ソープ嬢と呼ばれる職業についてはや1か月。
経験がないぶん、とにかくお客様を喜ばせることを第一に頑張った私の耳に思わぬ報告がとびこんできた。「今月のトップは雪乃、お前だ」オーナーの赤木さんの言葉に周囲がざわめく。「えっ…?私…ですか!?」信じられない。
赤木さんが頑張ったなと言いながら花束を手渡してくる。
トップになれたことももちろん喜ばしいことだが、赤木さんが見せる笑顔がなにより嬉しい。
花束を更衣室に置きに行く途中、背後から私の名を呼ぶ声がしてふり返ると、赤木さんが立っていた。
「雪乃、話があるんだが…ちょっといいか?」先程とは違う真剣な表情に私は一瞬たじろいでしまう。
「あ…はい」私が頷くと、赤木さんは控え室に入っていく。私も慌てて後に続く。
狭い部屋に二人きり、向かい合って対峙する私と赤木さん。話しだすきっかけがつかめないのか、赤木さんはうつむいたまま黙って口を結んでいる。
「あの…お話って何でしょうか…?」沈黙に耐えかねて私は尋ねた。
「ん、あぁ…話ってのはな…つまり…な…」赤木さんが歯切れ悪く言葉を濁す。「仕事のことですか?」
「まぁ…それもあるが…いや、違うか…」「はっきり言って下さい」
あやふやな態度の赤木さんに私は優しく、しかしはっきりと告げる。何かミスをしたなら、そうと教えてほしい。
「…恋人とはまだ一緒に住んでるのか?」ふいに質問され、私は面食らった。
「はい…まぁ…」彼は小説家をめざしていて、私がここで働いたお金で生活している。
それを辛いと思ってはいないし、私が自ら望んでしていることだ。
「こんなとこで働かせるような男といつまで暮らす気なんだ?」
「私が望んでしてることですから。彼には有名な小説家になってもらいたいんです」何でそんなこと聞いてくるんだろう…私は訝しがりながらも答える。
「なぁ…雪乃」赤木さんが一歩踏み出し、視線がぶつかる。
「俺と暮らさないか?」言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「俺がお前を守るから」守る…?私を…?何から…?「彼は…悪い人じゃないんです…」咄嗟に浮かんだのは彼の顔。酒を飲んで暴れる彼の顔。私の頬をぶつ彼の顔。
「夢を持ってて、私を愛してくれてる…」言いながら、私はぽろぽろと涙を流していることに気付く。
「雪乃…自分には嘘をつくな」赤木さんが私の体をギュッと抱き締める。
「嘘なんか…ついてません」嗚咽がもれる。赤木さんの言葉一つ一つが心にしみる。
体を包む力が不意に弱まり、唇に温かな感触。
頭がクラクラする。
拒もうとする心の中の自分が消えていくのを、私は霞んだ視界の中感じていた。
今日はここまで。
あれからどうやって家に帰ったのか、記憶が定かではない。
憶えているのは今だ唇に残る誰かの体温だけ。
彼が執筆がはかどっていることを嬉しそうに語っていても、私はただ微笑みを浮かべたまま、違う事を考えていた。
『俺と暮らさないか?』
何十回と頭をループするそのフレーズは私を捕えて離さない。
赤木さんは本気なんだろうか?ただの冗談?気紛れ?ふと、彼の一方的な会話が途切れ、私は現実に引き戻される。
「松子、俺の話聞いてたか?」「あ…うん、ちゃんと聞いてたわ」
私のぎこちない笑顔を見透かすように、彼の鋭い視線が突き刺さる。
「何考えてた?」「な…何も」彼が手にしていた原稿用紙をバサリと机の上に投げ捨てる。
「誰の事考えてた?」「…」赤木さんの顔がちらついて私は思わず彼から視線をそらしてしまった。
彼はにっこり笑って、机の上に投げ捨てられた原稿用紙を両手でグチャグチャにかき乱して、立ち上がって、私を蹴り飛ばした。
「あうっ…!!」壁に体を打ちつけ、痛みに息がつまる。
「俺の他に男でもできたのか!」襟をグイッと引っ張り上げられ、私はぶんぶんと首を横にふる。
「お前は俺のもんだ!!」そのまま床に引きずり倒され、シャツを荒々しく破り捨てられる。
「いや…っ!!」体の上にのしかかられ、それでも手足をばたつかせる私の顔や腹を、彼は殴った。
「松子、お前はどこにも行けない。ずっと俺のそばにいるんだ…」彼がうわごとのように呟く。
露になった胸を乱暴に揉まれ、まだ受け入れる態勢ではない下半身に、強引にねじ込まれる彼の分身。
ただひたすら自分のペースで突き進み、痛みに気を失いそうになる私を見て彼が満足そうに欲望の印を吐き出す。
これが初めてではなかった。彼はそうした後、無邪気な子供のような顔で眠りにつくのだ。
私は愚かにもその寝顔を見る度に彼が愛しいと感じてしまうのだ。
だが、今日は違った。
彼の寝顔を見ていたらどうしようもなく悲しみが襲ってきて、涙がとめどなく流れてきた。
痛む体を引きずるようにしてバスルームに向かう。
シャワーの水が彼につけられた傷を癒してくれるような気がして、私はただ頭上から降り続ける水を座り込んだまま浴び続けた。
バスルームを、またはいずるように出て衣服を身につけた頃、涙はやっと流れなくなっていた。
彼のいびきが聞こえる。
私は壁によりかかって濡れた髪をかきあげた。
「私…彼のこと本当に好きなのかな…?」誰に尋ねるでもなく、ぽつりと呟いてみる。
私はゆっくり立ち上がり玄関に向かうと、静かにドアノブを回した。
引き裂かれたシャツが無造作に転がるこの部屋を、彼から逃げ出したかったのだと、私は気付いてしまった。
あてもなく街に出て、暗い裏路地を渡り歩く。
冷たい風が吹き抜け、曇った空から突然降り始めた雨が容赦なく私の体を叩く。雨に濡れた髪が重い。
朝方近くに女一人がびしょ濡れでふらふら歩く姿は、はたから見たらどれだけ滑稽だろうか。
私は雨の中ひたすら歩き続けた。
気が付くと、見慣れた光景が目の前に広がる。
無意識にこの場所を目指していたんだろうか。
いつもは街中にまぶしいくらいの光を放つ『白夜』のネオンサインも、今はその輝きを停止させている。
吸い寄せられるように入り口に手をかける。
入り口にはもちろん鍵がかけられていて、それでも私は開くはずのない扉をガタガタとやみくもに押し続けた。
出口の見えない闇の中を歩いているような感覚。
歩いても歩いても終わりがない。誰か救って。私を闇から連れ出して。
「誰か…助けて…」冷えた体を抱き締め、ズルズルとその場に崩れ落ちる。水分を含んだ服が体温を奪ってゆく。
このまま眠ってしまいたい。何もかも忘れて…。
目を閉じた刹那、まばゆい光をまぶたごしに感じる。光…?私は目を開け、顔を上げる。
「赤木さん…」暗闇から手を伸ばしてくれたのは赤木さんだった。
「雪乃!!」体を揺さ振られる。「雪乃!!」もう一度強い口調で名を呼ばれ、私の意識は徐々に覚醒する。
「何やってんだこんなとこで!」強く腕をつかまれ店内に引き入れられる。
鍵をかける音が聞こえ、私は安堵感からまたその場にしゃがみこんだ。
「雪乃、お前何やってんだ」赤木さんが怒ったような、泣きそうな顔で私を見下ろしている。
「…ごめんなさい」
「…とにかく話は後だな。すぐに風呂入んな」寒さで小刻みに震える体。でも私は動けずにいる。
見かねた赤木さんが私の体をひょいとお姫様抱っこの要領で持ち上げる。
「あ、赤木さん!」恥ずかしさに私はおりようともがく。
「うちのNO.1に風邪でもひかれちゃこまりますから」抱き抱えられたまま、バスルームまでやってきた。私はやっと赤木さんの手を離れ、よろよろと自分の足で降り立った。
「洗ってやろうか?」
「だ、大丈夫ですっ!」
私は逃げるようにバスルームに飛び込んだ。
湯槽に浸かると、寒さが一気にやわらいでゆく。
水面に揺らぐ蛍光灯の光を見つめているうちに、それはいつしか私の顔になって、彼の顔になって、最後に赤木さんの顔になった。
…赤木さん。私がここに無意識のうちに辿り着いたのは、きっと彼に会いたいと思ったからなんだろう。
彼なら私を救ってくれる。またそうやって都合が悪くなると男に甘えて、媚びて、破滅して。
私はなんてずるい女…。
「雪乃、服とタオル置いとくからな」バスルームの外から赤木さんの声がする。「すみません」
なんだか謝ってばっかりだ。タオルを取る為に湯槽から上がり、ドアの隙間からそっとタオルを手に取る。その手を確かに掴む力強い手。
あっと思う暇なく、赤木さんがバスルームになだれこんできた。
「ちょ、ちょっと、赤木さん!」私は慌てて手を振りほどき、湯槽に再び飛び込む。
「出てって下さい!」胸を腕で隠しながら、後ずさる。赤木さんは私から視線を外さずに、服のまま浴槽に入り込んでくる。
「赤木さん!本当に怒りま…んうっ…」最後まで言葉にならなかった。
赤木さんが私の腕を掴み上げたままキスをしてきたのだ。絡んでくる舌に私は短く喘ぐ。
「ふ…ぅ…」身をよじろうとするが赤木さんがそれを許さない。
首筋を舐め上げられ、耳たぶを甘噛みされ体がぞくりと粟立つ。
「なんで…こんな…っ…」「ここにきたのはそういう意味だろ?」
ドクンと心臓が高鳴った。「違…います…赤木さんがいるなんて…っ…思わなかったし…」
赤木さんが彼に付けられた傷を消すようにそこへ口づけた。
本当に違うのだろうか。
私はここへ赤木さんに会いにきて、こうして抱かれる為にやってきたのではないか。
揺れる水面のように心も揺れる。漫画にでてきそうな悪魔と天使が私の心の中で争う。
『このまま身を任せてしまえばいい』
『駄目、今すぐここを出なくちゃ』
そうだ。私には彼がいる。赤木さんの気持ちは嬉しいが、受け入れる訳にはいかない。
「赤木さん、やっぱり私…っあ…っ」唐突に胸の先端に刺激が走る。赤木さんがそれを口に含んで飴を舐めるように転がす。
「やめ…っ…」時折歯をたてられ、チリチリとした甘い痛みが襲う。
『本気で嫌なら抵抗しなくちゃ』
『できるわけないよ。こうなることを待ち望んでいたんだから』
片手でもう一方の胸を揉みしだかれ、私は言葉にならない吐息をもらした。腕はもう拘束されていない。
けれど、私はここから立ち上がれないでいる。
「雪乃…もう離さない」
抱き寄せられ、再び唇を重ね合わせる。今夜だけなら、今回一度きりなら…悪魔の誘惑に負けそうになる。「赤木さん…私…どうしたらいい…?」
彼の記憶を消してしまえれば迷いなくこの肌に身を委ねられるのに…。
「…お前が決めろ。嫌ならこれ以上のことはしない」赤木さんは優しい。優しすぎるのだ。
無理矢理に力でねじ伏せ支配することをしない。
今だってそう、こんなずるい女の返答をただ待っていてくれている。
天使が目を瞑る。悪魔が私の背中を押す。
「…好き…私、赤木さんが好き…」
「雪乃、俺も愛してる」
愛してるなんて安っぽい偽りの言葉だってずっと思っていた。
でも赤木さんの『愛してる』は私の心の奥深くに染み込んで、彼と一つになりたいと思わせる温かな愛の言葉だった。
濡れた衣服を脱ぎ捨て、二人とも産まれたままの姿で抱き合う。
赤木さんが足の間に割り込み、細く長い指が太股を這う。
「お前が初めてここにきた時のことおぼえてるか?」赤木さんの指が息づく場所にそっと触れる。
「ここで働きたいってお前は言ったよな」
ゆっくりとそこに沈み込む指に私の腰は知らず、揺れ動く。
「だが俺は断った」
指が抜き差しされる度に甘い疼きがじわじわと下腹部に広がる。
「お前にこんな仕事して欲しくなかったから」
カリッと内壁を摺られ、思わず体が仰け反る。
「一目見た時からお前に惚れてた…お前の指名が増えるほど、売り上げを伸ばす度に狂いそうだった」
挿入される指の本数が増やされ、私は快感に酔った。「お前を誰にも渡したくない」
誰かの顔がちらついたけれど、私はもっと強い刺激を求めて赤木さんの指を更に深くくわえこんだ。
赤木さんの指が奏でる甘いメロディ。
私はそのリズムに乗り遅れないように必死に呼吸を合わせる。
クルリと指が回され、私は強い快感に溺れた。
引き抜かれた指がぬらぬらした液体で濡れている。
「雪乃…いいか?」私はこくんと頷くと、赤木さんと向かい合う形で抱きつく。腰がつかみ上げられ、秘唇に赤木さんの脈打つ自身が当てられる。
もう…戻れない。でもきっと後悔はしない。今だけは赤木さんのものでいたい。「赤木さん…きて…」
ゆっくりと押し入ってくる感覚。
「大丈夫か?」痛みはなく、私は平気と言葉を返す。赤木さんはこんな時まで優しい。
引き抜き、また押し入る緩やかな波。流されないように、赤木さんの背中にしっかりと手を回す。
「私を…離さ…ないで」
優しく貫かれながら、私は幼い頃に読んだ人魚姫の話を思い出していた。
王子を愛するが故に自ら泡になることを望んだ人魚姫。子供心になんて可哀相な話なんだろうと思っていた。
好きなのに、どうして一緒になれないの?
泡になるってわかっていたのにどうして微笑んでいられたの?
その答えが今ならわかる気がする。
人魚姫は可哀相なんかじゃない。王子さまを一時でも愛せたから幸せだったんだ…。
突き上げるペースが早くなる。赤木さんが荒く息を吐く。私は踊るように揺れる。のけぞる身体。背中に爪をたてる。頭が真っ白になって…体内にじわりと広がってゆく温かさを感じながら私はゆっくり目を閉じた。
意識が覚醒した時、私と赤木さんは控え室にいた。
椅子にもたれるようにして私の隣で眠る赤木さん。
その寝顔は子供みたいな純粋な表情で。
巻き付けられたバスローブだけでは肌寒くて、乾かしておいた上着をはおる。
バスルームでの出来事は何だか夢の中の出来事のようだ。
寝息をたてている赤木さんの髪を撫でる。こんな愛しい時がずっと続けばいいのに。
また朝がきて、私は帰るべき場所に帰って、赤木さんも戻るべき場所に戻らなくてはならない。
現実はハッピーエンドで終わるお伽話のようにうまくはいかない。
起こさないように椅子から立ち上がり、頬にそっとキスをする。
と、グイッと体を抱きよせられた。赤木さんの不意打ちに私は完全にバランスを崩し、赤木さんの胸に顔を埋める形になる。
「どこ行くんだ?」
子供をあやすみたいに語りかける口調。
「もう帰らなきゃ…」
言いながらも、私は動けないでいる。本心は、この温かな胸の中でこのまま眠りにつきたい。
「…でももう少しだけ…このままで…」私はそれ以上何も言わなかった。もうすぐ夜が明けて、また変わらない毎日が始まる。
「明日なんてこなけりゃいいのにな」赤木さんがぽつりと呟く。
人魚姫が泡になった後、王子さまはどうなったんだろう?
探し回った?諦めて違う貴女を愛した?一人で泣き続けた?
赤木さんの明日は…。
「雪乃、俺いつまでも待ってるからな、お前と一緒に暮らせるって信じてるからな」涙が止まらない。
私も信じても…いいよね?この温かな胸が私の新しい帰る場所なんだって。
そう思うと明日が来ることも恐くない。
大きな腕に包まれて、私は再び眠りにおちた―。