いつまでもいつまでも、私は遠い過去を捨てられずにいる。
母のことを忘れられない自分。
ふとした瞬間に、逃げたという自責の念に無性に囚われてしまう自分。
愛する男の傍にいる幸せを、罪悪感を伴いながら感じてしまう自分。
熱い硫黄のにおいの湯につかり、銀の髪を指に絡めて暗い空を仰いだ。
「露天風呂」というらしい。
私は他に泊り客のいないのをいいことに、風呂の中でだけは銀の髪を晒していた。
生まれたときからこの髪ではなかったが、それでもこの色が今の私の自然の色。
指先から手の甲、そして手首へと伝う湯のしずくを見つめて目を伏せる。
それでも、私は正二郎と生きたい。
湯気の押し包む空間から上がり、浴衣をまとって髪を黒くする。
手ぬぐいで水気をすいとりながら部屋に戻ると、布団が中央にひとつ、敷かれていた。
その向こうの窓際では正二郎が椅子に腰掛け、人形の部品を弄っていた。
「…正二郎」
「おお、アンジェリーナ。あがったか」
笑顔で私を見るその瞳は、私のために本当は銀色になってしまっている。
今はさすがに、黒いけれど。
手ぬぐいを傍の柱にかけると、私は彼に歩み寄った。
「露天風呂は初めてじゃったか?」
「あ、ええ…」
彼の手元の蝋燭と、その灯に照らされた数個の歯車にふと目が留まる。
それはいつも見ているものでありながら、何故だか切なく懐かしかった。
私の視線に気付いたのか、正二郎は照れたように笑って頭をかく。
「いやァ、少しでもおまえの助けになりゃええと思っちょるんじゃが、
よぉ分からんとこもまだまだ多くてな。」
「そう、ですか…」
「どうした?」
伏せた目を覗き込むようにして尋ねる正二郎の手を取り、私は彼の肩に顔を埋めた。
今の彼の言葉に、泣きそうだった。
私のせいで不死になり逃げることになり、それなのにまだ私を助けようと言ってくれる。
この人が傍にいてくれることだけで、奇跡のようだ。
私を愛しているという彼は、正二郎はどうしてこんなにも優しいのだろう。
私がそのまま彼にしがみついているので、正二郎は困ったように笑むと
私の背に力強い両手をゆったりと回して、そっと抱きしめた。
時間に感じる体温が暖かく、温泉で火照った身体が
内側から熱を持ってあたたかさを増した。
小さな希望は、私の胸の中にあって、でもずっと言い出すことが出来なかった。
「…ねえ、正二郎」
「なんじゃ?アンジェリーナ」
少し身体を離して私の顔をふたたび覗き込んだ彼の顔を見上げて、目を細める。
「一緒に考えてほしいの…私が、これから長い時の中で、"しろがね"として…
お母さんの娘として、何か私なりに戦っていくための方法。」
お母さんが私の幸せを願ったのなら、私は幸せでいたい。
罪悪感を伴ってしまう幸せでも、手放すことが出来ないくらいのものをもう見つけてしまった。
ああ、なら、彼を手放せない私が出来ることはなんだろうか。
この人と一緒に、出来ることは。
瞳を閉じて彼の唇を感じ、身体の奥から叫ぶ熱に私は流されていった。
ひとつきり敷かれた布団の上で、私は彼と考える。
掠れた声で彼の名前を呼びながら、熱い奔流に飲まれながら、
疲れきってうとうとしながら、彼といることの喜びを感じながら。
それが終わった後、夜明けが来て障子の向こうが白むまで、
私と正二郎はこれからのことを話し合った。
過去を過去にしないで、過去を今にしていける方法を。
幸せな日々を、心から喜ぶことの出来る生き方を。
今度こそ、逃げずに、前を向いて戦っていくために。