"侵略者"は去って行った。  
 
ケロロ小隊の面々は、彼らの生活半径に残された、戦いの爪痕を修復していた。  
惑星麻酔が切れるまでに、何もかも元通りにしておく必要があった。もちろん、主戦場となった日向家は真っ先に。  
 
「ケロッケロッケロッふふふふんふ〜ん♪」  
修理も佳境に入った頃、隊長であるケロロは、地下の自室にいた。今しがた、惑星麻酔の残る街へ、冬樹と共に出かけて帰ってきたところなのだ。  
「んっと〜、確か予定小売価格が……でしょ、そんで、あのお店はガンプラ全品1割引だから……オッシ! やった、ぎりぎり貯金で買えるであります!」  
「ご機嫌ね、ボケガエル」  
「そりゃもう、MGジ.Oのリリースを我輩待ちわびて……って夏美殿ーーー!」  
ご機嫌のケロロの表情が一瞬にして引き攣った。日向家長女・夏美が、ケロロの背後に音も無く立っていたのだ。  
「ああああの、決して我輩サボっていたのではないのであります! ただ、現在の軍資金の確認をしたかっただけで!」  
ケロロの顔色は緑なんだか青なんだか分かりづらい。下から見上げると、夏美の表情は逆光になって分からない。ケロロはとりあえず、いつもの通りに言い訳をしてみた。  
「……から……」  
「ひ?」  
「そんなこたぁどうでもいいから! ちょっと来なさい!」  
「り、了解であります! すぐ行くでありま……」  
「早くしなさい!」  
なんだろう。怒られる心当たりなら無限にあるけれど。  
でも、この夏美の剣幕は、いつもとちょっと違っていた。少なくとも、色物と白い物を一緒に洗ってしまったとか、湯沸かし器のガスを付けっぱなしだったとか、ダイレクトメールをシュレッダーにかけずに捨ててしまったとか、そういうことではなさそうだ。では一体?  
予想が付かなかった。夏美の表情は見えないし、何よりも……あんなことの後だから。  
「早く! 時間がないんだから!」  
と、めずらしく色々考えているのを見抜かれたのだろうか。夏美はそう言ったが早いか、ケロロの頭をむんずと掴むと、ぶら下げたままでスタスタ歩き出した。  
夏美の表情は見えないままだ。  
 
ダイニングルームの頭上には、槌を打つ音は止み、塗料を吹き付ける音が聞こえる。屋根の修理もいよいよ仕上げにかかっているのだろう。夏美が壊した天井は、一応塞がった。  
食卓の椅子に腰掛け向かい合う一人と一匹。春はまだ浅く、暖房が壊れて使えない部屋は肌寒い。  
こぽ、と優しい音を立てて、夏美が手にした急須から黒豆茶が――ガス電気水道は真っ先に修復した――注がれた。ひとつは夏美専用、もうひとつはケロロ専用の湯飲みに。黒豆の香気が湯気と共に立ち上る。  
「あ、ドモ……えっと、お湯飲み、壊れてなくてよかったでありますな」  
黙って差し出された湯飲みを受け取りながらケロロは、隙間を埋めるかのように言葉を繋いだ。  
指先に触れた焼物の感触は暖かだった。なのに夏美は黙ったまま。正面に座っているのに、まだ顔が見えない。  
「お皿もコップもほとんど無事で……」  
「…………」  
「えっと……あのぉ〜、夏美殿?」  
「……何よ」  
「ナニヨっていうか、その、先ほど、"時間がない"とおっしゃったよーな」  
我輩は別にいいんでありますけどぉ〜。  
少々拗ねが混じった声が夏美を促した。湯飲みの淵を辿っていた指をぴたり、と止めて、彼女は顔を上げた。  
「ボケガエル」  
「はっはい!」  
「あのね……悪かったわ」  
「ゲロ?」  
海の底のように重く吐き出された言葉は、ケロロにとって意外なものだった。面食らう彼に構わず、夏美は続けた。  
「疑って悪かったわよ。ことの始まり……ホラ、パソコンがクラッシュして、携帯が使えなくなって、ネットワークがめちゃくちゃになって……」  
「あ、あー……ゲロ〜、そういやそんなことも」  
「あれ、アンタの仕業じゃなかったのにね。真っ先にアンタを疑っちゃって……ゴメン! ゴメンねボケガエル」  
そう言うと、驚くべきことに、夏美がテーブルに両の掌をつき、ぺこりと頭を下げたのである。  
「え、ええええ!?」  
ケロロは慌てて身を乗り出した。食卓に膝をつき、夏美に這い寄る。  
「チョットマッテよ! そんなんもう水に流すでありますよ、我輩カエルだけに、ざばざばと」  
確かに、夏美が自分に頭を下げるなんていうのはおいしいシチュではあるが。でもこんなのは違う。まるで不戦勝したみたいな居心地の悪さしか感じない。  
「お手をお挙げくださいであります! 改まってそんなの、変でありますよ!」  
「うるさいわね、アタシの気が済まないの!」  
謝りながらも叱りつける理不尽さはさておき。  
夏美の少女らしい潔癖さは、有耶無耶を許さなかった。どうしても謝っておきたかったのだ。惑星麻酔が切れる前に。全てが日常に、いつもの通りに戻る前に。  
否、"いつもの通りに戻るために"どうしても必要なことだった。  
「夏美殿……」  
ケロロは食卓にちょこんと正座して、頭を下げ続ける夏美を見降ろした。  
――ひょっとしたら、泣いているのではないだろうか、と。  
らしくもない心配が頭をもたげたのは、やはりあんなことの後だったせいだろうか。  
「夏美殿、あの、ええと……」  
「まあそんなわけだから」  
恐る恐る声をかけようとするケロロの心の機微など知る由もなく、夏美はがば、と紅い髪を打ち振るようにして勢いよく顔を挙げた。  
そして、思わぬほど至近距離にあったケロロの顔に、一瞬ぎょっとする。まん丸の二つの目と、その内側で同心円を描く黒い瞳が、自分をじっと見つめていた。  
よかった、ようやく顔が見れた。そして、泣いてなかった。……そんな心のうちも、基本無表情であるケロロの目からは読み取りづらい。夏美は、少々困惑した。  
「あ……その……で、だから」  
「ナニナニ? そんなわけだからナニ?」  
夏美は、胸の前で腕を組んだ。ふぅ、とため息をひとつ。それから、観念したかのようにこう言った。  
「だから……だから! ひとつだけ、なんでもアンタの言う事きいてあげる!」  
投げるように、だけど涼やかさすら感じさせるはっきりした口調で、夏美はケロロに甘美な宣言をした。  
 
パラリラ〜。  
天使のラッパが聞こえた気がした。  
「ほっ、ほっ、本当でありますか!」  
夏美は頷いた。ケロロの顔が輝く。目は潤み、ほっぺはピンクに染まり、お肌はツヤツヤが止まらない。  
それを見ていた夏美の胸が痛んだ。ケロロの仕業と決め付けて彼を責めたあの時。真円を描く黒い瞳の光が消えうせ、ぷつんと糸の切れた凧の様に、ふらふらと地下基地へ消えていった、緑の小さな背中……  
もしかしたら、下手をしたら、あれっきり二度と会えなくなっていたところだったのだ。  
「あ、"地球をよこせ"とかは無しよ!」  
ケロロは、ぶっち切れそうな勢いで首を振る。  
「我輩、そんなズルはしないでありますよ!」  
「ん、そう。信じるわ。じゃあ、あたしが個人的に聞いて上げられること、何かないの?」  
「ありすぎて大変であります! 今考えるであります、んっとねー、んっとねー、えーとぉ」食卓に正座したまま、ケロロは顎の下に手を当てて、考えるポーズを示した。  
「ゲロゲロゲロ……あれもこれも……いやそれも捨てがたい……」  
「ちょっと! ひとつだけ、だからね!」  
「えー、ひとつー?」  
「当たり前でしょ。あと、お願いを100個にするとか、そういう古典もナシ!」  
「もう! そんな寒いこと言わないでありますってば!」  
ケロロは笑いのセンスには厳しい。  
「あ、それと!」  
「え〜、まだ制限でありますか」  
「大事なことよ! その、い、いやらしいことはダメだからね!」  
「へ?」  
……クルル相手ならいざ知らず、ケロロにはヤブヘビだったろうか。  
「わ、わかんなきゃいいのよ。ほら、早く決めなさい。時間がないんだから!」  
ゲロッ、とケロロは宇宙時計を見る。色々ごちゃごちゃやってるうちに、惑星麻酔が切れるまでにあと10分を切っていた。  
「えっとー、聞いて欲しいこと、夏美殿に……うん、決めたであります!」  
しばし悩んだ末、ケロロはシャキーンと立ち上がった。食卓の上に。  
「まずはそっから降りなさい」  
「ゲロ、それじゃ失礼して」  
この会話は、結果的に夏美にとって信じられない事態を誘発してしまった。  
よっケロしょ。  
ケロロは、食卓から降りて、夏美の膝の上にちょこんと座り込んだのである。  
「ぼっ……ボケ……?」  
衝撃のあまりか、夏美はケロロを条件反射的に掴んで投げ飛ばすこともできず、両手をぶらりと下げるしかなかった。  
「あのね、夏美殿」  
「なっ……なっ、なに……?」  
ケロロは、混乱する彼女をよそに、夏美のフトモモに足を着けて立ち上がる。そのまま、ちょっとだけ背伸びをして、夏美の首にぎゅっと抱きついた。  
惑星麻酔が効いている今だから。今しか言えない、できない。  
「我輩たちを……我輩を助けに来てくれて、ありがとうであります」  
夏美の耳元に、親愛に満ちた甘えた声が滑り込んできた。  
ピットリ貼り付くような両生類ライクな肌触り。それが夏美の頬にしっとりと触れてくる。  
ああ、そういや、この触感もそんなに嫌いじゃなくなったなぁ……いつからだったっけ……などと、彼女は見当違いな方に思考を飛ばしていた。  
が、すりすりとほっぺたを擦り付けてくるに至っては、夏美も正気にならざるを得ない。  
「ばっ、バカ! 何言い出すの! あたしはアンタなんか……あたしは地球を守るために……!」  
「夏美殿ストーーップ! イエローカードであります!」  
「はァ!?」  
「さっき御自ら言ったはずでありますよ! 我輩の・言・う・事・を! なんでも聞・い・て・くれると!」  
「……うっ……」  
ここで、揚げ足を取るんじゃない! ……と怒鳴れないほどには、夏美は空気が読めた。それに、ウソは言っていない。確かに言ったのだ、「言う事」を「聞く」と。  
そして、そのケロロが言いたかったこととは……  
 
「我輩、ホントに嬉しかったんであります」  
夏美の胸に抱かれる格好になったまま、ケロロは続けた。  
「おかげで、こうやって黒豆のお茶がまた一緒に飲めるでありますし……」  
少し冷めた湯飲みを、体を器用に捻って食卓から取り上げると、ケロロは夏美の膝に座り込んでお茶をすすった。  
もうだめだと思ったから。ケロンスターを返還したら、もうあとは洗脳されて、みんなのことも忘れてしまうところだった。大尉になったってそれがなんだろう。みんなのこと忘れて、二度と会えなくなって……  
一足違いで洗脳は完了してしまったけれど、パワード夏美は来てくれた。家の屋根を、ミサイルみたいに突き破って地下まで。  
「我輩を助けに来てくれたんでありましょう? ネ?」  
膝の上から、顔を挙げてケロロは夏美を見る。夏美は、ケロロを見降ろす。  
惑星麻酔の効果、あと5分……  
「う……」  
「ウ?」  
「………まあ……んー……そういうことにしといてもいいかな。でも! あくまで、地球のついでにアンタをってことよ!」  
甚だ素直ではないが、ようやく引っ張り出した肯定の答え。ケロロは破顔した。  
「それでもいいや〜であります。洗脳されてたけど分かったであります。パワード夏美はちょーすげーカッケーでありました! それに、夏美殿のビンタ、効いたでありますから!」  
「ふ、ふん。何よ、ビンタで解ける洗脳なんて。ケロン軍驚異のメカニズムとか言っちゃってるけどさ、実は大したことないんじゃないの」  
そうではない。ビンタ自体の物理的衝撃で通常、洗脳は解けない。  
問題はその前の夏美の言葉。  
「あたしたちのこと忘れちゃったわけ…?」と、何よりも「このボケガエル!!」に尽きるのだが。この発言は精神的に大きかったと、洗脳された当人であるケロロは薄々気づいていたかもしれないのだが……  
「それでもいいんであります……」  
ケロロは再び湯飲みを置いて、夏美の肩にぎゅっとしがみつき、這い登った。今度は夏美も、赤ん坊を抱くときのように、ケロロの尻の下に片手を当て、もう片手は背中に当て支えた。  
「こーら、甘えんじゃないの」  
「ん〜、だって我輩ホントに……」  
ほっぺたをすりすりと擦り付け、夏美の胸元に遮られてくぐもった声が「なちゅみどの〜」と、さっきまで戦士だった少女を呼んだ。  
惑星麻酔が解けるまで、あと3分。解けたらすぐに、プラモ屋さんに行くつもりだったけど。  
「? ボケガエル? 眠いの? 目が半眼になってる」  
「んぁ? そんなことないでありまちゅよ〜……れも、なちゅみどのあったかいからねむいでありまちゅ」  
「ちょっと、ろれつが回ってないわよ。……疲れたんじゃないの? 色々、あったから……」  
そう、色々、あったから。  
地球は24時間眠っていたとしても、その外にいた人々はその間中、戦っていたのだ。そろそろテンションが落ちてきて、眠気に取って代わられる頃だろう。  
「ふゃああああぁぁ、んー、ちょっと寝るでありますかな……でもジ.Oは買いたし眠し……」  
「冬樹に頼んでおけばいいわよ。あー、あたしも眠いや……眠気が伝染ったかな」  
夏美は椅子に座ったまま、寝ぐずる赤ん坊の背中をとんとんするように、ケロロの背中というか尻、をぽんぽんと叩いた。  
「ちょっと、寝よっか」  
「同意でありまちゅ……」  
惑星麻酔が解けるまで、あと一分を切っていた。  
「ねえ、夏美殿」  
「んー……」  
「一眠りして、ジ.O買ってきて、仮組みしたらね」  
「んー?」  
「屋根も新品になったことだし、台所のシンク磨いたり……したいなぁ……」  
「ふーん? ……何たくらんでんのよ」  
「へっへー、内緒であります。でも目がさめたら夏美殿は……きっと……」  
ぴかぴかの台所で、ビーフシチューを作りたくなってるであります。  
それは言葉には出さず、ケロロは短い首を精一杯伸ばして、夏美の柔らかな頬にキスをした。  
「おやすみなさぁい…でありまちゅ」  
「おやすみ」  
おやすみ、うちのカエル。私の家族。  
……これだけは言ってしまったら、日常に帰れないから、絶対に言わないけど。  
 
そして、惑星麻酔解除。  
止まっていた風が吹く。生きとし生けるものが動き出す。  
――しかし夏美とケロロが仲良く眠りについているのを目の当たりにしたギロロとタママにより、日向家はガルル小隊襲来前に比して、3倍荒れまくったという。  
 
 
「今、地球が目覚める」完  
 

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