もし議員が攫われたのが梁山泊で保護できないロシアだったら。  
 
 
 
 スーツ姿の女性は、ゆっくりと目を覚ました。  
 何度か瞬きを繰り返したあと、はっと正気に返り、動転して室内を見渡す。  
がらんとした窓のない部屋は、照明が灯されていくつかの家具はあるが、酷く寒々しい。  
 その部屋の壁の一つに、彼女は両腕を纏め上げられ、貼り付けられていた。  
 吊り上げられた両腕を動かそうとしたら、がしゃんと重たい金属音がして、  
両手を戒める冷たいそれが手錠であることを彼女に知らせた。  
 顎をあげても見えないが、どうやら壁に突き出た杭かなにかに  
手錠を引っ掛けてあるらしい。  
 両足は床についているので、ジャンプしてみたりしたが、杭は鉤状になっているのか、  
体には左右に十cmほどの自由に動ける範囲があるだけだった。  
 議員は必死で身動きし、なんとか手枷が外れないかと努力したが、頭上で  
喧しい音がするばかりで無駄だった。  
(大丈夫、きっと大丈夫。あんな襲われ方をしたんだもの、誰かが警察か…  
私の関係者に知らせてくれる筈。望みはまだある)  
 手錠で擦って赤くなった手首の痛みを覚えながら、議員はなんとか  
希望を見失わないようにと自分自身に言い聞かせた。  
(でもまさか…走行中の車が襲われるなんて…)  
 ハイウェイを走行中、後部座席で次の講演の草稿をまとめている最中、  
突如車体を衝撃が襲った。  
 咄嗟にボディガードが彼女の上に身を挺して覆いかぶさり、車はブレーキの  
甲高い音をさせたまま路面を大きく蛇行し、側壁のクッションドラムに衝突して、  
盛大な水しぶきを上げてやっと止まった。  
 そろそろと顔を上げ、なにかの事故かと思った彼女の前で、運転席のドアが  
外へと吹っ飛んだ。  
 運転手兼ボディガードが車外へ引きずり出され、次の瞬間水にまみれた  
フロントガラスは血しぶきで一面真っ赤に染まった。  
 怒号を上げるもう一人のボディガードが懐から拳銃を取り出し、  
悲鳴を上げる彼女の上から素早く退いて、車内から車外への何者かに  
銃口を向けた瞬間…それからの記憶は途絶えている。  
 全てがまるで悪夢のような、僅かな時間の出来事だった。  
 彼らがせめて無事であれば良い、と議員は願った。殺されたと考えるのが  
妥当だろうが、そう断定してしまうのは、あまりにも辛い。  
 一人唇を噛み締める彼女だったが、ドアの開く物音でハッと顔を上げた。  
「だ、誰!誰なの!姿を見せなさい!」  
 怯えを隠し、毅然と誰何する。彼女のすぐ傍に唯一の照明があるため、  
部屋の反対側には光が届きにくい。  
 その闇の中から、男が身を顕した。  
 
 一見、貴公子然とした、豪奢な金髪を靡かせた男である。  
 だが、議員はこの男の正体をおぼろげにだが知っていた。  
 僅かな伝聞や記録によって知ったその本性とは、陰に潜みながらもあらゆる国家に  
厳然たる支配力を有するという巨大組織、「闇」の中枢、一影九拳と  
呼ばれる者のうちの一人、アレクサンドル・ガイダルである。  
 略章を胸につけた、濃いオリーブ色の軍用コート姿に、議員は慄然とする。  
(聞いてはいたけれど、私の祖国ロシアで…たとえ仮の姿とはいえ、本当に軍籍をおき…  
軍内部で相応の地位を築いているなんて…!)  
 しかもそんな大物が、自分の前に姿を見せるとは。  
 粛清―――――そんな単語が、否応無く脳裏を駆け巡る。  
 両腕を高く縛られ、身動きの出来ない議員の前に悠然と立ったガイダルは、  
感情の浮かばぬ昏い目で議員を眺めた。  
「理想主義の若い議員が、嗅ぎ回っているとは聞いていた」  
 これもまた、穏やかというより低く平坦な声だった。  
「殺して見せしめに死体をクレムリンの塔から吊るしてやろうかと思ったが…  
流出した情報を握ったとあれば、そうもいかん」  
 ガイダルの両目が見開かれ、強大な殺気が室内の空気を一変させた。  
「ヒッ!?」  
 息を詰まらせ、議員は見る見る顔を青ざめさせた。  
(なに…声、息も、でき、な…っ)  
 蒼白でぶるぶると震える議員は、目の前の男が発する膨大な殺気に気圧され、  
恐怖の悲鳴もあげることが許されなかった。  
 心臓を鷲掴みにされているような、凄まじいプレッシャー。  
 「闇」を告発しようとした勇気こそあれ、所詮常人の女である議員にとって、  
ガイダルの氷のように冷え切り全身を引き裂く殺気は、まさに獅子の前の仔兎に等しく、  
劇薬並みの効果を発揮した。  
「さて…」  
 ふっ、と全身に圧し掛かっていた重圧が消えた。  
 もう少し長引けば、白目を剥き失禁していただろう。  
 ひゅうひゅうと咽喉を鳴らして息を吐き、冷や汗にまみれてがっくりと  
項垂れる議員の頬を、白い手袋に包まれたガイダルの手が掴んで上向かせる。  
「教えてもらおうか。内通者は何者だ。拡散し隠匿した情報を収集するコードは?」  
 小刻みに震え、隠し切れぬ恐怖で体をわななかせながらも、議員は  
持てる力を振り絞って、辛うじて首を横に振った。  
「だ…だれが、あなた達など…『闇』など、に…ぜったいに…!」  
 必死で掻き集めた秘匿情報だった。  
 度重なる脅迫にも負けず、支援者は離れていったが、それでも信念のために、  
正義のために全てを注ぎ込んだ。中には志半ばで死んでいったものも何人もいたのだ。  
 ここで膝を屈してしまえば、全てが無に帰してしまう。  
「こ…殺せるものなら、やって御覧なさい。どうせ情報はもう既に迷路の中…  
あなた達でも全て掬い取ることは不可能よ」  
 か細くとも揺らがない目の光を見て取ったガイダルは、「ふむ」と呟いた  
 
「…今ここでお前の耳を紙のように引き千切ったり」  
 つう、と頬に触れている手の指が、議員の耳朶に伸びる。  
「この首を小枝より容易くへし折ることも可能なのだが…」  
 議員の体が、意思に反し、カタカタと震える。  
 再びゾッと冷えた気が、ストッキングで包んだ爪先から這い上がってきていた。  
「それではいかん。このところ、私は少々野蛮に過ぎてな。今回はできるだけ、  
醜く血をブチ撒ける行為は自重しようと考えている…いや、いた。そういえば、  
つい先程それを自分で破ったのだった」  
 頬を離れた手が降りていったかと思うと、不意に議員の胸の膨らみを掴んだ。  
「痛い!!あっ、あなた、なにを!?」  
 服の上からでも柔肌に跡が残りそうな、容赦のない力で乳房を掴まれ、  
羞恥より痛みで体を捩りながら議員は悲鳴をあげる。  
「やめて!!」  
 高い音を立ててスーツの上着とその下の白いシャツが引き破られ、空中に釦が散った。  
「知っているか。死に際の恐怖の前で、人間は本能に支配された獣になる」  
 豊かな乳房を包む、繊細な刺繍を施したブラジャーが、無慈悲に毟り取られる。  
「生存本能が雄を求める。到底洗練された手管とは言えんが…血の海よりはマシか。  
あれは私の求める芸術とは程遠い」  
 ガイダルは議員の体を上から下へと眺め回した。  
 美貌を押し出すより、知性を認めて欲しい彼女のスタイルで、いつも髪を纏めて  
素っ気無いスーツで体を包んでいるものの、女性らしい魅力的なラインは、  
いまや無残に破れたシャツから零れる乳房や、  
スカートからすらりと伸びるストッキングの足も含めて、隠しきれない成熟した  
健全な色香が漂う。  
 芸術家としての彼の審美眼に及第として映ったらしく、微かに頷き、  
必死で手錠を鳴らして逃げようと試みる…非力な彼女では到底無駄なのだが…  
議員の眼前に立ち塞がる。  
「いやっ、いやー!だれかっ!!た…助けて!」  
「しーっ…、喚くな、咽喉が潰される音を聞きたいのか?」  
 正面から首を掴まれた。微妙な加減で掌に力が込められ、議員の咽喉を圧迫する。  
「かっは…く、ぁっ…」  
 その気になれば、前言どおりに実行するのだということを十分に示し、  
ガイダルは細い首から手を離した。  
「喋れずとも吐かせる術は幾らでもある」  
 咳き込む議員の頭上から、冷たい声が降る。  
 俯く議員の瞳に、苦痛や、恐怖、悔しさといった、様々な感情が綯い交ぜになった  
涙が滲んだ。  
 無造作にタイトスカートをたくし上げられ、内腿を這う手袋の感触に  
鳥肌立つほどの怖気を覚える。  
 次の瞬間、ストッキングが引き千切られる音を、彼女は絶望とともに聞いた。  
 
 
(中略)  
 
「弟子(ウチエニーク)、学校での生活はどうだ」  
“はっ、今週、月間最優秀生徒賞に選ばれました!”  
「成る程。そのまま現状を維持せよ。我が弟子よ」  
“はっ!…師匠(ウチーチエリ)、ところで先程から雑音が聞こえるようですが、  
もしや第三者機関による盗聴でも…”  
「なに、お前が気にすることではない。次回の連絡は周波数はこのまま、  
モスクワ時間1830。これにて通信を終える」  
「ヒトハチサンマル、了解。通信終了」  
 ぶつ、という音とともに、弟子との通信は終わった。薄い通信機をしまう。弟子は  
一秒も違えることなく、次回通信回路を開くだろう。そう教授し、そう覚えた。  
満足の行く教育結果だ。  
 こちらももうすぐ結果が出る。  
 ガイダルが僅かに腰を捻ると、引き攣った「雑音」が聞こえた。いまや  
恐怖ではなく快楽に震えるばかりの議員は、淫らな喘ぎ声を抑えることも出来なくなっていた。  
「そろそろ全てを喋る気になってきただろう」  
「ぁ…あ、あ…ああ…」  
 貫かれ、度重なる絶頂に身を晒され、限界などとうに過ぎ去っている議員は、  
濁った目でのろのろとガイダルを見上げる。最早当初の奥底に秘めた勇気の光は  
片鱗も見当たらない。  
「困ったものだ」  
 更に深く、膣を抉るように鋭く貫かれ、議員はがくりと白い咽喉を仰け反らせた。  
 そこから微かに聞こえる声に、ガイダルは目を細め、耳を近づける。  
 赤く濡れた唇から、うわ言のように途切れ途切れに呟かれる人名は、  
彼と組織が求めていたものだ。  
 すぐに捕らえて拷問にかけ、吐かせるよう、取り出した通信機で  
別所待機する部下に指示する。  
 だがガイダルは議員を揺さぶり続けたまま、止めることはしなかった。  
 掠れ声になった彼女の喘ぎ声が、細く高く纏わりつく。  
「いつ死んだのかも分からぬほど、せめて快楽の中で殺してやろう」  
 彼なりの残酷な慈悲深さでぐいと左腕に太腿を強く抱えあげる。  
 議員は圧し掛かる質量に耐えかねて、背中を仰け反らせ、髪を振り乱し嬌声を上げた。  
 既に議員は忘我の域に入り、清廉な理想に燃える若き政治家ではなく、  
与えられる膨大な快楽だけを貪る一匹の雌と化していた。  
「ぁああーっ!や、あぁあ、いっ、くぅ…ぅうっ…!」  
 がくがく震える肢体を片腕で抱きかかえながら、ガイダルの右手が、ごきりと鳴る。  
 何度目かも分からぬ果てを迎えるために、膣内が収縮し、内包したものを締め上げに掛かる。  
 
 彼女の死は、もうすぐそこまで来ていた。  
 
 
終  
 

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