外の様子を窺おうとして、菊子はそっと肩を動かした。
伝い落ちた涙が襟元を濡らしていた。涙はもう止まっているようだった。
門の開く音はしなかった。里子の泣声とテルの吠える声とで掻き消されたのかもしれなかった。
「菊子。」と信吾は再び呼んだ。
菊子は玄関の方に向けた体を信吾の方に向き直した。慈童の黒い瞳が揺らめいて見えた。
信吾は手を伸ばして、菊子の濡れた喉を拭いとった。湿った肌が掌の肉にやわらかく吸い付いた。
「お父さま……。」
菊子が悲痛な声でつぶやいた。思わず耳を塞ぎたくなるような、かなしい声だった。
艶かしくほほえむ少年の面が、ふと泣いているように見えてきて、信吾はそれを取り去った。
菊子の美しい泣顔が信吾の顔を見つめていた。紅の取れかかった唇が薄く開いていた。
ふいに信吾の老眼にその唇が迫ってきた。迫ってきたと気づいた時には触れていた。
驚いて顔を離すと、菊子は赤く腫らした目ぶたを閉じて、じっとしていた。
急に動悸が早くなるのを感じて、信吾は胸をおさえた。体をやぶって、周囲に響きそうなくらい、激しい音だった。
テルはもう静かになっていて、里子の泣声も落ち着いていたので、余計にそう思われた。
その事を菊子悟られまいとして、信吾はシャツの上から左の乳をかいた。本当にかゆくなってきたような気もした。
黒百合の女の匂いが鼻をかすめた。先程よりも生臭く感じられた。
邪恋につかまったかと信吾は思った。
「お乳がかゆいんですの?お母さまに聞きましたわ。」
いつの間に目を開いていた菊子が平然と言った。