『Believe』第二部 -温泉旅行編-  
 
(1)  
 
「……まだ、あの機械は直らんのか?」  
 恒例の朝の侵略会議。地下室の低いテーブルに窮屈そうに座るギロロが、憮然とした表情でクルルに問い掛ける。  
「あー、安定性のテストとか、色々ね……。そう焦るなよ、オッサン」  
 ふあ、と欠伸をしながらクルルが投げ遣りな答えを返した。昨夜は西澤家に泊まった三匹は夜通し遊んでいたらしく、眠そうな雰囲気を撒き散らしている。  
タママはすっかり目を閉じ舟を漕いでいるし、ケロロに至っては突っ伏してイビキをかいていた。お陰でギロロとクルルの会話が他の二匹に聞こえる心配は無い。  
「……それに、昨夜は楽しかっただろ?」  
「……なっ」  
 クックック、と意味深に笑うクルルに、ギロロが怪訝な顔をする。  
「何を知っている、貴様」  
「この家中に監視カメラを設置してる事、そしてそのカメラは俺が管理してる事。忘れた訳じゃねえだろ?」  
「……貴様……」  
 ギロロは自分の迂闊さに悔いながら、それ以上の追求を諦める事にした。  
「……で、いつ直るんだ?」  
 クルルは今度は伸びをしながら、面倒臭げにぼんやり宙を眺める。  
「さあねぇ……。成長させたり大きさ変えたりするのと違って、全く別の生き物に構成し直す装置なんだよありゃ。開発がかなり厄介でね、何日か見て貰わねえと無理だな」  
「貴様の腕でも、か」  
「ああ、残念ながらね……。まあその間、諦めて地球人の生活を楽しんでみたらどうだい、先輩」  
 どうやら今回ばかりは裏の無さそうなクルルの言葉に、ギロロは素直に、そうか、と呟いた。  
「ところで、ややこしい事になってるみたいじゃねぇか」  
「何がだ」  
「あの女と、オッサンとの事だよ」  
「……まあな」  
 部屋にはケロロのイビキとタママの寝息が響いている。  
 
「……好きなんだろ? 何も考えずにいけばいいじゃねぇか」  
「そうも、いかんのだ。色々とな」  
「俺にはよく分からねぇな。相手も自分を好き、自分も相手を好き、で何を躊躇う事があるんだよ?」  
「そうなん、だがな」  
 溜め息を吐くギロロに、考えすぎなんだよオッサンは、とクルルが少し笑った。  
「後の事は後からでいいじゃねぇか。今の気持ちとか、そういうので突っ走ったらどうだぁ? 戦闘じゃ真っ先に飛び出していく癖によ。らしくねぇなぁ」  
「そんなもんでいいのだろうか」  
「そんなもんなんだよ。案外それが上手くいったりもするんだぜぇ」  
「……そう、かもな」  
 眉間の皺を緩め、ギロロがフ、と笑った。何だか少しだけ心の荷が軽くなったような気がした。  
「それじゃそろそろ俺はラボに戻るぜえ。またな、オッサン」  
 クルルは立ち上がると、扉に向かって歩き出す。その姿をギロロが不思議そうに見詰めている。視線が気になったのか、クルルが少し歩みを止めた。  
「どうした、何か言いたい事でも?」  
「……いや、貴様がこんな話をするなんて、珍しいなと思ってな」  
 クルルはニヤリ笑って、振り向かずに言った。  
「きっと、……眠いから、だろ」  
 
 嵐は、もう疾うに去っていた。空は、もう晴れ始めていた。  
 
 
(2)  
 
 小さな、にゃおん、という鳴き声に庭を掃いていた夏美は振り返った。  
「あら、仔猫ちゃん。台風は大丈夫だったの?」  
 箒を持ったまましゃがみ、仔猫の前に座り込む。にゃー、と鳴く声に、そう、と夏美は微笑んだ。  
「元気そうね。えっと……海苔が好きなんだっけ? 後で持ってきてあげよっか」  
 寂しげな夏美の笑顔に、仔猫は再びにゃーと鳴いて、少し形の崩れたギロロのテントに顔を向ける。  
「……? 何、ギロロを心配してるの?」  
 みー、という響きはその問いを肯定しているようにも聞こえた。夏美は箒をぱたんと倒し、少し捲れたスカートを整える。  
「ギロロは大丈夫よ。今は地下かどっかにいるんじゃないかな……」  
 ふう、と溜め息をついたその瞳が苦しそうに見えて、仔猫は夏美の傍に擦り寄った。少し遠くを見ながら夏美は手持ち無沙汰に仔猫の頭を撫でる。  
「……慰めてくれてるの? ありがと、でも私は大丈夫よ」  
 朝、起きたらギロロは部屋には居なかった。強かった風の所為で少しひしゃげたテントは空だった。ギロロを探しに地下に降りていく勇気は、夏美には無かった。  
 本当は、大丈夫じゃなかった。でも自分にそう言い聞かせないと崩れてしまう気がして、夏美は自分に嘘をつく。それが弱さだと言われるなら、それでも構わなかった。そうしないと、きっとこの侘びしさに堪えられなかったから。  
「仔猫ちゃんは、ギロロの事好き?」  
「みゃー」  
「私も、好きよ」  
「みゃん」  
「……ふふ、ライバルね」  
 ぎこちなく笑顔を作りながら、涙が少し溢れそうになる。夏美は仔猫を抱え上げ、そっと抱き締めた。  
「みゃ」  
 
「どうして、上手くいかないんだろうね。ただ、……好きなだけなのに」  
「みゃー……」  
 好き、と言葉にした事で、夏美の中の何かが途切れた。堪えていた筈の涙が一筋頬を伝った。それはキラキラと朝日を反射し薄く虹色に輝いた。  
 仔猫は伸びをして、流れ落ちる夏美の涙をぺろ、と舐める。その肌触りは酷く優しくて、夏美は少しだけ笑った。  
「……ありがと」  
 夏美は仔猫の頭を撫でると、仔猫を地面にそっと下ろす。箒を持って立ち上がり、手の甲で涙を拭った。  
「……元気、出さなきゃね。アイツに笑われちゃう」  
 ね、と仔猫に向かった微笑んだ。仔猫は少し頷いたように、夏美には見えた。  
 もう、涙は零れなかった。  
 
 空には、薄い虹が雨の名残りを告げていた。  
 
 
(3)  
 
「え、温泉?」  
「そう。担当してる漫画家さんがね、実家が温泉宿なんだって。それで、いつも御世話になってるからって、招待して下さったのよ〜」  
 秋は小躍りしながら歌うような口調で告げる。  
「今度の週末の連休。夏美は大丈夫でしょ?」  
「う、うん……」  
 少し複雑な感情を浮かべながら、夏美はぎこちなく頷いた。  
「あら夏美、行きたくないの? 温泉、好きでしょ?」  
「まあ、そうだけど……ボケガエル達はどうするの?」  
「うーん……小さい宿だから、あんまり大人数じゃあ迷惑よねぇ」  
 話を聞いていた冬樹が口を挟む。  
「じゃあ伍長だけ連れてってあげれば? 折角人間の姿になってるんだし……」  
「そうね! 大人の男の人がいてくれたら心強いわよね。荷物も持って貰えるし」  
 ナイスアイデア、とでも言わんばかりに秋もその意見に賛同する。  
「ね、そうしようよ姉ちゃん」  
「でも、ギロロだけなんて。ボケガエルも行きたがるんじゃない?」  
「あ、そうか……」  
 尤もな事を言われ、冬樹がうーん、と考え込む。  
「分かったわ。ケロちゃんには何でも好きな物買ってあげましょうよ」  
「えっ、ママそれでいいの?」  
「そりゃガンプラでも買ってあげたらそれで軍曹は納得するかも知れないけど……」  
「ねっ、決まり」  
 秋は早速地下のケロロの部屋に向かって歩き出す。  
「ちょ、ちょっとママ」  
「いーから任せておきなさいって」  
 秋は二人に向かってウインクをしながら、颯爽と廊下を進んで行く。  
 
 ケロロは秋の話を聞きながら、うんうんと頷いていた。  
「解りましたであります。旅行の間、吾輩達に留守番をしておいて欲しいという事でありますね?」  
「そうそう。それで、報酬として何でも好きな物をケロちゃんに買ってあげようと思ってるんだけど……」  
 ケロロの目がキラン、と光った。  
「ガンプラーーーー! ガンプラが欲しいでありますっ!!」  
「解ったわ。じゃあお金は冬樹に預けておくから、今日にでも買いに行ってらっしゃい」  
「ママ隊長殿! ありがとうございますでありますっ!」  
 涙を流さんばかりに喜ぶケロロを見ながら、秋は無造作に切り出した。  
「それで、今回の旅行にギロロ君を連れていこうと思うんだけど」  
「いいであります! 了解であります! 何処へなりとも連れて行って貰って構わないであります!!」  
 ガンプラ、ガンプラと叫びながら喜びの踊りを舞うケロロ。その言葉を聞いて秋は笑顔を浮かべ、狂喜乱舞するケロロを後に地下室の扉を閉めた。  
「成功よ」  
「凄いよ、ママ……」  
 Vサインを出す秋に、一部始終を隠れ聞いていた冬樹が感嘆の声を上げる。  
「じゃあ伍長にも早く伝えないとね。僕は軍曹とガンプラ買いに行ってくるから、姉ちゃん伍長に言ってきてよ」  
「え、私?」  
 不意の冬樹の言葉に夏美は、表面には出さないものの内心酷く焦っていた。  
「そうね、そうしておいて。ママ、これからまたすぐ仕事に戻んなきゃいけないから」  
「え……」  
 呆然とする夏美を後に、秋は冬樹に数千円を財布から出して渡し、スキップをしながら玄関に向かう。  
「じゃあね、今日ママ帰れないかも知れないから色々お願いね、二人共」  
「はーい、行ってらっしゃいママ」  
「……行ってらっしゃい」  
 パタン、と閉まったドアを見詰め、夏美は冬樹に悟られないように少しだけ溜め息をついた。  
「じゃ、姉ちゃん、僕軍曹の部屋に行ってくるから」  
「う、うん……」  
 
「あ、軍曹」  
 冬樹が振り返ると、そこには喜びを満面に湛えたケロロが歩いて来る所だった。  
「丁度良かった。ガンプラ買いに行くんでしょ?」  
「冬樹殿ー! 宜しく頼むでありますっ」  
「了解。じゃあそういう事で姉ちゃん、後は宜しくね」  
 手早く靴を履き、ケロロと共に玄関を出る冬樹。ケロロは急かすように冬樹の手を引いている。  
「あ、ちょっと……」  
「行ってきまーす」  
 音を立てて閉められた玄関のドアを呆然と眺め遣りながら、夏美は再びゆっくりと溜め息をついた。伸ばされた手が力無く下ろされる。  
「……顔、合わせ辛いんだけど、な……」  
 ぽつり呟くとリビングに戻り、夏美は無意味にテレビを点けた。無作為なチャンネルの偶然に映し出されたのは、番組と番組の狭間に挿入された短い天気予報。  
無愛想な気象予報士が淡々と無機質に、週末は全国的に晴れで絶好の行楽日和です、と人々の心を無遠慮に焦らせようとする。  
「やっぱ……言わなきゃ、駄目だよね」  
 頬杖をしながらぼうっとテレビに向かっていた夏美は、始まった再放送のサスペンスドラマを見るでもなく眺める。ギロロには会いたい、話をしたいけれど勇気が出ない。ただ、拒絶されるのが怖かった。  
「あーあ……」  
 夏美はまたもや深い溜め息をつく。握っていたリモコンのボタンを適当に押し、毒にも身にもならない情報バラエティにチャンネルを合わせた。  
「……何を溜め息ついているんだ? 夏美」  
「だって…………えっ?」  
 夏美が声に驚いて振り向くと、そこには麦茶の入ったグラスを持ったギロロがソファに座る所だった。  
「隣、いいか?」  
「う、うん……」  
 ギロロはグラスをテーブルに置くと、夏美の傍に腰を下ろす。ソファが少し沈んだ。  
「背後の気配に気付かないなど、戦場では命取りになるぞ。それとも何か考え事をしてたのか?」  
「え……うん、まあね。ギロロは何で?」  
「喉が渇いてな。ケロロの部屋にはジュースしか無かったものだから」  
「そっか」  
 少しほっとしたような表情を浮かべ、夏美は麦茶の入ったグラスと、それを握るギロロの手を見詰めた。  
「どうした?」  
 
「うん……あのね。ギロロ、一緒に温泉行かない?」  
 ギロロは夏美の言葉に動揺し、飲んでいた麦茶を思わず吹き出しそうになり、少し咽せて咳き込んだ。  
「なっ……まさか二人でか?」  
「馬鹿。そんな訳無いじゃない!」  
 あのね、と夏美は事の顛末を一部始終説明する。ギロロの台詞を聞いた夏美も先程の失態を恥じるギロロも、二人共真っ赤になっていた。  
「……という訳なのよ」  
「そうか。でもいいのか? 家族水入らずのところに俺が付いていったりして」  
「ママがいいって言ってるんだからいいんじゃない? それに冬樹も喜んでるみたいだったし」  
「そうなのか」  
「それに……私も、嬉しいし……」  
「えっ?」  
「……何でもない」  
「……夏美……」  
 夏美は耳まで真っ赤になりながら目を逸らした。ギロロは嬉しいような困ったような複雑な表情で夏美を見遣る。二人の間に静かな、柔らかな空気が流れる。  
 ギロロはグラスの麦茶を一気に飲み干すと、ソファから腰を上げた。  
「……行く、と伝えておいてくれ。喜んで、とも付け加えて」  
「ホント?」  
「ああ。どうせ予定も無いしな。断る理由も無い」  
 ギロロは少し微笑しながら、キッチンに向かって歩き出す。そして振り返らずにそっと呟いた。  
「……俺も、夏美と一緒なら嬉しいしな」  
「えっ? 今何て言ったの?」  
 テレビの笑い声に邪魔されて、ギロロの呟きは素っ気なく掻き消される。ただギロロの後ろ姿が自分を拒絶していない事を知って、夏美は少し安堵した。  
「……何でもない」  
 再びふっと笑うと、ギロロはリビングのドアを開ける。  
「楽しみにしてるからな」  
 今度ははっきりと言葉を夏美に投げると、ゆっくりとドアを閉めた。リビングにはギロロの台詞だけが残った。  
 
 ぽふ、とソファに身を沈めると、夏美はギロロの残した言葉を抱き締めた。膝を引き寄せ抱えると、顎をゆっくりと膝の間に埋める。  
「ギロロと旅行かぁ……ふふっ」  
 頬を赤く染めながら夏美はゆっくり目を閉じる。  
「二人っきりだったら、もっと良かったのに」  
 呟いてから、少しだけ昨日の事を思い出す。甘く、そして切ない二人きりの夜。  
 速報を告げるテレビのチャイムに夏美はハッと引き戻され、さっき自分の言った事に今初めて気が付いたようにぶんぶんと首を振った。  
 画面を見ると、関東には全く関係ない地方の地震情報が流れている。驚かせないでよ、と夏美は意地悪なテレビに軽い悪態をつく。  
「ただいまー」  
「ただいまでありますっ」  
 玄関のドアがけたたましく開く音と、二人の賑やかな声が響き、夏美は少しだけ日常を取り戻す。  
 
 緩やかな午後は、もうすぐ夜に変わろうとしていた。  
 
 
(4)  
 
「ここからは歩くらしいわよ」  
 秋が説明入りの地図と睨み合いながら、勢い良く車のドアを開ける。  
「ここって……だって宿ってこの山の上なんでしょ?」  
「そんなに歩いたらバテちゃうよ……」  
「ぐだぐだ言わない。さあ、荷物下ろして」  
 見事に晴れ渡った空の下、車から降りた夏美たち四人はトランクを開け各々の荷物を取り出す。温泉宿専用の駐車場に立つ看板には『この先5km』と書かれていた。バタン、とトランクの鍵を閉め荷物を持ち歩き出す四人の上に、燦々と陽光が降り注ぐ。  
「暑いわねー……」  
「汗を流した後の温泉は、きっと格別よ〜」  
「……そうだといいんだけど」  
「じゃあ、出発しますか」  
 夏美の言葉を皮切りに、張り切って歩き出す女性二人。対して冬樹はそんな二人の様子に呆れながらも、少し元気を取り戻す。  
「行こっか、伍長」  
「ああ」  
 
 山道を登りながら夏美は、暑い、と呟いた。  
「……何でこんな車で上がれないような山奥なのよ」  
「文句言わない」  
 スキップでもするかのようにスイスイと傾斜を歩む秋。一番元気なのはママかも知れない、と夏美は暑さでぼんやりする頭で思う。少し後を歩く冬樹を盗み見ると、運動は苦手ながらも堅実なペースで登ってきたのだろう、さほど疲れた様子は無かった。  
「張り切って飛ばし過ぎたのがいけなかったのかな……いつもの靴履いてくればよかった」  
 履き慣れないサンダルを履いてきた所為で、足が少し痛んだ。こんな山登りがあるならお洒落より実用を重視した方が良かったかな、と夏美は少し後悔する。  
「……持ってやろうか?」  
「えっ?」  
「荷物。貸せ」  
 不意のギロロの声と同時に、肩に掛かっていた負荷がすっと無くなるのを感じた。  
「え……でも」  
「でもじゃない」  
「……ありがとう」  
 夏美は汗を拭って、すぐ傍にいるギロロに微笑んだ。ギロロは照れたようにそっぽを向き、それ以上は何も言わなかった。何も言わないけれど、その沈黙は心地良かった。ギロロが見守ってくれているようで、夏美は何だか誇らしかった。  
 
 澄み切った空の下、少しだけ手が届きそうな気がした。  
 
 
(5)  
 
 ふはー、と吐いた息が湯煙を溶かす。  
「ホント気持ちいいわね〜」  
「ホント〜。来て良かった〜」  
 秋と夏美は二人並んで露天風呂に浸かっていた。  
 今日は団体客がキャンセルとなったらしく、連休だというのに宿は日向一家の貸し切り状態だった。悪いわねえ、と言いつつも嬉しそうな笑顔の秋は、荷物を置くや否や夏美を温泉に誘ったのだった。  
 湯の中で伸びをすると、先程の山登りの疲れもたちまち抜けていくように思えた。  
「でも先に入っちゃって、冬樹やギロロに悪い事したかなあ」  
「そうねえ……何なら二人も呼ぶ? どうせ私達しかいないんだし」  
「えっ、駄目。それ駄目!」  
「何で? 冬樹は家族でしょう」  
「だってギロロが……」  
「そうねえ、冬樹だけ呼んでギロロ君だけ仲間はずれってのも」  
「でしょ」  
「でも、ギロロ君は宇宙人よ?」  
「……でも今は人間のカッコしてるし……」  
 夏美は扉の前に立ててきた『女性入浴中』の立て札を、曇り硝子越しに遠目で確認した。うぅんと秋は足を伸ばし、少しだけ水面に波を立てる。  
「姿は人間でも、中身は宇宙人でしょ」  
「……そうなんだけど、やっぱり、ホラ」  
 秋はまじまじと夏美の顔を見ると、少し微笑む。  
「ふーん。そうねー、ギロロ君カッコイイもんね〜」  
「なっ……そんなんじゃないわよママ! 違うわよ!」  
「何が、違う、のかしら?」  
「あっ……」  
 答えに詰まった夏美は、誤魔化すようにバシャバシャと湯を跳ねながら立ち上がる。後ろからでも解る程、夏美は耳まで真っ赤になっていた。  
「先上がる。ちょっとのぼせちゃったかも……」  
「そう? じゃあママも」  
 にこにこと微笑みを崩さずに湯から上がる秋を見ながら、やっぱりママには敵わないのかも、とふとぼんやり夏美は思う。  
 体から流れ落ちた湯の滴が、ぱたぱたと石に染み心地良い音を立てる。タオルを搾り体を拭いている最中でも、湯煙が夏美の体を軽く火照らせた。  
「何だか、やりにくいな……」  
 夏美は少しだけ、溜め息をついた。  
 
 一方、冬樹とギロロの居る部屋では、茶を飲む二人のくつろぐ姿があった。  
「静かで落ち着くねー」  
「そうだな」  
「でも姉ちゃん達ヒドいよね、先にお風呂入っちゃうなんてさ」  
「……まあ、他に客もいないみたいだし、食事が済んでからでも俺は構わないが」  
「うーんそうだけど、でもなんか悔しいなあ」  
「冬樹は家族なんだから、別に一緒に入っても構わんのでは?」  
「やだなあ、流石にこの歳になると恥ずかしいよ、ママと姉ちゃんと一緒に風呂入るなんてさ」  
「そういうもんかな」  
「そういうもんだよ」  
 茶を啜る二人の間を、開け放した窓から心地良い風が擦り抜ける。  
「ちょっと寒いな」  
 ギロロは呟くと、ハンガーに掛けておいたシャツを羽織る。  
「閉めようか?」  
「いや、風呂から上がった二人が暑いだろうから、このままでいい」  
 暮れかけた空の向こうから、微かに虫の声が響いている。茜と藍の混ざり合う幻想的な風景に、ギロロはしばし目を奪われた。  
「伍長、今日は軍服じゃないんだね」  
「……まあ任務中ではないし、遊びに行くのに制服を着ているのもおかしいだろう? クルルに言って普通の服を出して貰った」  
 空を眺めながら答えるギロロの服装は、シンプルな黒いシャツにグレーのTシャツ、細身のブラックジーンズという物だった。  
 
「軍服もいいけど、そういうカッコも意外と似合うよね」  
「そうか? 夏美にも同じ事を言われたが」  
「姉ちゃんにも?」  
「ああ」  
 さやさやと流れる風がギロロの髪を揺らす。冬樹は机に頬杖を突き、ぬるくなった茶を注ぎ足した。  
「……あのさ、僕ずっと“兄ちゃん”ってのに憧れてたんだ」  
「うん?」  
「姉ちゃんがいたから寂しいとかそんなのは無かったけど、やっぱり男兄弟ってさ、なんか憧れで」  
「……」  
「その、伍長がこうやって一緒にいてくれて、なんか兄弟出来たみたいで、嬉しいんだ僕」  
「冬樹……」  
「だからさ、ずっと一緒にいてくれたらなって……ゴメン、我が侭だよねこんなの……」  
 言い終えてから恥ずかしそうにうなだれる冬樹の頭を、ゆっくりと大きい手が撫でた。それはとても力強く、温かく感じた。  
「俺は軍人だ。侵略者だ。それは違い無い。ただ……」  
「ただ?」  
「今こうして日向家にいる、こうしてお前達と知り合えた。そして今、俺は人間の姿だ。これは、何かの運命なんだと思う」  
「うん……」  
「俺の使命を忘れた訳じゃない。ただ最近、少しだけ……少しだけなら夢を見てもいいかと、そう思うんだ」  
「伍長……」  
「永遠なんて無いのは解ってる。けれど……少しだけなら、な」  
 冬樹がゆっくりと顔を上げると、頬杖を突いたままのギロロが少しだけ、笑っているような気がした。眺め遣る空の先は、段々と藍色に包まれてゆく。  
 遠くから、廊下を歩く足音と楽しげに喋る声が近付いてくる。  
「二人が帰ってきたようだな。どうやら御機嫌のようだ」  
 ギロロはフッと笑うと、先程の幻想を掻き消すように窓辺に立った。星の瞬きが微かに空に滲んだ。  
 
 やがて楽しげな喧噪が部屋に満ちる。夜空には、既に鈍色の月が顔を見せ始めていた。  
 
 
(6)  
 
 空には降ってきそうな満天の星。湯煙の立ち上る中、ギロロはゆっくりと露天風呂に身を沈めていた。  
「温泉というのもいいものだな……」  
「そっか、伍長は温泉って初めてだっけ」  
 のぼせた体を少し涼める為に、冬樹は湯に足だけ浸けて石造りの湯船の縁に腰掛けている。  
「結構いいでしょ、こういうの」  
「ああ。この体になってから風呂という習慣を初めて体験したが、これはこれでなかなか……」  
 ケロン人は蛙型だけあって水浴びの習慣はあったが、熱い湯に浸かるというのはギロロは今迄味わった事が無かった。夏美に言われて風呂に入るようになってから、その湯に体がほぐされるような感覚を今では結構気に入っている。  
 首を反らせふう、と息をつくと、蒼く浮かぶ月と煌めく星々が目に飛び込んでくる。紅く彩られた紅葉の葉が一枚、風に煽られすい、と水面に浮かんだ。  
「伍長って、いい体してるよね……羨ましいな」  
「ん? ああ……まあ、軍人は体が資本だからな」  
「僕なんて全然筋肉付かないから羨ましいよ。姉ちゃんと違って運動神経も無いしさ」  
「夏美は別格だろう。あれだけの戦闘能力を誇る者はそうはいないだろうし」  
「いっつも姉ちゃんと比べられて、肩身狭いよ」  
 苦笑する冬樹につられ、ギロロは夏美の事を思いだして少し微笑む。  
「冬樹には冬樹の良さがあるだろう。そう気に病む事は無い」  
「……そうかな。そう言って貰えると何だか嬉しいな」  
 二人はゆっくりと星空を見上げ、緩やかに流れる虫の声に耳を傾ける。雲一つ無い藍色の中に、無数の星座が微かな光を放ち瞬いている。  
「伍長、星に……帰りたい?」  
 空を眺めたまま冬樹がゆっくりと呟いた。  
「帰りたくないって言えば嘘になる。が、今は任務中だし、何よりも……お前達がいるしな」  
「そっか……」  
 少し安心した様に冬樹は目を閉じる。冬樹はそれ以上何も言わなかったし、ギロロもそれ以降何も語らなかった。水面の紅葉だけがゆっくりと二人の間を流れてゆく。  
 
「……そろそろ上がるか」  
「そうだね」  
 石造りの床にぽつぽつ雫を零しながら二人は湯船を出る。火照った身体を撫でる風が優しく、心地良い。  
 歩き出そうとした冬樹が不意に、その足を止める。  
「伍長」  
「何だ?」  
「……姉ちゃんの事、好き?」  
 冬樹は振り向かなかった。  
「……え?」  
 一瞬、何を言われたのか理解出来ずにギロロがその動きを止める。強い風が無造作に二人の間を吹き抜けて、熟れた深紅の葉を幾枚踊らせた。  
「……冬樹、今何て」  
「…………ごめん、何でもない。忘れて」  
 冬樹は振り返ると、気にしないで、と笑顔で重ねた。その笑みは何故か酷く寂しそうで、そして酷く痛々しくギロロには思えた。  
「いこ。姉ちゃん達トランプやるって言ってたから、きっと僕らの事待ってるよ」  
 冬樹が脱衣場に通ずるガラス戸を開ける。促されるまま室内に上がるギロロの体を、外とは違う緩やかな空気がゆっくりと包んだ。  
「あ」  
 タオルを取ろうと手を伸ばしたギロロの腕から、はらり紅葉が一枚剥がれて落ちた。冬樹はそれを拾い上げ、蛍光灯に透かすようにかざす。  
「綺麗だね」  
「……ああ」  
 冬樹は笑った。ギロロは微笑んだ。穏やかな空気が、ゆっくりと流れた気がした。  
 
 虫の声は、夢と現実の狭間で揺れ動いて、そしてゆっくり静まっていった。  
 
 
(7)  
 
「……眠れん」  
 暗闇の中でそっと呟いた。  
 風呂を出てから夏美達とトランプをして、ひとしきり騒いで、遊び疲れて、皆布団に倒れ込んで……今に至る。隣の布団では冬樹が小さな寝息を立てている。襖の向こうでは、夏美と秋が眠っている筈だった。  
 ギロロは冴えた目を閉じ意識を手放そうとするが、瞼から透け入る月の光がそれを邪魔する。ゆっくりと布団から忍び出ると、冬樹を起こさないようそっとドアを開け部屋を出た。  
 しんと静まり返った板張りの廊下に、微かに軋む足音。大きな窓から、手入れされた庭に降り注ぐ蒼い月光が見て取れる。不思議と止んだ虫の声の余韻が、その静寂の空間の曖昧な幻想性を助長する。  
「風呂でも、入るか……」  
 この瞬間に世界にいるのは自分一人という奇妙な錯覚に囚われながら、その侘びしさを振り払うようにギロロは再び廊下を進んだ。  
 
 さらさらと流れる湯の感触を味わいながら、月影に照らされた紅葉の数をぼんやりと数える。肌に染み入る温もりに身を委ねながら、ギロロは冬樹の言葉を思い出していた。  
『……姉ちゃんの事、好き?』  
 あの時、自分には冬樹の言葉ははっきり聞こえていた、筈だ。何故聞こえない振りをしたのか、誤魔化したのかギロロは自分でも解らなかった。  
「俺は、夏美を……好きだ」  
 言い聞かせるように口の中で呟く。押し殺すようにしか言葉に出来ない理性に、感情が苛付いた。自分の中で矛盾するこころ、その二律背反に微かな鈍痛を覚えてギロロは眉をしかめた。  
「……どうかしてる」  
 何が、とは言葉に出来なかった。ただ、自分が不安定なのは事実だった。  
 その時、カラカラとゆっくりガラス戸が開いた。  
「……誰かいるの?」  
 少し怯えたような声。  
「夏美……俺だ」  
「ギロロ、いたんだ」  
 声に安堵の色が混じる。石造りの床を歩いてくる夏美の姿を認め、ギロロは湯から立ち上がった。  
「寝付けなくて、ちょっとな。夏美が入るんだったら俺はもう上がる」  
 目を逸らしながら出て行こうとするギロロの腕を、夏美が軽く掴んだ。その手は微かに震えていた。  
「……一緒に、入ろ」  
 
 
 二人は並んで湯船に浸かった。どちらとも、何も言わなかった。涼やかに虫の音が響く。  
 ちゃぽん、と夏美が湯を掬い、手の平から零れ落ちる雫の音を眺めている。  
「……あのさ」  
「……ん?」  
「私も眠れなくて、温泉入りに来たの」  
「そうか」  
「…………嘘」  
「……?」  
「ホントはね、ギロロが部屋出てったからついてきたの」  
「……そうか」  
 ギロロは少しだけ、青褪めた月明かりに感謝した。きっと自分は今、凄く真っ赤な顔をしているだろうから。  
「……ギロロ」  
「何だ」  
「……好き、だよ……」  
「夏美」  
「ギロロは、私の事、……好き?」  
「ああ。……好きだ」  
 夏美は、掬った湯をゆっくりと手の平から零す。ぽたん、ちゃぽん、と不規則なリズムが空気を刻む。  
「ねえ、……キス、しよっか」  
「……夏美」  
「もう一度、やり直せるかな、あの夜から……?」  
 
 零れ落ちた時の、音色が辺りにゆっくりとこたました。  
 
 
(8)  
 
 夏美は体を隠していたタオルを外し、ギロロの瞳をじっと見詰める。  
「……ギロロ」  
「……駄目だ、夏美相手じゃ……割り切れない。止まらなく……なる」  
 目を逸らすギロロの手を、そっと夏美が握った。指先を絡ませる。躊躇する広い背中に、もう片方の腕をゆっくりと回す。跳ねる飛沫が伝い落ち、背中にゆっくりと文様を描いた。  
「割り切る必要なんて無いのに。それとも、他の誰かなら……割り切って、抱けるの?」  
「それは……」  
 何かを言い掛けたギロロの口を、夏美の柔らかな唇が塞ぐ。絡めた指に、力が篭もる。  
「ごめん、何も……言わなくていいよ」  
「……夏美」  
「私が好きだから、ただそれだけでもいいから……」  
 背中に回された腕が震える。何も言わずギロロは絡められた指をそっと振り解き、両腕で夏美を抱き締めた。  
「ギロロ、温かいよ……」  
「……ホントに、いいんだな?」  
「……うん」  
「きっと、手加減なんて出来ないぞ」  
「……うん」  
「止めろって泣いてもきっと止められないぞ」  
「……うん」  
「乱暴に、してしまうかも知れない」  
「……うん」  
「……怖かったり、痛かったら、ちゃんと言うんだぞ」  
「……うん」  
 耳元で囁くギロロの声が心地良くて、夏美は夢見心地で頷く事しか出来なかった。ギロロの優しさが、凄く暖かくて嬉しかった。  
 再び、唇を重ねる。夏美の唇の隙間から、少しずつ舌を這わせる。絡まる舌が熱く、とろけるように甘い。閉じられた夏美の目尻から、すうっと一筋涙が流れた事を、ギロロは知らない。  
 緩やかに溢れる唾液が顎を伝い、ぽた、と水面に落ちて掻き消えてゆく。夏美の豊かな乳房がギロロの胸に押し付けられ、その柔らかな感触に眩暈にも似た感情を覚える。  
 
「ギロロぉ……駄目、好きぃ……」  
 二人の唇が離れた時には、もう既に夏美の頬は上気し、甘い吐息にも似た喘ぎを上げていた。手を伸ばすと、翳りは既に湯とは違う緩い液を溢れさせ始めている。  
 ギロロはゆっくりと指先を動かし、その無骨な手で夏美の部分を愛撫する。ともすれば湯の中に倒れ込みそうになる夏美を片腕で支えながら、突起を撫で、入り口をなぞるように刺激してゆく。  
「ふ、あっ……いぃ、きもち、いい……あぅ」  
 夏美はギロロにしがみつき、声を押し殺しながら必死でその快楽に堪えている。その姿は酷くいじらしく、より一層ギロロを興奮させた。  
「夏美、もう……我慢出来ん」  
「いいよ……きてぇ」  
 縋るような目で誘いながら、少し体を離し足を広げる夏美。月明かりに照らされ、仄白い肌が濡れて光る。暗闇に隠されて湯の中で待ち侘びる夏美の部分を手探りで探し、夏美を片腕で支えながらギロロは自らの性器の先端をそっと添えた。  
「……いくぞ」  
「……うん」  
 夏美が頷いたのを確認し、ギロロはゆっくりと腰を進める。ふと、あの嵐の夜の記憶がデジャヴのように蘇るが、歯を噛み締めその幻想を振り払う。今は、自らの意志で……夏美を、愛している。  
 温かい、湯とは違う温度で絡み付く襞。夏美を傷付けないよう腰の速度を緩めながら、夏美の中へ飲み込まれて行く。  
「ギロロぉ……熱いよぅ」  
 夏美が熱病のように喘ぐ。それが入り込む湯の事を指していないのは、潤んだ瞳を見ても確かだった。灼けた杭を打ち込むように、夏美の中に印を刻み込む快感にギロロは酔いしれる。  
 全てが飲み込まれた時、ギロロは安堵の溜め息を吐いた。ギロロを受け入れる緊張から解放され、くたっと力の抜けた夏美の体を両手で抱え、向かい合って座った姿勢のまま抱き締める。  
「夏美……大丈夫か?」  
「うん、へいき……」  
「動くぞ?」  
「……うん」  
 首に腕を回し縋り付く夏美の腰を抱え、ギロロはゆっくりと上下に動き始める。水面に波が立ち、乾きかけた上半身にも飛沫が掛かる。  
 
 夏美の髪が乱れ、肌に張り付いて月影に赤く光る。綺麗だ、と純粋にギロロは思った。  
「ん……っ、ふぅ……あ」  
 必死に声を殺し唇を噛み締める夏美の口を、ギロロはそっと唇で塞いだ。舌を互いに吸い合い口腔を舐め、夏美はくぐもった叫びを上げる。それでもギロロは律動を緩めない。  
「だ……め、声、我慢……できな……」  
「……言った筈だ、手加減なんて出来ない、と」  
「ん……あ、そんなぁ……駄目ぇ」  
 一層激しさを増すギロロの動きに翻弄されながら、夏美はギロロの腰に回した足に力を込める。全身でしがみつくその姿に、ギロロはより増した愛しさを覚える。  
 荒い息を吐きながら立てる爪のその痛みすら、今は甘美な媚薬のように思えた。  
「いや……だめ、い、あ……」  
 締め付ける強さの変化に、夏美の状態を勘付いたギロロがそっと耳元で囁く。  
「……イきそう、か?」  
 既に意味のある言葉を喋るのが辛くなっていた夏美が、熱に浮かされたように何度も頷き、ギロロの言葉を肯定した。  
「解った。しっかり……掴まってろ」  
 ギロロの言葉に、背中に回した腕により力を入れる。その震えが夏美の終わりが近い事を伝え、ギロロは夏美の腰を一旦抱え直してから、速度を上げた。  
「ふ……あ、あ、あ、あああ」  
 激しく上下する体に痙攣が走る。揺れる背筋に緊張が染み渡り、足の指先に力が篭もる。必死に堪える声は抑えきれず、月光の中に零れ落ちる。  
「ああああああ、イく、イく、あああイっちゃううぅ」  
 二度、三度と夏美の部分が鼓動に合わせて痙攣し、そして強く締め付け、遅れて下半身から広がるように全身がガク、ガク、と揺れた。ピンと反った背筋と上向いた顎、白い首筋が暗闇に映える。  
「あああ……あ、あ……」  
 震えが収まり、ガクリ、と夏美の体が崩れ落ちる。ギロロは夏美が倒れないように抱きかかえ、そっと額にキスをした。声を堪える為に噛んでいた唇から少し流れる血に気付くと、指先で拭い再びキスをする。  
 
「ギロロ……好きだよぅ……」  
 少し焦点の合わない目でぐったりと呟く夏美に、苦笑しながら、俺もだ、と囁いた。  
「ねえギロロ……もしかしてまだ、イってない……?」  
「夏美が気持ち良かったなら、それでいい」  
「駄目!」  
 夏美は力の入らない体を起こすと、自分の中からギロロを抜いた。  
「そんなの、不公平だよ」  
「いや、いい……」  
「駄目!」  
 ギロロの手を取って立たせると、夏美はゆっくりとギロロの足元に跪く。腰に両腕を回すと、まだ勢いを失っていないギロロを口に含んだ。  
「お、おい、夏美……」  
 夏美はそれに答えず黙々と顎を動かし、ぎこちないながらも確実に絶頂に導いてゆく。絡む舌と締め付ける喉の感覚に堪え切れず、ギロロは夏美の頭を掴み顎の動きに合わせて腰を前後させた。  
「っく、ああ、いいぞ。イきそうだ……っ」  
 ギロロの声に夏美が速度を上げる。飲み込まれるような吸い付きに我慢出来ず、ギロロは最後に深く腰を突き入れると同時に背筋を震わせた。  
 口の中に投げ出された精液を、夏美は少し躊躇いながらもゆっくりと飲み下してゆく。こくり、と鳴る喉が無性に艶めかしく思えギロロは溜め息を吐く。ゆっくりと性器を引き抜くと、少し零れた精液を夏美の舌が舐め取った。  
「ん……ちょっと苦あい……」  
 微かに眉をひそめ最後の一滴まで飲み込んだ夏美を、ギロロは強く抱き締めた。堪らなく愛しい、と心の底から思えた。  
「夏美……愛してる」  
「あ……私もだよ、ギロロ……」  
 今更ながらに赤くはにかむ夏美とは対照的に、ギロロは微笑みながら夏美の髪を撫でる。抱き合ったまま肩まで湯に浸かりながら、二人は囁く虫の声を聞いた。時間がこのまま止まればいいのに、と心の中で呟いた願いは、音になる事無く風に揺れる。  
 
 どれ程そうしていただろう、一瞬、強い風が吹きはらはらと紅葉を散らす光景に、ふと我に返る。  
「……そろそろ、上がるか……?」  
「うん……」  
 名残惜し気に湯から上がる夏美の肩に、一枚熟れた紅葉が張り付いていた。月光に照らされたそれは、滑らかな肌の上でタトゥのように仄暗く、深い真紅を焼き付けた。  
 それに気付いた夏美が笑う。  
「紅葉って、ギロロの髪の色みたいだね」  
 指先から、雫が零れる。月の光に照らされて微笑むその姿は、女神のようにギロロには思えた。  
 
 肩に焔える濡れた一葉を煌めかせ、それはあたかも刻印のように。  
 
 
(9)  
 
 帰りの車の中で、ギロロは固まっていた。  
「姉ちゃん、よく寝てるね」  
「昨日、遊び疲れたのかしら?」  
 前で笑い合う秋と冬樹の会話を聞きながら、後部座席のギロロは自分の肩を枕にして眠る夏美の寝顔を盗み見る。  
「伍長、大丈夫?」  
「あ、ああ。大丈夫だ」  
 右腕を動かす事も出来ずに黙って座るギロロを、冬樹は振り返って労った。  
「腕、痺れてない? 我慢出来なくなったら姉ちゃん叩き起こしていいからね」  
「まあ……我慢出来ない程じゃない」  
「もうちょっとで家に着くから。それにしても、良く寝てるわね〜夏美」  
 すーすーと軽い寝息を立てる夏美の呼吸を感じながら、複雑な表情でギロロは腕組みしたまま窓の外を眺めていた。  
 
「さー、着いたわよ〜」  
「姉ちゃーん、家に着いたよー」  
「ん……? もう?」  
 ふあ、と片目を擦りながら伸びをする夏美は、隣で固まっているギロロに気が付く。  
「あ……ひょっとして、私ずっと凭れてた?」  
「……気にするな」  
「……ゴメン」  
 ちょっと申し訳無さそうな顔になる夏美の頭を、ギロロはくしゃくしゃと撫でる。  
「さ、降りるぞ」  
「うん!」  
 
 各々の荷物をトランクから取り出し、玄関のドアを開ける。  
「たっだいまぁ〜!」  
「軍曹ー、帰ったよー」  
「ケロロ、いるか?」  
 車を車庫に入れている秋より先に、冬樹と夏美そしてギロロが玄関に荷物を放り込む。  
「お帰りなさいであります〜!」  
 元気な声と、どたどたと駆けてくる足音。そして、現れたのは。  
「い」  
「は?」  
「……誰?」  
 軍服を着た、青年だった。  
「……貴様、何者だ……」  
 とっさに銃を構えるギロロに対して、けらけらと脳天気な笑顔で緑のメッシュの髪の青年は答える。  
「やだなあ〜、吾輩でありますよギロロ伍長」  
「……まさか、ボケガエル……?」  
 呆気に取られる三人の前に、更に二人が姿を現す。  
「まあ、そういうこった。クーックックック」  
「なのですぅ〜!」  
 金髪の眼鏡の青年と、黒髪の少年。共に軍服を着ていた。  
 
「という事は、そっちはクルルとタママか……」  
 呆れたように呟くギロロに、クックックとクルルは笑う。  
「察しがいいねぇ、先輩」  
 眉間に皺を寄せ、ギロロはつかつかとケロロに近付きむんずとその襟首を掴む。  
「……どういう事だ、これは」  
「まあ。あのね。いやね。話せば長ーくなるんだけどね」  
「……ほう、じっくり聞かせて貰おうか……」  
「……ギロロ君、ひょっとして、怒ってる?」  
「当然だ、この緑提灯」  
「クーックックック。オッサン、短気は損気だぜぇ〜」  
「ぐんそーさんをいじめちゃ駄目ですぅ〜」  
「……安心しろ、後で貴様らもちゃんと地獄に送ってやる……」  
 怒りを押し殺しながらケロロを掴んだのとは違う手で、銃をケロロのこめかみに突き付ける。  
「わーっ! 早まるなであります〜っ」  
「問答無用ーッ!」  
 そんな光景を眺めながら、冬樹と夏美はがっくりと肩を落とし顔を見合わせた。  
「……また賑やかになりそうだね」  
「……勘弁して欲しいわ……」  
 
 色んな物が動き出す。今、再び始まる、そう、何度でも。  
 
                                 (第二部・完)  
 
 

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