『Believe』第三部 -それぞれの想い編-  
 
(1)  
 
「しかしクルルが事前にバリアを張ってくれてたお陰で助かったであります〜」  
 軍服を着たケロロが脳天気に笑う。げんなりとしつつ軍服に着替えたギロロは机に肘を突き、三人をぐるり睨む。  
「で。結局、どういう事だ」  
「いや〜っはっはっは。話せば長ーい訳があるのであります」  
「……ぐんそーさんが言う程長くないですぅ」  
「貴様らには聞いてない」  
「俺に喋れってか? クーックックック」  
 四人は例の如く地下の作戦室に集合していた。会議用の机や椅子がこっそり地球人体型に合わせて変えられている事に、ギロロはまだ気付いていない。  
「地球人化した先輩を元に戻すのに、まずケロン人を地球人化する装置を再度作ってだな。それからその装置を基礎に、地球人をケロン人に変化させる装置を逆に組み上げていく、とそういう訳さ」  
「……理屈は解る。だが、どうして貴様らまで地球人化しているのかと、そこを俺は聞きたい訳だが」  
「な〜に、装置が正常に作動してるかどうかの実験の為さ。クックック」  
「本当にそれだけか? 貴様の腕なら最初から元に戻す装置も作れたんじゃないのか……?」  
「クーックックック。先輩、勘繰りは良くないぜぇ」  
「やはりな。……どうせ、ケロロが自分でガンプラを買いに行きたい、とかそういう理由なんだろう?」  
「ギク」  
「図星か。……怒る気にももうなれん」  
「だってこの恰好だと、桃っチと一緒にお買い物とか行けるですぅ〜」  
 はしゃぐタママを脇目に、ギロロは盛大な溜め息を吐く。  
「でもでも、これで地球侵略がやり易くなったのは間違い無いでありますよ?」  
「ム。……詭弁だが、一理ある」  
 
 ふう、と腕組みしギロロは改めて三人を見回した。  
 ケロロは緑のメッシュの入った髪にフォレストカラーの軍服、デザインはギロロのものと同じだ。大人びた顔立ちだが、その表情が幾分印象を若く見せている。  
 クルルは無造作に長い金髪に分厚い眼鏡姿。だが眼鏡のデザイン自体は今流行りの細いフレームになっていて、鋭い切れ長の瞳が覗いている。サンドベージュのジャケットの中にはネクタイを締め、いかにも通信兵らしい。  
 一方タママは少年然とした黒く丸い瞳をくるくるとせわしなく動かしている。軍服のデザインが簡単なのは、階級が低い所為だろうか。少しサイズの大きい軍服が、元々小柄な少年をより幼く見せていた。  
 恐らくこれらはクルルのデザインなのだろうが、センスは悪くない。特徴をよく掴んでいる、と一瞬思った自分をギロロは苦笑する。  
「まあいい。なってしまったものは仕方無い」  
「そそそ。ケセラセラであります〜」  
「貴様が言うな」  
「地球人型になっても相変わらずだねぇ、お二人さんは」  
「……貴様もな」  
「そういえば」  
 タママが少し考え事をするように口許に指を当てる。  
「さっき、結局ドタバタしてうやむやになっちゃったけど、夏っチ達にもちゃんと挨拶した方がいいんじゃないですかぁ?」  
「おお!」  
 ポン、とケロロが手を叩く。  
「そうでありますね。夏美殿達に改めて挨拶に行くであります!」  
 ナイスアイデア、れっつらごー、などと勝手な事を喚きながら部屋を出ていこうとするケロロをクルルが制する。  
「待ちな」  
「何でありますか、クルル曹長?」  
 振り返ったケロロに向かって、クルルが何かを投げて寄越した。同様にギロロやタママにもそれを手渡す。  
「これは」  
「仮にも挨拶に行くんだろ? 正装用のジャケットと軍帽だぜぇ」  
「凄いです〜、カッコイイですぅ〜」  
「……凝ってるな」  
「ふふん、俺の趣味でね」  
 ジャケットに袖を通しながら呟いたギロロに、クルルがヘッドホンを外し軍帽を被りながら不敵に笑う。  
「では改めて、挨拶に行くであります〜!」  
 
「ちょっと……何よそれ」  
「だから〜、挨拶に来たであります〜」  
 緑、赤、黄、黒。それぞれのカラーの軍人がビシッと敬礼をする。ケロロも口調はだらしないものの、その姿は流石サマになっている。  
「これだけ揃うと圧巻だねー」  
 冬樹が感心したように呟き、並ぶ四人を眺めた。  
「……でも、やる事は今迄と変わんないんでしょ、どうせ」  
「酷い言われ様だな、クックック」  
「ええ〜、今までと一緒じゃないですよぅ。一緒に遊びに行ったりも出来るですぅ」  
「そそそ。ガンプラだって一人で買いに行けるであります」  
「……あんたは結局それなのね」  
 ワイワイと賑やかに話している所に、玄関のドアが開く。  
「あら、何の騒ぎ?」  
 にこやかにリビングに入ってきたのは、仕事を終えた秋の姿。  
「あ、ママ。お帰りなさい」  
「お帰りなさいであります〜」  
「あらぁ。こんなにタイプの違う男性ばっかり揃ってると何だか凄いわね〜」  
 秋は一人ずつ指差しながら、感想を述べてゆく。  
「ケロちゃんは好青年、ギロロ君は硬派、クルル君は……ビジュアル系? バンド系? タマちゃんは、そうね、ショタ系っていうのかしら。よりどりみどりね〜」  
 カラカラと笑う秋の言葉に、クルルとタママががっくりと肩を落とす。  
「俺ってビジュアル系だったのか……」  
「……ショタ……ですかぁ……」  
 少し落ち込む二人の肩をバンバン叩き、ケロロも揃って馬鹿笑いをする。  
「はっはっは、二人共気にしないであります〜」  
「ん……何か忘れてるような……」  
 そんな遣り取りを見ながら、冬樹がそっと首を傾げる。何か、間違いを犯しているような……。  
「何だ? 何か気になる事でもあるのか?」  
 
「……あのさ、伍長。兵長は……?」  
「……ゲロ」  
 冬樹の言葉にケロロとギロロが凍り付く。  
「マズっ……」  
「……すっかり忘れてた」  
「あー、奴はあんま地下に来ねえからなぁ」  
「そういえばいましたね〜、ドロロ先輩」  
 頭を抱える二人の背後から、そっと声が聞こえる。  
「ケロロ君……」  
「……い」  
 ケロロがそっと後ろを振り向くと、そこには涙を溢れさせたドロロの背中があった。何だかドロッとしたオーラが漂っている。  
「……僕、また仲間外れなんだね……」  
「いやあのその、そういう事じゃ」  
「友達、だよね僕達……?」  
「もももも勿論であります〜」  
 冷や汗を垂らしながらがっくんがっくんと首を縦に振るケロロ。その張り付いた笑顔とは対照的に、ドロロの瞳は段々無表情になってゆく。  
「……僕、今日はもう帰るよ……」  
「まままま待つでありますドロロ〜」  
 ドロン、と煙を立ててドロロの姿が消える。北風が吹いたように凍り付く空気。  
「あちゃ〜ドロロ先輩あれ怒ってるですぅ……」  
「トラウマスイッチ、入ったでありますな……」  
「ど、どうするよケロロ……」  
「まあ明日にでも捕獲しちまえばいいんじゃねぇの? 面倒な奴だぜ……」  
「う、う〜ん。次会ったら素直に謝るであります……」  
 小隊のメンバーは揃って、溜め息を一つ。  
 
 ケロロ小隊地球人化作戦、始動。前途多難なれど、目標は高く。  
 
 
(2)  
 
 秋の日は穏やかだった。季節外れの台風も過ぎ、高い空と紅葉の色付きが街を彩っている。夏美と冬樹、ギロロの三人はのんびりと夕飯の買い物に出掛けていた。  
「で、軍曹ったら平謝りだったんだ。土下座までしてて、ちょっと可哀想だったかな」  
「……自業自得でしょ。仲間の事忘れてたんだから」  
「それを言われると俺も胸が痛いな」  
「ギロロはまだいいのよ、悪いのはあのボケガエルなんだから。可哀想なのはドロロの方だわ」  
「ははは。そうだね」  
 笑いながらゆるやかな坂道を下る。鮮やかな黄色に染まった銀杏の葉が、はらり蒼穹に映えていた。  
「伍長、重い物持って貰っちゃってゴメンね」  
「いや、気にするな」  
 ギロロが肩に担いでいるのは30kgの米袋。その言葉通り、さほど重くは感じていないのか実際汗一つ掻いていない。  
「近所のスーパー、宅配して貰うとお金掛かっちゃうんだ。ギロロがいてくれて助かるわ」  
「まあ居候の身だしな。これぐらいなら幾らでも」  
「ほんと力強いよね。いいなあ」  
 冬樹が少し羨ましそうに見上げる。両手に下げたビニール袋が重いと感じる自分を、少し恥ずかしく思った。  
「男はこれぐらい頼もしくないとねっ」  
 夏美が嬉しそうにウインクする。それを見てギロロは照れたようにそっぽを向いた。  
「でもさ、ふと思ったんだけど僕達って周りからどんな風に見えてるのかな」  
「どんな風に、とは?」  
「うーんと、僕と姉ちゃんは姉弟でいいんだけど、伍長はちょっと歳が離れてるから」  
 そうねえ、と夏美が小首を傾げ考える。  
「……親戚のお兄さん、ってとこかなぁ」  
「それが妥当な線かなあ。伍長は自分でどう思う?」  
「まあ、夏美の言ってるのが正しいだろうな。親子じゃ年齢が合わないし、兄弟にしてはひとまわり以上歳が違うからな」  
 
「あは、やっぱり。じゃあさ、伍長って何してる人に見える?」  
「……軍人」  
 呟く夏美の言葉に、ギロロと冬樹が揃って吹き出す。  
「姉ちゃん、それじゃそのままだよ」  
「え、駄目?」  
「駄目じゃないけど。でも背高いし体格いいし」  
「スポーツってのもちょっと違うわね。どっちかいうと格闘家とかプロレスラーとか?」  
「それも近いけど、やっぱりイメージ違うね。うーん、警官とか自衛隊員とか?」  
「こんな髪の赤い警察官はいないと思うが。……自衛隊とは何だ?」  
「あ、自衛隊知らないの伍長? えっとね、何だろう。軍隊ともちょっと違うらしいし」  
「まあ、なんか国の人らは揉めてるみたいだけどねそれで。日本の国を守る……軍みたいな人達、ってところかな。軍隊じゃないって言ってる人らもいるし、厳密には分かんないや」  
「ふむ……成る程」  
 他愛ない話をしながら、午後はゆっくりと過ぎて行く。流れる雲が、穏やかな街並みにうっすら影を落としていた。  
 
 同じ頃。日向家地下のクルルズ・ラボでクルルは一人コンソールに向かっていた。  
「ちょっと休憩、しませんか? お茶淹れようと思ってるんですけど」  
 モニターを見詰めるクルルに、モアがそっと声を掛ける。  
「今はいい」  
「でも、あまり根詰め過ぎると、疲れちゃいますよ?」  
「いい」  
「でも……」  
 純粋にクルルの事を心配するモアの態度に、多少苛立ちが募った。何故、こんなに無性に腹が立つ?  
 機嫌悪げに立ち上がるクルルを見て、モアは少しだけ微笑んだ。解った行く、とクルルが作業を中断するものだと思ったからだ。しかし、その予想は裏切られる。  
「…………んだよ」  
「……え?」  
「目障りなんだよッ」  
 クルルが、胸の前で組まれたモアの手首を掴み、体ごと壁に叩き付ける。  
 
「ひっ……!?」  
 片方の手でモアの両手首を壁に押し付けたまま、空いた手で自分の眼鏡を外す。切れ長の炎えるファイアオパールのような瞳がモアを直接、射竦める。  
「く、クルルさん……」  
 怯えるモアの顎を持ち、くいと上向かせるとクルルはその鼻先で囁いた。  
「ニンゲンってのは決まった発情期が無くて、いつでも生殖行為が可能なんだってなぁ……? お前で試させて貰えるかい? クックック……」  
「や……駄目、駄目です……助けておじさま……」  
 その言葉にクルルは鋭い眼差しをさらに細める。言葉を断ち切るようにモアの唇を割り、無理矢理に舌をこじ入れた。  
「む……んんっ」  
 力尽くで掴まれた手首が軋み、少し痛い。蹂躙される口の中の感触に嫌悪感を抱きながら、それでもモアは抵抗する事が出来なかった。唾液が唇から溢れ、首筋を伝い服の襟元に流れ落ちる。  
「ん……ああっ、……ぷはっ、はーっ」  
 クルルがようやく唇を離すと、息苦しさから開放されたモアが大きく荒い息を吐く。  
「駄目です……クルルさん……やめて」  
 嫌々をするように首を振るモアを無視し、その柔らかな太股の間に足が差し込まれる。割り開こうと入ってくる膝を、モアは必死で拒み足を閉じ抵抗する。  
「駄目、助けておじさまあっ……」  
 モアの瞳から一筋、涙が零れる。  
 その時、クルルズ・ラボのドアが静かに開いた。  
「モア殿〜、クルルはまだであり……あり」  
 絶句するケロロ。その姿を認めると、クルルはモアを突き飛ばし、ケロロに投げるように押し遣る。よろよろとケロロの胸に倒れ込んだモアはしゃくり上げ、しがみついて泣きじゃくっている。  
「クルル曹長、これは……」  
 困惑したケロロを尻目に、クルルは椅子にどっかと腰を下ろし、再びモニターに向かう。  
 
「何でもない」  
「クルル」  
「ちょっと一人にしてくれねえか、隊長」  
 その後ろ姿に何も聞けず、ケロロは言葉を飲み込んだ。  
「解った……さあモア殿、行くであります」  
 二人が部屋を出、ドアがまた静かに閉まる。液晶の光に照らされた暗い部屋の中、クルルは一人、笑っていた。  
「クーックックック……俺は何がしたいんだ、え?」  
 自嘲の笑みを浮かべながらコンソールのパネルを叩く。自分の感情をコントロール出来ない事に苛立つというよりは、むしろ自分では制御出来ない感情が存在する、その事に腹が立つ。  
 ポケットから煙草を取り出し、そっと火を点ける。にやり歪めた口許で、ちりちりと煙草の巻き紙が燃える音が静かに響いた。  
 
 揺れ始める世界。そして一つの物語。澄んだ陽射しは、地下には届かない。  
 
 
(3)  
 
「モア殿……もう泣かないでであります……」  
 ケロロの自室ではモアが泣きじゃくっていた。ケロロが淹れたカフェオレのカップを両手で持ち、くすんくすんとしゃくり上げている。  
「だって、おじさま……クルルさんが、クルルさんが……」  
「クルルには吾輩から言っておくであります」  
「違うの……そうじゃないんです」  
 モアは涙を拭うと、潤んだままの瞳でケロロを見上げる。  
「だって凄く寂しそうで悲しそうで辛そうで、……だってクルルさん、あんな事する人じゃないから……。きっと、戸惑ってるんだと……思います」  
「戸惑う……?」  
「ニンゲン、に」  
 支離滅裂とも取れるモアの言葉は、しかし核心を突いているようにもケロロには思えた。感受性の強い純粋なこの少女の、それは動物的なまでの、勘。  
「解ったであります。……けれどそれは、モア殿が心配する事じゃない」  
「わたし、クルルさんの力に……なれないんですか?」  
 ケロロはゆっくりと首を振る。  
「モア殿の気持ちは痛い程解るであります。けれど、そうじゃないであります。それは、他人が助けるんじゃなくて、自分でどうにかしていかないといけない物だから……」  
「おじさま……わたし、わたし」  
 優しくそっと抱き締めるケロロに縋り付き、涙をポロポロと零すその姿が痛ましくて、ケロロはモアを愛おしい、と思った。  
「いいこだから、泣かないで。どうしたら泣き止んでくれるでありますか……?」  
「おじさま……モア、って呼んで」  
「……モア殿?」  
「殿、付けずにモア、って呼んで下さい……」  
「……モア……」  
 ケロロの言葉に涙を堪え、戸惑いながら見上げる。愛らしいつぼみのような唇が震えつつ、そっと呟く。  
「おじさま、……キス、して下さい……」  
「モア……」  
 
 視線が、絡み合う。そっとモアの両頬を包むように手の平を添え、ケロロが顔を近付ける。モアはゆっくりと、目を閉じた。  
「ん……」  
 軽く、唇が触れる。ケロロの腕が、モアの体に回される。  
「……モア、泣き止むであります」  
「……はい、おじさま」  
 二人は顔を見合わせ、クス、と笑い合った。涙の跡はもう乾き初めていた。  
「そろそろ夏美殿達も戻ってくるであります。顔を洗って、いつもみたいに……笑うと、いいであります。モア殿に涙は似合わない」  
「はいっ」  
 ケロロの呼ぶ声が『モア』から『モア殿』に戻っていた事にモアは気付いたが、何も言わずにいつもの笑顔を浮かべた。あれは淡い夢、自分の胸の内だけに秘めるべき……夢。  
 モアの足音が消えた事を確認してから、ケロロは自分の唇をそっと指でなぞった。しばし物思いに耽り、無意識の内にそっと呟く。  
「モア殿も、……オンナノコ、なんでありますなぁ……」  
 当たり前の事を、当たり前のままと思っていた自分に苦笑する。  
 玄関の方が騒がしい。どうやら買い物に出ていた三人が戻って来たようだ。  
「さて、吾輩も食事の手伝いをするでありますか〜」  
 うーん、と伸びをして部屋のドアを開ける。顔を洗い終えたモアの肩を抱き、二人でキッチンに向かった。  
 
 部屋には、カフェオレの甘い残り香。キスという名の、甘い夢。  
 
 
(4)  
 
 斜めになった陽射しが段々と朱色に染まってゆき、東の空からは月と共に群青色の翳りが立ち上ってくる。そんな平和な光景を眺めながら、ドロロと小雪は並んで屋根の上で座っていた。  
「まさか、人間になっちゃうなんてね」  
「驚いたでござるか?」  
「まあ、少しは……」  
「はは。拙者自身ですら驚いている故、小雪殿が驚くのも無理無いでござる」  
 柔和な顔に、風で煽られた青みがかった髪が掛かる。  
「夏美さんはドロロを見て何か言ってた?」  
「……予想通り、って言ってたでござる」  
「そうだね、確かにドロロ、って感じするもんね。その姿」  
「そうでござるか? 何だか照れるでござる」  
 二人は目を合わせ笑い合う。座った屋根の下からは、夕飯時らしい良い匂いが立ち上ってくる。  
「ああ、もうこんな時間。……うちもそろそろ御飯にする?」  
「そうでござるな。したらば、そろそろ帰るでござる」  
 秋の日は釣瓶落とし、とはよく言ったものだとドロロは思う。太陽は残り香を映しながら、もう既にその顔を隠そうとしていた。  
 
「夏美殿、おかわりっ」  
「……ギロロで大体は解ってたけど、やっぱり。アンタ達って地球人の姿の方が食べる量が多いのね」  
 秋、夏美、冬樹、ケロロ、ギロロ、そしてモア。六人で囲む食卓はいつも以上に賑わしかった。  
「そりゃあ体積が増えたんだから、食べる量も増えるのは当然の事であります〜」  
「ボケガエル、アンタ明日から食事の準備の手伝いも仕事に追加ね」  
「ほえっ!? そんな殺生な、夏美殿〜」  
「居候の上にそんだけ食べるんだから当然でしょ」  
「おじさま、私も手伝いますから……てゆーか、満漢全席?」  
「そんなの言ったらギロロ伍長はどうなんでありますか!?」  
「伍長は買い物の手伝いしてくれてるんだよ。今日だってお米運んでくれたし」  
 
「ケロちゃんの作る御飯、楽しみだわ〜」  
「そ、そんなママ隊長殿まで……」  
「何なら百歩譲って、食事の後の食器洗いでもいいわよ」  
「あ、ありがとうございますであります夏美殿〜」  
「……ちょっと、何でアンタ泣いてんのよ。そんなに食事の準備、イヤ? ひょっとして料理苦手なの?」  
「そそそそんな事無いでありますっ」  
「……こいつはな、料理が下手なんだ。最近やっとそれを自覚してきた所でな……」  
「わわギロロ伍長、バラしちゃ駄目であります〜」  
 
 そしてケロロの日課に食器洗いの仕事が加わった頃、クルルズ・ラボではクルルが一人、スピリタスを飲んでいた。  
「く……はぁ。ヤケに今日の酒は沁みるぜ……」  
 96度の火酒を一口飲む毎に、喉、食道を通って噴門、そして胃の上部までが爛れてゆく熱い感覚が胸部に広がる。口中の粘膜が火傷の跡のように皮が浮いてボロボロと剥がれてゆく。  
 嫌な、酒だ。浮いた口中の薄皮を器用に歯と舌で引き千切り、床に吐き捨ててから再びグラスを呷る。頭痛が酷い。何錠かの鎮痛剤を噛み砕き適当に喉に流し込んで、ソブラニー・ブラックルシアンの黒い巻き紙に火を点けた。  
 一口煙草を吸い込んで、金の吸い口を噛みながら無造作に流れた金髪を掻きむしる。体が熱いのは、何も酒だけの所為じゃ、ない。  
「……クソ」  
 自棄酒? 俺様が何を自棄になる必要があるんだ、と呟いて一人笑う。自問自答しながらそれが無意味な事だとは気付かない、いや気付かない振りをしているそれこそが自棄。この矛盾。  
「……下らない」  
 ゆらり立ち上がると、準備をする為に歩き出す。何の? と呟いて自分を嘲笑う。決まっている。実験の、だ。  
「……俺様は、俺様のやり方でやりたいようにやるだけさ」  
 全身からねっとりとした汁のような汗が噴き出す。ワイヤレスのヘッドホンから流れる曲はフル・ボリューム。チルアウト・ミュージックなんて不必要だ、とひとりごちた。  
 さあ、レイヴを始めようか。DJは俺。踊るのは、踊らされるのは……誰?  
 クックック、と笑いながら煙草を床に落とし靴底で丹念に踏み付ける。リノリウムの焦げる、嫌な臭いがゆっくりと漂った。  
 
 崩れる世界の中で、踊ろう。キミトボク、ソシテミンナ。  
 
 
(5)  
 
 夏美が気付いたのは、見知らぬ天井の蒼い光。  
「……ここ、どこぉ……?」  
 幾分ろれつの回らない舌で呟き、ぼんやりとした意識にはまだ紗が掛かっている。  
「お目覚めかい、お姫様?」  
「……あんた……くるる……」  
 夏美ははっきりとはしない目を無理矢理こじ開け、覗き込む人物の顔を確認する。艶やかな金髪がさらり流れ、液晶モニタの薄い光に照らされて淡く輝いていた。  
「ちょっとね、実験に付き合って貰うぜぇ?」  
「嫌よ……誰が」  
 弱々しい罵声を浴びせるが、ベッドに寝かされ手足を拘束されたままでは声以外に抵抗のしようも無い。  
「アンタに拒否権は無いんだよ」  
 注射器を持ったクルルが、夏美の腕を脱脂綿で擦る。アルコールのすうっとする冷たい感触が、インフルエンザの予防接種の記憶を喚起させ、ぞわりと背筋を凍らせた。  
「嫌だって、駄目……注射、嫌いなの」  
 反射的に身を捩る。が、拘束された上にがっちりとクルルに掴まれた腕は微動だにしない。  
「静かにしてな……すぐ済むから」  
 クックック、と笑いながらゆっくりと針を突き刺す。チクリとした痛みと、追って感じる血管に異物が押し込まれる鋭い違和感に、夏美は短い悲鳴を上げた。  
「嫌ッ……! な、何の薬なの? 何を注射したの?」  
「直ぐに解るさ。血管注射だから、時間はそう掛からない」  
「駄目! 嫌、助けてギロロっ」  
「無駄だね、オッサンは強力な睡眠薬で眠らせてあるのさ。モア風に言えば『ていうか、用意周到?』って感じかな。クーックックック」  
 機嫌がいいのか、クルルなりに軽口を叩く。だが夏美は顔から血の気が引き、笑う気には到底なれなかった。  
「さあ、そろそろ効いてくるかな。その強気がいつまで保つかねぇ?」  
 わざと見せ付けるようにストップウォッチのボタンを押し、不敵に笑うクルル。  
「何の薬だか知らないけど、私負けないから……アンタなんかに」  
「その強がりがイイんだよ。虚勢張ってた奴が陥落する瞬間ほど気持ちイイものは無いからなぁ。さあ、そろそろ一分経過だ」  
「何が目的なの」  
「何も。強いて言えば、薬の実際のデータが欲しい、ってとこかな」  
 
「腐ってる。狂ってる。イカれてる」  
「電波系で売ってる俺としちゃあ、そう言われるのは光栄だね」  
「おかしいよ、アンタ」  
「罵られるのも嫌いじゃないぜ。……二分経過」  
「何よアンタなんかアンタなんかアンタなんか」  
「……そろそろ効いてきたかな。自分で、ちょっとおかしいと思わないかい?」  
「嫌い嫌い嫌い、効いてなんかない大丈夫私は私は私は」  
「アンタ、自分で言ってる言葉、解ってるか?」  
「私……私私私私……」  
「クク、クーックックック。自分の名前、言ってみな」  
「な夏美、日向夏美なつみななな」  
「よし、OKだ。意識ははっきりしてるな?」  
 こくん、と夏美が頷いた。目の輝きは既に失われている。  
「教えてやるよ。この薬は、簡単に言えば自白剤みたいなもんだ。意識をクリアに保ったまま欲しい情報を喋らせる事が出来る。更に命令すればどんな行為でもさせる事が出来る……本人の意志に関わらずだ。どうだ、素敵なクスリだろ?」  
 笑いながらキーを操作し、夏美を拘束していた鎖を緩める。  
「さあて、じゃあ答えて貰おうか。……ギロロと、アンタ寝ただろ?」  
「ギロロとした私ギロロに抱かれた」  
「OKOK。じゃあ今度はどんな風に抱かれたか言ってみな」  
「温泉で抱き合って浸かったままキスして愛し合ってそれで私がシてあげてそれでそれで……」  
「クク、失楽園ごっこかい? オッサンもやるねぇこんな小娘相手に」  
 赤裸々な内容を喋りながらクルルの屈辱の言葉に涙すら出ない自分が、酷く疎ましかった。  
「じゃあ服を脱いで貰おうか。温泉だったら当然二人共裸だったんだろ?」  
 下世話な笑いを浴びながら、それでも止める事が出来ない体。夏美は言われるままに一枚一枚、服を自ら剥ぎ取ってゆく。全てを取り去った時に、クルルは賞賛の口笛を吹いた。  
「……成る程ねぇ、いい体してるぜ。オッサンが夢中になるのも無理ねぇな」  
 ギロロはそんなじゃない、と叫びたかった。叫べなかった。酷く、色々が煩わしかった。体の枷は外されたが、心に食い込んだ拘束具は血が滲む程締め上げていた。  
「じゃあさ、オッサンに抱かれた時の事思い出して、自分でシてみな。安心しな、俺は手ぇ出さねぇよ」  
 
 クルルがそっと眼鏡を外す。朱に澱む眼光が、夏美の瞳を射る。あの時の記憶が無理矢理呼び覚まされ、自動的に体が火照る。こんなの嫌、と叫ぶ声は音にならない。  
 手が勝手に動く。体が勝手に揺れる。陰部がギロロを思い出し蜜が溢れる。弾む胸、上下する腰。リミットが、外れる。  
「ふあ、あああっ、いい、いいぁあああ」  
 漏れ出る声が悔しかった。体は貪欲に快楽を求めていた。ぽた、ぽたと止め処なく愛液が飛び散る。自分で差し入れた指が別の生き物のように中を蠢く。  
「嫌、ああっ、駄目、きもちいいい」  
 襞が収縮する。突起が屹立する。汗が流れ出す。口が半開きになり、何かを求めるように舌が宙を彷徨う。  
「指じゃ、物足りねえだろ? ホラ、ちょっと手どけな」  
 クルルの言葉に素直に指を引き抜く。ポタ、と指先から零れた蜜。クルルが夏美の陰部を開き、隠し持っていた玩具をその裂け目に押し込みスイッチを入れた。  
「ふぁ、いいっ、凄いぃ、あああっ」  
 駄目、駄目と喘ぎながら頭が真っ白になる。腰の動きが自然と激しくなる。  
「どうだい? 特別製だぜぇ、クックック」  
 中を深く突き上げる感触、襞を擦り上げるその激しさにより白く濁った濃い液が流れ出す。激しく震え蹂躙するその動きに、夏美は背を緊張させ反応する。花芯の突起を自分で弄りながら、夏美は雌のように快楽に没頭した。  
「ギロロのと、どっちが気持ちいい?」  
「あ……ふぁ、わ……かんない……きもち、いいい」  
 涙を流し上の空で答えるその姿に、クルルは満足そうに、フンと鼻で笑った。出来は、上々だ。  
「壊れるのと、ヤツが来るのとどっちが先かな? 薬が切れたら後遺症は残らねぇが、薬が効いてる最中に壊れちまうのはどうしようもないからなぁ」  
 まあ壊れたところで俺には関係無いがな、と嘲笑いながらドアを眺める。  
 ……来た。  
 足音が聞こえる。程なく、ドアが静かに開いた。  
「……グッドタイミング。そろそろ来る頃だと思ってたぜぇ」  
 銃を構えたギロロが、そこにいた。  
「……何を……やっている、貴様……」  
「やっぱり凄い精神力だな。先輩に投与した量、象でも夢を見ないレベルだぜぇ。まあコイツの事なら、アンタ死んでても生き返って来るかも知れねぇけどな」  
 口の端を吊り上げて笑う。全ては計算通り。  
 
「……何をやっている。質問に、答えろ」  
「何って、オナニーショーだよ。見て判んねぇかオッサン?」  
「貴様……ッ」  
 引き金を引こうとした瞬間、力が抜ける。ガク、と片膝を突いたギロロを眺め、クルルが嗤う。  
「まだ薬の効果、切れてないんだろ? 無理すんなよオッサン。……おい、中止だお嬢ちゃん」  
「ふぁ……?」  
 クルルの命令に夏美の動きが止まる。呆然とした表情のままの夏美に立つように言い、クルルは夏美の背をギロロ目掛けて蹴り飛ばす。全裸のまま、玩具の突き刺さったままの夏美がギロロに抱き留められるように倒れ込んだ。  
「ぎ……ろろ?」  
「そうだ、俺だ夏美。しっかりしろ」  
「おっと、まだ薬の効果は切れてないからな。慎重に扱えよ? 尤も、オッサンが壊れた肉人形が趣味だっていうなら俺は止めはしないがねぇ」  
「貴様……! それ以上愚弄するな!」  
 ギロロが吠え、引き金を引く。クルルの額を狙った弾丸はしかし寸前で遮断され、あえなく床に転がる。  
「バリア……か」  
「そういうこと。幾ら撃っても今は無駄だぜぇ」  
「くっ……」  
「大人しく行った方が身の為だぜ。お嬢ちゃんに打った薬は後遺症は無いが、オッサンに投与した方は強烈な後遺症が出る。今はまだいいが効果が切れた後に地獄を見る。安静にしてるんだな」  
 クーックックックと勝ち誇ったように嗤うクルルから目を逸らし、夏美を抱えギロロはゆっくりと立ち上がった。去ろうとした二人に、ふとクルルが声を掛ける。  
「お嬢ちゃん」  
 夏美の混濁した意識の中で、クルルの声が聞こえる。  
「……アンタは、前座だよ」  
 クルルがニヤリと笑い、吐き捨てた。  
 
 絶望の歌を唱う。狂気の詩を詠う。永遠は、まだ続く。  
 
 
(6)  
 
「お邪魔しますですぅ〜」  
「……出てけ」  
 クルルズ・ラボでコンソールに突っ伏すクルルが、タママの挨拶に呟いた。  
「酷いですぅ。そんな邪険にしなくても〜」  
「今直ぐ出てけ。気分が悪いんだ」  
「クルル先輩って意外と打たれ弱いですぅ」  
「テメエに何が解るってんだぁ?」  
 ゆっくりと身を起こし、椅子に凭れてそのまま背凭れを倒しタママを見る。しなやかな金髪が無造作に垂れ、コンソールに放り出した足がだらしなく揺れる。  
 タママはクルルの上下逆向きの顔を見詰めながら、微笑んだまま囁いた。  
「今のクルル先輩は、僕と同じ匂いがしますですぅ」  
「あん?」  
「その感情、何て言うか知ってますですか?」  
「……」  
「僕はよーっく知ってます」  
 タママの黒い瞳の瞳孔がすうっと小さくなる。タママであってタママでないモノは、少年特有の残酷さで、告げた。  
「それ、嫉妬って言うんですぅ」  
 クルル先輩も仲間ですぅ、そう冷めた目で笑うタママに、クルルは苦々しい顔をした。  
「……違う」  
「違わないですぅ〜。僕は詳しい事情なんか分かんないけど、それだけははっきり言えるです」  
「……出てけ。テメエもオッサンみてぇな目に遭いてぇのか」  
「あ、あれやっぱりクルル先輩がやったですか? 夏っチも誰も全然詳しい事教えてくれなかったですから」  
「新薬の実験も兼ねてな。今頃血反吐吐いて悶え苦しんでやがるだろうよ、ザマぁねぇぜ」  
 気怠そうにポケットから煙草を取り出し火を点ける。独特の匂いの紫煙が黒い巻き紙から流れる。  
「まあ、僕はあの女を先輩がどうにかするってのなら、それはそれで止めませんけどね〜」  
「利害の一致、てか?」  
「そういう事ですぅ」  
 一層目を見開いてニタ、と笑うタママを、一瞥してクルルは鼻で笑った。  
「テメエ、狂ってやがるなぁ。クーックックック」  
「クルル先輩には負けますよぅ。僕は欲望に忠実なだけですぅ」  
 クルルは目を細めてクク、と笑う。不気味な、嘲笑の不協和音。  
 
「無駄話は終わりだ、そろそろ失せろ。俺ぁ元々テメエみたいなガキには用はねぇんだ」  
「あ、御飯、ちゃんと食べた方がいいですよぅ? 元々先輩、不健康だから」  
「そう思うなら今度酒でも持ってきてくれねぇか。とびきり強いヤツをなぁ」  
 じゃあ桃っチに頼んでそうするですぅ、と笑うタママを、やっぱりコイツ狂ってやがる、とクルルは煙草を灰皿で押し潰した。  
「じゃあそろそろ行くですぅ」  
「あばよ」  
 静かに閉まるドアを眺めながら、サウンドシステムのスイッチを入れる。独りの空間に音楽が満ちる。音の洪水、溺れるより先に沈んでゆく意識。  
「嫉妬、か」  
 図星かもな、と微睡みながら再び思う。……やっぱり、俺もクルッテル。  
 
 モアが、小さなダンボール箱を抱えリビングに戻って来る。  
「おじさま、宇宙小包届きました。ていうか、天地無用?」  
「あーもう届いたでありますか。注文してから三時間、流石にワープ特急便は早いであります〜」  
「これって何ですか?」  
「開けてみてくれるでありますか、モア殿」  
 ダンボールの封を開け、モアは中身を注意深く取り出した。出て来たのは保冷剤で守られた小さな包み。  
「おじさま、これ……」  
「そう、宇宙ケルベロスの肝」  
「……ギロロさんに?」  
 ケロロは深く溜め息を吐き、それから少し苦笑する。  
「特別な業者から取り寄せたであります。流石に高くて、吾輩の秘密の貯金もすっからかんになったんでありますけどね」  
「心配、してるんですね」  
「まあ……アイツが元気無いとどうも調子出ないでありますからなあ。効くかどうかは分からないけれど少しでも元気になれば、ってね」  
「はい……。でも、クルルさんはなんで……」  
 ケロロは遠くを見ながら、少し考え珈琲を啜る。  
「それに関しては、後で直接本人に聞いてみるであります。今はギロロと夏美殿の方が心配でありますし」  
「あの、良かったら私が……」  
「駄目であります」  
 少し冷めたカップをコトリと置き、ケロロがゆっくりとモアに振り返る。  
 
「これは、隊長である吾輩が対処しなければいけない事」  
「おじさま」  
「モア殿は心配しなくてもいいであります」  
「……はい」  
 ケロロは再びカップを取り上げ、少し厳しかった表情を緩めモアに微笑む。  
「じゃあモア殿、早速その肝をギロロ伍長の所に持って行って食べさせてやってくれるでありますか」  
「はい、解りました……おじさま」  
 モアは控え目に微笑み、そして大事そうに包みを胸に抱き締めた。  
 
 様々な想い、駆け引きはゆっくりと絡み合い、そして静かに渦を巻く。  
 
 
(7)  
 
 内臓を灼かれ、脳髄が圧迫される痛み。睡眠薬なんて名ばかりで、こちらの効果の方が本命なのではないかと紛う程の、悪意。  
「情け無いな……」  
 ギロロは口から血を垂らし荒い息を吐きながら、関節や筋肉が千切られる軋みに体を引きつらせ堪える。いや、実際には堪えているのは痛みではなく、それが生み出す叫び出したい衝動に対してだった。痛みと言うよりむしろ衝撃、これは既に堪えるというレベルを超えている。  
 傍では夏美がタオルを絞り、止め処なくギロロから流れる血や汗を甲斐甲斐しく拭いていた。  
「すまん、夏美……」  
 うわごとのように呟き、そして肉片と胃液混じりの血を吐き出す。洗面器は既に嘔吐した血液で満たされていた。  
「駄目、喋らないで」  
 ギロロの口元をタオルで拭いながら、夏美が崩れるギロロを抱きかかえる。  
「俺は情け無いな……すまん」  
「そんなの言うの、ギロロらしくないよ……」  
「すまん……」  
「謝らないで……ギロロの所為じゃないから」  
 脊髄の痛みに床にうずくまり眉をしかめると、閉じた目から一筋、涙のように血が流れた。それは頬を伝い、顎の先からポタ、とドロリとした血液の溜まりに落ちる。  
「俺の、所為だ」  
「違うよ、自分を責めないで」  
「俺達が此処にいるばっかりに」  
「ギロロ」  
「夏美まで巻き込んで」  
「やめて、ギロロは私を助けに来てくれたじゃない」  
「俺は夏美を守れなか」  
 喘ぐようにうなされるように呟き続けるギロロの口を、夏美の唇が塞いだ。  
 夏美の唇をギロロから流れた血が染めてゆく。  
 そしてそっと、唇が離れる。  
「……それ以上、言わないで……」  
 俯いた夏美の頬から一筋、涙が流れた。  
 霞む視界の中、血で汚れた夏美の唇がまるで深紅のルージュを引いたようで、綺麗だ、と思った。  
 薄れる意識で、守りたい、と願った。  
 
 
「はぁ、クルルがねえ……」  
「そうなのでござる」  
 睦実とドロロは屋根の上で空を眺めながら並んで座っていた。  
「そこまでするなんて、そりゃ随分と派手な八つ当たりをしたもんだ」  
「何故そう思うでござる?」  
「そりゃ、本命は別にいるだろうからさ」  
「……やはり」  
「勘、だけど。多分間違い無い」  
「流石でござるな」  
「そういうドロロだって、解ってるんだろ?」  
 ドロロはそれには答えず、流れる雲を背景に舞う鳥に目を流す。  
「ドロロも、そうなんだろ」  
「……何の事でござるか」  
「クルルはイっちゃってるから、思い込んだら即実行に移しちゃうタイプだけど、ドロロはそうじゃないだけで」  
「……」  
「勘、だけどさ」  
「……全部バレてるでござるか」  
「解るよ、見てれば」  
 頬杖を突いて薄く笑う睦実を、ドロロは盗み見る。  
「……少し羨ましいでござる」  
「……多分、クルルからしたらドロロやギロロの方が羨ましいと思うよ」  
「……そうでござるかな。……色々、難しいでござる」  
「恋愛なんてのは、そんなもんさ」  
 穏やかな風が吹く。空は墜ちそうに高く、くっきりと伸びた飛行機雲が青を長く引き裂いていた。  
 
 傍に在りたい、その気持ちが一番強いのは誰だろう。想いの強さと儚さは、いつも二律背反の、矛盾。  
 
 
(8)  
 
 扉が開かれる。音の洪水が流れ出し、激しい濁流が身を包む。  
「あの……ちょっといいですか」  
 翻弄されたか細い声はトランスの波に包まれ届かない。クルルを気付かせたのは、開いた扉から差し込む廊下の眩い照明によってだった。  
 クルルはサウンドシステムのボリュームを絞り、気怠げに侵入者に向き直る。  
「隊長に、此処に来ちゃいけないって言われなかったかい」  
「……似たような事は、言われました」  
「じゃあ、とっとと帰んな」  
 モアはふるふると首を左右に振ると、更に足を一歩前に踏み出す。  
「何で、あんな事したんですか」  
「……そんな下らない事聞きに来たのかい? クーックックック」  
 おもむろに立ち上がると、クルルはモアを見詰めすうっと瞳を細めた。その視線に身を竦めながら、それでも怯まずにモアは問い返す。  
「下らなくなんてないですっ。今もギロロさんは……」  
「ああ、オッサンには悪い事したなぁ。でも実験だから……仕方無ぇよなぁ?」  
「そんな……」  
 口調とは裏腹に全く悪びれる様子の無いクルルの口許に、モアは絶句する。一歩、クルルが足を進める。  
「それとも……アンタが実験台になってくれるのか?」  
 クルルの歪めた口許、昏く焔えるその眼光にモアは顔を凍り付かせ後ずさる。一歩、二歩。壁に背中が着き、磨かれ冷えた冷たい感触がより恐怖を煽る。  
「或いは、実験じゃ無くって本気で……相手、して欲しいかい?」  
 流れる様な動作で眼鏡を外し、ジャケットの胸ポケットに仕舞うその仕草に、モアは『本気』の意味を直感した。うなされるように顔を左右に振るモアの頭を掴み、クルルはその青褪めた顔を覗き込む。  
「俺は…………嫌いか?」  
 モアは、射るようなその瞳から目を逸らさずに、そっと囁いた。  
「クルルさんは……好き、です。でも」  
「でも?」  
「怖いクルルさんは……嫌いです……」  
 その率直な、むしろ愚直とも言うべき言葉に、クルルは自嘲の笑みを浮かべる。  
「じゃあ俺は……ずっとアンタには好かれないって事になるな」  
 クックック、と笑いながらモアを荒々しく抱き締めた。その腕の中に収まりながらモアは不思議と心が落ち着き、恐怖が薄れてゆくのを感じた。  
 
 代わりに流れ込んで来たのは、寂しさ、切なさ。抱き締めた腕から伝わる震えに、モアは哀れみにも似た愛しさを抱く。  
「この感情は、何だろうな」  
 表情を隠すように閉じた瞳、その哀しみを知った気がして、モアは少しだけ、背伸びをする。  
 触れる唇と唇。その柔らかな感触に、クルルは動じる事無く一層強くモアを抱き締めた。自分を卑下するような笑いは、消えていた。  
「やめろ。それ以上は……アンタを傷付ける」  
「傷付いても、いいです」  
「何故だい」  
「クルルさんが…………可哀想、だから」  
 そっと囁き合う。哀しみを湛えた瞳が重なる。  
「同情、か。……俺にはお似合いだ」  
 ゆっくりとモアを抱え上げ、クルルは部屋の隅寄りに置かれたベッドに向かって歩き出す。  
「俺の愛し方は、冗談じゃなく乱暴だ。それでも、いいのか?」  
「それでクルルさんが……満足するなら」  
「つくづく、アンタは残酷な女だよ」  
 零す口許は、それでも少し、楽しそうだった。  
 
 焔え上がる感情。静かで柔らかな冷めた炎は、そして鈍く心を焦がす。  
 
 

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