「ねぇ、何やってんのお前。人んちで。何やってんの?ねぇ」  
 
部屋着の黒いスウェットの下だけを履いて、タオルでわしゃわしゃと髪の毛の水気をきりながら風呂場から出てきた真山は、しかし一番に目に入った光景に風呂で幾分和んだ気分が霧散していくのを感じた。  
普段なら茶色いフローリングが剥き出しになっているはずの床は、辺り一面に散らばった白い紙で覆われている。  
それは確認するまでもなく、本来なら自分の職場であるあの地下の薄暗い部屋の本棚にあるはずの調書だろう。  
そして、その白の海の真ん中にのそりとうずくまる茶色い物体。  
人の部屋に勝手にこの調書の海を作り上げた張本人である、嫌になるほどに見慣れたコートを羽織ったままに丸めた背中をこちらに向ける、女。  
 
非常に不本意ながらも自分の上司であるその女は、先程の自分の問いに反応することなく、ひたすらに調書に没頭している。  
時折ぶつぶつと呟くような独り言が聞こえるのは慣れたことだったが、だからこそ真山は頭を抱えたい気分になった。  
慣れてしまっている、自分は。確実に、この女がこの空間に居ることに。  
呼び掛けて返事がないことなど、もはや当たり前のことすぎて「範疇のうち」といった言葉を使う気にすらならない。  
浸食されている。いつの間にか、驚くほど深くまで。  
 
そう今さらのように自覚して、小さく自嘲めいた笑みが浮かぶ。  
……そうは言っても、生活空間を乗っ取られて許せる心の広さは、自分にはない。  
 
「しーばーたぁ?」  
 
調書を躊躇いなく踏み越えて柴田の傍らにしゃがんでから、その頭を思い切り叩いてやる。  
 
「いたっ、いったーい!……あれ、真山さん。いつの間にお風呂上がったんですか」  
「うん結構前にね。呼んだよね、俺呼んだよね?聞けよ」  
「え、すいません気付きませんでした」  
「ばか。何、この耳飾り?ん?」  
「やっ、引っ張んないでくださいー!真山さん乱暴です!」  
 
高い声で喚くので、もう一発叩く。  
柴田は少し涙目で、「うぅ……」と唸りながら真山を睨み付けた。  
もっとも眉の下がったその表情に、迫力は少しもなかったが。  
 
「で、もう一回訊くけど?お前は人んちで何やってんの」  
「何って……見てわかるじゃないですか、仕事ですよ」  
「うん。熱心だねぇいいことだ。でも何で俺んちなの、勝手に占領してんじゃねーよ!」  
 
べしっ。三度目の、軽快な音。  
叩かれた頭を押さえながら「だってもう少しで犯人わかりそうなんですよ〜……」とべそをかく柴田を見て、真山は数十分前の自分の行動を心底後悔していた。  
放っておいたらいつまでもいつまでもドアを叩きそうな柴田を、近所迷惑だからと嫌々ながら部屋に入れたのは自分だ。  
別に壊れて困るような近所付き合いもしていないけれど、隣人に怪訝な目で見られたりするといくら真山でも暮らしにくい。  
そう、根負けしたのは自分なのだ。けれど、だからって、あぁもう!  
 
「そんなの自分ちでやりゃあいいじゃん。な」  
「でも、真山さんが言ったんですよ。今日お風呂入らなかったら、明日私と捜査に行かないって」  
「そりゃそーだよ。お前と並んで歩いて、一緒にされたりしたらやだもん俺」  
「でも、捜査には来てもらわないと困ります。仕事ですから」  
「だから風呂入れよ」  
「はい、だから来ました」  
「……え?おま、お前、もしかしてここで風呂入るつもり?」  
「……えへ」  
 
ばしっっ。五度目。  
 
「いったーい!!叩かなくてもいいじゃないですか!!」  
「何で俺んちなんだよ!自分ちで入れよ!!」  
「だって、帰ったら多分寝ちゃうから〜……」  
「何だよそれ!何だよそれ!そんな理由で俺は部屋占領されてんの!?」  
「いった、も、いたいです!」  
「うっせ黙ればか!」  
「馬鹿じゃありません!真山さん失礼です、年頃の女性を叩いたりとか馬鹿だとか、」  
「年頃?女性?あのね、お前みたいなのをそうくくったら世の女性たちに失礼だよ」  
「ひっどーい!私どこからどう見ても女です!生物学上間違いなく女です!」  
「はいはい」  
「……ひどい。最初に連れ込んだの真山さんのくせに。風呂入れってお風呂場に押し込んだのも真山さんのくせに。もういいです、真山さんのエロ親父ー!」  
「…………誰が、エロ親父だって?」  
 
そう言った真山からそれまでと違う空気を感じ取って、柴田は思わず怯んだ。  
そして真山の目を見てしまって、それが今更ながら結構な至近距離だったから、逃げるタイミングを逸したと思った。  
床にぺたりと座る自分。その傍らにしゃがみこみ、自分を射抜いている真山。二人の周りを囲むように散らばった白。  
……立ち上がるなら、今だったのに。  
 
「そんなに言うなら、ねぇ」  
 
その後頭部にスッと手を伸ばせば、柴田はピクリと体をすくませる。  
あからさまな反応に、真山はクッと笑う。  
確かにそうだ、一番最初にそういうつもりで柴田をここに連れてきたのは自分だ。風呂に入らせたのも、触れたのも、自分だ。  
そしてそれが事前に自分の衝動を頭でさんざん否定した末に出た結果であり、並みの覚悟によるものではなかったというのだから、やっぱり自分は呪われているのかもしれない。  
この女と向き合う、のは。興味本意や片手間なんかで、出来ることではない。  
 
……もう知るか。いっそのこと、イカれるとこまでイカれちまえ。  
真山の指が、柴田の髪に差し入れられる。  
 
「試してみる?」  
 
「ん?」と目だけで問われて、柴田は固まる。  
普段なら働きすぎるほどの思考回路も、こういうときの真山の瞳を目の前にすると、ショートしてしまったように使い物にならなくなる。だから戸惑って、ますます動けない。  
そういえば真山さん、上半身裸だ。固まりすぎてむしろいやに冷静な自分はきっとおかしい。  
ただ真山の瞳を見つめる。強くて吸い込まれそうだと思うのは錯覚か、或いは。  
そうして「あぁ、あんなこと言わなければよかった」とぼんやり考えながら、口の端を引き上げた真山がゆっくりと近付いてくるのを二つの眼球に映した。  
 
そっと、唇が触れた。そのままじっと押し付ける。やがて真山の唇が柴田のそれを啄んで、ぺろりと、舐める。  
多分無意識にだろう、徐々にうっすらと開いていく柴田の唇、その隙を真山は逃さない。意識をすべて持っていってやろうとばかりに深く侵入する。  
ん、と柴田から漏れる曖昧な声に、後頭部を緩く引き寄せた手でボサボサの髪をかき撫ぜた。  
 
触れたら最後だ、決定的にわかってしまう。この髪の感覚ですら、自分は渇望していたのだということ。  
よりにもよって、何故この女なのか。知るか。しっくりくるものはしっくりくるのだからもう仕方がないのだ。  
ついでに手離す気もない。結局はそういうこと。  
 
「や、……まやまさ、」  
「何」  
「ちょ、調書、踏んでます。シワになっちゃ、ぁ、」  
「うるさい女だねぇ」  
 
言いながら、片手で辺りの調書を払い除けて、そのまま柴田をじわじわと床に倒す。  
ごわごわしたコートを着っぱなしなのだから、背中は痛くはないだろう。  
口付けながら手探りでコートの前を開くと、手に触れた感触はこれまたいつもと同じカーデガンとブラウス。  
まったく、色気のねぇ。見ないままで脱がせてしまった方がいいだろうか。  
 
「ま、やま……さ、」  
「何」  
「まや……んっ、ま、さ、」  
 
弱い耳をなぶる間も、柴田は自分の名前を呼ぶ。馬鹿のひとつ覚えみたいに何度も何度も。  
犬みてぇ、そう思って真山は鎖骨をなぞる手を止めないまま、もう片方の手で柴田の髪を撫でる。  
その手がすきだと、柴田は思う。  
 
そうして目を閉じる。その手のひらの温もりを、風呂上がりだというのに少しかさついた唇を、与えられる感覚すべてを、ひとつとして溢さないように。  
薄暗い部屋の中で二人の影が重なって、自分の奥からわけがわからない波がじわじわと押し寄せ始める。  
そんなときに柴田は思う。私の未来の旦那様。まだ見ぬそのひとを、きっと私は“愛する”けれど、それは今目の前に居るこのひとよりも“大切”だろうか。  
例えばいなくなったら自分がボコボコの穴だらけになってしまいそうだと、そんな風に、思うのだろうか。  
わからない。愛は本の上では知っているけれど、この身には未知だ。  
……それとも自分はもう愛を知っているのかもしれない、今この瞬間に手を伸ばせば触れられるそれがそうなのかもと、柴田がそこまでたどり着こうとする頃に大きな波が思考を飲み込むので、結局いつも答えは出なくて。  
 
ただ、ずっとこのひとの側にいたいと想うだけで。  
 
「や、あっ」  
 
真山の舌が胸の頂きを転がす。柴田の喉が反る。  
最初は慣れない柴田を思ってかその行為はソフトだが、柴田の口から声が漏れ出るようになると、だんだんとねちっこくなる。  
舐めて、避けて、辿って、甘噛み。柴田がビクンと震える。  
それを見た真山は少し笑って、再び柴田の唇を塞いだ。  
 
「んぅ……んん」  
「柴田。舌。舌出して」  
「んー……?」  
 
あぁホラ、やっぱり犬だ。自分の言葉にそのまま従う柴田の姿に、真山は思わず笑んでしまう。  
それは多分自覚している以上に、感情の滲み出たものとなって。  
うっすらと瞳を開いた柴田は、視界に入ったその表情に、ふっと泣きそうだと思った。  
顔中に皺を寄せた笑顔。やさしい顔。これを見るとき、いつも、胸がぎゅうっとなる。  
それがどういうことなのか、柴田は上手く言葉にできないけれど。  
 
それ以上は何も考えられずに、ひたすらに心地よくてむず痒い波にたゆたいながら、柴田は無意識に真山の首に腕を回していた。  
すると真山が素直に降りてくる。そのまま髪に鼻先を埋められて、少しこそばゆいと思う。  
思って。  
 
――――唐突に、真山の動きがピタリと止まった。  
 
「……真山さん?」  
 
柴田が不思議に思って呼ぶ。  
柴田の頭に顔を埋めて停止したままの真山は、今まさに、戦っていた。  
失敗した、どうして忘れてたんだよばかじゃねぇの俺。  
自分の欲望と、人間としての尊厳との間で、板挟みにあう。  
……けれど、今なら。努めてどうにか辛うじて、我慢できないことも、ない。よし。まだ間に合う。  
 
「……柴田」  
「はい?」  
「お前、風呂入ってこい」  
「……え?今からですか?」  
「そーだよ、だって頭臭ぇもんお前」  
「え、でも、こんな状態で私、」  
「駄目。このまま続けたら俺人として大事なモンを失いそうな気がする」  
「え、えぇ?なんですかそれ」  
「いいから行け。な。そもそもお前ここに風呂入りに来たんだろ?」  
「それはそうですけど、」  
「上がってきたらまた、ゆっくり試してやるから」  
「何をですか」  
「ん?俺がエロ親父かどうか」  
「っ、いいです試さなくて!と言うか真山さん、私このままお風呂なんて本当に無理で」  
「じゃあ念のため訊くけど、最後に風呂入ったのいつ?」  
「……ええと、昨日……はちょっと忙しくて。一昨日?いや、まだ」  
「いい。やっぱ言うな何も言うな」  
「え、真山さんが訊いたのに」  
「あーもー!ごちゃごちゃうるせぇよ!早く行けよ!で、10分で上がってこい!」  
「え、む、無茶ですー!」  
 
そうして、きゃーきゃーと喚く柴田を風呂場に押し込んで。  
真山はひとり、やっぱり頭を抱えたくなるのだった。  
 
 
 

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