からくりサーカス  

阿紫花百合は、黒賀村の畦道を駆けていた。  
中学から帰ってすぐに知らせを聞いて、鞄を投げ捨てるようにして家を飛び出して、  
制服姿のまま、村長の屋敷への近道を走っている。  
冬至前の空はまだ五時頃だというのにもう暗くて足元が見えなかった。  

―英良兄さんが、帰ってきてる!?  

姉から聞いたニュースがまだ信じられなくて、百合は唇をかんだ。  
ひとつ上の姉の無関心な声が蘇る。  

―平馬が嬉しそうに出てったわよぉ。  

イヤだ、どうしよう、と百合は走りながら涙ぐんだ。  
暗いので人とすれ違っても見つからないのが救いだった。  
でも、平馬とはまだ、すれ違っていない。  

本当は平馬が自分の部屋にも裏の人形工房にもいないことくらい良くある。  
でもきっと、今は自分の勘が正しい。  
絶対、平馬は英良に会いに行っているのだ。  

平馬は大事な弟だ。  
本当に大事な弟だ。  
乱暴もので、ぶっきらぼうで、村の皆から嫌われているけれど、  
百合にとっては阿紫花家に来たときから、平馬は家族だった。  
どんなに嫌われていても、本当は優しい子なのだ。  
無愛想に自分を気遣ってくれていることだって分かっている。  
喧嘩ばかりしているけれど、弱い人や小さい子を泣かせたりはしていないことも知っている。  

(だけど、それでも!)  

殺し屋である英良に憧れている平馬が、いつか人を殺すようになってしまったら。  

(あの子が、そんなことをするなんて、させられるなんて、絶対ダメ!)  

細い裏道を駆け抜けて、百合は立ち止まった。  
冬の風が容赦なく彼女の頬を冷やしていく。  
あまりに急いでいたので、コートを着てくるのも忘れてしまった。  
ふとそのことに気付いて悔しくなる。  
全部、殺し屋のあの兄のせいだ。  
今度は平馬に何を吹き込むつもりだろう。  
どうして、今更帰ってきたりするのだろう。  
勝手に人殺しになって村を出たくせに、どうして。  

 

見慣れない黒い車が遠くの屋敷に止まっているのを見つけて、  
百合は涙を拭うと目を細めた。  
良く見えないが、細長い男性のシルエットの隣に、小学生くらいの人影らしきものがある。  
寒い風に目をぎゅっと閉じて、深呼吸をする。  

深く深く息を吐くと、百合は再び土を蹴った。  

「平馬!!」  
張り詰めた声が薄闇に響いて、阿紫花と平馬が同時に顔を上げた。  
平馬が、駆け寄ってくる姿を認めて、ぎくりと顔を強張らせる。  
「おやおや」  
肩を竦めた兄を不安げに見上げて、平馬は姉に視線を戻す。  
膝下のスカートを翻して息を弾ませた彼女は、今にも泣き出しそうな目をしていた。  
平馬はいつも彼女のこういう顔に、とても気まずい思いになる。  
「平馬、ここにいたのね?」  
「百合姉…オレ、」  
「ずっとここにいたの?」  
「……」  
平馬は無言で、二人を愉快そうに眺めていた阿紫花を振り返った。  
百合がその視線を追って、くたびれたスーツの男を睨みつける。  
阿紫花は無言で眉を上げて、吸っていた煙草を指でぽいと捨てて踵で揉み消した。  
「ちょっと、平馬の前でポイ捨てするの止めて!」  
百合が目を吊り上げる。  
阿紫花は、時間をかけてゆっくりと煙草の先端を磨り潰してから、  
お手上げジェスチャーで百合を見返した。  
「そりゃぁ、ごめんなすって。じゃあ平馬の前じゃなきゃいいんですかい?」  
「そういうことを言ってるんじゃないわ!!」  
すぐに必死の反応が返ってきて、阿紫花が一瞬言葉に詰まる。  

百合はそれを無視して、平馬に向き直った。  
腰を落として、平馬と同じ目線で話しかける。  
「ねえ、もうすぐご飯よ。家に帰って。」  
「…けど兄キが久しぶりに」  
「もう十分話したでしょ!?ほら、こんなに身体も冷えてるじゃない…」  
百合の手が頬に当てられて、平馬はその冷たさにはっとした。  
今更気付いたのがおかしいくらいだ。  
姉はコートを着ていない。  
もう年末で、雪が遅いとはいえ風は凍るように冷たいというのに、  
こんな格好で走ってきてまで、自分の心配をしている。  
寒さで赤く染まった頬が白い息に薄れて、平馬はどれだけ  
彼女が自分を心配していたのかを悟った。  
「ね…もう帰って。」  
平馬は肩を落として、兄を振り返った。  
「…分かった。じゃ…英良兄キ、元気でな」  
「平馬も、喧嘩はほどほどにしなせえよ」  
平馬は黙って頷くと、二、三度振り返った後、百合が今来た道に駆け足で消えた。  

*****  

「まぁた、百合は過保護ですねえ。ま、変わらないッちゃあ変わってないんだから、  
好いことなのかもしれませんがね」  
不意に、背中越しに投げられた言葉が百合の意識を弟から兄に引き戻した。  
冷たい夜風に小さく肩を震わせて、百合はぽつりと声を漏らす。  
「でも…平馬は変わっちゃったわ。」  
「平馬が?平馬も大して変わっちゃいねえと思いますがね。」  
百合は眉を顰めたが、兄の方を見ようとはしなかった。  
阿紫花は、車に寄りかかったままポケットから新しい煙草を取り出すと火をつけた。  
薄暗い電灯だけがぼんやりと照る村の風景を眺めて、  
ゆっくりとした動作で煙を吐き出す。  
雪が降る頃かと思っていたが、今年はどうやらまだのようだ。  
「英良兄さんは、分かってないわ。」  
気付くと百合に睨まれていて、阿紫花は顔だけで義妹を見返した。  
「は?」  
間の抜けた返事に百合が唇を噛み、声のボリュームを上げる。  
「兄さんは分かってないって言ったの!」  
「はァ、何が」  
「あなたのせいで私達、どんな目で見られたか知ってる!?  
 どんなこと言われたか分かる!?何が喧嘩もほどほどに、よ。バッカじゃないの。  
 全部英良兄さんのせいじゃない。平馬が喧嘩するのも兄さんのせいじゃない。  
 平馬が…平馬が人殺しになったらどうするのよ!私あなた大嫌い!!」  

そこまで一気に叫ぶと、百合は酷く悔しそうな瞳で阿紫花を睨みつけた。  
息が切れたのか肩が上下していて、頬の赤さも寒さのためだけではなさそうだった。  
阿紫花はほう、とかへえ、とかよく分からない声を上げて、  
空を見上げながら、煙と溜息を同時に吐き出した。  
「いやぁ。そんな、うら若いお嬢ちゃんに泣きそうな顔されると、困りやす」  
「そういうセクハラみたいなこというのも止めてよっ!」  
「はいはい」  
「もう…!!」  
もう少し幼ければ地団駄でも踏んでいそうな声だ。  
阿紫花は、車から背を離すと、携帯灰皿を取り出して煙草を揉み消した。  
ちら、と百合を窺うと呆れと怒りの入り混じった顔でじとっと睨まれる。  
「持ってるんなら最初からそうして。」  
「はいはい…お、ちょっと待ってなせえ」  
ジョージが村長と歩いてくるのに手を上げて、携帯灰皿をスーツに仕舞う。  
「誰?」  
「知らない世界への案内人でさ」  
片目を瞑ると物凄くバカにした目をされたので、ひょいと肩を竦める。  
ジョージの元へ行き、二言三言交わしてから阿紫花は戻ってきた。  
百合が眉をひそめて兄を見る。  
「まさか、もう行くの?」  
「ええ、まあ。用があって寄っただけですから。ま、百合もその方がいいでしょう」  
「そうね。」  
あっさり頷かれて阿紫花は口を曲げた。  
「へいへい、じゃあ百合も元気で…」  
「別に兄さんに心配してもらわなくてもいいわよ。」  
「…そうですかい」  
百合が、溜息をつく阿紫花を困ったように見上げて首を傾けた。  
阿紫花が腕時計を眺めやると、午後六時前だった。  
遠くから家路を急ぐ子供達の声と夕餉前の喧騒が聞こえる。  
黒賀村は、彼が出て行ってからも、今でも変わらずに此処にあった。  

百合の手が突然彼の胸元に伸びて、ネクタイをぐいと掴んだ。  
すっかりよれよれになったネクタイの型を整えて、ばしんと上から叩くと、  
彼女はひとつ息をついて、阿紫花を見上げた。  
「…でも、英良兄さんは元気でね。平馬が心配するから」  
目を見開いて一瞬呆けた。  
妹は3人もいるが、皆それぞれ個性的でエネルギーに溢れていて、  
女はいやというほど抱いてきた彼でさえも予測できない反応ばかり返ってくる。  

「じゃあ、夕飯の支度があるから帰るわね。」  

百合の声にはっと目を瞬いて、阿紫花は顔を上げた。  
「へ?」  
「へ、じゃないわよ、もう。じゃあね!」  
「こら百合、待ちなせえって」  
阿紫花はコートを脱いで、踵を返した百合の背中にばさっと投げかけた。  
「きゃ!え、何?何!?」  
急に頭上にかぶさったコートと格闘する百合ににやりと笑って、阿紫花は目を細めた。  
「女の子が腰冷やすもんじゃねえですよ。着て帰んな」  
百合はぴたりと動きを止めると、真っ赤な顔でばっと振り返った。  

 

「もう、それもセクハラ!最低!!」  

 

*****  

 
 

「ありがとうくらい、言えないんですかね…折角寒いの我慢したのに、若い子は分かりやせんね…」  

はあぁ、と肩を落としてぶつぶつぶつぶつと呟き続ける日本人に、  
運転を押し付けられた「しろがね-O」は、その後随分鬱陶しい思いをしたとかしないとか。  

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