「彩さぁぁん!!」  
 
おはようさん、と弐係に足を踏み入れた瞬間に柴田が泣きついてきたものだから、彩は危うく抱えていた書類を取り落とすところだった。  
 
「わっ、ちょっ、危ないやろ柴田!」  
「だって、だって、聞いてくださいよ彩さん〜……」  
「はいはい、どないしたの。また真山さんにいじめられたん?」  
 
ぐすぐすとべそをかく柴田がコクンと頷く、その後ろでは近藤や遠山らが助けを求めてすがるような視線を彩に送っていた。  
一人真山だけが、そっぽを向いて知らん顔である。  
その状況を即座に読み取った彩は、小くため息をついた。  
柴田を宥めるのはやっぱりあたしの役目なんかい、ホンマに役に立たへん男共やな。  
そんなことを考えながらもしかし、実のところ彩もまんざらではない。  
今自分に泣きついているこの女は、年上であるにも関わらず、どこか保護欲のようなものを生じさせる性質なのだ。  
 
「あーよしよし、可哀想になぁ。真山さんに何言われたのよ」  
「さ、さっき、事件のことで女性の方が相談にいらっしゃったんです。その方が私と同じ年齢で、綺麗な方で、」  
「うんうん」  
「その方が帰ったあとに、私、綺麗な方でしたねー憧れちゃいますって言ったんです。そしたら真山さんが、」  
「あー無理無理。お前は一生あんな風にはなれねーよ。夢見るのもほどほどにして、現実見たら? な」  
 
唐突に口を挟んできた真山の方を見れば、彼は何食わぬ顔でスポーツ新聞に視線を落としたままだった。  
それと対照的に、「……また言ったぁ〜……」と呟いた柴田の瞳には再び涙が溜まっていく。  
その様子に、彩は今度こそ大きくため息を吐き出す。  
 
「真山さん、あんまり柴田いじめんといてよ。泣いてるやん」  
「だってさ、ほんとに全然違うんだよ?さっきの人とコイツ」  
「何がよ」  
「ん?さっきの人、綺麗清潔礼儀正しい常識ありそう。あぁ、色気もあったな。 でコイツ、風呂入らない頭臭い化粧っけもない、オマケにいろいろ変。 ほら、全然違うじゃん。な?無理だよ」  
「……別に、私がどう思おうと真山さんには関係ないじゃないですか」  
「そりゃあ思ってるだけならな。でも目の前でいけしゃあしゃあと言われると、なんか腹立つんだよね」  
「……彩さーん……」  
「あー柴田よしよし、もー真山さん!」  
 
なんでこうも素直になれないのだろう、この男は。好きな子いじめるガキかいな。  
それが正直な感想だが、そのまま口に出すと真山に撃たれかねないので彩は口をつぐむ。  
代わりに、ぐすっと鼻をすする柴田の顔を、子供にしてやるようにして覗き込んだ。  
 
「アンタももう泣かんのよ、ほら」  
「彩さん、私悔しい……」  
「そーやなぁ……あ、したらあたしがキッチリ化粧したるわ」  
「え?でも私お化粧はもうしてますけど」  
「えっ?そーなの!?お前が!?」  
「社会人としての身だしなみです!真山さん失礼です」  
「はっ、どの口が『身だしなみ』なんて言うわけ?」  
「もー柴田も真山さんも黙り!柴田のメイクは、ホンマに必要最低限だけやろ。そんなんやったらしててもしてなくても変わらへんわ」  
「……」  
「せやからあたしがちゃんとしてあげる。柴田はよく見たら元がええから、絶対可愛くなるで。な、そーしよ?」  
「いいんですか?」  
「そら、係長にいつまでも泣かれても困るしな。ほなそこ座り」  
「彩さん……ありがとうございます……!」  
 
そうして柴田の濡れた瞳が感動に彩られていくのを見ながら、ホンマにこの子は手ぇ掛かるなぁ、とどこか姉のような気持ちすら抱き。  
彩は自分のバックから、使い慣れた化粧ポーチを取り出したのだった。  
 
 
 
* * *  
 
 
 
 
「ほら、どーよ!」  
 
数十分後。  
彩にずいっと押し出される形になった柴田は多少困惑顔だが、その顔にはきっちりとメイクが施されていた。  
澄んだ強い瞳はアイラインの効果でさらに大きく見え、元々長い睫毛は更に1.5倍ほどの長さになっていて。  
オレンジのチークのおかげでいつもよりずっと健康的な雰囲気になり、そしてなにより、唇にのったグロスが、妙に妖艶な輝きを放っていた。  
普段のままの服装はともかくとしても、街ですれ違えば思わず振り返りたくなってしまうような美人だ。  
近藤や遠山らから、思わず感嘆のため息が漏れる。  
 
「うわー……すごく綺麗ですよ、柴田さん」  
「ホンマにこれが、あの東大ちゃんかいな……」  
「せやろー?この彩さまにかかればこんなん朝飯前よ!」  
「あのぅ……私まだ、自分がどうなってるのかわかってないんですけど。鏡、貸してもらえませんか?」  
「もー、鏡くらい自分で持っとき。ほら」  
「ありがとうございます。……うわ」  
 
手鏡に映った自分を見て、柴田はぱちぱちと瞬きをした。  
そしていろんな角度から自分の顔を興味深げに眺め始める。  
 
「え、すごーい、彩さん、すごいです!プロですね!」  
「ふふん、せやろ。ホンマにかわええわ〜柴田。な、真山さん?」  
 
話を振られた真山は、しかし先程から柴田を凝視したまま微動だにしない。  
 
「真山さん?聞いてんの?」  
「……はは、これ、柴田?嘘だろ、うわ、気持ち悪ぃ」  
「ちょっ、気持ち悪いって何ですかー!?せっかく彩さんが可愛くしてくれたのに、」  
「やめて、顔近づけないで!来ないで!来ないで!」  
「何でですか、え、真山さん?」  
「こえー!女ってこえー!!」  
「……真山さん、変ですよ?」  
「あかん、許容範囲越えてもうてるわ……」  
 
 
* * *  
 
 
 
 
私は何か変なんだろうか。  
定時も過ぎて皆が出払ってしまった弐係で、柴田は一人、不意に調書を読む手を止めて思った。  
行動は完全にいつもの柴田だが、顔に施されたメイクは今朝のままである。  
あの時鏡に映った自分は、自分で思うのも難だが、今まで見たこともないくらいに綺麗だった。  
これで私も大人の女性の仲間入りだと、そう思ったのに。  
それなのに真山の反応ときたら全く要領を得ず、柴田は未だに首をかしげるしかできない。  
 
「気持ち悪いって言ったっけ……何が?んー……やっぱりお風呂入ってないのが悪かったのかなぁ。ここ数日忙しかったから仕方ないか」  
 
そう無意識のうちにぶつぶつ呟いていると、背後から足音が聞こえた。  
反射的に振り向くと、そこには真山の姿があった。  
 
「あれ、真山さん。もう帰ったのかと思ってました」  
「うん俺もね、帰りてぇよ。でもどっかの係長がさぁ、関係者の証言取ってきて報告するように命令しやがったから?」  
「あ、そっか私が言ったのか。すいません、忘れてました」  
「はぁ!?何だよお前ほんともう、どーでもいいことは怖いくらい憶えてるくせに!ちくしょー!」  
「そんなに怒らないでくださいよ〜。真山さん、今朝から何か変ですよ?」  
 
真山は柴田の言葉を無視して自分のデスクに腰を下ろすと、一服し始めた。  
柴田はその様子に返事を期待しても無駄だと悟ったのか、再び調書へと視線を落とした。  
とたんに、弐係を沈黙が支配する。  
途中「そういえば、関係者の証言はどうだったんですか」「変化なし。相変わらず調書と相違も矛盾もねぇよ」などといった会話を交わしたが、それ以外は時計の秒針と柴田が調書を捲る音が耳に届くだけだった。  
やがて、煙草を指先で遊ばせる真山が思い出したように口を開くまでは。  
 
「お前、まだ落としてねぇの」  
「はい?何をですか?」  
「化粧。落として寝ないとね、肌荒れるぞ」  
「あぁ、大丈夫です。これ読み終わってからちゃんと落とします」  
「そんなこと言って、絶対それ読んでる最中に失神とかしてんだろ。な。いい加減パターンなんだよ」  
「やめてくださいよ、人をどこでも失神する女みたいに」  
「あれ、自覚なし?うわー信じらんねぇ」  
「……真山さん、うるさいです」  
「……つーかさ、」  
「何ですか」  
「お前もさ、何も泣くことねーじゃん」  
「……真山さんが、散々言うからじゃないですか」  
「でもさー、普通泣かないでしょ。部下にちょっと言われたくらいで」  
「っ、もうさっきから何ですか真山さん!仕方ないじゃないですか、悔しかったんです!悲しかったんです!」  
 
張り合うつもりなんて毛頭なかったにも関わらず、勝手に美人と比べられて。  
せっかく綺麗にお化粧してもらっても、まともに反応してもらえない。  
その上に意図のわからない小言のようなことを言われて、柴田は思わず声を荒げた。  
そうか、自分は悲しいのだ。  
感情の機微に疎い柴田は、その悲しさが相手が真山であることに大きく起因していることに気付くことはないのだが。  
 
柴田にキッと睨まれても、真山は表情ひとつ変えない。  
むしろ冷静な目で向かいのデスクの女を観察した。  
華やかに色付いた目元。艶やかに強調された唇。……くそ、落ち着かねぇ。  
けれどもこの微かな苛立ちの原因は一体何なのか、真山はそれを考えようとは決してしない。  
ただ、目の前のこの女に精神面でも振り回されそうになることが堪らなく癪にさわるのは確かだった。  
 
「……それ、取ったら。化粧。柴田に見えないからさ」  
「なん、」  
「あ、取ってやろうか?」  
 
わけのわからない、わかりたくない苛立ちを押し込めて、真山は『攻撃は最大の防御』を実践すべく煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった。  
あっという間に机を回り込んで、デスクのチェアに座ったままの柴田の顎をくいっと引き上げて。  
そうしてそのまま、その色付いた唇に自分のそれを重ねた。  
 
「っ、ん、んんー!?」  
 
柴田が困惑した声を上げたが、真山はお構いなしにその口内に割って入る。  
逃げる舌を探り当て、絡めとり、吸い出して。  
自分の唇で柴田の唇を拭うようにもしながら、何度も角度を変えて味わう。  
柴田は徐々に頭の芯がぼうっとしてくるのを感じる。  
力が入らなくなってきて、チェアからずり落ちそうになれば、それでもまだ逃がすつもりはないと言わんばかりに真山に身体を抱き込まれた。  
 
「……んっ……ふぅ……」  
 
困惑の声が、次第に違う色を帯びてくる。  
それを聴いて、真山はうっすらと開いた目を愉快そうに細めた。  
そうして完全にくったりとなって自分に身を預けた柴田に満足したのか、仕上げにその唇を舐めあげてから、真山は柴田を解放した。  
ずるずるとデスクに崩れ落ちた柴田は、肩で息をしながら涙目で真山を見上げて睨んだ。  
グロスが剥がれ、代わりに唾液で濡れて光っている柴田の唇を見て、真山はクッと笑った。  
 
「はい、取れた」  
「……っも、真山、さん!」  
「息上がってますよー係長。それじゃあ報告もしたり煙草も吸ったし、俺は帰りますかね」  
「え、嘘ちょっと、」  
「お先失礼しまーす、お疲れさまっしたー」  
「真山さん!」  
 
飄々と去っていく背中を追いかけたくても、まだ力が入らなくて立ち上がれもしない。  
結局一人弐係に残されて、柴田は未だに整わない呼吸と共に呆然とするのだった。  
 
 
 
* * *  
 
 
 
 
「あー柴田、オハヨ」  
「あ、彩さん。おはようございます」  
「あれ、アンタまたいつも通りやん。何でメイクしてへんの、昨日教えたやろ?」  
「いや、えっと……やっぱりこれでいいかなって」  
「えー何で?せっかく可愛かったのに勿体無いやん」  
「いえ、いいんです、私これで十分なんです」  
「……?」  
 
昨日と一変して頑なな、何故か恥ずかしそうでどこか焦ったような柴田に、彩は怪訝な顔をした。  
しかしふと弐係を見回すと、鼻歌を漏らしながらスポーツ紙を読む妙に上機嫌な真山の姿が目に入って、あぁ、と納得した。  
何があったのかはわからないが、確実に、何かがあったんだろう。  
 
(……アホらし)  
 
妙な脱力感を覚えて、彩は自分のデスクに腰を下ろすのだった。  
 
 
 
 
 
 
 

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