『Believe』  
 
(0・プロローグ)  
 
 そう、始まりはあの日。  
「伍長〜、ギロロ伍長〜! ちょっといいでありますか〜?」  
「何だ騒々しい」  
 パタパタと走って来たケロロに対し、ギロロは武器の手入れをする手を止める事なく無愛想な表情を向けた。  
「ちょっと来て欲しいであります! とにかく協力して欲しいであります! 地球侵略の為なのであります!」  
「全く……そんなに騒ぐな。またどうせロクでも無いアイデアなんだろうが」  
 そう口では言いつつ、腰を上げるギロロ。二人は地下室に向かって歩き始めた。先を行くケロロが得意そうに説明する。  
「クルル曹長が凄い発明をしたのであります。これがあれば地球侵略が随分と進む事間違い無しであります」  
「ふん……また奴が変な物を作ったのか。まあ貴様がそこまで言うなら見てやってもいいが」  
「あ、こっちであります」  
 クルルズ・ラボの扉の前に二人が立つと、自動的に扉が開く。薄暗い部屋の中には、クルルが一人、巨大な装置を弄りながら笑みを零していた。  
「クルル曹長、ギロロ伍長を連れてきたであります」  
「よく来たなぁ先輩……クーックックック。まあ入って下さいよ」  
 ケロロとギロロの二人が部屋に足を踏み入れると、自動的に明かりが灯り部屋中は眩い光で満たされた。部屋の中には大きな実験用ベッドが一つ、  
その傍らにはクルルが弄っている大きな装置が配置されている。ベッドの真上には大きなパラボラアンテナのような物が吊り下げられ、それはどうやらその装置と繋がっているようだ。  
「何だ、これは……?」  
 ベッドの脇まで足を進めながら、その奇怪な装置を見回すギロロの後ろで、ケロロとクルルの目が怪しく光った。  
「それでは先輩、そこに寝て貰えますか?」  
「ここに……? 何をする装置だこれは……なっ!?」  
 声を掛けたクルルの方に振り向こうとしたギロロの体を、突然四方から伸びてきた幾本ものアームが捕らえた。  
 
「や、やめろっ!? 何をするんだ!」  
「吾輩、先程言ったでありますよね。“協力して欲しい”って」  
「!? くっ……離せ!」  
 だがギロロの抵抗も虚しく、アームを振り解く事も出来ぬままギロロはベッドに拘束されてしまう。両腕、両足、胴体を頑丈なベルトで固定され、身動きも出来ぬままギロロは抗議の声を上げるしか為す術が無い。  
「何をするつもりだ貴様あぁぁぁ!」  
「クックック……終わってからのお楽しみだぜぇ……」  
 ニヤニヤ笑いながらクルルが装置に近付く。  
「楽しみでありますなあ」  
 少し離れた場所から腕組みをして、これまた不敵な笑みを浮かべるケロロ。  
「それじゃあそろそろ準備完了だ。いくぜぇ先輩?」  
「クルル曹長、それではGOであります」  
「や、やめろーーーーッ」  
「……ポチッとな」  
 クルルがボタンを押した。瞬間、天井から吊り下げられたパラボラアンテナのような物体から凄まじい光が迸る。  
「ギャアアァーーー」  
 電光に包まれたギロロの絶叫が響く。軽い振動が部屋を揺るがす。もうもうと煙が上がり、ギロロの姿が視界から完全に消失する。  
「成功……でありますかね?」  
「多分、大丈夫の筈だぜ」  
 段々と煙が晴れる。  
「う……貴様ら」  
 力無いギロロの呻き声が響く。  
「おお……」  
「成功だな」  
 
 そしてベッドの上にあったのは先程までのギロロの姿では無く、赤い髪をした逞しい青年の姿、だった。  
「何が……起こったんだ。頭が……痛い」  
 ゆっくりと身を起こす青年。既に拘束は外れている。  
「凄いでありますクルル曹長!」  
 喜び踊るケロロ。と……。  
 ドドドドドドドド。  
 バンッ!  
「ちょっとボケガエル! 何よさっきの地響きはっ、また変な事やってんじゃないでしょうねーっ」  
 夏美が扉を勢い良く開け、部屋に躍り込んで来た。  
 と、部屋の中の光景が夏美の視界に広がる。  
「な……」  
 部屋の中央のベッドには全裸の青年。部屋中に広がる奇怪な装置、そして部屋の中にはうっすらとまだ淡い煙が広がっている。  
「あんたたち……」  
「……ケロ?」  
「……罪もない地球人を人体実験なんて……」  
「な、夏美殿誤解であります」  
「言い訳は無用!」  
「な、おい夏美……」  
 ギロロの狼狽えは頭に血が上った夏美には届かない。  
「こんのボケガエルーーーーーっ」  
「ギィヤァーーーーーー」  
 
 そして10分後、ケロロとクルルは星となった。部屋にはこの騒ぎの所為で壊れた装置と、それを破壊した張本人である夏美、そして地球人体になったギロロだけが残った。  
「……ハァッ、ハァッ……まったくあのボケガエル、とぼけた顔してる癖してやっぱり侵略者だったのね」  
「…………お、おい夏美……」  
「全く、他人様に迷惑掛けるなんて、ホントに許せない」  
「……夏美?」  
「今度という今度は……」  
「夏美」  
「……え?」  
 青年の声にようやく気付いた夏美が、ベッドの方へ振り返った。  
「何で私の名前……もしかして」  
「……俺だ、ギロロだ……」  
 一瞬呆気に取られた夏美を見詰め、ギロロは事の経緯を説明しようとした。  
「ケロロ達に無理矢理装置に掛けられたのだ」  
「……ホントにギロロなの?」  
「ああ、そうだ」  
 目の前の精悍な青年と、あのカエル然とした外見のケロン人とが夏美の頭の中では中々結び付かない。  
「……どうやら別の姿に変身させられたようなんだが……今、俺はどんな姿をしているんだ?」  
「どんなって、地球人にしか見え……」  
 ようやく事態が飲み込めてきた夏美は、落ち着いてギロロの姿を見た。そして。  
「き、き、キャアーーーーーーッ」  
「な、夏美!?」  
「イヤアアアアーーーーッ!! へ、ヘンタイーーーーーーーーッ」  
 慌てて走り去る夏美。  
「一体何が……」  
 ギロロは夏美の反応に呆然としつつ、立ち上がって近くの金属質の壁に自分の姿を映してみた。  
「……これでは、逃げられるのも仕方無いか……」  
 そこには逞しい青年の姿が映し出されていた。……全裸、だった。  
「夏美に、どう弁解すればいいんだ……」  
 そして後には、頭を抱えがっくりとうなだれたギロロだけが部屋に残された……。  
 
 ……始まりはこれから。そう今、ここから。  
 
 
(1)  
 
「……夏美ぃ……」  
 あれから数時間後。ようやく戻ってきたクルルに地球人型用の服を出して貰ったギロロは、テントの中で武器の手入れもせず頬杖を突き、悩んでいた。  
「……どう思ったのだろう。俺の事……」  
 いつまでも思考は行ったり来たり、同じ所をグルグルと回っている。  
「ああっ、どう弁解すればいいのだ……あんな姿を見られてしまった」  
 独り言をぶつぶつ呟きながら頭を抱え考え込むギロロ。その時。  
「ギーローロっ」  
「その声は……夏美?」  
「そうよ、わたし。ギロロ、ちょっと出てきてよ」  
「……わかった」  
 地球人型の体にはちょっと小さいテントからのそのそと這い出し、ゆっくり立ち上がる。夏美はテントの傍に立っていた。ギロロは、夏美の顔をまともに見る事が出来なかった。  
「……何か用か?」  
「用って程じゃないけどね。さっきはその……ゴメンね」  
「……何故夏美が謝る必要がある」  
「でも、ヘンタイなんて言っちゃって。悪いのはケロロとクルルなのに」  
「ああ、それなら気にしていない」  
「……ホント?」  
「本当だ」  
 真っ直ぐ見なくとも、夏美が自分を見上げているのがギロロには解った。しかしやはり躊躇いがあった。自分からは目を合わせられない。  
「ギロロ?」  
「何だ」  
「その……さっきはちゃんと見なかったけど、その、……カッコイイね、ギロロ」  
「……な」  
 思わず夏美を見る。夏美の顔が真っ赤だ。目が合った。  
「……嘘じゃないから」  
「俺の、何処が?」  
「……あの……」  
「……いや、答えにくかったら答えなくていい」  
 
 沈黙が満ちた。  
 夏美が目を逸らす。  
 ギロロも、再び目を逸らす。  
 風が気持ち良く二人を撫でた。夏美の赤い髪が揺れ、ギロロの深紅のオールバックが少し乱れる。  
「……その軍服、クルルに出して貰ったの?」  
「ああ。奴のデザインにしては、そんなに悪くない」  
 ギロロの着ている軍服は深い紅で、詰襟と袖口の部分が黒く、金色で縁飾りがしてある上品なデザインの物だった。軍靴は黒革で、上質の光沢を放っていた。  
「ギロロは、やっぱり軍服が似合うね。軍人だから、かな?」  
「そうか、最高の褒め言葉だ」  
 少し照れ臭くてギロロは頬を掻く。  
「でもさ、なんで地球人の姿にされちゃったの?」  
「……ケロロが言うには、地球人を侵略するにはまず地球人を知る事が大切だ、と。その為には地球人の姿になって、地球に溶け込むのが手っ取り早い、という理屈だったのだが……」  
「ふうん、ボケガエルにしては結構マトモな意見かもね」  
「俺もそう思う。だが自分が何も知らされずいきなり実験台にされた事には多少憤慨しているがな」  
「……くすっ」  
「何かおかしいか?」  
「結果、良かったんだからいいんじゃないの?」  
「良かった、のだろうか……」  
 夏美は悪戯っぽく笑い、歩き出した。  
「……だってこんなカッコイイギロロを見られるんだから」  
「……? 何か言ったか夏美、聞こえなかったが」  
「何でも無いよ。……と、そろそろお夕飯の支度しなくっちゃ」  
 再び夏美は笑うと、じゃあね、と去っていった。  
 暫く立ち尽くしていたギロロだったが、ふうむ、と考え込みながら再びテントに入る。  
「どうやら夏美の機嫌は戻っているようだ。良かった……」  
 胡座をかいて武器を取り上げ、手入れを始める。  
「しかし、さっきは……何を言いたかったのだろう」  
 少し手を止め考えるが、幾ら考えた所で解らないものは解らない事が分かり切ってるので、考えるのはやめる事にした。  
 再び武器の手入れを続ける。  
 風は、強さを増していた。  
 
 ……二人は、まだ始まったばかり。  
 
 
(2)  
 
「ギロロ……あんなに格好良くなっちゃった……」  
 夏美はぽふ、とクッションを抱えベッドに倒れ込んだ。ゆっくり目を閉じて、さっき見たギロロの顔を思い出す。顔が熱くなるのが自分でも解った。  
「ただのカエルだって思ってたんだけどさ……いや、宇宙人なんだけど……」  
 ギロロが自分に好意を寄せていた事は流石の夏美でも薄々気付いていた。あれだけあからさまにされると、幾ら鈍感な自分でも解らない筈が無い。そんなギロロを夏美は好ましく思っていたが、所詮宇宙人……と、恋愛対象としては眼中には無かった。  
「でも、人間になっちゃうなんて」  
 クルルとケロロに感謝すべきだろうか。ギロロを人間にした事を。  
「……ちょっと、好き、かも……」  
 凛々しいギロロの顔を思い浮かべた。脳裏に焼き付いて離れない。これは幸せなのか不幸なのか。ぐるぐる考えは巡る。623のことなど脳裏からは既に消え去っていた。  
 何て言うか、射抜かれた。  
 精悍な顔立ち、鋭い目、日焼けした肌、深い色の髪、高い背、がっしりした体格。頬の傷さえ、今は夏美にとっては好ましく思えた。  
「でも……格好良すぎるよ。何で急にあんなになっちゃうの……」  
 何だかギロロが、急に自分とはかけ離れた手の届かない人になってしまったような気がして、子供な自分がギロロに釣り合わない様な気がして、夏美は落ち込んでいた。と同時に、それでも心はどんどん惹かれていく自分を感じていた。  
「私が、もっとオトナだったら、……」  
 クッションに顔をうずめ夏美は溜め息をついた。  
「駄目だ。私、なんでこんなに弱気になってるんだろう。いつもだったら……ううん、でもひょっとしたらいつもの自分もただの強がりなのかも知れない。元々私は、弱いのかも知れない……」  
 涙が、溢れそうになった。ぐっと唇を噛んで堪えた。泣いたら、自分の弱さを認めてしまいそうで。  
「ギロロ……。わたし、オトナになりたい……」  
 閉じた瞳から、ひとしずくだけ涙が零れた。  
 
 しんと静まった部屋に、音は無い。まだ、先は見えない。  
 
 
(3)  
 
 ギロロは、テントの中で一人考えていた。  
 夏美の事、自分の事、これからの事、そして自分の気持ちの事。  
「俺は、どうすればいいのだ」  
 クルルの言葉が脳裏に蘇る。  
『クックック……折角人間になったんだから、遠慮せずにあの女にアタックすればいいじゃねぇか、オッサン』  
 オッサンは余計だ、とひとりごちながら、確かにそうかも知れないと思った。しかしギロロはそれでもその言葉を素直に受け取れずにいる。  
「俺は、元々ケロン人だ。地球人じゃない……」  
 クルルが悪い訳では無い。親切からではないにしろ、自分を実験に使うと決めた時に夏美の事も多少念頭に置いていただろう。だが、自分はどうだ。  
 夏美の事は勿論好きだ。それは間違い無い。ただ、ギロロは地球人体になった事で逆に戸惑っていた。そんな簡単でいいのか? と。  
 ケロン体だった時には、恥ずかしながらも自分なりに気持ちを精一杯表現していた。夢中だった。それは、哀しいけれど自分がケロン人で、地球人とは決して結ばれる事が無いと心の何処かで諦めていたからだ。だからこそ一途になれた。  
 そして地球人体になった今、遠慮無く夏美に近付く事が出来る、と少しは思った。だが。  
「……俺では、夏美を幸せには出来ない」  
 冷静に考えれば考える程、絶望が押し寄せた。こういうのをジレンマ、というのかも知れない。体は地球人になったかも知れないが、中身はケロンの軍人のままだ。  
 戸籍も、職も無い自分が、どうやって夏美を幸せに出来るというのだろう。  
 今迄抱いていた淡い妄想が、全て否定される。近付く程、それらは全て幻だったと気付く。露わになった絶望の淵が顔を覗かせる。魔法は、不完全にしか掛からなかった。  
幾ら外面を取り繕った所で、所詮自分は自分なのだ、と。そんな自分が夏美を想う資格などあろう筈が無いと、気付かされる現実。  
「夏美は喜んでくれていたが……こんな風にならない方が、やはり良かったのかもな……」  
 ふ、と自嘲を零す。気付かなかった方が良かった真実、壊れたバランス。  
 軽い絶望の眩暈に襲われながら、紅い瞳を閉じる。風は、ますます強い。  
 
 思考の渦が蜷局を巻く。降り始めた雨の音が、いっそ寂しかった。  
 
 
(4)  
 
 次の日の夕方。  
「……うん、そう。分かったわ。迷惑掛けちゃ駄目よ。うん、じゃあ」  
 夏美は、ふう、と溜め息をつきながら受話器を置いた。  
 冬樹から、友達の家に遊びに行っていたけれど台風が酷くて帰る事が出来ないのでそのまま泊めて貰う、という連絡だった。  
「お母さんは仕事だし、今日はボケガエル達もいないみたいだし、わたし一人かあ……」  
 ソファに座ると、雨と風が窓を揺らす音が耳に付いた。ケロロ達は朝早くから西澤家に遊びに行っている。あそこなら敷地も広いしポールもいるから、ケロロ達が多少の無茶をしたところで大丈夫だろう。再び溜め息をつき、夏美はゆっくりと窓の外に目を遣る。  
「……ううん、一人、ってのは間違いかもね」  
 既に薄暗くなった庭にうっすら明かりが灯っているのが見えた。ギロロのテントから漏れる光だ。  
 ギロロはあれから夏美と顔をまともに合わせようとはしなかった。食事の時に現れはするものの、早々に立ち去ってテントか地下に篭もってばかり。話をしようにも拒絶されているみたいで、夏美はそれでも声を掛ける勇気は出なかった。  
「でも、この風じゃテントも飛ばされそう」  
 雨と風はどんどん激しさを増している。テレビの台風情報では今夜がヤマだ、と言っていた。国営放送では出っ放しの日本地図の関東の辺りに、色取り取りの警報のマークが幾つも並んで点っている。  
速報のチャイムが鳴り、また一つどこかの県に警報が追加された事を字幕が告げる。  
「……声、掛けてこようっと……」  
 夏美はゆっくり立ち上がり、Tシャツの上にレインコートを軽く羽織った。気休め程度だがこの風では、傘を差したところでびしょ濡れになってしまうだろう。コートのボタンをしっかり留めてから玄関のドアを開け、庭のテントに近付いた。  
「……ギロロ」  
「何だ? 夏美か」  
「家の中に来ない……?」  
 ギロロからの返答は無かった。挫けそうになりながらも夏美は続ける。  
 
「台風、今晩もっと凄くなるって。このままじゃギロロ危険だよ」  
「……大丈夫だ」  
 突っぱねようとするギロロのぶっきらぼうな声に夏美は自分を見失いそうになりながら、それでも畳み掛けた。  
「でもっ、テント飛ばされちゃうかも。風が強くて雨も吹き込んじゃうだろうから濡れちゃうよ。それに人間になったんだから狭いでしょそこ。大丈夫だよ、今晩は私以外家にいないからギロロ自由に居て貰っても」  
「……夏美」  
「だから、家の中に来てよ、ギロロ」  
「……俺は、大丈夫だ」  
 押し殺した声が雨に掻き消されそうで、それでも聞こえる、耳に届く。だってそれはギロロの声だから。  
「何よ、強がりばっかり……」  
「強がりじゃ、ない。本当に大丈夫だ」  
「……私が」  
「何?」  
「……私が、大丈夫じゃないから……」  
「……夏美?」  
「ギロロが、風邪でもひいたらどうしようって考えたら、大丈夫じゃないから……」  
「……夏美」  
 テントの入口が開く。顔を出したギロロの髪が、強い風に一瞬で乱れる。  
「やっと顔出してくれた。強情なんだから」  
「……」  
「で、家には入ってくれるの?」  
「家には夏美一人なんだろう……? だったら余計、俺が入る訳にはいかない」  
「ギロロ……まだそんな事……」  
 夏美は諦めたようにぺたん、と地面に座り込んだ。  
「夏美? 濡れるぞ?」  
「……ギロロが家に入ってくれるって言うまでここ動かない」  
「夏美……」  
「ギロロが意地張るんだったら私だってテコでも動かないからね」  
「……」  
 ギロロは深い溜め息をついて、テントから這い出した。夏美の前にゆっくりしゃがみ込むと、座り込んだ夏美の体に優しく腕を回す。  
「ひゃ……」  
「夏美がそう言うのなら、……仕方無い」  
 夏美をそっと抱え上げ、ギロロは玄関に向かって歩き出す。夏美がこっそり見上げるとギロロの顔は、照れた様な困ったような複雑な表情をしていた。  
 
「ギロロ……」  
「ん?」  
「すぐに、お風呂沸かすね」  
「……ああ」  
 玄関のドアが、バタンと閉まる。  
 
 そして嵐は、一層激しさを増しつつあった。  
 
 
(5)  
 
「ふう〜、気持ち良かったぁ」  
 夏美はタンクトップ姿で湯上がりのコーヒー牛乳を飲んでいる。満面の笑顔でコップを空にすると、飲み足りないのか冷蔵庫から再び紙パックと取り出す。  
「ギロロもお風呂入ってきたら? さっき、濡れちゃったでしょ」  
「ああ」  
 口では返事をしつつも、ギロロは上の空でテレビの中の日本列島を眺めている。  
「台風とは、凄いものだな……」  
「え? うん、自然の力って凄いよね」  
 髪の毛をタオルで乾かしながら、夏美はギロロの膝にまだ使っていないバスタオルを置いた。  
「そのままだと風邪ひくよ。お風呂、入ったら?」  
「え? あ、ああ。すまん」  
「その間に晩御飯の支度、しとくから」  
「すまん」  
「もう、ギロロったら謝ってばっかり」  
「……」  
「ほら、お風呂行ってらっしゃい」  
「あ、ああ……」  
 夏美に強引に急かされる形で、ギロロは風呂場へ向かった。リビングから出てゆくギロロを確認すると、夏美はスキップしながらキッチンへ足を向ける。  
「今日は、何かとびきり美味しい物作ろうかな……」  
 
 リビングのテレビでは、各地の被害状況が中継されている。壊れそうにしなったビニール傘を必死に握りながら、合羽を着たレポーターが必死の表情で状況を説明する。  
 食事を終えた夏美とギロロは並んでソファに座り、何をするでもなくぼんやりとテレビを眺めていた。  
「風、強いね」  
「ああ」  
「今晩ずっとこんな調子なのかな」  
「そうだろうな」  
「ねえギロロ、私の事好き?」  
「勿論だ。……ん!?」  
 それまで生返事をしていたギロロが夏美の唐突な問いに驚き、慌てて身を起こす。  
「夏美、今何て」  
「だから、私の事好き? って聞いたのよ」  
 
 ピタリとギロロの表情が固まる。いや、表情は固まるが、顔の色は段々と耳まで含め真っ赤に変化していく。  
「な、な、何故突然そんな事を聞くんだ」  
「聞いちゃ駄目?」  
「駄目なんて……」  
「じゃあ答えてよ」  
「う……す、す、」  
「す? す、何?」  
 からかうような夏美の視線が、ギロロを更に硬直させる。  
「す……す、す、す、好き、だ」  
「ギロロ、やっと言ってくれた」  
 夏美がギロロに飛び付いた。洗いたての髪がサラリと流れる。  
「私も……好き」  
 夏美が耳元で囁く声と、仄かなシャンプーの香りがギロロを更に困惑させた。首に回された夏美の腕が柔らかく、温かい。思考が飛ぶ。何も、考えられない。  
「ねえ、……キス、しよっか」  
 上気した夏美の頬と潤んだ瞳が、夏美をより一層美しいとギロロに思わせた。夏美の言葉を理解出来なくなっているギロロの顔に、夏美の唇が近付く。夏美の腕に少し力が篭もるのを感じた。  
「……駄目?」  
「……夏美、いいのか俺で……」  
「私は、ギロロが好き、だよ」  
 躊躇いながらもぎこちなく、ギロロは夏美の体に腕を回す。抱き締めた体が温かい。  
「ねえ、ギロロ……」  
 夏美が目を閉じる。  
 沈黙が流れる。  
 夏美は、抱き締められていた腕がそっと離れ、ギロロの体から緊張が抜けるのを感じた。  
「……ギロロ?」  
「駄目だ」  
「ギロロ?」  
 夏美の腕がギロロの手によって解かれる。ゆっくりと目を開けると、ギロロは辛そうな顔で、夏美から顔を背けていた。  
「俺は夏美を好きだ……でも、駄目なんだ」  
 血を吐くように声を絞り出し、ギロロは自分に言い聞かせるようにゆっくりと首を横に振る。  
「ギロロ……何で」  
「駄目、なんだ」  
 
「……ホントは私の事、嫌いなんでしょ! 子供だと思ってるんでしょ!?」  
「違う! そうじゃない!」  
「じゃあ……じゃあ」  
 夏美の瞳から、ひとしずくの涙が溢れた。頬を伝ってそれは床に零れ落ちた。  
「夏美……」  
「ギロロなんて、……大ッ嫌い」  
 夏美は立ち上がると、ギロロの頬を思いっ切り叩いた。パシン、という乾いた音がリビングに響いた。  
 
 擦れ違う心、零れ落ちた冷たい涙は床で乾く事は無い。  
 
 
(6)  
 
 頬が痛い。  
 これは、夏美の心の痛みだ、とギロロは思った。  
 ぼんやりと国営放送の派手な日本地図を見ながら、頬を押さえてずっとソファに座ったまま動かなかった。  
 あれが夏美の為だ、と自分に言い聞かせる。しかし、夏美の涙が心にこびりついて離れない。  
「俺は……」  
 駄目な男だ、と口の中で呟いた。無力な自分が恨めしく、悔やまれて仕方が無い。  
 雨の音がノイズのように鼓膜を包んでいた。  
 
「ギロロ……」  
「ん……?」  
 いつの間にかソファで眠ってしまったギロロを、誰かがそっと抱き締めた。  
 吐息が掛かる。唇に柔らかい感触が触れた。  
 ギロロがうっすら目を開けると、薄暗い明かりに照らされ、大人びた夏美の顔がそこにあった。  
「ギロロ、私……もう駄目なの。ギロロを欲しいの」  
 哀しげな、しかし潤んだ夏美の表情に、何か諦めのような疲れのような感情がギロロの中をよぎる。  
「いい……?」  
「ああ……」  
 恐らく、クルルの作った大人になる銃を使ったのだろう。仄暗い明かりに照らされた夏美の裸身は、酷く艶めかしく、そして痛々しい程に美しかった。  
 長い髪が流れ、サラリとギロロの顔に掛かる。再びの口吻、今度はまろやかな舌がギロロの唇を撫でた。薄く唇を開き、夏美の舌を受け入れる。水音が響く。  
「ギロロ、愛してる……」  
「ああ……」  
 唾液の糸が垂れる。再びキスをしながら、夏美はギロロの服を脱がせてゆく。唇が舌が口から首筋を伝い、鎖骨、胸板、腹へと降りる。夏美の手が、ズボンのベルトに掛かった時、ギロロは少しだけ躊躇いを見せた。  
「夏美……」  
 夏美はその言葉には応えず、ベルトを外しチャックを下ろす。ギロロの頬が少しだけズキンと痛んだ。  
 
 ギロロの性器をぎこちない手付きで取り出すと、夏美は何かに憑かれたようにそれを頬張った。舌を這わせ、唇をすぼめ、丹念に舐め上げてゆく。  
「ギロロの、おっきい……」  
 手を添えて必死で奉仕する夏美の姿に、ギロロは何故かじゃれつく猫を可愛いと思うそれと同じ感情をふと沸かせた。夏美の表情は、次第に艶やかさを増してゆく。頭を上下させる度に揺れる夏美の胸が酷く淫らに見えて、ギロロは体から力を抜いた。  
「好き……ギロロ……好き……」  
 うわごとのように繰り返すその言葉には、もう意味があるとは思えなかった。  
「入れて、いい……?」  
「ああ……」  
 何もかもどうでも良くなった。興奮しているのに、心の何処かが急激に冷めていく。無力感と敗北感と罪悪感、それらがない交ぜになって頭の芯を凍り付かせる。  
 夏美が立ち上がり、ギロロの体をまたぐ。ゆっくりとしゃがむにつれ露わになる夏美の秘部。それは蜜を滴らせ、絶望的な程淫靡にギロロには見えた。  
 そっと手を差し出すと、握り返す夏美のしなやかな指。夢のようなこの感覚の中で、それだけが現実に思えた。  
「入れる、よ」  
 夏美の腰が落ちる。ゆっくりと飲み込まれる感覚。  
「痛……っ」  
「大丈夫か」  
「平気……」  
 微かに顔をしかめながら、夏美はゆるゆると腰を下ろす。痛みを堪えようとしているのか、大きく息を吐き、力を抜いた。  
「ん……っ」  
 ギロロの性器が自分の中で脈打つのが夏美には分かった。その全てを飲み込んだ時、夏美は大きく溜め息をつく。そのまま前のめりになり、ギロロの胸の中に倒れ込むように凭れる。  
「ギロロ、好き」  
「俺も好きだ、夏美」  
 ギロロの手が夏美の髪を撫でる。薄く汗をかいた夏美の肌から微かに雌の匂いがし、ギロロは少しだけ顔を背けた。  
 しばらくそうしてギロロの体に身を預けていた夏美は、ゆっくりと体を起こしギロロの胸に手を突く。  
「動くよ」  
 少し腰を浮かせ、夏美がゆるゆると律動を始めた。浮かし、沈む度に溢れた蜜がポタ、と音を立て零れる。  
「ん……何だか、変な感じ……」  
 慣れてきたのか痛みは段々薄らぎ、代わりに眩暈のような浮き上がる感覚が夏美を襲い始める。動く度に何か痺れるような振動が背中を走る。  
 
「ふ……あっ、気持ち、いい……」  
「ああ、いいぞ……夏美」  
 ギロロも夏美の動きに合わせ腰を動かす。揺れる夏美の胸に手を伸ばし、そのたわわな乳房を弄ぶ。  
「いい……気持ちいいよ、止まんないよぅ」  
 夏美が踊る。髪を乱し、胸を弾ませ、肌を紅潮させながら踊る。  
 ふっと目に入ったギロロの瞳は、酷く冷静で、酷く辛そうに見えた。何故だか夏美の瞳から、歓喜とは違う涙が溢れた。その涙の意味を、ギロロは理解してしまった。  
 なんて切ない、なんて滑稽な。夏美は自分を自嘲した。ギロロは自分を悔やんだ。  
「ギロロ、愛してる」  
「俺も……愛してる」  
 なんて空々しいんだろう。嘘寒い、愛の言葉。ギロロの胸に夏美の涙が散る。  
 それでも踊る事はやめなかった。嘘でも幻でもいいから縋り付きたかった。荒い息を吐きながら、夏美は寂しさを否定したかった。  
「ギロロ……私、イきそう……」  
 夏美の腰が一層激しく上下する。濡れた唇から漏れる声が、より高い音になる。  
「……俺もだ……」  
 手を夏美の腰に添え下から突き上げながら、ギロロも呼吸を激しくする。何かが頭の中に昇ってくる感覚。  
「イく、イっちゃう、イくあああああ」  
 夏美がギロロの腕に抱き付く。体がガクガクと揺れる。  
「ああああああーーーーっっ」  
「くっ……あっ」  
 夏美の体が魚のように跳ねる。震えが止まらない。その瞬間、ギロロも夏美の中に放出した。  
「ふ……あ……」  
 力尽きたように夏美がギロロの胸に倒れ込む。流れた汗が混じり合う。とろ、と性器を伝って蜜と精液が流れる感触がした。夏美の額にキスをして、ギロロは夏美の髪を撫でた。  
 夏美の瞳からは、涙が溢れ続けていた。  
「……シャワー、浴びてくる」  
 ギロロがそっと夏美をソファに寝かせ、立ち上がる。足音と、リビングのドアが閉まる音が響いた。  
 テレビからは差し障りの無い無個性な音楽が流れている。夏美の性器からは、じわりと温かい物が流れ出し、内股を濡らしていた。  
 夏美は、声を上げて、泣いた。  
 
 酷く、自分が一人に思えて、涙が止まらなかった。  
 
 
(7)  
 
 シャワーの音が雨の音と混ざり合う。それが余計ギロロを苛立たせた。  
「何をやっているんだ、俺は……」  
 冷たいタイルの壁に凭れ、熱い滝を浴びながらギロロは唇を噛んだ。落ちた前髪が視界を邪魔し、湯気で霞んだ世界が半分隠れている。  
 先程生まれた頭痛が思考を蝕む。何も考えがまとまらない。  
「糞っ……」  
 頭を振り、シャワーの温度を切り替え冷水を被った。冷たい水が上気した肌を打つ感触に、幾分かの心地よさを覚えた。  
 
 体を拭きながらギロロがリビングに戻ると、夏美はまだソファに横たわっていた。ただ、銃の効果が切れたのだろう、その姿は普段の夏美のそれに戻っている。それが余計に痛々しかった。  
「夏美……」  
 目は閉じられている。眠っているのだろうか。  
「雨は……、嫌い」  
 ぽつり夏美が呟いた。  
「雨の音に包まれると、何だか取り残されたような気分になるから……」  
 うっすら開いた目はぼんやりし、何も見てはいなかった。  
 ギロロは自分の服を手早く身に着けると、何も言わずに夏美の体を抱き上げた。階段を上がり、夏美の部屋に入るとベッドに夏美を横たえる。シーツを掛け、立ち去ろうとしたギロロの腕を夏美が掴んだ。  
「傍に、いて……」  
 弱々しかった。いつもの夏美からは想像も出来ない程、怯えた声だった。  
「お願い、傍にいて……」  
 動かないギロロに、再び夏美が震える声で呼び掛ける。  
 ギロロは無言のまま、ベッドの横に座り込んだ。握った夏美の手は、小さくて温かかった。  
「怖い……わたし、怖い」  
「大丈夫だ、雨はもうすぐ止む」  
 夏美の目から零れた涙を、ギロロはそっと掬った。  
「それに、俺が守ってやるから……」  
「……うん」  
 ありがとう、と小さく呟くと、夏美は目を閉じたまま少しだけ微笑んだ。  
 抱き締めはしなかった。キスもしなかった。だけど二人は、確かにその時繋がっていた。  
 
 嵐は、少しずつ弱まり始めていた。  
                          (完)  
 

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