左腕の刃にキスされてから、ナルミはエレオノールに対して明らかに戸惑っていた。  
あの女はフランシーヌ人形の溶けた「生命の水」を飲んだ、フランシーヌ人形の生まれ変わりなのか。  
それとも全く別の人格を持つ、生身の人間エレオノールなのか。  
 
だから、その夜エレオノールが忍んできたとき、どちらなのか確かめる絶好の機会だとナルミは考えた。  
ナルミはわずかな気配で目を覚ますことができる。寝ているところにエレオノールが近づいてきても、  
ナルミは眠ったふりを続けた。  
自分を殺そうとすれば、彼女はフランシーヌ人形の生まれ変わりだろう。自分は自動人形たちにとって  
最も邪魔な人間のひとりだ。  
ゾナハ病の治療法を聞き出すまではナルミが彼女を殺すわけにはいかないが、少なくとも彼女が「人形」  
なのか「人間」なのか、その点ははっきりするだろう。  
 
目を閉じていても気配と空気の流れで全てが分かる。拳法の修行と自動人形との戦いの賜物だ。顔にエレ  
オノールの熱を帯びた視線を感じる。呼吸が徐々に速くなり、乱れていくのをナルミは不思議に思った。  
「もうどこにも行かないで‥」  
エレオノールが呟く。切ない響きだった。  
 
ナルミはエレオノールのするがままにさせていた。暗い部屋の中で、隙間から差し込む月明かりだけが、  
唯一の明かりだ。  
エレオノールは裸だった。それはナルミに対して害意がないことを示すため。そして、ナルミに抱かれる  
ためだった。そんなことがナルミに根深く巣食う自分への憎しみを軽くすることにはならないとわかって  
いたが、エレオノールには込み上げてくる衝動を止められなかった。ナルミとの絆が欲しかった。たとえ  
身体だけでも‥。  
ナルミは途中で目を開け、それに気づいたエレオノールは驚いたが、ナルミがなにも言わず動きもしない  
ので、恥ずかしさを隠しながら行為を進めていった。  
 
「ん、ん‥」  
チュプ、ジュプと音を立てながら、ナルミの性器を口に含んで唾液で濡らす。舌の動きはぎこちない。エ  
レオノールにとって初めてだったが、ナルミにとっても初めてだった。稚拙な愛撫でも徐々に性器は固く  
なっていった。  
だが、ナルミの心は冷めていた。これも油断させるための手段か、それとも‥。  
たっぷりと唾液を絡ませてから、エレオノールはナルミに跨った。指で膣口を広げ、ナルミをあてがい、  
少しずつ腰を落としていく。内側から掻き分けられ、突き上げられる。痛い。でもナルミが欲しかった。  
今を逃したら、ナルミは永遠にどこかに行ってしまう気がした。  
騎上位の格好でナルミを全部飲み込むと、ナルミの腹に手を置き支えにして腰をゆすり始めた。  
粘膜のこすれあう濡れた音が響く。  
ナルミは、エレオノールに殺意がないことをようやく確認した。では、このセックスはフゥの語った、  
あの目的のためのものなのか。  
ナルミはエレオノールの腰をつかんで動きを止めさせた。  
「なぜだ?なぜこんなことをする?」  
エレオノールはナルミの目をまっすぐに見返し、言った。  
「あなたが好きだから。愛しているから」  
フゥはフランシーヌ人形が「生命の水」に溶ける直前、赤ん坊に興味をもっていた、と語った。フランシーヌ人形は赤ん坊を産むために人間のエレオノールに自分の溶けた「生命の水」を飲ませ、人間として生まれ変わったのではないか、と。  
 
「おまえは赤ん坊が欲しいだけだろう、フランシーヌ人形」  
威圧的なナルミの口調に負けじとエレオノールは反論する。  
「ちがう!私は人間のエレオノール」  
エレオノールは泣いた。自分の言葉はナルミに届かない。信じてもらえない。今、愛しい男がこんなに近く  
にいるのに。  
エレオノールは泣きながら謝った。  
勝を救出するとき、ゾナハ病の発作にかかったナルミに笑いかけられず、救えなかった。  
そして今、ゾナハ病の治し方を教えられなくてナルミを救えない。それがたまらなく苦しかった。  
自分は何の役にも立たない。  
「ごめんなさい、ごめんなさい‥」  
エレは大粒の涙をこぼしながら何度も何度も謝った。  
その姿がナルミの記憶を刺激する。  
『笑えない。なぜだろう、笑えないの!すまない!すまない!』  
必死に泣きながら‥、何度も‥。  
「お前は‥、前にもこんな風に俺に謝ったことが‥」  
「憶えてるの、ナルミ!?あなたと私がお坊ちゃまを助けたときのことを‥」  
「お坊ちゃま‥?」  
(子供‥?)  
ナルミの脳裏をいい顔で笑う子供の面影がよぎる。  
「あの子供!生きているのか?」  
ナルミは上半身を起こし、エレオノールに肉薄した。  
炎と水と崩れる壁の中で、守り切れなかったと思っていた子供。俺の腕をすり抜けていっちまった命。  
死んだと思っていたのに。  
 
「あなたが助けてくれたのよ、ナルミ」  
エレオノールは遠い記憶を思い出すように呟く。  
「爆発した建物近くの水路からお坊ちゃまが出てきて‥」  
(爆発‥炎?水路‥水?)  
「私が見つけたときには、お坊ちゃまはあなたの左腕を抱えて、狂ったように泣き叫んで‥」  
(フランスで目を覚ましたとき、俺に左腕はなかった)  
「その左腕を見て私もあなたが死んだと思った」  
記憶と符合する。ならば、自分とこの女が協力して子供を助けたというのは、真実なのだろう。  
エレオノールは今度は泣きながら笑っていた。零れ落ちる涙を拭いながら、嬉しくてたまらないというように。  
「なぜ笑う?」  
ナルミは急に笑い出したエレオノールをいぶかしんで、訊いた。  
「嬉しいの。お坊ちゃまを覚えていてくれたことが‥」  
エレオノールはナルミの頭を引き寄せ、互いの額をくっつけた。  
「良かった‥。私のことよりお坊ちゃまのことを覚えていてくれたことがとても嬉しい‥」  
ナルミはこのとき初めてエレオノールの美しさに気づいて、しばし見とれた。  
「笑えない人形フランシーヌ」。その生まれ変わりである女がこんなにいい笑顔を作ることができるだろうか。  
この女はフランシーヌ人形の生まれ変わりではないのか。  
うそではないかもしれない。フランシーヌ人形であれば、子供を守る理由などない。世界中の人間をゾナハ病に感染させるつもりの自動人形がそんなことをする必要があるだろうか。  
 
俺は確かにあの女と約束した。俺に泣きながら「すまない!」と謝るあの女に。あの子供を‥助けるって‥。  
そのときの女が目の前の女ならば、フランシーヌ人形の生まれ変わりであるわけがない。  
この女はやはり生身の人間エレオノールなのか?  
そして俺を愛しているというセリフも嘘ではないというのか。  
「お坊ちゃまもナルミのことをいつまでも」  
エレオノールが言い終わらないうちに、ナルミはさえぎった。  
「あの子供はどこにいるんだ!」  
「関西にある小さな村にいるわ。このサーカスも巡業でいずれそこへ行くわ」  
「生きて‥いたんだな‥」  
良かった。俺は守れたんだ。  
ずっとずっとわだかまっていた後悔の念が消えて、ナルミの目に涙がにじんだ。  
昔の眼差しに戻ったナルミに、すかさずエレオノールが口付ける。  
憎悪で感じなかった、ペニスへの濃密な快感が甦る。エレオノールが動くだけでは足らない。  
ナルミは上半身を起こして、エレオノールを床に寝かせ組み敷いて抽送を始めた。  
「はぁっ、ん、‥ナルミ、ナルミ‥」  
エレオノールは愛おしげにナルミの名を呼んだ。  
 
 
セックス後のけだるさの中でも、ナルミは目は冴えていた。エレオノールは眠っていた。自分の  
腕をナルミにしっかりと絡ませ、片足までナルミに巻きつけていた。  
ナルミがわずかに身動いただけで、エレオノールの腕に力がこもる。もうどこにも行かせないというように。  
ナルミは後悔していた。一時の激情に駆られて、エレオノールの中に幾度も射精した。一瞬でも、彼女がフランシーヌ人形の生まれ変わりではないと信じたからだ。だが、それこそが用意周到な計画だったかもしれない。  
やはり彼女は赤ん坊が欲しいためだけに自分と交わったのかもしれない。  
ナルミがそう考えたのは、彼女が人形の生まれ変わり出なければ、ゾナハ病を止める方法がなくなってしまうからだ。マークは死に、ベスは死ねないまま永遠に苦しみ続けている。  
ナルミの中で疑いは晴れない。むしろ、ゾナハ病を止めるという希望のためにこれからもエレオノールを疑い続けるだろう。  
「ちくしょう‥、わからねぇよ」  
どうして、この女は自分を殺そうとしている俺の横でこんなに幸せそうに眠るんだ。  
ナルミは空いているほうの腕を目の上にかざした。  
「だれか教えてくれよ‥。おれはどうしたらいい‥」  
フゥの語ったことは、明霞が言ったように、真実であるかどうかわからない。  
師父、ルシール、ロッケンフィールドさん‥。みんな死んでしまった。  
「ちくしょう‥」  
ナルミは泣いた。憎むべき相手さえわからなくなった。  
こんな孤独な夜はなかった。  
 

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