「お兄ちゃんの、ばかあー!! 大っ嫌い!!」
帝王学の講義を終え、優雅に昼食を済ませたその足で、
いつものように極限流道場へ向かったロバート・ガルシアの耳に飛びこんできたのは、そんな叫び声だった。
と同時に道場の扉が勢いよく開き(間一髪でロバートはそれをかわした)、
つむじ風のように人影が脇をすり抜けてゆく。
それを呆然と見送って、ロバートは苦い顔をした。
短くない付き合い、何があったかくらいはわかる。
道場を覗くと、そこにいたのはロバートの師匠ではなく親友でありライバルでもある男だった。
「……リョウ」
その声に振り向いたリョウ・サカザキは、ロバートを見つけるとばつの悪そうな表情になった。
『無敵の龍』と称される彼も、実の妹に気をとられてしまってはロバートの存在にまでは気づけなかったのだろう。
ロバートは、すでに習慣になっている一礼をし、道場に上がる。
そして、あいさつもそこそこにイタリア語なまりの英語で言った。
「実の妹泣かしてどないすんねん。ほんまに大人げない」
「……大人げないとか、そういう問題じゃない。極限流の品位に関わる問題だ」
またこれだ、とロバートは思う。
最近のユリ・サカザキとリョウ、もしくはタクマ・サカザキの喧嘩はもっぱら極限流の品位に関してだ。
師範でもあり父でもあるタクマや師範代のリョウは、ユリの奔放な試合スタイルが許せない。
空牙を「ちょーアッパー!」、飛燕旋風脚を「ちょー回し蹴り!」などと言い、
勝利したときにウインクをするような空手は極限流とは認められないらしい。
極限流空手は一撃必殺を旨とする武術だというのがタクマやリョウの言い分だ。
「ええやないか。空手の大会のときには、ユリちゃんきちんとしとるんやから。
KOFみたいな異種格闘戦はパフォーマンスも試合のうちやで」
惚れた弱みもあり、ユリのそういった行為をすべて黙認しているロバートはさらりと彼女を弁護した。
しかし堅物なユリの兄は、形のいい眉をひそめる。
「師範代であるおまえがそんなことでどうする」
「自分、ユリちゃんの兄貴やろ?
年下の女の子相手に本気で喧嘩したうえに泣かせるなんて、兄貴としてどうなんや言うてんねん。
百歩譲って、師範代として門下生を一喝しただけ言うなら、次は兄貴として泣いた妹を慰めに行かんかい」
リョウは黙った。
若くして極限流の師範代を務め、無敵とまで謳われているリョウ・サカザキだが、
ひとたび空手を離れれば不器用でシャイで、しかも少々天然の入った一青年だ。
そういう、女性を立てたり慰めたりという気遣いは完全に苦手分野だろう。
そして、ロバートの見たところ、リョウのこの部分は確実にタクマ譲りだ。
「……ほんまに、ユリちゃんも苦労するわ」
口では呆れた口調を作りつつも、ロバートは少しの下心も持ちながら、親友の代わりに彼の妹のもとへと向かうことにした。
道場の裏手で膝を抱えているユリを見つけ、ロバートはどう声をかけたものかと足を止めた。
「……ロバートさん?」
ユリが、まるで後ろに目がついているかのように言ってのけ、不意を衝かれたロバートは息を呑んだ。
気配は殺していたつもりだ。
もしかしたら、極限流の中で一番才能に恵まれているのはこのユリかも知れないと今さらながらに思う。
「お、おう。ユリちゃん。どないしたん? またリョウの奴と喧嘩したんか?」
「……うん」
小さくつぶやいて、ユリはくすんと鼻をすすった。
タクマやリョウと違い、ロバートがユリの行動を黙認している理由は、半分が惚れた弱み。
そして、残りの半分はユリの考えを多少なりとも理解しているからだ。
父親であるタクマが失踪したことにより、幼いユリは兄であるリョウに育てられた。
彼がストリートファイトで生活費を稼いでいたのだ。
それに気づいたガルシア財団も援助を申し出たものの、リョウに断られたために陰から援助するにとどまった。
タクマが戻ってきてからは、極限流道場を再開し、護身用空手などを教えるようになって経済的には安定した。
しかしながら、宣伝の類を嫌うタクマは積極的に新聞広告などを打とうとはせず、
そのうえ指導も厳しいので、門下生が増加するということはなかった。
サウスタウン以外にも極限流の支部はあるが、
それもごく少数の精鋭である門下生と決して多いとは言えない練習生のみで、経営はかつかつだった。
宣伝と言える宣伝は、格闘大会に参加し、そこで極限流の実力を知らしめるのみ。
あえて言葉で説明しなくとも、戦いを見せるのみで十分だというのがタクマの考えだった。
そこで、裏大会から一転して、クリーンな格闘大会になったKOFだ。
極限流チームの一員としてタクマの穴を埋めるように出場したユリは、リョウやロバートが驚くほどの人気者となった。
一撃必殺を旨とするリョウやロバートの戦いぶりとはうって変わって、
手数の多い華やかな技を繰り出すユリは、極限流のイメージを一転させた。
何せ、テレビ映りのいい愛らしい女の子が並み居る格闘家を倒していくのだ。
大男をKOした後、モニターに向かって悪びれずピースサインやウインクをする姿は世の男性を魅了し、
テレビ観戦していたタクマを激怒させた(らしい)。
しかし、それによってユリの狙い通りに極限流空手の門を叩く男性や若い女性は一気に増えたのだ。
――ただし、不純な動機で入門した男性はタクマやリョウやロバートにあっさり看破され、
普通より五割増しで厳しい稽古にあっさり逃げ出すことになってしまったが。
それでも、ユリの『極限流の品位を落とす』振る舞いは、門下生を増やそうとユリなりに考えた結果だったのだ。
リョウやタクマはユリに対してのお小言を絶やさないが、ロバートから見れば、本当にユリはいい子なのだ。
尊敬していると言い換えてもいい。
大の男でも音をあげるようなタクマの稽古を毎日こなし、
サカザキ家の家事全般を一手に引き受け、
それ以外の時間はアルバイトをし、
さらに空き時間はボランティア活動までしているのだ。
これだけですでに、ロバートとしては「健気やなぁ」と抱きしめたくなってくる。
さらに、天然の入っているタクマやリョウは一生気づかないだろうが、
アルバイト代が入った日には、ユリは自らのお小遣いから奮発していつもより高い食材で夕飯をつくっているのだ。
ロバートは、背中を丸めているユリに一歩近づいた。
そんな動きを制するかのように、ユリはまた震える声で言った。
「何が『極限流の極意は一撃必殺だ!』よ。……お兄ちゃんには、私の気持ちなんて、わかんないんだ」
「……うん。せやなぁ」
どれだけ才能があろうとも、どれだけ努力しようとも、ユリは男性でなく女性だ。
腕力や体力は男に劣る。
女性の身でも、ユリの技術や格闘センスは他を圧倒し、並の男なら寄せ付けない強さを誇る。
一年そこそこというわずかな期間で、極限流の門下生をごぼう抜きし、
タクマ、リョウ、ロバートに次ぐ実力をつけたユリは、不世出の天才と言っても言い過ぎではないだろう。
事実、KOFでも名だたる格闘家を倒し、また互角に戦ってきた。
ただ、本当に超一流の格闘家相手にはきっと生涯敵わない。
――例えば彼女の兄であるリョウのような。
ユリは一生リョウに敵うことはない。
同じく、ロバートもユリ相手に負けることはないだろう。
ただ女として生まれてきた、それだけで。
どうしても技が軽くなってしまうユリには、「一撃必殺」という極意を完全に自分のものにすることは一生不可能なのだ。
ロバートにしてみれば、そのあたりを踏まえてもう少しソフトに接してあげられへんもんかなぁ、という感じだった。
まあ、あの不器用なうえに天然の入った頑固親子にそれを望むのは無謀というものかも知れないけれど。
「でもな、リョウの奴は、ほんまに兄バカいうか……過保護なだけやねん。
せやから、いろいろうるさく口出してしまうんやないかな?」
ユリは答えない。
ただ、くすんと小さく鼻をすするだけだった。
「師匠に似て……不器用なうえに口下手で天然やからなぁ、リョウは。
せやけど、あいつなりにユリちゃんのこと心配しとるんやで?」
少しの間を置いて、ユリがすっくと立ち上がった。
振り返ったユリは、まだ涙に濡れた瞳をしていたけれど、それでも世の男たちをとりこにした全開の笑顔だった。
赤い目をぐいっとこすって、言う。
「えへへ、そうだよね。お兄ちゃんもお父さんも、うちの男ってどうしてみんなああなのかな」
ロバートもつられて笑う。
「ほんまになぁ、困ったもんやで」
「しょうがないから、私、謝ってあげようっと」
もう一度顔を拭い、ユリは大股で道場へと足を進めた。
少し時間を空けてから後を追うのが礼儀というものだろう。
立ったままのロバートを振り返って、ユリが小走りで駆け戻ってくる。
どないしたんや? ……と声をかけようとしたとき、飛びかかるように勢いよく、ユリに抱きつかれていた。
「ロバートさん、ありがとう!」
至近距離でにっこり笑った天使が、羽のようにロバートの右頬に唇を落とし、すぐに身体を離した。
またねー、と手を振って、その俊足を飛ばしてユリは去っていった。
ロバートをそこにひとり残して。
「……天然なのはリョウだけちゃう。まったく……天然兄妹め」
男の方の事情を何もわかってくれない小悪魔を思い、ロバートは深いため息をついた。