「嫌なことは忘れてしまいましょう」薫殿は勤めて声を明らめ言った。「他の事に集中すれば忘れるわ」
薫殿は目を閉じて顎を軽く上に向け、夢でも見ているように体を静かに前後に揺らせていた。
胴衣の下の彼女の胸が呼吸にあわせて膨らみ、すぼまるのが見えた。
前髪が何本か落ちて、その額にかかっていた。女手一人で流儀を守ってきた自尊を訴えているようでござる、と拙者は思った。
道場にはふたつの切なげな息が混ざりあい、流されていった。拙者は自分が広大な海の真ん中にひとりきりで浮かんでいるところを想像した。
目を閉じ、耳を澄ませ、顔にあたる小さな波の音を聞こうとした。拙者のからだは、生ぬるい海の水にすっぽりと包まれていた。
ゆっくりと潮が流れていた。拙者はそこに浮かびながら、どこかに向けて流されていた。
薫殿の言ったとおり、何も考えないようにした。目を閉じ、体の力を抜いて、流れに身をまかせた。
ふと気がつくと道場の中は真っ暗になっていた。拙者は道場の中を見回してみたが、ほとんど何も見えなかった。
――変でござるな。日が落ちる時間ではなかろうに………………
拙者の体の上で薫殿の汗ばんだ胴衣がゆらゆらと揺れているのが、影のように微かに見えるだけだった。
「忘れなさい」と彼女は言った。でもそれは薫殿の声ではなかった。
「何もかも忘れてしまいなさい――眠りなさい。土の下の屍のように。血を吸い込んだ刀を捨て、埋めてしまいなさい」
懐かしい香水の匂いがした。それは巴の匂いだった。
俺のからだの上に乗って、今俺と交わっているのは巴だった。彼女はやはり薫殿の胴衣をきていた。
俺は混乱した。あるいは遠くに行ってしまった確証のある時間を呼び戻そうとしたのかもしれない。
しかし、声は出なかった。俺の口から吐き出すことができたのは、熱い空気のかたまりだけだった。
俺は巴の顔を見ることができなかった。部屋が暗すぎる。巴の長い髪が俺の腹をさらさらと撫でていた。
巴の顔を見たいと思った。懐かしさで気が狂いそうになった。
でももし、巴の顔を見てしまったらもう戻れないような気がした。
巴、君は胴衣が似合う女性じゃないんだ、と俺は言おうとした。しかしあいかわらず俺の口からは熱い空気のかたまりしかでてこなかった。
巴はそれ以上はなにも言わずに、前よりももっとなまめかしく腰を動かし始めた。彼女の柔らかな肉が俺の性器を包み込み、ぎゅっと締め上げた。
それはまるで独立した生き物のように。
置き去りにされたものの憎悪と羨望と、それを凌駕する愛に満たされた獣のように。
俺は扉の開く音を聞いた。
ギギギギィィィィ…………………………
何かがきらりと白く闇の中で光った。
朝の光を受けた、鞘から抜かれた刃物の新鮮なきらめきかもしれぬと拙者は思った。
でも拙者にはもう何を考えることもできなかった。そして射精した。