ある休日の風景
その1・腹黒長男とお堅いお嬢様の場合
テストもない日曜日の夕方、特に出掛けるアテもなく退屈な時間を持て余していた聖香は、不意に鳴ったノックの音に訝しげな表情を見せてドアの方へ向かった。
この部屋に聖香が居る事を知っているのはホテルの従業員と一部の大学関係者だけのはずであり、こんな半端な時間にボーイがやってくる事はまずありえない。
「・・・・・・どなた?」
「私です」
ドア越しの聞き慣れた声に聖香は少し驚いたようだったが、すぐに表情から動揺の色を消してドアを開けた。
「突然申し訳ありません」
ドアの前に立っていた器一に、聖香は少し不思議そうな視線を向ける。
「・・・・・・珍しいわね、あなたがわざわざここまで尋ねてくるなんて・・・・・・てっきり今日は一日家族サービスでもしてる思ってたわ」
「先週子供にせがまれて遊園地に行ってきたばかりですから」
相変わらず本音の見えない表情の器一に、聖香は深く勘ぐるのは諦めて心の中で溜め息をついた。
年の功もあるのだろうが、彼に対してはどんなに本音を探ろうとしてもサラリとかわされてしまう。
「それで、今日は一体なんの用事があってここに?」
「テスト以外部屋に篭もりっぱなしでは身体に悪いでしょう? 一緒に夕食でもどうかと」
「・・・・・・それはデートのお誘いと受け取ってもいいのかしら?」
「そう受け取ってもらっても構いませんが」
からかうような響きを帯びた聖香の言葉を、器一は優美な微笑みで受け流した。
「・・・・・・どうかしましたか?」
「いいえ、別に何も・・・・・・」
ホテルの近くにあるフレンチレストランの片隅で。
向かいに座る器一の表情を窺っていた聖香は、視線に気付いた器一の言葉に平静を装って答えると、デザートの最後の一口を口に運んだ。
聖香の目から見た水無月器一という男は、掴み所の無いという表現がぴったりと当てはまる人物だった。
至極まともな感覚の持ち主かと思えば、どこか常軌を逸した芸術家気質の片鱗を見せる事もある。丁寧な物腰と仕草は時折慇懃無礼にさえ見え、決して本音を見せる事が無い。
どれが彼の本当の顔なのか、それとも全てが偽りなのか。いや、もしかしたら全てが本当の顔なのかもしれない。
聖香にとって、ある意味それはこのピアノレースの事よりも余程興味深い事だった。
「さて、もうそろそろ戻りますか? 会計は私が払いましょう」
「えぇ、お言葉に甘えるわ」
席を立った聖香は、優雅な足取りで出口へ歩き出した。頭の片隅で、器一は家族の前でどんな表情を見せているのだろうかと考えながら。
ホテルに帰る途中の歩道で、聖香はふと視線を上げた拍子に気付いたあるものに足を止めた。
「観覧車・・・・・・」
この近くにある事は知っていたが、わざわざ見上げる事もないので今まで気にも留めていなかった観覧車。
有名な場所にあるもの程大きくもなく、人気があるようでも無かったが、その観覧車には聖香を惹き付ける何かがあった。
「・・・・・・乗りたいですか?」
聖香の呟きに足を止めたのか隣で観覧車を眺めていた器一が、呟くように言う。
「え?」
「絶叫マシーンはともかく、観覧車なら心臓が悪くても大丈夫でしょう? 高い所が苦手なわけではないようですし。もしよければ乗っていきませんか?」
「えぇ・・・・・・」
意外な申し出に戸惑いながらも、聖香は頷いた。
少し古びて錆びた階段を上り、係員に案内されてゴンドラに乗り込む。
煌々と灯ったビル街の明かりが、まるで宝石箱をひっくり返したように輝いていた。
「珍しいですね、子供みたいに目を輝かせてるあなたは。・・・・・・子供の頃好きだったんですか?」
「・・・・・・私にだって過去を懐かしみたい時ぐらいあるわ」
隣に座る器一の言葉に、窓から外を見ていた聖香はムッとした表情になる。
肩越しに器一が微かに肩を震わせて笑っているのが分かり、聖香は眉間に寄せた皺を深くした。
やがて頂上を過ぎ観覧車が地上に降りてくると、少しばかりの寂寥感が襲ってくる。
ムッとした表情から寂しげな表情に変わった聖香は、ゆっくり近付いてくる地上の景色をただひたすら眺めていた。
「終点です、降りてください」
「はい」
係員の声に、器一が立ち上がる。聖香は、咄嗟にその服の袖を掴んだ。
「もう一周だけ、いいかしら?・・・・・・もう一周だけ」
一瞬の間の後、器一はにこりと微笑んだ。
普段の冷笑に近い笑顔ではなく、聖香が今まで見た事の無い、その端正な顔立ちにもっとも相応しい穏やかな表情で。
「・・・・・・もちろん」