目覚めると、そこは見覚えのない部屋だった。
「……ここは…………?」
女はゆっくりと身を起こし、朦朧とした意識のまま辺りを見回した。
ビジネスホテルの一室といったところか。
そう広くもなく、とくにおかしな雰囲気のする場所ではない。
――でも、どうしてこんな所に?
なぜ自分がこんな所にいるのか、それ以前にここはどこなのか。
まったく分からず彼女はもう一度部屋中に視線を走らせる。
そこでやっと、薄暗い空間にぽっかりと浮かんだ光に気付く。
引き寄せられるかのように彼女はそれを見つめた。
『それにしても、おそろしい事件ですね』
『本当ですよ、さしずめ現代のミステリーとでも言った所でしょうかね』
『遺産相続権のために十八歳の少女が二人も人を手にかけるだなんて……』
つけっ放しのテレビから流れ出る映像、そして音声により
彼女の意識は急激に浮上し、回り始める。
――そうよ、私は首を絞められて……
殺された、はずなのだ。
ミステリー作家、山之内恒聖の終の住処――露西亜館で。
記憶を探るまでもなく蘇る、ピアノ線で締め上げられた自分の首のイメージ。
死の恐怖。そして苦痛。あれが夢であるはずがない。
現に、ワイドショーはあの事件をセンセーショナルに報道している。
なぜ、私は、ここに『いる』?
混乱する思考回路をハサミで断ち切るように、声が聞こえた。
「お目覚めですか? 幽月さん」
声のした方に顔を向けると、そこには見知った男が立っていた。
高遠遥一。
友人であり、殺人芸術家であり――おそらく命の恩人。
彼が何らかの方法で救い出してくれたというのなら納得できる。
「――私は……」
「ご察しの通り、殺されました」
あっけらかんとそう言い、高遠は薄く笑みを浮かべた。
「じゃあ、ここは天国なのかしら? ……私が描いていたイメージとは随分違うわね」
「そうですか、それは残念です」
高遠は小さく肩をすくめて見せ、すぐそばの安っぽい椅子に腰掛ける。
「私はあなたの助っ人を任されたんですからね。身辺警護も仕事の一つでしょう。
……最も、今回は危うくあなたを本当の死体にさせてしまう所でしたが」
口元のあたりで組まれた手のせいで、その表情をうかがい知ることはできない。
声音もいつも通りの飄々としたもので、全く感情を読み取ることはできない。
目の前にいるのは、あまりにもいつも通りの高遠だ。
幽月は小さく笑うと、乱れた髪を手櫛で整えた。
「あら、『地獄の傀儡師』がそんなことを言うだなんて珍しいわね」
「全くです」
テーブルの上に置かれたリモコンを取り上げ、高遠は口角を吊り上げる。
一体どのようにして自分を助けたか、なんて無粋なことは聞かない。
いや、聞いてはいけないのだ。この、世界一の魔術師には。
『挿絵画家の幽月来夢さんも殺害されたそうなのですが――
容疑者の少女もそう供述していますし――遺体が見つからないそうなんですよ』
『な、何なんですか、それ』
現場に居合わせた方々も、確かに幽月さんは殺害されたはずだ
とおっしゃってるのですが……血痕の類も見つからず、
それどころか幽月さんが露西亜館にいた、という痕跡もない。
その上本人とも全く連絡が取れないとなっては、もう何がなんだか、ですよね』
『一種の集団催眠状態に陥ったのでは? そういった事例は…………』
高遠はリモコンに手をかけた。
せわしなく動き回り、あれこれと騒いでいた映像がぷつりと闇に戻り、黙する。
しんと張り詰めた空気が、幽月の肌を突き通した。
「あなたは海外旅行から帰ってきたその日に、
自分が殺されたなどという悪質なデマが流れていたことを知る。
私の正体については何一つ知らず、
もちろん露西亜館へも一歩も足を踏み入れていない――」
高遠が何を言わんとしているかはすぐに理解できた。
今後――少なくとも、世間や警察がこの事件を忘れ去り、
『幽月来夢』に日常が戻ってくるまでは――彼が幽月の前に現れることはないだろう。
「荷物は全てクローゼットの中です」
クローゼットのほうを指し示すと、高遠は音もなく立ち上がった。
そのまま背を向け、ドアへと足を向ける。
「待って」
幽月は小さく声を上げる。
大体の場合、ここで引き止めても全くの無駄だ。
高遠は文字通り『消え去って』しまい、後には何も残らない。
だから、こうして引き止めるのも一種の別れの挨拶のようなもので、
そこに深い意味など無かったし、実際、ここにとどまってもらうつもりもほとんど無かった。
しかし、今日に限って彼は消えずにここにいる。
「せめて、別れの言葉くらいもらっておきましょうか」
振り返る高遠に、何を言おうとしたんだったか。
『お元気で』『さよなら』『またいつか』『協力して欲しいことがあったら、またいつでも言って』
適当は言葉はいくつも思い浮かんでいた。
それなのに、口から出たのはその中のどれでもなかったのだ。
「……しません? 高遠さん」
高遠の面食らったような表情を、幽月は始めて見た。