誰もいない甲板通路の中央を、妙齢の女がつかつかと歩いている。
やや不機嫌そうな、それでいて困ったような顔をして、視線を右に向けるとそれとは全く正反対の向かいの部屋に入っていった。
女が入った場所は、殺風景ではあるがひととおりの設備が整った厨房であった。
やけにモーター音が響くそこに据え付けられた無骨なコーヒーメーカー。
女は慣れた手つきで「砂糖」続いて「コーヒー」のボタンを押す。
カップの落ちる音がして、「お待ちください」のランプが点灯。それが消えると女は淹れたての砂糖入りコーヒー片手に厨房を出て、目的地である真向かいの医務室に移動する。
先程の厨房とはうって変わって、そこはガラス張りの小窓に埋め込まれた観葉植物や部屋の左右に陣取っている巨大なアクアリウムが部屋の味気無さを幾分か和らげていた。
ただ、常駐しているはずの軍医長と看護士の姿は無く、女もそれを承知している。
彼女が用があるのは医師ではなく、奥の寝台で呑気にぶっ倒れている、最早医務室の常連とも言うべき男であった。
寝台の端から男の長い脚だけが見えると、それまでやや不機嫌そうで困ったような顔をしていた女は少しだけ苦笑いして寝台に近付いた。そして遠慮なく縁に腰掛け、おもむろにデータブックを取り出し、開く。
パネルに主立ったクルーの名前が表示され、さらに下へとスライドさせると横で寝ている男のデータが現れた。
「ハリー・オコーネル」
長髪で髭面の中年男性が気難しそうな顔で映っている。
所属部署・飛行長。
現在地・医務室。
疲労度・23%。
もうすぐだ。我ながらいいタイミングの良さだと女は思う。
そして女がデータブックをしまうのとほぼ同時に、寝ていた男が目を覚ました。
ぼんやりとした視界の中に、自分と同じ服を着た女の背中が見える。
それだけで男は言い様のない安堵を感じた。
そのまま左手を伸ばして、女の左手に触れる。相変わらず血の通ってないような白い手が少しだけ動いて、女は肩越しに男を見た。
明らかに不機嫌で、呆れた顔をして男を一瞥する。
「怒っているのか」
「別に、怒ってなんかいません」
「怒ってるじゃないか」
「呆れてるだけです」
女は男の顔を見ていない。
「仕事に集中しすぎて何度も倒れる、学習能力の無い飛行長に呆れてるだけです」
「わざとじゃないんだ」
「わかってます。でもヤガミじゃないんだからいい加減、限度を知って下さい」
「?何故そこでヤガミが出て来る」
「こっちの話です」
男はどうしたものかと頭をかいて、それから上半身だけを起こした。左手だけは触れたままで。
「心配させて悪かったな、舞踏子」
舞踏子と呼ばれた女が振り向いて、男を見る。もう怒ってはいないようだ。
仕方ないな、と困ったように微笑んで、先程まで触れていた彼の左手に温かいコーヒーの入ったカップを握らせた。
自分が倒れる度に、舞踏子が美味しいコーヒーを持って来てくれる。
正直、彼女には申し訳ないと思いつつもこれは悪くないと思う。
愛する女がそばに居て、とびきり美味いコーヒーがあって。ささやかな幸せであると男は感じる。
「ところで、皆はどうした?サーラと恵の姿もないようだが」
「ハリーが寝てる間に都市船に着いたから、ほとんどそっちに行っちゃった。ブリッジに何人かいるだけみたい」
「そうか…。」
ハリーはコーヒーをすすると、美味いと呟いた。そう?と言う舞踏子を軽く抱き寄せ、もう一度コーヒーを口に含んで舞踏子に口移す。
「…美味しい」
お互い照れ臭そうに微笑むと、ハリーは少し体を横へずらした。それを見た舞踏子が靴を脱いで猫のようにするりと寝台に上がり、それまで彼が占拠していた場所に座る。
人間が二人乗るにはやや窮屈な寝台ではあったが、二人にとってさしたる事ではなかった。
「仕事に戻らなくていいの?」
「ああ、少し気が変わった。もう少し休んでからにするよ。…まあ、ほとんど出払ってるから文句を言う奴もいないだろうが。」
「そうね。…最近、貴方働き詰めだったもの。たまには、ね。」
「それに折角君が来てくれたんだ。久しぶりに話をしたいと思うが、いいか?」
「もちろんよ」
子供のように舞踏子が笑うと、ハリーも目を細めて笑った。
とてもいい感じだ。
舞踏子はやけに素直な彼の様子に、喜びを隠せないでいた。
いつもならコーヒーを飲んだ後は仕事が気になって落ち着きを無くし、結局舞踏子がハリーを職場に送り出すようなかたちで一人医務室に取り残されるのだが、今日の彼はいつもと違う。
一方ハリーは、嬉しそうな舞踏子を眺めながら数日前にマイケルから言われた言葉を思い返していた。
「ハリー、最近変わったね。」
「そうか?この前もお前と同じ事をドランジに言われた。自分では何がどう変わったのかは分からないが、それは良い事なのだろうか」
「…うん。なんていうか、前より雰囲気が柔らかくなった。僕は、良い事だと思うよ」
「…そうか。」
だとすれば、それはきっと彼女のお陰なのだろう。自分でも気付かないうちに変わったというのなら。
「ねえ、聞いてるの?」
「…ん、ああ。」
「嘘。何か考え事してたでしょ」
やはり舞踏子には何でもお見通しのようで、ハリーは苦笑すると急に神妙な顔つきに変わった。
「…数日前、マイケルに言われた事を思い出していた」
「マイケルに?」
「ああ。彼だけじゃない。その前にもドランジやアイアン…元総軍の連中には一通り言われた気がする。」
「何て言われたの?」
「私が、変わった、前より柔らかくなった、と。」
それは…。
小さく呟いて、舞踏子がハリーの顔を覗きこむ。
「良い事ね」
唇が軽く触れ合い、また二人は照れ臭そうに微笑んだ。
以前の彼ならば、きっと泣きそうな渋い顔をしたに違いない。
あるいは軽く拒絶したかもしれない。
舞踏子に触れようと、近付こうとする度に頭の中で消えては浮かぶ妻の残像がハリーを苛んでやまなかった。
しかし、今は。
飲み干して、空になったカップが乾いた音をたてて寝台から落ちる。
まるでそれが合図のように、ハリーが舞踏子の上に覆い被さった。
実際は彼女の重い義体だと下にならざるを得ないので、押し倒されるというよりも舞踏子から身を任せる形となる。
今日で三度目の口付けが交わされる。
それは先程の軽いものとは比べ物にならないくらいの深さと熱さと時間を伴った。
禁欲の絢爛舞踏はこれからしばらくの間、ただの人間に戻る。
希望をその胸に抱く為、ただそれだけの為に。