『彼方から』
突然、異世界へ飛ばされたノリコは、そこで助けてくれた青年イザークと旅をしている。言葉や生活習慣を学びながら旅を続けるうちに、ノリコは、自然にイザークに思いを寄せる。
途中、旅の同行者が増え、彼らと化け物退治したりする中、ノリコは、イザークが、この世を騒乱に導く破壊の化け物「天上鬼」であり、自分がその天上鬼を覚醒させる「目覚め」であると知る。
そして、世界の覇者となるために、天上鬼と目覚めを手に入れようとしている追っ手から逃れるために、ノリコに想いを告げたイザークと二人だけで旅に出る。
コミックスでいうと、7巻と8巻の間の話。
窓の外には冷たい風が吹き抜け、手桶の水が波紋を作れないほど固く凍りついていた。
この街に着いてから、すでに2日がたっている。本来、温かいはずのこの季節に、突然やってきた冷たい風は、ノリコとイザークの足をここに留めていた。
二人だけの旅に戻ってから、もう一月が過ぎようとしている。変えられるかもしれない運命を探して、二人で手をとってここまで歩いて来たのだ。
ノリコは、窓の外を眺めていた。イザークの背中は、もう見えない。
少し長めになりそうな滞在に、彼は仕事を探しに行った。渡り戦士のイザークは、いつも、護衛や警護の仕事で旅に必要な金を稼いでいる。この宿の代金も、ノリコの服も、日記の書紙まで、すべてイザークの稼ぎに頼っていた。
ノリコは、イザークが仕事に出ている間は、こうして宿で静かに待っている。
風のせいなのか、外からカタカタと看板が揺れる音だけが聞こえてくる。
「よし!」こぶしを握ったノリコは、勢い良く立ち上がり扉を開けると、階段を駆け下りていった。
扉を開けると、満面の少女の笑顔が見えた。イザークは、その笑顔にほっと息を吐いた。外の風の冷たさを忘れるほど、ノリコのまわりには光が満ちている。
「おかえりなさい。寒かったでしょう」
「いや」短く応えて、イザークはノリコが火鉢の側に置いた椅子に腰をおろした。
「仕事を決めてきた。明日から3日間、荷の見張りだ。この寒さで、引き取りが遅れているらしい」
「荷の見張り……。ずっと、外にいるの。それじゃあ、風邪を引いちゃうわ」
目を丸くするノリコの姿に、イザークは大丈夫だとかすかな笑みを見せた。
その笑顔に、ノリコは自分も笑みを見せると、胸のざわめきを隠すように火鉢に視線を落とした。
思いを打ち明けあってから、二人だけの旅に戻ってから、イザークの優しさに触れると、ノリコは胸がざわめくようになった。一度そうなると、イザークの顔が、まっすぐに見られなくなる。
そして、ノリコが目を逸らすと、イザークは、今までにない強い視線でノリコを射すくめている。二人の間にあるものが何であるのか、逸らした眼差しと射すくめる視線の意味が何なのか、イザークもノリコも本能的に分かっている。ただ、どうしたらいいのか、わからないのだ。
「手が冷たい」目に入ったイザークの手をとって、ノリコが呟いた。明日から3日間、この手はノリコの側にはない。
「寂しいか」イザークの問いに、ノリコは頭を横に振った。
「あたしは、平気よ。あたしも、仕事を決めたの。この宿の手伝いよ。急な寒さで部屋は一杯で、忙しんだって」
「あんたが、そんなことをする必要はない」イザークが、意外なほど厳しい声を出した。
「でも、イザークが働いている間、あたしが遊んでいるわけにいかないわ」ノリコは、悪戯を思いついたような顔をして、身を乗り出す。
「そう言うイザークの方が、実は寂しかったりして」笑い声に包まれるはずの冗談は、イザークが真剣な顔をしているので失敗に終わった。
「そうだな。そうかもしれない」
低い声に、ノリコの胸のざわめきが、いっそう大きくなる。でも、いつものように、イザークから目を逸らすことが出来ない。
「平気。だって、イザークはいつも、あたしの側にいるから」握っている大きな手を、愛しそうに胸に抱く。
「だからきっと。あたしがもっと側に近づけば、イザークも寂しくなくなるかも」顔から火が出るほどドキドキしているのに、ノリコはイザークの、いつにも増した強い視線から目を逸らすことができない。
視線を合わせたまま、イザークはゆっくりと立ち上がると、息も出来ないほど強くノリコを抱きしめた。
腕の中の温もりは、柔らかく熱く、何よりも愛しい。イザークは抱きしめた腕を緩めると、彼を捉えて離さない存在を手のひらで確かめた。
汗ばんだ肌が微かに震え、息を呑む気配が伝わってくる。
「ノリコ」耳元でささやくと、返事をするように、首に腕が絡まってきた。
いつも、二人で過ごしている。 傍らに、ノリコの笑顔があることが、すでに自然なことになっている。彼女の笑顔が側にあるだけで、すべてが満たされていたはずなのに、いつしかイザークは、その存在を、今よりも、もっと近くに置きたいを感じるようになっていた。
ノリコの全てを感じたい。抱きしめて、一つに解け合い吐息の交換をしたいと、熱くなる視線を閉じることが出来なくなっていた。
自分の視線に、ノリコが戸惑っているのには気がついていた。だから、怖がらせないように、挨拶に触れることにさえも、細心の注意をはらってきたのに。 なのに、一度外れたタガは、二度と止めることはできない。
ノリコを抱きしめた瞬間、彼女は、この世に存在するただ一つの者になったのだから。
「あ……。イザーク」吐息が、小さな音になる。
イザークは、もう自分を留めていることが出来なくなった。激情のままに、力を入れる。ノリコの何もかもが、愛しくてたまらなくなった。滑らかな肌、熱い吐息、痛いほどに締め付けてくるノリコ自身。
際限なく湧き出てくる愛情の波に、イザークは涙を止められなかった。
「おはよう、イザーク」窓から差し込む光の中で、ノリコが微笑んでいる。いつもと変わらない、夕べは何もなかったかのような彼女の態度に、イザークは安堵の吐息を吐く。
「外が明るいな」ベットの上で身を起こすと、イザークは、自分が何も身につけていないのに、改めて気がついた。
「夕べ、雪が降ったのよ。外は真っ白で、すごく綺麗」ノリコは、身を翻すと扉へと向かった。
「朝ごはんを頼んでくるわね。ついでに、火鉢の火も貰ってくる。夕べのうちに消えてしまったから、寒いでしょう」最後の方は妙な早口になって、廊下に飛び出て行った。
始めて迎えたいつもと違う朝は、ベットから抜け出すのに勇気が必要だ。
「先に起きた方が、勝ちだな」部屋を出て行ったノリコの気遣いに感謝しながら、イザークは夕べ脱ぎ捨てた服へ手を伸ばした。
「行ってくる。たった、3日だ」ノリコの頬に手を添えて、イザークは微笑みを浮かべた。
「うん。気をつけてね」
「あんたも、無理はするなよ。何かあったら、俺を呼べ」今日の太陽のような笑顔の、ノリコがうなずく。
寒いからここにいろと、ノリコを部屋に残したまま、イザークは仕事へと出かけた。夕べ積もった雪は、道を白く塗りこめている。その中を歩くイザークは、ノリコには御伽噺に出来きた王子様のように見える。
「今日は晴れたから、この雪はすぐに溶けるんだろうな」
昨日までとは少しだけ違うイザークの背中が角を曲がって見えなくなると、ノリコは勢い良く立ち上がった。
「よし!あたしも仕事」
冷たい風が止んだら、イザークとノリコはこの街を旅立つ。離れていても、こんなにお互いを感じていられるのだから、大丈夫だ。
二人で探しているものは、きっといつか見つけられると確信しながら、ノリコはもう一度窓の外を見た。
白い雪に太陽が反射したのか、金色になった光がノリコを照らしていた。