あの大火事の後、長崎からどうにか逃げ出した正二郎とアンジェリーナは、九州から抜け出して、伊勢の旅籠に居た。  
「ここまで来れば急いで他所に移る必要もないじゃろ」  
正二郎は担いでいた荷を部屋の隅に下ろすと、心配事も一緒に下ろしたかのようにそう言った。  
正二郎が心身ともに鍛えている人間であることは、この十日ばかりの旅の間に、いやあの大火事の一件で十分に分かっていた。  
けれど、そんな正二郎でも異人を探す長崎奉行所の目を逃れて行動したことはさすがに堪えたらしく、横顔には僅かではあったが疲労の色が浮かんでいた。  
「ごめんなさい……。私が姿を晒したばっかりに……」  
「なにを言うとるか。異人に対して門戸が狭すぎるこん国がどうかしとるんじゃ。  
おまえが気にするこつじゃなか」  
アンジェリーナの俯き加減の謝罪に、正二郎は笑ってそう応じた。  
正二郎の笑顔はこの短い間に、幾度となくアンジェリーナの心を和らげてきたが、アンジェリーナの胸はそれと同時にいつでも痛みを覚えていた。  
とは言っても、苦痛を伴った痛みではない。  
淡く心地の良い痛み。  
胸の奥のとくとくというリズムが強くなって、胸が痛くなる。  
悲しいわけでもないのに、何故だか涙が滲む時のように目頭がじんとする。  
「……はい」  
アンジェリーナは、自分でも染まったと意識できるほどに火照った頬を、正二郎から隠すために頷いて下を向いた。  
 
「しかし、いつまでもこう、あちこちうろつく訳にもいかんのう」  
髪の色を落とし、目から色硝子を外し、布団を敷き終えると、正二郎はその上に座って、腕を組み首を捻った。  
「江戸が一番いいんじゃろうが……ちと、遠いのう……」  
「すみません。私が無一文で……」  
アンジェリーナがまた俯きかけると正二郎が大きな手をかざしてそれを遮った。  
「あーあーあー。そんなことは関係なかたい。  
二人で江戸まで行く分くらい、わしの持っちょぉ金でどうにか足りるばい。ただのう……」  
正二郎はそこまで言うと、言葉を濁してまた首を捻った。  
「ただ、なんでしょう?私にできることならなんでも言って下さい」  
アンジェリーナは身体を乗り出して、正二郎の横顔をじっと見つめると、正二郎は指で顎を掻きながら、天井の方へと視線を移し、  
「ただのう……そうすると祝言を挙げるんが遅うなってしまうと思うてなあ……」  
と、呟いた。  
「しゅう、げん……」  
まるで辞書を使ってでもいるかのように、アンジェリーナはその言葉を反復し、頭の中からその意味を探し出した。  
「なんじゃ。どうした?」  
「あの、祝言というのは……」  
アンジェリーナはこちらに視線を戻した正二郎の方に身を乗り出した。  
祝言というのは、自分の故郷でいうところの結婚式だ。  
アンジェリーナの頭には遠い昔に見た、質素ではあるけれどいつもより着飾り、夫となる男の隣で幸せそうに微笑んでいる娘たちの姿や、それを祝う村の人々の姿が次々と浮かんできていた。  
幼い頃に抱いた花嫁への憧れ、誰かと連れ添うことへの憧れ、正二郎と出会う前に出会った男たちにそれを期待し裏切られ、そんな憧れを打ち消すかのように遊女に納まった。  
そうした様々な出来事と感情が一度にアンジェリーナに押し寄せた。  
 
そんなアンジェリーナの胸中に気づかないのか、言葉を切ってしまったアンジェリーナに正二郎は告げた。  
「これから連れ添うて行くんじゃ。そのくらいはせんといかんじゃろ」  
「…………」  
「アンジェリーナ?」  
「あっ!は、はいっ!」  
不意に正二郎の顔が目の前に現れ、少し過去へと迷い込んでいた意識が呼び戻され、アンジェリーナは思わず頓狂な声を上げた。  
「どげんしたと?」  
「あ、あの……本当に?……祝言を?」  
自分の目を覗き込んでくる目を見つめ返している筈なのに、焦点をうまく合わせられないまま、アンジェリーナは口を動かした。  
正二郎が眉根を寄せた。  
「今更なにを言うとるか」  
「いえ、あの……。祝言を……挙げて……下さるのですか?」  
寄っていた眉が今度は八の字のように下がる。  
「当たり前じゃろうが。人に隠すような仲ならともかく、これからずっと一緒におるというのに、祝言の一つも挙げんでどぎゃんすると」  
「…………」  
この男に会ってからまだ一月も経っていないというのに、嬉しさで一体どれだけ言葉を失っただろうか。  
嬉しいと、ありがとうと言いたいのに言葉が出せなくて、アンジェリーナは呆けたようにただ目の前にある正二郎の顔をじっと見つめた。  
「あ、アンジェリーナ?外国では、おまえのおった国ではそういうことはせんかったとか?」  
「いいえ……いいえ、私のいた村でも結婚式は、この国で言う祝言はありました。でも、でも……」  
「でも?」  
正二郎が今度は不安そうな顔をする。  
どうしてこの男はこんなに表情がくるくると変わるんだろう。  
それに合わせて自分の表情も変わっていることに気づかずに、アンジェリーナは微笑んだ。  
「でも、自分が誰かとそんなことを出来るなんて、思っていなかった。忘れていたんです。だから、……嬉しくて」  
そこまで言って声を詰まらせると、正二郎は優しく微笑みかけてくれた。  
肩に大きな手がぽん、と乗る。  
「そうか。なら、なおのこと、早うせんとな」  
「ありがとう、ございます」  
そう言った瞬間、目の前の正二郎が涙で滲んで見えなくなった。  
 
「おまえは本当によう泣くのう」  
ようやく涙が流れなくなったアンジェリーナの目じりに指で触れながら、正二郎が言った。  
自分でもそう思う。  
しかし、嬉しくて涙が出るなどということは、もうずっとなかった。  
悲しくて、怖くて、苦しくて涙を流すことはあっても、嬉しくて泣くなどということはずっとなかった。  
いや、むしろ正二郎に会って初めて知ったことかもしれない。  
「でも、これはあなたのせいなんですよ」  
大きな手に自分の手を添え、頬を預けてアンジェリーナは言った。  
「わ、わしには泣かせるつもりはないんだがのう」  
今度は困ったような顔になる。  
本当に表情の豊かな男だ。  
思わずふふ、と笑うと、正二郎はなんじゃ、とでも言いそうに口を尖らせた。  
「あなたは、表情が豊かなのですね」  
その口元に思わず伸ばしたくなる手をどうにか自分の膝の上に押し留めて、アンジェリーナは言った。  
「そうかのう……」  
「ええ」  
「ばってん、そういうおまえの顔もよう変わってるけん。お互い様じゃ」  
正二郎がアンジェリーナの大好きな笑顔を作った。  
胸の鼓動が早くなる。  
「あなたの……おかげです」  
「そうか?」  
「はい」  
「……すまんかったな」  
半ば夢心地で応じていたアンジェリーナは、予想しなかった言葉に正二郎を見つめ返した。  
 
「なにが、ですか?」  
「事情を知らんかったとは言え、わしはおまえに『人形のような笑い顔だ』と言うてしもうた」  
アンジェリーナは、そう言った正二郎が引こうとした手を強く握り締めた。  
「いいのです。そんな……あの時の私は……だから、謝らないで」  
これ以上何か言ったら、また泣いてしまいそうで、アンジェリーナは唇を噛み締め、俯いて、強く首を左右に振った。  
「ばってん」  
それでも続けそうになる正二郎だったが、アンジェリーナは顔を上げるととっさに指先で、その唇を遮っていた。  
「いいのです。だから、もう……」  
どうにか声を絞り出すと、正二郎の瞳は分かった、と言うように優しくなった。  
そして、アンジェリーナは自分が正二郎の唇に触れていることに今更気づいて、また胸の鼓動を早めた。  
指ではなくて、唇で触れあいたい。  
けれど、自分からそんな事をしたら正二郎はどう思うだろう?  
胸に一抹の不安がよぎったけれど、次の瞬間アンジェリーナは自分から身を寄せていた。  
「正二郎……。これは、私の国の……伝え方なのです。愛しい人へ想いを伝える……」  
「アンジェリーナ?」  
指の下で正二郎の唇が動いた。  
寄せられる顔に、正二郎の顔が本能的に僅かに引いている。  
「目を……閉じて」  
「う、うむ……」  
正二郎が目をぎゅっと閉じた。  
頬にあった手が硬直しているのが伝わってくる。  
アンジェリーナはその手を再度握りしめ、唇に添えてあった指を顎へと落とし、そっと、ほんの一瞬、自分の唇を押し当てた。  
ゆっくりと顔を引き、それに合わせて目を開いていくと、正二郎はまだ目も口も固く閉じたまま、その場で硬直していた。  
 
「正二郎?」  
しばらく待っても一向に目を開ける気配がない上に正二郎の顔が次第に赤くなっていくので、アンジェリーナは声をかけてみた。  
「ん?」  
「あの……もう、目を開けても……」  
「ん……んむ」  
正二郎は片目ずつゆっくりと目を開けると、ぷはっと息を吐き出した。  
どうやら、予想していた通り息を止めていたらしい。  
畳に両手を付いて喘いでいる正二郎の肩に、アンジェリーナは手をかけて顔を覗き込んだ。  
「だ、大丈夫?」  
「だ、大丈夫じゃ……。ば、ば、ば、ば、ばってん……」  
赤い顔をこちらに向けて、正二郎は口篭った。  
「……はい」  
なんだか、まずいことをしでかしてしまった子供のような気持ちになる。  
「お、おまえ。くくくく唇を付けんかったか?」  
「はい……」  
「おおお、おまえの国ではそっ、そぎゃんすっとか」  
「は、はい」  
正二郎は真っ赤な顔で口を結ぶと、視線を右へと向けた。  
それから、しばらくすると今度は左上を睨みつけた。  
怒っているわけではなさそうだが、苦悶している様子が伝わってきて、アンジェリーナは口を開く隙を見つけられず、そんな正二郎を不安交じりに見つめているしかなかった。  
 
更にしばらくすると、正二郎の視線がようやくこちらに戻ってきた。  
「あの……」  
アンジェリーナが口を開くと、正二郎は破顔して、  
「異国では不思議なことをするんじゃのう」  
と言った。  
アンジェリーナはその笑顔に一瞬見惚れた。  
そして改めて思った。  
自分はこの男に心を奪われたのだと。  
共に歩いてもらうために、心を捧げてきた今までの男たちとはまるで違う。  
気がついた時にはこの男の笑顔をもっと見たいと思い、そのためなら、たとえ一人で永遠の時を歩くことになっても構わないとさえ思っていた。  
それなのに、その笑顔が目の前にある。  
口では言い表せない幸福感を伝えるすべをアンジェリーナは他に思いつくことが出来なかったのだ。  
「ですが、これが一番、気持ちを伝えられる気がしたのです」  
アンジェリーナがそう言って顔をほころばせると、正二郎ははにかんで鼻の頭を掻いた。  
そして正二郎は、少し間を置いて、  
「い、今んはー……、おなごが男にするもんなんか?」  
と尋ねてきた。  
見えない故郷を見ようとでもしているかのように、アンジェリーナが部屋の壁の方へと視線を向け、  
「いえ、どちらかと言ったら、男性からかもしれませんが……親子でも、友人同士でもしますし」  
と答えると、正二郎は目を丸くして、身を乗り出してきた。  
「親とそぎゃんすっとか!」  
「はっ、はい!あ、でも、ほっぺたとかに……」  
「なるほど……奥が深いんじゃのう」  
今度は腕を組んで座りなおし、薬の話をしている時のような表情になった正二郎を見ているうちに、アンジェリーナはまた唇を寄せたいと思ってしまった。  
さっきよりほんの少しだけ深く、唇の隙間を塞ぐような口づけをしたら、この人はどう思うんだろう。  
そんなことを考えていると、正二郎がなぜか睨むようにこちらを見てきた。  
 
「しょ、正二郎……?」  
見透かされたのかと思い、それを誤魔化すかのように首を傾げると、正二郎の顔が目の前にぐいと寄ってきた。  
「ちうことは、じゃ、……わっ、わっ、わしからしても、いい、ちゅうことじゃな?」  
目の前で自分を睨んでいる顔が真っ赤になる。  
自分もきっと真っ赤になっている、と思えるほどアンジェリーナは顔が熱くなるのを感じた。  
「……はい」  
やっとの思いで頷くと、正二郎の大きな手に両肩が掴まれた。  
「目ぇば、瞑っといてくれんか」  
アンジェリーナは正二郎に微笑みかけると、黙って目を閉じた。  
期待と恥ずかしさと嬉しさが混ざり合って、頭がくらくらしている。  
全ての神経が正二郎の方に向いているのが自分でもよく分かった。  
しかし、いつまで待っても、唇に何かが触れた感触が伝わってこない。  
顔の前には気配が感じられるのに、それがそれ以上こちらに来る様子がなくて、アンジェリーナは正二郎に気づかれないように僅かに瞼を持ち上げて、思わず小さく吹き出してしまった。  
「なっ……なんじゃぁ」  
「ご、ごめんなさい」  
確かに笑ったのは失礼だったかもしれないが、目の前に蛸のように真っ赤になって唇を突き出した顔があったのでは笑ってしまう。  
アンジェリーナは笑いを押し込めるように口を抑えてみたが、震える肩を止めるのは難しかった。  
「そ、そぎゃん、おかしか顔ばしとったか?」  
ふてくされてそっぽを向いてしまった正二郎の腕にそっと手を添えて、アンジェリーナは身体を伸ばし、そっと頬に口付けた。  
「ごめんなさい」  
「も、もうよか」  
正二郎はそう言うと、アンジェリーナの手を握り、心を決めたようにきっちりと真一文字に口を結んで顔を寄せてきた。  
 
頬に鼻頭が触れ、唇が触れた。  
「…………」  
「こ、これでよかか?」  
こくん、と一つ頷きはしたものの、アンジェリーナはまた言葉を失ってしまった。  
唇が触れた場所に指を添え、視線を上げると正二郎の不安そうな顔が目に入ってきた。  
「……アンジェリーナ?どぎゃん……」  
どう答えていいか分からず、ただ首を左右に振る。  
ただ頬が熱くて熱くて、そこから身体が溶けてしまいそうだった。  
何も言えないまま正二郎の手を握り締めると、正二郎がその手を握り返してきた。  
「……今度はこっちじゃ」  
反対側の頬に、また唇が触れた。  
先ほどよりは自然に、少しだけ強く。  
「異国では……当たり前なんが、分かる気がすっと」  
正二郎はアンジェリーナの目の前で笑うと、また頬に、今度は少しだけ唇に近づいた位置に唇を落とした。  
そして、頬のいたる所に、顎に、ゆっくりと口づけを繰り返した。  
夢の中にでもいるような心地になってきて、アンジェリーナが自然と目を瞑ったその刹那、唇に何かが触れてすぐに離れていった。  
眠りの淵で起こされたときのように目を開くと、正二郎は顔を赤くしながらも、笑顔でこちらを見つめてくれていた。  
「やっぱり、あなたの笑顔がとても好き」  
正二郎の頬に手を伸ばし、そう告げると、正二郎は繋いでいた手をぐいと引いて、  
「わしもおまえの笑った顔が好きじゃ」  
と、再び唇を寄せてきた。  
三度唇が触れ合うと、アンジェリーナは今度は離れて行ってしまわないように、少し顔を傾けて自分からも更に唇を押し付けた。  
不安定な身体を支えようと、正二郎の頬に置いていた手を肩に落とすと、正二郎にぐい、と腰を抱かれた。  
「あっ……」  
正二郎の膝に乗った弾みと身体を引かれた驚きで、声を発した唇をまた塞がれる。  
ただ抱きしめ合っているだけなのに、触れている唇から、腕を廻されている背中から、身体の中心へと熱いものが流れていくのをアンジェリーナは感じ始めていた。  
 
「ふ、……っぅ……」  
どのくらい経っただろうか。  
背中を強く抱いていた正二郎の腕から力が抜けて、顔が離れた。  
息を吸い込んだせいで唇が冷えて、そこが濡れているのが感じられた。  
ふわふわとした感じと正二郎の腕に身を任せていると、不意に唇を拭われた。  
「んっ……」  
「す、すまん。よ、よだれの付けてしまったと」  
着物に親指をなすりつけようとした手を捕らえて、アンジェリーナは首を振った。  
「いいの……いいのです」  
そして、自分の唇を拭った太い親指を自分の方に引き寄せ、その腹にそっと唇を付けた。  
「う……」  
詰まった声のした方を向くと、正二郎は赤い顔を硬直させていた。  
そんな表情さえ愛おしくてたまらない。  
夢ならば永遠に覚めないでほしい。  
そんなことを思って、アンジェリーナは正二郎の肩に頬を乗せ、身体を預けた。  
すると正二郎がもぞり、と動いた。  
「……あの、私、重たかったですか?」  
思わず不安になって正二郎の方を見上げると、正二郎は困ったというふうに顔をしかめていた。  
「そぎゃんこつは……、まったくなか。ばってん……」  
「ばってん?」  
「あんまり、くっつくんは……」  
「あっ……ご、ごめんなさい。あの、つい……」  
アンジェリーナが慌てて正二郎の膝から降りようとすると、正二郎がそれを止めた。  
「や、その……嫌という訳じゃなかばってん……」  
正二郎の方を振り向くとその顔は耳まで赤かった。  
「そのう……わしもー……男じゃけん、そのう……つまりじゃ。もっと……くっつきとうなると……」  
「では……では、もっとくっつきませんか?」  
言葉を濁す正二郎が指す意味を頭が理解するより先に、アンジェリーナの口は動いていた。  
 
「あ……アンジェリーナ……ばってん、まだ祝言も挙げとらんけん、そぎゃん」  
アンジェリーナが強く首を横に振ると、正二郎は言葉を切った。  
「わ、私も、もっと……と、思います。だから……」  
「アンジェリーナ……」  
「私を、はしたない女だと、思いますか?」  
緊張のせいで喉の奥が焼けるようで、声が震えているのが自分でもよく分かった。  
硬直していた正二郎の顔が柔らかい笑顔になった。  
「思わん」  
アンジェリーナが安堵の息をこぼした瞬間、ぐるりと正二郎の後ろが回った。  
背中が安い旅籠の固い布団に乗る。  
「不思議じゃのう。時間はいくらでもあるちうに、待つことが出来ん」  
「ええ……不思議ですね。でも、私もです」  
真上にある正二郎の顔に両手を差し伸べると、正二郎は顔を寄せてくれた。  
その首に腕を絡め、更に引き寄せると、アンジェリーナは自分から正二郎の唇に自分のそれを重ねた。  
帯にかけられた手が震えているのが、着物の上からでも伝わってきた。  
そういえば、正二郎は遊郭に遊びに行ったことなどないと言っていた。  
それを思い出しただけで、胸が詰まっていっぱいになる。  
そんな男が、長久の命があれば女に一途になれると言っていた男が、今、自分を求めてくれていることが例えようのない幸福感でアンジェリーナを満たしていた。  
 
ようやく帯がほどけると、正二郎はゆっくりと顔を離し、アンジェリーナが首に絡めていた手を腕に沿って下ろしていくと、着物の襟に手を伸ばしてきた。  
裸などとうに見られているというのに、正二郎に肌を晒すことが急に恥ずかしくなって、アンジェリーナは僅かに顔を背けた。  
着物が片方ずつゆっくりと捲られる。  
肌着もよけられ、火照った肌に外気が触れる。  
腰巻も取られて、アンジェリーナは思わず目を強く瞑った。  
腹に指が触れて、両手が脇腹を伝って背中へと落ちていく。  
そのぎこちない動きがくすぐったくて身を捩ると、その手が背中へと廻り、抱きしめられて身体を起こされた。  
髪留めも外され、髪がさらりと背中に流れた。  
「……正二郎?」  
「着物の……じゃまたい」  
正二郎は片手でアンジェリーナを抱いたまま、布団の上に広がっていたアンジェリーナの着物を脇へと押しやった。  
着物越しに、正二郎の逞しい体つきと体温が伝わってくる。  
正二郎も脱げばいいのに。  
そんなことを思ってしまった自分に、気恥ずかしさを感じているうちに、アンジェリーナは再び布団の上に寝かされてしまった。  
また離れていってしまう正二郎の身体を追って手を伸べると、正二郎はその手を取って、アンジェリーナの腕を広げた。  
自然と身体が正二郎の前に大きく開く形になる。  
「しょっ、正二郎っ……」  
「どげんしたと?」  
「あの、こ、この格好は……恥ずかしい、です」  
「おお、すまん。ばってん、おまえをよう見たいけん」  
その言葉に応じる言葉をアンジェリーナが捜していると、正二郎はほう、と溜息を漏らした。  
「うつくしかなぁ……」  
「え、あの……」  
「初めて会うた時から思うとったんじゃがな、あの炎の中に立っておった姿ば見て、あげん時だちうにわしは見惚れとった。  
あるるかんばつこうとった手の動きも、炎になびいとったその髪も、うつくしかと思うたんじゃ」  
 
正二郎はそう言いながら、視線を身体の上に巡らせた。  
その目の動きはまるで愛撫をしているようで、実体のない感触にアンジェリーナの身体はじんじんと切なく疼き、その疼きが波となって身体を震わせた。  
「寒かか?」  
正二郎が顔をこちらに向けた。  
身体を覆っていた緊張感が僅かにほぐれ、熱に浮かされたような感覚の中でアンジェリーナは首を振った。  
正二郎はほっと息を吐くと、繋いでいた手を握ってまた不安そうな顔になり、  
「ふっ……触れても、よかか?」  
と聞いてきた。  
正二郎になら、何をどうされてもきっと平気。  
そう伝えたいのに、伝えて彼の思うままにして欲しいと思うのに、口を開いたらこの心地の良い熱が醒めてしまいそうで、アンジェリーナはただ微笑んで頷くことで答えにした。  
離れていってしまった大きな手の変わりに着物の袖を握る。  
手の動きは相変わらずぎこちなくて、腹を這う指からのくすぐったさにアンジェリーナはふふっと笑って、身を捩った。  
「す、すまん。診察で見たことはあるばってん、こげん心持ちでおなごの身体に触れるんはなかったからのう……。  
どげん触れたらよかか、いまいち分からんのじゃ。気持ちの悪いなら、そう……」  
「平気……あなたの……いいように、触れてください」  
やたらと饒舌な口に手を伸ばして、指で言葉を遮るとアンジェリーナがそう言うと、正二郎はきまり悪そうに笑ってから、その指に唇を押し付けた。  
 
そのまま手を首へと伸ばすと、正二郎は片手で己の身体を支え、もう片方の手のひらでアンジェリーナの身体をゆっくりと撫で始めた。  
そして一瞬の躊躇が感じられてから、大きな手に胸を包まれた。  
「柔らかかぁ……」  
正二郎は感嘆の声を漏らすとゆっくりと手を動かし始めた。  
その動きに合わせて、乳房が形を変える。  
正二郎に不安を与えるような表情はするまいと思うものの、身体を這う甘美な感触にどうしても眉に力が入ってしまう。  
「んっ……はあっ……」  
長い間の剣の稽古のせいか、ざらつき硬くなった手のひらが胸の先端を擦ると声も上がってしまう。  
アンジェリーナは正二郎の着物の襟を握り締め、意識を少しでも正二郎の手から逃そうとした。  
しかし、アンジェリーナの神経はそんな彼女の意志とは裏腹に、正二郎の動きを感じろうとますます敏感になり、女を知らないという正二郎の手の動きにアンジェリーナは翻弄された。  
「く、ふっ……」  
声を出すまいと詰めていた息を吐き出すと、正二郎の動きが止まり、手が離れた。  
「つらかか?」  
辛くなどない。  
身体を包み込んでいるのは快感で、むしろもっと触れて欲しかったし、身体の方は正二郎を受け入れるには十分な状態になってきているのも自分でよく分かっていたから、アンジェリーナは掴んでいた正二郎の着物を引いた。  
「お願いです。離れないで。あなたが触れずにいる方が、つらいから……」  
誘っているとしか思えない自分の言葉に、アンジェリーナは顔が熱くなった。  
けれど、正二郎は照れながらも、  
「分かった。ちょっと待て」  
と言って、身体を起こすと着物の帯をほどき始めた。  
 
しまりのある身体が、自分を抱きとめてくれた逞しい胸板が明かりの中に晒された。  
「照れくさいのう」  
正二郎は脱いだものを脇へと放ると、相変わらずの照れ笑いを浮かべながら、隣に身体を横たえた。  
間近に正二郎の体温が感じられると思った次の瞬間、アンジェリーナは強く抱きしめられた。  
正二郎の身体の輪郭がはっきりと分かり、背中に廻された腕が微かに震えているのも分かった。  
何も言わずに、額を正二郎の胸に押し付けると、手が背中から更に下へと降りてきた。  
尻から腰を辿り、脚の間に手が滑り込んできた。  
正二郎の荒い息遣いが耳に届き、それにつられるようにアンジェリーナの鼓動もそれまで以上に早くなってきた。  
「ん……っ……」  
秘裂に届いた指がひどくゆっくりとそこを辿っていく。  
「あ、んっ!」  
敏感なところを指が滑り、アンジェリーナは思わず声を上げた。  
けれど正二郎は何も言わない。  
ただ指だけがアンジェリーナの身体の入り口を探している。  
「っ……あっ……んっ、はっ」  
声がこぼれるたびにそこが正二郎を招くように雫をこぼし、それに誘われて正二郎の指先がぬるりと身体に入り込んだ。  
「ふあっ!」  
思わずアンジェリーナが身体をびくりと反らすと、正二郎はごくりと喉を鳴らし、その中で指を小さく動かした。  
「こ、ここでよかか?」  
正二郎の腕にすがり、こくこくと頷くのが精一杯で、息も思うように出来ないでいると、正二郎の唇が額に触れた。  
「ほんの少し、辛抱しとってくれ」  
正二郎はそう言うと指を引き、上体を起こして、アンジェリーナの脚の間に身体を入れた。  
 
指とは明らかに違うものが、疼きを覚える箇所に押し当てられた。  
「っ……」  
正二郎は片眉を顰めて息を呑むと、一気にアンジェリーナを貫いた。  
「あああっ!」  
「あっ、くッ……!」  
その強さに身体が孤を描く。  
「しょうじ、ろう……」  
拠りどころを求めて正二郎の首に手を伸ばそうとすると、正二郎は口の端をかみ締めて、目をきつく閉じていた。  
「……正二郎?」  
呼びかけに正二郎の片目が僅かに開く。  
「正二郎?」  
もう一度呼びかけると、正二郎は震えた息を吐き出して、口を開いた。  
「す、すまん。動いたら、訳の分からんようになってしまいそうじゃ」  
汗のせいで額にはりついた銀色になった正二郎の前髪をそっとはらうと、アンジェリーナは首に手を廻して正二郎を抱き寄せ、耳元に囁いた。  
「平気……。だから、あなたの、正二郎の思うようにして」  
「アンジェリーナ……」  
正二郎は唇を頬に押し付けると、身体を更に深くに沈めてきた。  
「ん……んうっ……」  
それを感じて身体が震えた瞬間、正二郎が強く身体を動かし始めた。  
「あっ!は……あ、んッ!」  
熱い塊が自分の身体を内側から圧迫し、荒い息遣いが耳からアンジェリーナを刺激する。  
「うっ……んっ、しょ……じろっ……」  
上がってしまう声を止められないまま、アンジェリーナは正二郎を求めて名前を呼んだ。  
「アンジェリーナっ、アンジェリーナ……ッ!」  
激しい息遣いの合間に自分の名前を口にする掠れた声に胸が締め付けられて、アンジェリーナは跳ねる意識の中で正二郎を強く抱きしめた。  
 
もう声を殺そうとすることすら忘れ、正二郎に身を任せるうちに、正二郎がぞくりと身体を震わせ動きを止めた。  
そして、アンジェリーナは自分の中に熱いものが流れ込んでくるのを感じ、自分の高い声と正二郎の低くうめいた声を遠くで聞いた。  
身体がやけに重くて目を開けると、正二郎が自分の身体の上にいた。  
まだ肩が大きく上下している。  
なんだか嬉しくなって、そっと抱きしめると、正二郎ははっと顔を起こし、慌てて上から滑り降りてしまった。  
口を開きかけた正二郎の肩に額を押し付け、首を横に振ると、正二郎は言葉を飲み込み、そっと肩を抱いてくれた。  
胸はまだどきどきしていて、心は満たされて暖かかったけれど、落ち着きを取り戻し始めた身体は夜の隙間風に小さく震えた。  
それを感じ取ったのか、正二郎が掛け布団を引き上げて、アンジェリーナの上にかけた。  
正二郎は?と問うように彼の方に視線を向けると、正二郎は布団にもぐりこんできた。  
その身体に自分の身体を摺り寄せて、  
「あったかい……」  
と呟くと、正二郎は優しく目を細めて、頬に手を添えてきた。  
少し首を動かして、その手のひらに口付けると、正二郎が言った。  
「おまえはそうするんが好きじゃなあ」  
思わず口を尖らせて、  
「だって、それは、あなたのことを……」  
と返すと、正二郎は笑って額をこつん、と合わせ、  
「そうじゃな。わしも、おまえを見てるとしとうなる」  
と、はにかんだ。  
正二郎の笑顔を目の前にして、またアンジェリーナが言葉を失ってしまうと、それを知ってか知らずか正二郎は唇を重ねてきた。  
甘い口付けに身を任せ、アンジェリーナはゆっくりと目を閉じた。  
 
(了)  
 

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