それは静かな満月の夜だった。  
街中が寝静まったような静寂の中、くのいち小雪は、深夜のひやりとした空気を切り裂くようにして走り続けていた。  
屋根から屋根へ。電柱、塀、木の枝。足場になる所は全て駆使して小雪は走り、跳ぶ。  
普通の人間には見えないほどの素早い動き。  
しかし、小雪を追っている者の眼にすれば、どうということもないようだ。  
 
「フフフ……どうしたの小雪。ペコポンの忍者は逃げるしか能がないの?」  
「!」  
闇から声が追ってくる。  
小雪は、少しずつ追い詰められていることを肌で感じていた。  
「くっ!」  
敵の武器が冷え乾いた空を切った。それは小雪の足元に突き刺さる。僅かでも小雪が避け損なっていれば、一刀両断にされていたことだろう。  
それでも、小雪は反撃に打って出る気にはどうしてもなれなかった。  
何故なら、狙われる心当たりが全くないのだ。戦う理由も無いのに戦えない。それは地球の忍の掟でもあり、小雪のポリシーでもあった。  
 
「小雪……そろそろ本気を出して、向かってきてもらえないかしら」  
 
冷ややかな声と共に、『敵』が、姿をはっきりと現した。  
宇宙忍者・シルヴィ。  
彼女は満月を背に宙に浮き、己の優位を疑わず小雪を見下ろす。  
実力的には小雪より上かもしれない。だが……  
それでも小雪は、すっくと立ち上がり、宇宙忍者を見上げ、意思の強い瞳で睨みつけた。  
「どうして私を追ってくるの?」  
「ふふん、さて、どうしてかしら?」  
「もうやめて……私にはアナタと戦う理由がありません!」  
「あら、こっちにはあるのよ。相手をしてくれないの? 地球の忍者は腰抜けなのね」  
「…………」  
小雪は、挑発に乗らなかった。頭を冷やそうとするかのように、長い黒髪を振る。  
「ただの腕試しなら他を当たって! 私闘は禁止なの! それに……忍者同士、それも同盟関係なら、私たち、お友達になれるはずでしょう!?」  
「あら、驚いた。なんて甘いことを……」  
驚愕の表情で小雪を見下ろしたシルヴィは、緑色の髪を揺らしながら、小雪と同じ屋根の上に着地した。  
「……ふぅん、お友達、ね。なるほど」  
シルヴィは僅かに目を伏せた。何かを考えている風だった。  
小雪は、胸に生まれた決意を守るかのように、無意識に左手をぎゅっと握り締めた。  
(宇宙忍者さんがなんて言おうと、私は戦わないわ! だって理由がないもの!)  
 
「……日向、夏美……だったかしら?」  
 
!?  
「夏美さん!? どうしてアナタが夏美さんの事を!?」  
カマかけだ。そう気づくのが一瞬遅かった。小雪は慌てて口を覆うが、もう遅い。小雪の弱点はこれ以上ない程はっきりと露呈した。  
シルヴィは我が意を得たりとばかりにニヤリと笑う。小雪の顔色が変わる。その肩が僅かに震えていることまでシルヴィの目は見逃さなかった。  
「そう、アナタの大切なお友達。今頃、ぐっすり寝ているでしょうねぇ……」  
「……夏美さんに何をする気?」  
小雪の、自分でも驚くほどの低い声が、闇夜を震わせた。しかし、シルヴィへの牽制にはならなかったようだ。  
「ふふ、それは言えないわ。でも国交のない星の異星人の一人や二人、どう扱おうと……ねぇ?」  
「なっ……!?」  
「宇宙ICPOだって万能じゃないもの。砂漠の中から砂粒を探せて? 夏美ちゃんとやら、可愛い娘だったから需要あるわよ。何しろ宇宙の好事家は、お金に糸目をつけないから……」  
 
―――――――――――――!  
 
満月の夜。  
虫の声すら聞こえない。  
ひやりとした夜風も、小雪の闘志を冷やすことはできなかった。  
「小雪忍法……」  
「!?」  
「微塵がくれ!」  
僅かに残った理性がそうさせたのか、それとも訓練された体が動いたのか。  
ともあれ小雪が不意打ちで張った煙幕は、その場の空気を真っ白に書き換えた。  
「うっ! 小雪め……また逃げられちゃったわ。でも……」  
シルヴィは煙幕を吸わぬよう、口をマスクで覆いながら呟いた。  
「ようやく火は点いたみたいね」  
 
――夏美さん、夏美さん!  
小雪は、必死の形相で走っていた。夏美のところへ!  
日向家への最短距離。夏美へ続く道。  
あまり派手に飛び回ってはシルヴィに見つかる。普段の小雪ならばそのくらいの計算は働く。彼女とて未熟とはいえプロのくのいちなのだから。  
だが、そんな幼い頃から身につけてきた技術や知識や、そんなものを超越したものが今の小雪を走らせていた。一刻も早く、夏美のもとへ。  
シルヴィが夏美を狙っている。  
(私にとって、これ以上ないくらいの”戦う理由”だわ!)  
私闘禁止の掟? 知ったことか。掟を守って夏美を守れず、それで生き延びて何になる。  
夏美さん――!  
 
日向夏美。奥東京にやってきてから初めてのお友達。  
今朝も登校途中に会った。本当は、会えるように時間を計っていたんだけど。  
夏美は、一晩中ドロロのお友達の実験に付き合わされたとかで、とっても眠そうに目を擦ってた。  
普段は背が高くてしっかりしてて大人っぽい夏美。でもそんな仕草をすると子供みたいでとっても可愛い夏美。どっちの夏美も、小雪は大好き。  
――夏美さんがあくびをしたら、私もしたくなった。あくびはうつる、ってホントだったみたい。嘘。うつるといいな、って願ったの。おんなじあくび、すごくすごく嬉しかった……  
 
 
小雪は夏美の部屋に、音もなく入り込んだ。  
(間に合った……)  
シルヴィより早く夏美のもとへたどり着けた。  
夏美は、ベッドで何事もないように眠っている。  
 
ホッとした途端、左の二の腕に痛みを感じた。見ると、二の腕から流れ出した一筋の血が、細い腕に赤い川を描いていた。シルヴィの苛烈きわまる攻撃、避け切れなかったものもひとつばかりあったらしい。  
照明を落としてある夏美の寝室。蒼い月明かりがカーテンの隙間から差込み、夏美の健康的な肌を照らす。  
「夏美……さん……」  
そっと呟いて、ベッドの端に立ち、寝顔を見つめた。  
安らいだ顔だった。  
「どんな夢見てるんですか…」  
きっと楽しい夢ですよね。そう祈りながら、ベッドの上にそっと手をついた。寝顔を覗き込む。そして、怪我をしていない方の手で、夏美の頬をそっと撫でた。起きて欲しくない、けど気づいて欲しい。我ながらむちゃくちゃな矛盾に、胸がどきどきする。  
小雪は、月明かりに浮かぶ夏美の桜のような唇が薄く開いていくのを、夢心地で見ていた。  
「う……ん……」  
ふと、夏美が小さな声と共に身じろぎをした。  
小雪は、夏美の頬に手を添えたまま、僅かでも驚かせないようにそっと声をかける。  
「なつみ、さん」  
「ん……あ、こゆき……ちゃん?」  
小さな、掠れた声が、確かに小雪を呼んだ。触れている頬が暖かい。  
「小雪ですよ、こんばんは夏美さん。起こしてごめんなさい……」  
「ふうぅん……こゆきちゃん……」  
夏美は寝ぼけているのか、幼子のように鼻を鳴らす。それでも、目の前に小雪がいることは分かっているらしく、寝起きの声で名を呼んでくる。  
そんな夏美の姿は、小雪の心にただ愛しさを満たしていく。  
す、と夏美の右手が布団から出て、伸びてきた。薄闇をすこし彷徨って、その手は小雪の左手首にたどり着く。  
「あー……これ……つけててくれたんだぁ」  
「あ……」  
小雪の手首には夏美と揃いのミサンガ。先日、一緒に街に買い物に行ったとき、夏美が別れ際に買ってくれたものだ。  
――また今度、一緒に遊びに行こうね。約束。  
これをつけたままでいて、自然に千切れるとその時、願いが叶うのだという。夏美のものは、家事とカエルどものしつけという荒っぽい日常に、あっという間に千切れてしまったそうだ。  
小雪はというと、千切れないと意味がないと分かってはいても、もったいなくて日常着けっぱなしでいる事ができないでいた。だけどどういっためぐりあわせだろう、今日に限って小雪はそれを着けていたのだ。  
大切なアクセサリを選ぶような気持ちで。  
着けていれば、夏美と一緒にいられる気がして。  
「……また、一緒に遊び、行こうね、小雪ちゃん……」  
「――――! ……はい……」  
 
夏美さん……  
左手で、夏美の右手首を力いっぱい握り締めたい気持ちを、小雪は懸命に抑えた。  
……あたしどうしちゃったの。どうしてこんなに好きなんだろう。泣きたいくらい……  
 
カタッ  
 
「!」  
突然小雪の全身の感覚が外へ向いた。耳をそばだてる。  
僅かな、普通なら気にも留めないような音が、日向家の周囲で聞こえた……あれは!  
(来たわね、シルヴィ!)  
「むにゃ……小雪ちゃん……どうしたの?」  
半分眠りにおちている夏美の声が、小雪の緊張に気づいたのか、声をかける。  
(大丈夫だよ、夏美さん……!)  
 
小雪は、心に満ちている愛しさを全部使って、今見せられる精一杯の微笑を作って見せた。夏美の不安な顔なんて見たくない。  
「大丈夫……大丈夫だからね。夏美さんは私が守るから……だから……」  
「ん………」  
子供をあやすようにそう言うと、夏美は安心したように眼を閉じる。  
小雪は、そっと夏美に覆いかぶさった。  
そして夏美の唇に、静かに己のそれを重ねた。  
そのまま、触れ合うだけの口付けをしたまま、夏美の頬を優しく撫でる。唇から、指先から、触れ合っている全ての場所から、夏美への愛しさを注ぎ込むように。  
そうしている間にも、気配は近づいてくる。日向家の場所など、調べ済みだったのかもしれない。  
小雪は唇を離し、夏美の体をそっと、抱きしめた。夏美の髪に顔を埋め、小雪は細く息をつく。  
「夏美さん……夏美さん……私ね……」  
「んー……」  
「あのね、大丈夫。誰も夏美さんに触らせたりしないからね」  
そして、きゅ、と少しだけ力を入れた。小さな体全部を使うようにして、全身で夏美に触れ、抱きしめる。  
そんな僅かな幸せな時間を引き裂こうと、不穏な気配が機をうかがっている。  
――近づいてくる。シルヴィだ。もう、すぐそこに……  
小雪は、躊躇いを振り切るように、体を起こして夏美から離れた。  
「おやすみなさい、夏美さん……大好きよ……」  
夏美の寝息を聞きながら、小雪は窓の方へと向き直った。  
 
日向家の外に出て屋根に上ると、やはりシルヴィが不敵な笑みを浮かべて宙に浮いていた。  
「お別れは済んだかしら?」  
「……もう逃げないわ」  
小雪は左手で忍者刀を構え、戦いの意思表示をする。  
そのとき、己の血を吸って真紅に色を変えたミサンガが、自重で千切れ落ちた。  
 
☆オチ☆  
 
「スカウト!?」  
シルヴィは、悪びれるでもなく、そーなのよと笑った。  
「ペコポンに凄腕のくのいちがいるって聞いてね」  
「間に合ってよかったでござる……」  
仲裁がぎりぎり間に合ったドロロが、大きなため息をつく。  
事実、小雪捨て身の未完成技”つらら落とし”がもし決まっていたら、二人とも無事ではすまなかっただろう。  
「にしても、アナタ私を殺す気でやってたわね? まあ小雪の本気が見たかったんだからいいんだけどさ」  
「当然です」  
にこり、と笑って小雪は応えた。  
ドロロは尋ねた。  
「夏美殿を盾にされたのでござるか?」  
「そうだよドロロ聞いて! 夏美さんを捕まえて奴隷にするとか食料にするとか、宇宙ワンフェスに生体フィギュアとして出展するとか、ひどいこと言って脅かしたのよ!」  
「言ってない言ってない!」  
シルヴィは慌てて否定する。確かにそこまでは言ってない。が、同じことだ。夏美の敵は小雪の敵なのだ。  
 
シルヴィが帰って行った頃、ようやく曙光が奥東京を照らしはじめた。  
今日は、ミサンガが千切れたことを夏美さんに言わなくちゃ。そしたら日曜は……一緒にお出かけ……つまりその、で、デートしてもらえるかな。  
「ねえドロロ、夏美さんABCって知ってると思う?」  
「こっ小雪殿たちにはまだ早いでござるよ!」  
「そう? 私たちもうBくらいかなって……」  
「ととととにかく自分を大事にするでござる!」  
 
くのいち小雪は、今日も夏美に向かって暴走中だった。  
 

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