ある休日の風景シリーズ
その2・軟派な三男(仮)と硬派なヤンキー娘の場合
その日、折角の休日だからと昼寝をしていた光は、目を覚ました途端に自分の身体に異変に気付いた。
熱いのに汗が出ないような、重苦しい感覚と、頭の痛み。明らかにいつもと違う。
その時、微かに玄関のドアの鍵が開く音が聞こえてきた。譜三彦が外出先から帰ってきたのだろう。
なんとか起き上がって床に足をついたが、光は酷い眩暈を感じてそのまま床に倒れ込んでしまった。
「38度1分・・・・・・こりゃ絶対安静だな」
溜息混じりに呟く譜三彦の声がやけに頭に響いて、光は眉を寄せた。
昨日の夜は昼間と打って変わって冷え込んだのだが、どうやらそのせいで風邪を引いてしまったらしい。身体の丈夫さには自信があったのだが、季節の変わり目の不安定な天候を甘く見ていたらしい。
譜三彦に手を貸してもらいベッドに戻った光は、鈍い頭痛と倦怠感に襲われていた。
「ったく、もうちょっと早く気付けなかったのか?」
「・・・・・・朝起きた時はちょっと疲れてるな、ぐらいにしか思わなかったんだよ」
余程辛いのか、反論する声にも覇気が無い。
「今日が試験の日だったら間違い無く落ちてたぞ?・・・・・・とにかく、今日は大人しくしてるんだな。とりあえず昼飯作ってやるから」
「わぁったよ・・・・・・」
パタンと音を立てて、寝室の扉が閉まる。
相変わらず思うように動かない自分の身体に、光は小さく溜息をついた。
「光? 起きてるか?」
「・・・・・・あぁ」
控え目なノックの音と譜三彦の声に、うとうとしていた光は重い瞼を引き上げて答えた。
ゆっくりとドアが開き、片手に深皿やらコップやらが乗った盆を持った譜三彦が入ってくる。
起き上がった光は、深皿の中身を見て意外そうに眉を上げた。
「これ・・・・・・」
「ミルクのリゾットだ。消化しやすいものの方がいいと思ってな・・・・・・熱いから気を付けろよ?」
皿を受け取った光は、恐る恐るスプーンですくって口に運ぶ。
「・・・・・・うまい」
「だろ? 昔、風邪引いた時なんかによくこれを作ってくれたんだ・・・・・・母さんが」
“母さん”と言った時のぎこちない言い方に一瞬疑問をもった光だが、眉を寄せただけで追求はしなかった。
他人の家庭環境をあれこれ詮索する程、野次馬根性旺盛ではない。
「隠し味にチーズを使うのがコツらしい。その代わり、入れ過ぎてもバランスが崩れちまうけどな」
普通の家庭ではまず食べないであろう小洒落たリゾットに、譜三彦も一応は資産家の息子なのだと妙な所で感心してしまう。
少し時間はかかったが、光は皿の中身を空にした。
「・・・・・・ごちそうさま」
「お、完食か。じゃあこれ、薬と水」
差し出された開封済みの粉薬の包みと水の入ったコップに、光は眉間に深い皺を寄せた。
「・・・・・・」
「露骨に嫌な顔するな・・・・・・こじらせたら余計辛いぞ?」
呆れ顔で言う譜三彦の言葉に、光は渋々とコップを受け取ると、苦い粉薬を一気に口に放り込み水で流し込んだ。
「よし、飲んだな。じゃあ今日はもう寝てろ。次の試験までには万全の体調にしとかないとな」
薬の味に閉口する光を尻目に満足そうを頷くと、譜三彦はそう言いながらまるで親が幼子にするように光の頭を撫でた。その行動に、光は憮然とした表情になる。
「・・・・・・ガキ扱いしやがって・・・・・・」
掠れた声で呟いた光の言葉に、譜三彦は珍しく何も言わず、笑みを浮かべただけだった。
――――気のせいだろうか、その笑みがいつもと違うように見えるのは。例えるならば、まるでガラス細工のように繊細な。
「じゃあ俺は向こうに行ってるから――――」
今彼が居るのは、恐らく自分が踏み込む事の出来ない領域だ。
それが、なぜだかとても哀しかった。
粗野で、無遠慮で、不道徳で、そのくせ今にも消えてしまいそうな淡い色を思わせる人・・・・・・彼を縛り付けるものが何なのかは分からない。
ただ、光は目の前の男を「連れ出して」やりたいと、それだけを強く思っていた。
「待て!」
寝室を出ていこうとする譜三彦の背中に、光は思わず声を掛けていた。
きょとんとした表情で譜三彦が振り返る。
一瞬何か言葉を続けようと口を開いた後、光は何も言わずに首を振って額に手を当てた。
「・・・・・・ちくしょ・・・・・・熱のせいでおかしくなってやがる・・・・・・」
自分に言い聞かせるようにも聞こえる声で呟いた光は、大きく溜息をつく。
譜三彦はからかうような笑みを浮かべた。
「・・・・・・らしいな。しっかり寝て治せよ?」
いつもの譜三彦と全く同じその表情に、光は身体の力がふっと抜けていくのを感じた。
「・・・・・・うるせ・・・・・・」
そうぼやきはしたものの、光は大人しく目を閉じた。もう反論する気力も無い。
寝室のドアが閉まる音を微かに聞きながら、光は深い眠りに落ちていった。
ざぁぁぁぁ――――
床を叩くシャワーの音が、今はなぜか気にならなかった。
激しい雨音にも似たその音は、いつも心の琴線を無遠慮に撫でていくというのに。
少し前まで、雨が苦手だった。特に、自分の人生を大きく変えてしまったあの事故の日と同じ、土砂降りの雨は。
自分の半身とも言える存在を奪われ、自身も酷い怪我を負い――――だがそれ以上に自分を叩きのめしたのは、自分の心に潜んだ負の感情に気付いてしまった事だった。
あの事故が起こるまで、何の疑問も無く自分は幸せだと思っていた。才能に恵まれ、裕福な家庭に生まれ、温かい家族に囲まれ・・・・・・自分は幸せだと、そう思っていた。
だが、本当は気付かない内に押し潰されそうになっていたのかもしれない。
重く圧し掛かる両親の期待に。
兄弟達の嫉妬と羨望が混じった視線に。
一時の栄華の為に平気で人を蹴落とす人間が存在する事に。
だからこそ、心の奥底で己の半身を「羨ましい」と感じていた。
期待も嫉妬も羨望も受けない代わりに、どこへでも行ける自由を持っていた「彼」を。
あの事故の後、名前を聞かれたその瞬間に気付かされた・・・・・・気付いてしまった。
自分の中に巣食う感情に・・・・・・憎しみにも似た憧れに。
どうしようもないその感情と、ピアノを・・・・・・自分の存在価値を失う事への恐怖。
――――だから嘘をついた。たった一つの嘘を。
いっその事、あの時直ぐに見破られていた方が幸せだったのかもしれない。その嘘が、誰よりも大切だった人を死に追いやってしまったのだから。
発覚を恐れずに、何より先に彼女にだけは真実を告げておくべきだった。
父の激しい反対に彼女が追い詰められていた事を、自分は誰よりも知っていたはずだったのに。
「・・・・・・・・・」
手を伸ばして、白く曇った鏡の表面を拭う。
そこに映ったのは、紛れも無い自分の姿だ。他人から見れば見分けがつかない顔でも、自分は「彼」ではない。
心のどこかでは気付いていたのだ。どれだけ憧れても、例え同じ魂を分けた半身だったとしても、自分は「彼」にはなれない。
別々に生まれ、それぞれの名前を与えられた時点で、自分達はもう別の道を歩み始めていたのだと。
命を断とうと思った事もある。どうしても勇気が持てず、死を求めて自分から危険に向かっていった事も。だが、自分は生き残った。
運命に見離されたのか、覚悟が足りないのか。まるで何かに生かされているかのように自分は生き続けた。
けれど、今なら自分が生き残ったその意味を理解出来るような気がする。
今まで生きてきたおかげで、あの日見失った大切なものをもう一度見つける事が出来た。
そして、彼女を失ってから初めて大切だと思える存在に出会えたのだから。
生意気で、強気で、時々とても純粋な表情で笑う少女――――今頃は、風邪の薬が効いて眠っているだろう。
彼女との出会いが、自分に勇気を与えてくれた。
もう少しだけ、誰でもない自分自身の意思で大切なものの為に生きてみようと。
それ以上は望まない。例えそれが自分を縛り付けているのだとしても、もう逃げたりはしたくない。
――――だから。
「――――――――」
無意識の内に呟いた言葉は叩き付けるシャワーの音に掻き消され、譜三彦――――いや。
鍵二はゆっくりと手を伸ばし、シャワーコックを捻って時ならぬ雨音を止めた。