一体」思わず口にしていた。  
「何、それ」無邪気に唱吾に聞き返してくる歌乃が傍にいる。彼女の笑顔で唱吾のペースをいつも  
いつも崩される。でもそれが心地よい感じさえ持っている自分を不思議に思うがそれは口にはださ  
ない。「例のマザーの遺言だ。今度の学長レースに勝ち残るのはその3人の内の一人だって」  
「ふーん......で?」「で、って?何」  
「私のことは何だと思ってるの?ANGEL?DEVEL?GOD?」考える迄も無かった。彼女が唱吾にもたら  
してくれたものはまさしく救いであったから。「君はどうかな、ANGELって感じかな」  
「えーーー私ってANGELより。GODの方がいい!!ゴッドのほうが格好いいもん!!!!」  
「格好いいって、そんな」彼女は怒るふりをして、腰に手を当てる。その姿も愛らしさが溢れてい  
る。そんな歌乃にペースを乱されまいと唱吾は  
「君ならGODって言うよりDogだな!犬の方がお似合いだ」唱吾が言い返すと  
「それもいいかな、ワンワン、ワンワン私可愛い?ワンワン」彼女は頭の上に耳の形にちょこんと手  
を当て鳴き真似をする。  
 
「どう、ワンワン?」首をかしげ唱吾の顔を笑顔で覗き込む。唱吾は今まで生きてきてこんなにも  
ストレートな笑顔を自分に向けてくれる人間を知らない。友人の間は勿論、あの家族の中でも醜く  
音楽の才能もない自分への嘲りの笑いしか知らなかったのに。  
「君は可愛いよ、本当に.....」  
「ウフ、でしょ、私可愛いモン。ワンワンワン」  
歌乃も唱吾の言葉に少し照れている自分が不思議だった。『どうしてこんなオジサンに』って思うが  
病院で唱吾が母親への気持ちを自分に話してくれたとき、ピアノバトルで倒れた自分を助けて救急車  
で自分にかけてくれた言葉は歌乃の心を熱くしてくれている。それでも唱吾は歌乃との距離を決して  
縮めようとはしなかった。  
「君が可愛いのは十分に認めるよ、本当に本当にとびきにね!君みたいに可愛く才能に溢れる女の子  
に出会ったことはないよ、だからもうふざけるのは無しだ。練習を続けてくれ」  
ふーっと息を吐き、やっと唱吾は言葉を絞り出す。このまま続けると何か切れてしまいそうで怖くな  
り、その場を立ち去ろうと扉へ向かった。  
 
 
「待って、私、犬だよ!犬だもん」  
歌乃は唱吾に向かって叫んだ。自分が何を言っているのか、不意に口をついて出た言葉に  
自分自身が戸惑っていた。唱吾と今この気持ちのまま絶対離れたくない、そんな思いが彼  
女を突き動かしそんな言葉を口に出させていることだけは歌乃にも判った。  
歌乃は唱吾の側に行き、両手を胸の前にそろえしゃがみ込んだ、そう犬がやるチンチンの  
姿勢を取り唱吾の顔を見上げ「歌乃が犬なら可愛がってくれるでしょ?」涙が瞳にあふれ  
そうになりながらも、唱吾に笑みを向けている。そんな歌乃が愛しくなり堪らなくなった  
唱吾は目の前に屈み込む少女の頭を優しく撫でる。  
「いいのかい、歌乃」「歌乃じゃない、ポチって、ポチって呼んで」歌乃が両親とまだ過  
ごしていた幸せの幼い時に飼っていた犬の名前だった。歌乃もまた傷ついた心を隠した人  
間だと唱吾も知った。歌乃と同じように唱吾も屈み込み歌乃の前に手を出した。  
「ポチ、お手」「ワン」彼女が唱吾に手を差し出す。「お代わりだ、ポチ」「ワン」嬉し  
そうに犬の真似を続ける。調子に乗ってついに触れたこともない歌乃の喉に手をやり撫で  
た。「良くできたな、ポチ」「クゥーーン」彼女は軽く目を閉じ唱吾の愛撫に身を任せた  
唱吾は彼女の愛らしく美しい顔が優しく変化しているのを感じてふっと手を止め、歌乃を  
見つめた。歌乃は目を開けると笑顔で唱吾を見返すと舌をペロッと出し丸めた手を唱吾の  
胸に手をかけ顔を近づけると唱吾の顔をペロペロ舐めだした。びっくりして「お、おい歌  
乃.....」「歌乃じゃないでしょ、ポチ、ポチよ」唱吾の中で何かがはじけた。  
 
唱吾は歌乃が狂ったのではないかと一瞬思いがよぎる。でも彼女が精神に異常を来しこん  
な行動を起こしたのではないことは唱吾には充分理解できた、いや唱吾だからこそ理解出  
来たのかもしれない。いつも笑って元気一杯の彼女だが、その裏で持つ歌乃の持つ苦しみ  
を歌乃の寂しさをそして悲しみを唱吾だからこそ理解でき、歌乃にも唱吾なら本能的に判  
って貰えると思ったのだ。こんな風に寂しさを埋めようとする歌乃に、唱吾は一瞬でもい  
い、どんな形でもいい彼女の苦しみを埋めて上げられるなら何だってしようと決意した。  
「さぁ、ポチ思いっきり遊ぼうか?」唱吾は立ち上がった。  
「クン」歌乃は嬉しそうに唱吾のズボンに頬ずりした。  
「そうだな、ポチに首輪をつけてやろう」傍にあった彼女のバンダナを見つけて手に取り  
丁寧に細長く折りたたみ、彼女の首に巻き付けた。決して彼女の首に傷など付けない様に  
注意して、少し手が震えてしまい、それを見た歌乃がにこっと笑った。  
「やっぱり、おじさん優しいね」「こら、犬は喋らないもんだぞ!」  
「ごめんなさい、でもちょっと待って」歌乃はガラステーブルに自分の姿を写し、自分の  
首のバンダナに手を当て「私の首輪..........私おじさんの犬?」  
唱吾は答えに詰まった。彼女の苦しみをこんな風にしか埋められない自分が嫌だった。で  
も「君は、私のポチだよ」「ワンワン」彼女の笑顔が見たかった。それが唱吾の望みとなった  
 
 

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