ぶくぶくぶく。波風立つ内心を持て余して、柴田は浴槽に張られたお湯に鼻先まで身を沈めた。
白い湯気に霞む、見慣れない浴室。もちろん自宅のものではない。――――真山の部屋のもの、だ。
だからちょうどいい温度のお湯にゆったりと浸かっても、それがリラックスして然るべき状況であっても、柴田はどうにも落ち着かなかった。
そもそも何がどうしてどうなって、今自分は真山の部屋で風呂になど入っているのか。
驚異的な記憶力を持つ柴田にとって、そこまでの経緯を思い出すのは容易い。
継続事件の捜査で、真山を連れて山梨に出向いた。
関係者に聴き込みを続けるうちに夢中になって、定時なんてとっくに過ぎていた。
嫌々を通り過ぎて諦めの入った表情の真山と東京に戻ってきた頃には、夜もすっかり更けていた。
一旦弍係に戻ってから警視庁を出たときには、日付が変わる瀬戸際で。
「今日も1日お疲れさまでした。ええと、それではまた明日」
「……で、どうすんのお前」
「え?何がですか?」
「バス。もう走ってねーだろ」
「……あ」
「お前あれだよね。頭良いけど馬鹿。ね。馬鹿」
「どうしよう……帰れないんだ。あ、そうだ弍係に泊まろう」
「うっわぁー出たよ」
「え、何ですか」
「それでまた調書読みながら失神とかすんだろ?風呂も入らずに?」
「……いけませんか」
「あのね。気になるんだよ一緒に歩いてると。風が吹いた時とかにこう、さ。な」
「……そ、そんなこと言われたって、今日はもう帰れないんですから、」
「じゃあ、ウチ来る?」
「え?」
「貸してやるよ、風呂」
と、そのような会話が交わされて、自分は真山の部屋にやってきたのだった。
到着するなり問答無用で風呂場に押し込まれ、自分はそんなに耐え難い臭いを発していたのだろうかと首をかしげながらもとりあえず体を洗って。
髪も綺麗に洗い、浴槽に身を沈めて今に至り――――そしてようやく柴田は、現在自分が置かれている状況に戸惑いを覚えたのだ。
とにかく風呂に入らなければとそれしか考えていなかったが、このあと自分はどうすればいいのだろう。
バスもない。電車だってもうなくなる。タクシーは既に財布と相談済みで、厳しいという結論が出ている。
つまり帰る手段がない。それならば、選択肢は自ずと一つに絞られるけれど。
……真山さんは考えてないんだろうか、その、そういうこと。私の気にしすぎか?
きっとそうだ、そうに違いないと自分に言い聞かせて、柴田は自らの疑問を振り払おうと試みた。
だって、真山が自分に、なんて。そんなことがあるわけがないと思うし、真山は自分のタイプでもない。
それなのにどうにも落ち着かない、これは――――自分はドキドキしている、ということなのだろうか。
困り果てて、鼻先までお湯に浸かったまま長く息を吐き出す。
ぶくぶくぶく。泡が弾けて消えていくのを、柴田はじっと見つめていた。
自室の質素なベッドに腰掛けて煙草を吸いながら、真山は一人ではぁとため息をついた。
耳に届くのはコポコポという金魚の水槽タンクの音と、ざぁぁというシャワーの微かな音。
後者にいろいろと想像しそうになって、寸前で自分を押し止める。
何やってんだ俺、何やってんだ俺。だってあの柴田だぞ。信じらんねぇ、あぁもう!
(――――って、連れてきたのは俺だよ)
ふと冷静になって、それまでの自分の思考回路に微かに笑みが込み上げた。
信じらんねぇって、それを言うなら一番信じられないのはそう思った自分自身だ。あの柴田だぞと考えた、その柴田をそういうつもりでここに連れてきた自分自身だ。
ふぅ、と煙草の煙を吐き出す。どうやら自分は自覚している以上に重症らしい。
ここしばらくの自分の葛藤なんて、柴田は知る由もないだろうが。
……それにしても遅くねぇか、アイツ。
ふと一抹の不安が頭を過るが、いくら柴田でもこの状況で、と思い直す。
いや、もしかしたら、あの女ならあり得るか。どこでも失神する女だし。いつだったか死体発見現場で寝ていたこともあったし。
「しばたぁ?おーい柴田ー」
浴室のドアの前まで行って、声をかけてみた。応答はない。
三度目、四度目と呼び掛ける。そして五度目の呼び掛けの後に、ごぼっとむせる音とばしゃっと跳ねるような音が聞こえた。
それは真山の予想があながち間違っていなかったことを示していた。
「っは、ごほっ、ごほっ!」
「大丈夫か?」
「こほっ、え、あれっ、……あ、すいません寝てました」
……コイツ。やっぱり追い出してやろうか。
「……あのぅ、真山さん。これちょっと、スースーするんですけど」
風呂から上がってきた柴田を見て、真山は一瞬固まった。
確かに、柴田が柴田である所以でさえあるようなあの服装を変えれば、色気のなさもちょっとはどうにかなるだろうと思ってはいたが。
今柴田が身に付けているのは自分の男物のTシャツ。自分にさえ少し丈の長めなだぼっとしたデザインのものだから、柴田が着ればワンピース代わりくらいにはなるだろうという予想は外れなかった。
下着は洗うように言ったので、身に付けているのは文字通りTシャツ一枚のはずだ。それでもその状態で出てこられるところもまた、この女がこの女である所以と言っていいのかもしれない。
ともかく、そんな格好に、風呂上がりで上気した頬。濡れた髪。いつもの服を取っ払ったことで、元の良さが際立つ。
……ちょっとはどうにかなるだろう、どころの話ではなかった。予想以上だ、想定外だ。くらりとする。
しかしそんな内心を少しも態度に出さない……とまでは言わないが、少なくとも柴田に悟られるようなことはしない。してたまるか。
彩などに言わせればただの照れ隠しなのだが、それが真山という男だ。
「真山さん、聞いてますか?スースーするんです」
「別に普通だろ。お前が普段ガッチリ着込みすぎてるだけだよ」
「そうなんでしょうか」
「そうなんですよ」
果たして下着も着けていない状態が本当に普通だと言えるのかは疑問だが、柴田が納得してくれればそれでいい。
そうして真山は、とりあえず柴田を視界から外すべく身を翻す。
「あー、じゃあ俺も風呂入ってくるわ」
「あの、私はどうしたら」
「金魚でも見とけば。あ、ドライヤーそこね」
「あ、はい。ありがとうございます」
柴田の声を背に、真山は浴室へと入っていく。
ちょっと頭、冷やすか。いや、暖めるんだけど。
普段と同じように髪を適当に乾かして、柴田は真山に言われた通り水槽の前にぺたりと座り込んでいた。
床が冷たい、やっぱりスースーする。けれど自分の赤の下着はさっき干したばかりだ。だから仕方なく、真山から借りたTシャツの裾を懸命に引き伸ばしている。
どうしても落ち着かない、むしろさっきよりそわそわしてしまう。
目の前で金魚がゆったりと泳いでいるのを見て、柴田はなんとか冷静になろうと試みる。
赤い金魚。真山さんの大切な、真山さんを長い間見てきた、金魚。
真山さんのTシャツ、少し煙草の匂いがする。真山さんの部屋、やっぱり殺風景だ。
部屋の隅の望遠鏡が忘れ去られたような佇まいでいるのは、うれしい。
真山さん。真山さん。真山さん。
(……あぁ〜、だめだぁ……)
どうしても止まらない思考回路は、どうしたって真山のことに行き着く。
柴田は一人でぶんぶんと頭を振った。それでも足りなくて、じたばたともがいてみた。
こんな、こんなことなら、もっと本を読んでおくんだった。こういう状況ではどういう風にしておくべきなのか、そこはノーチェックだった。
困る。本当に困る。きっともうそろそろ、真山は上がってくるのだろう。
「おい」
律儀に水槽の前に座っている後ろ姿に、声をかける。
振り向いた柴田は普段通りで、しかしどこか神妙な顔をしていた。
そして真山の姿を目に留めて慌てたようにパッと視線を逸らす。
その反応に、ようやく意識したかと真山は思う。
「早かったですね」
「まーお前とは違うからね。ほら、男だから。男」
微妙なニュアンスを含んで言ってやれば、柴田が動揺したのが手に取るようにわかった。
それが面白くて、真山は視線を落としてから声を出さずに笑う。
そして、さてどうしようか、と考える。気は短くはない方だとだと思っていたのだが、今日はどうもそういうわけにはいかないらしい。
ヤられてる。ヤられてるよ俺。まーいいけど。
「柴田」
「は、はい。何ですか」
「ちょっと煙草取って。煙草」
ベッドの上に放ってある煙草とライターを顎で指し示した。
「……自分で取ってくださいよ」と答えるのに「何?追い出されてみる?」とおどけて返せば、柴田は何かぶつぶつ言いながらも渋々立ち上がった。
その背中に、一気に距離を詰めて。煙草に伸ばされた腕、その細い手首を掴む。
驚きに見開かれた瞳が、真山を映す。
「やっぱいいわ。自分で取る」
「……真山さん」
「何」
「あの、この手は、何なんでしょうか……」
「さぁ。何なんだろうねぇ」
目が合ったので、ん?と眉を上げて見せた。柴田がこの仕草を好ましく思っていることは何となく知っていた。
握った手首が、もはや全身が硬直しているのがわかる。面白い。最高に面白い。
だから胸の内からじわじわと湧いてくるこれは、苛虐心。
真山は手首を掴むのと逆の手で柴田の顎を持ち上げると、その唇に噛み付くようにキスをした。
柴田が驚いて身を引こうとするのを、後頭部に手を添えてそれ以上の力で引き寄せた。
口内を舐め回し、貪るようにすれば、柴田から鼻にかかったような声が漏れた。
免疫がないからか、すぐにかくんと膝が折れる。そんな柴田を受け止めるように、ベッドが待っている。
柴田がベッドに腰掛けた形になったのを、キスで翻弄しながらそのままゆっくり押し倒した。
舌を吸って、力が抜けたのを見計らって唇を移動させていく。
首筋。改めて見ると、病的に白い。つーっと舌を這わせて、耳朶をやんわりと噛めば、柴田がびくりと震える。へぇ、耳ね。
「……やっちゃうよ?」
Tシャツの裾に手をかけたところで、言外にいいのかと尋ねた。
ぎゅっと目を閉じていた柴田は恐る恐る目を開いて真山を見る。
短い沈黙。やがて柴田が、小さな声で言う。
「……真山さんは、」
「ん?」
「私のこと、愛してるんですか?」
「……は?」
「これは、純愛ですか?」
至極真剣な柴田に、真山は返す言葉を失った。
それはこの行為がいい加減な気持ちによるものだからというわけではなく、正直に答えるとどうやっても恥ずかしいことになると思ったからで。
そんな真山を、柴田はじっと見つめていた。祈るような気持ちだった。
入浴中に真山は自分のタイプではないと考えたことなど、もはやどこかに消し飛んでしまっている。
ただ、目の前のこのひとが、今の自分と同じ気持ちでいてくれたらいいと。
「……冗談でお前に手出すとかね、怖くてできねぇよ」
「怖い?」
「だってお前呪いそうだもん。実は出来るだろ?」
「……ひどい。私真剣なのに」
「俺も真剣だよ」
「……これが冗談だったら、ほんとに呪いますよ?」
「へぇ。じゃあ俺は、大丈夫だ」
真山なりの極限の迂回路だったが、柴田にはその意味が通じた。
固かったその表情が、ふわりと和らぐ。そうしてふふっと微笑う。穏やかに、うれしそうに。
「それなら、いいです」
本当に、うれしそうに微笑うから。自分の言葉で、そんな風に微笑うから。
馬鹿だねお前、と思う。その裏にあるのはもちろん侮蔑ではなく、いとおしさで。
真山はそのことに気付いているから、いや馬鹿は俺か、とも思う。
……結局は何でもいい。もう思考など必要なくなるのだから。
「……じゃあ、遠慮なく」
Tシャツ一枚というのは、それを捲り上げれば済むので非常に楽だ。
柴田はその事実を忘れており、捲られた瞬間に小さく声を上げたが、真山はそれに構わず胸の頂を口に含んだ。
もう片方の胸は、手全体でやわやわと捏ね回す。
そのうちに手のひらに固い感触を感じるようになり、真山がそこを指できゅっと摘まむと、柴田が甘い声を上げた。
「……柴田。口押さえるんじゃないよ」
「だっ、て……今なんか、変な声が」
「普通だよ普通。気持ちいい時に出んの。な」
「……あぁ、今のが喘ぎ声か。勝手に出るものなんですね……なるほど」
真山はため息をつきたくなったが、考えないことにして行為を再開する。
柴田の肌はどこもかしこも白く、滑らかだった。
手を這わせているだけで気持ちいい。どこか倒錯的でもある。
吸い寄せられるようにして、真山は片手で柴田の身体のラインをたどりながら、もう片方の手と舌で胸を執拗に愛撫する。
だんだんと柴田の息が上がってくる。その様子を見て、真山は小さく笑う。
その気配に、柴田は羞恥でいっぱいになった。しかしそれも、すぐに吹き飛んだ。
何、これ。何も考えられない。熱い。
真山さん、真山さん。
嬌声混じりに何度も呼びながら、柴田はただ没頭していくだけだ。
真山の指が足の付け根に触れたとき、柴田は跳び上がった。
「ま、真山さん、やっ……」
「や、じゃねぇよ」
くちゅ。入り口を探ると聞こえた音に、柴田はひっと声を上げる。
真山はゆっくりゆっくりと、中指を沈めていった。控えめに動かしていたのを、徐々に掻き回す動きに変えていく。引っ掻くようにしてやれば、柴田がビクビクと震えた。
濡れた音が大きくなる。わざと大きくなるなるように、二本に増えた真山の指が柴田の中を蹂躙する。
柴田はもはや、声を上げ続けるしかできない。体も完全にくったりとしている。
やがて真山が指を抜いた。
「柴田ー力抜いとけよー」
「んん……? っ、あ!?」
ゆっくりとだが、真山の先端が柴田の中に挿入された。
突然のことに、柴田の体が一気に緊張する。
真山は増した抵抗感に、そしてそれすら刺激に繋がることに眉を寄せた。
「柴田、力抜けって」
「む、無理です」
「深呼吸してみろ。ほら」
そう促すも、呼吸音が完全にひきつっている。
目を見開いて、ひい、ひいと苦しげに息をする柴田に、真山は思わず苦笑した。
まぁ、予想していなくもなかったが。
「お前さ、本読んでんだろ」
「ほ、本……?」
「こういうときのための本。カバンに入ってんじゃん」
「……!!覗き見たんですか!?」
「はぁ!?何で俺がお前のカバンに覗くんだよ、お前がいつもカバンの中身ポイポイ散らかすんだろーがこの馬鹿!」
思わずいつものようにべしっと叩くと、すいません、と柴田が小さくなった。
それでリラックスしたのか、身体の力が抜けたので、真山はすかさず腰を沈めた。
「あっ、まやまさ、」
「大丈夫だから」
そう言って、口付けて。柴田の意識をこっちに向けさせるように、舌を絡める。
柴田の身体が徐々に弛緩していく。口付けたままで、真山は更に深くまで侵入する。
中の熱に、浮かされるように。柴田を酔わせるように。深く、深く。
ひたすらに流されて、呑まれて、もう何がなんだかわからない。
自分の上げる声はもはや泣き声のようになってしまっているが、止めることができない。
痛みはなくなった。熱い。何これ。もう何もわからない。
ただ真山を求めて手を伸ばして、その背中にぎゅうとしがみついて、与えられる振動にされるがままに身を委ねる。
真山さん。真山さん。声になっているかはわからないが、何度も何度も、呼ぶ。
「あっ、あ、あ、んっ」
規則的な柴田の嬌声を耳にしながら、真山も小さく呻き声を上げた。
そろそろか、と腰の動きを速める。
すっかり官能の色に染まっている柴田の様子を窺いながら、登り詰めていく。
そうしてやがて、柴田が一際高い声を上げて。その締め付けに、真山も果てた。
真山がはぁはぁと荒い呼吸を整えようと努めながら柴田を見ると、柴田はそのまま眠りに落ちていた。
あぁ、こういうのが柴田だ。
そう思って少し笑ってから、汗ばんだ柴田の頭を一撫ですると、真山もその隣に身体を横たえたのだった。
「……真山さん?」
「ん」
「くっついてもいいですか?」
「どーぞ」
そう答えれば、布団の中で柴田がひかえめに胸に摺り寄ってくる。
単純に触れ合う面積が増えて、温もりが増して。
それに不意に安心感を覚えた自分に、真山は内心驚いた。
こんな風に感じる相手は、今までにいただろうか。過去にはあまり興味がないので、よく思い出せないけれど。
自分はこの女の隣で安らかな眠りを知るのかと、そんな予感がした。
「真山さん」
「何」
「……手、繋いでもいいですか?」
「……ん。ほら」
普段ならかわしているところかもしれなかったが、思いがけない安らぎが、真山の手を動かした。
指と指を絡めて、ぎゅうと握ってやる。柴田が、安心します、と言って小さく微笑ったので、真山は更に手に力を込める。
この手を離すまいと、そう思ったのは魔が差したからだと自分に言い訳をしつつも。
「真山さん」
「何、まだ何かあんの?」
「はい。……素敵ですね、こういうの。知らなかったです」
微笑みを浮かべたまま、しかし真剣な口調で柴田が言い放った言葉に、真山は笑った。
何で笑うんですか、という抗議の声が聞こえたが、それでも笑みは収まらなかった。
可笑しいのか、楽しいのか。はたまたうれしいのか、真山はその理由を敢えて考えようとはしなかった。
そして、柴田も。顔をくしゃくしゃにして笑う、その時の真山がとてもいとしくて、そのことをいつか伝えよう、と思った。
そうして二人はまた、眠りに落ちていく。