空の色も焼け付く朱色から濃紺の闇に染まりつつある夕刻、  
舞島学園高等部の保険室に四人の男女が集っていた。  
一人はベッドに横たわる少女。  
目は伏せられ、息はか細く、布団から出た顔色は蝋人形のように白い。  
一人は少年。  
顔色こそ健康だが眼鏡ごしの視線は鋭く、眉間に皺を寄せてベッドの上の少女を見ている。  
残る二人の少女、ハクアとエルシィはそれぞれ  
疲労の色濃い顔をベッドに向け、  
薄く涙の浮いた心配顔を三者に向けていた。  
 
「……とにかく」  
口火を切ったのはハクアである。  
かなりの集中力で作業をこなしたのだろう。わずか数時間の治療で眼の下にはうっすらと隈ができている。  
「解呪と処置はこれで終わり。何にも準備がなかったけど傷だけはふさいたから」  
その言葉にエルシィがホッと一息をつく。しかし、  
「危ないのか」  
じっとベッドの上の少女、かのんを見ていた少年、桂馬が鋭く切り込むように言葉を発した。  
顔色を失うエルシィの横でハクアは僅かに逡巡してから小さくうなずく。  
「……血が出すぎちゃってるのよ。  
 即死じゃなかっただけいいけど、体を貫通するほどの傷。  
 今は何とか生きてるけど、本当ならもう……ごめんなさい」  
あとに続く言葉を言えず、うつむいてしまうハクアに桂馬はそうか、とただ一言だけをかえした。  
 
「そうだ! にーさま!」  
ハクアが説明している途中ですでに滂沱の涙を流していたエルシィだったが  
突然顔をあげて兄の顔を見る。  
「落ち着け。もうそろそろ来るはずだ」  
桂馬がエルシィに言うのと示し合わせたかのように  
廊下の方から足音が響き、保健室の引き戸が開かれた。  
 
扉の向こうにいたのは舞島学園の女子制服とは違うセーラー服を着た少女。  
かわいらしいリボンを後ろ髪に二つつけた少女である。  
心配そうな視線を前髪で隠すように上目遣いで桂馬を見る。  
「桂馬君、その……本当なの? ディアナの姉妹が見つかったけど、その……」  
「ああ。ディアナを出してくれ」  
遠慮がちな言葉をさえぎるような桂馬の要請から事態の緊急を察知し、  
天理はすぐさまディアナへと切り替わる。目つきは鋭く、姿勢はまっすぐに。  
まるで全く違う人物が同一の姿をしているかのように雰囲気だけが完全に変化する。  
天理の中にいる女神・ディアナだ。  
 
「事態は把握しています。私の姉妹が『敵』に害されたのでしょう」  
怜悧とも言える視線を桂馬に向けてディアナが発言する。  
「話が早いな。やはりあの魔方陣か」  
桂馬たちは女神が覚醒して逃走したかのんを探している途中、  
空に魔方陣が打ち上げられたのを目撃し、その直後、腹部に剣を刺されて倒れたかのんを発見したのだ。  
「ええ。あれは私たち姉妹の間で使われるメッセージで『敵』の存在と『自分の危機』を示すものなのです」  
そこまで説明してディアナは目をベッドで寝ているかのんに向けた。  
 
「この方が、私の……」  
「わかるか?」  
「いいえ、さすがにこの状態では。せめて覚醒していれば気配で判別できるのですが……」  
「助けられるか」  
おそらく呼ばれた時点でディアナも察しが付いていたのだろう。桂馬の質問にも力なく首を振ることで答えた。  
「もうしわけありません。現状自分の肉体すら復活させられない私では他者に影響を与えることができないのです」  
そう、か。感情の抜け落ちた声が桂馬の口からこぼれる。これまで見たことのないバディの様子にエルシィは目を見開いた。  
 
「あとどれくらいもつ?」  
「今夜一晩もてばいい方よ。でも、朝にはもう……」  
落胆の色をにじませた桂馬の質問に沈痛な面持ちでハクアが答える。状況は絶望的だった。  
――しかし  
「なるほど。それだけもつなら、なんとかなりそうぞよ」  
救いの声は、もう一人の女神から発せられた――  
 
 
四者四様の視線が声のした方向へ向けられる。  
声を発したのは昏睡状態だったかのん、ではなく、なんと窓に映った彼女の影であった。  
ホラー映画と見紛う異様な風景である。  
本人はベッドに横たわって目を伏せているのにもかかわらず、  
夜の帳も落ちた窓に映る影だけが半身を起こし、桂馬たちの方向を向いて話しかけているのだ。  
 
むろん、方向的に桂馬たちから見えるのは  
窓に映ったかのんの後姿だけであり、その表情はうかがいしれない。  
「その気配(こえ)はアポロ姉さま! 目覚めたというのは貴女だったのですか!」  
ディアナの反応に鏡像がうなずく。  
「うむ、気配でわかるぞよディアナ。まったく久しぶりで積もる話もあるが、事態は急じゃ。そこな悪魔の娘!」  
「え! 私?」  
「うむ、そちらの賢そうな長髪。お主ぞよ」  
再開のあいさつもそこそこにアポロ(の後姿)は僅かに首を動かしてハクアに話しかけた。  
「かのんの体が今夜一晩ならばもつのというのは本当か?」  
「残念だけど、それはあくまでこれ以上血が出たり、怪我が悪化することはないというだけよ。  
 その体は普通で言えばもう死んでる。生きてるのはきっと貴女の加護があるからだと思う。  
 一晩もつというより、あと数時間しかもたないと言った方が正しいかもしれないわ」  
「なるほど、あいわかったぞよ。傷だけならばこれ以上悪くなることはないのじゃな? ならばよし」  
暗く沈んだハクアの声に女神は動じる気配を見せず、再び首を動かし、桂馬を見据えた。  
「さて、桂木桂馬よ」  
 
「なんだ?」  
唐突に名を呼ばれた少年は片眉を動かし窓に映った鏡像を見据える。正直に言えば自分に話が振られるとは思っていなかった。  
 
大声で叫びたかった。かのんは助かるのかと。  
問い詰めたかった。どうすればいいのかと。  
行動したかった。それが無駄だとしても。  
 
いずれもしなかった。思慮深く、感情よりも理論を重んずる少年にとって  
・・・・・・・・・・  
自分の無力をごまかすために無意味な行動をすることだけは決して許容できることではなかったからだ。  
少年が動くとするならば事態がここまで切迫するより前でなければならず、  
ここまで事態が進展した以上は事の成り行きを見守るしかできることはない。  
しかし、かのんの内に存在する女神は桂馬に話があるという。  
 
「うむ。お主とは先ほど僅かばかり話したが、どうやら無関係というわけではなかったようじゃな。すまなかった」  
「そんなことはいい。事態が急なのはわかってるんだろう。用件を言え」  
「せっかちな奴ぞよ、まあ今、わらわがお主に頼む用といえば他はない。かのんを救うため、力を貸してほしい」  
「僕に、何をしろって言うんだ。僕は悪魔でも女神でも医者でもない。  
 かのんを救うと言ってもなにもできない」  
 
「できる」  
 
「だから、何を」  
要領を得ないくせに断言を続ける女神に桂馬はすでに怒りを覚えていた。  
激情を必死に抑え込み、冷静な声を振り絞る。  
 
「わらわはお主のことをまるで知らぬ。こうして言葉を交わしても生意気な小僧としか思えんぞよ」  
桂馬の心を知ってか知らずか、女神は言葉を放つ。  
いかなる理性も感情も超越した旋律のような言葉。  
流れるように、歌うように、狭い保健室の中に響き渡る。  
「しかしな、同じ短い付き合いでもかのんの心はようくわかっておるぞよ」  
しかし、その声もかのんの名前を語るときだけ、ほんのわずか、かすかに同様の色を見せた。  
「ゆえに頼む。桂木桂馬よ――  
 どうかかのんに感じさせてやってほしい」  
ベッドに座ったままの鏡像は両手を胸の前に回す。  
祈りを捧げるように手を組んでいるのか、  
心を表すように手を交差させているのか、  
桂馬たちからはうかがい知れない。  
だがしかし、その声は真摯であり、清廉であり、なによりも、  
 
「――愛を」  
 
慈愛に、あふれていた。  
 
 
 
中川かのんが不安な夢からふと覚めてみると、自分が見知らぬ部屋のベッドで寝ていたことに気がついた。  
(どこだろ、ここ……)  
直接的には知らない空間だ。ただし、かのんもアイドル兼任とはいえ学生である。  
白い天井、かすかな薬品のにおい、ベッドを囲むカーテン、経験と知識からこの部屋は  
「保健室?」  
「起きたか。あまり、いい夢じゃなかったみたいだな」  
天井を向いたままつぶやくと、横から声が聞こえた。  
独り言を聞かれた、という事実よりも聞き覚えのあるその声に反応してかのんは身を起こし、布団を跳ね上げた。  
「桂馬くん!?」  
間違いなく桂木桂馬だ。舞島学園高等部の男子制服も、眼鏡も、一房だけ跳ね上がった髪も、  
わき目もふらず(そこがほんの少しだけ不満だった)プレイしている携帯ゲーム機も、  
すべてが自分の記憶の中にある桂木桂馬という少年そのものだった。  
「あまり騒ぐな。病み上がりだろう」  
華奢な外見からは少し想像しづらい男らしさを感じる声。  
夏休み終盤に行った勉強会で聞いたときと変わらない声に不覚にも涙が出そうになった。  
 
しかし、今この少年は気になることを言わなかっただろうか。強い違和感と恐怖心を呼ぶような言葉を……。  
「病み上がりって、その……どういうこと? 私、確か……」  
「テスト中にいきなり立ち上がって、わけのわからないことを言い出して倒れた。ずいぶん疲れがたまっていたみたいだな」  
冷静な言葉に目の前が真っ暗になる。  
ワケノワカラナイコト……?  
桂馬にあの日々を憶えていると告げたことも、  
桂馬も憶えていると応えてくれたことも、  
『好き』と伝えたことも、  
すべてうわ言? すべて夢? 仕事に疲れた自分が勝手に口走っただけ?  
嘘、嫌、助けて、  
声にならない悲鳴が自分の中で急速に膨れ上がる。心臓が止まってしまいそうだった。  
「ね、ねえ、桂馬君、私のこと……知ってる……?」  
憶えているか、と聞かなかったのは単純に怖かったからだ。  
勉強会の時のように否定されたら自分は死ぬ。何の根拠もなくかのんは確信していた。  
無限に感じる一瞬があった。桂木桂馬はゲーム機をベッドの上に置き、まっすぐかのんと視線を合わせ口を開いた。  
 
「知っている。中川かのんだろう」  
 
今度は涙をこらえることができなかった。触れたいという欲望にあらがうこともなかった。  
抱きしめる、すがりつく、ベッドの中へと引きずり込む。  
跳ね上げた布団がゲーム機を巻き込んで床に落ちた。知るものか。私以外で桂馬くんの目を引き付けるものなど壊れてしまえ。  
「桂馬くん、桂馬くん、桂馬くん桂馬くん桂馬くん桂馬くん桂馬くん桂馬くん桂馬くん桂馬くん桂馬くん、けいまくぅん」  
全力でその体を抱きしめる。細身ではあるが女子の体のように柔らかくない。すらりと余分なものがない体だ。  
「ねえ、憶えてる? 屋上で何度も歌ったこと」  
「……ああ、毎回派手な演出でどこから金が出ているのか心配になった」  
「えへへ、M資金だよ」  
あれほど必死になったライブはなかった。  
でもその分、彼が認めてくれた瞬間は天国にいるかのような気持ちに慣れた。  
「ねえ、憶えてる? 不安になるたびにコンサート会場に呼び出したこと」  
「……36回は呼びすぎだ。こっちの都合も考えろ」  
「でも、いつもちゃんと来てくれた。王子様みたいでカッコ良かったよ」  
本当は不安だった。昨日も来てもらったのにまた!? 数時間前にメールしたばかりなのに、無視されたらどうしよう。  
でも来てくれた。どんな手段を使ったのかは知らないが、数県跨いだ個所にある会場にも必ず駆けつけてくれた。  
 
「……ねえ、憶えてる? 臨海ホールでその、私が消えちゃったこと」  
「憶えている。だけどおまえも最後はステージに戻って歌えた」  
僅かに逡巡した質問にも何なく答える。間違いなく桂木桂馬だ。夢にまで見た、いいや、きっとこれは夢だ。  
カーテン越しでも気配で外は夜だとわかる。こんな時間まで学校にいられること事態がまずおかしいし、  
いることができたとしても岡田さんの監視は免れない。  
それにかのんとて自分の立場は知っている。仮に自分が倒れ保健室で寝ていたとしても、一人にされているはずがない。  
ましてこの人と二人きりで恋人のように抱きつくなんて……  
現実の自分はきっとさきほど考えた通りなのだろう。  
テスト中みんなの邪魔をして、取り乱して、挙句の果てに倒れてお仕事でも迷惑をかけて……  
でも心の底から思う。醒めないでほしい。この幸せな夢から解放しないでほしい。  
「ねえ、桂馬くん。私のこと、好き?」  
そのためだったらどんなことでもする。なんだってできる。  
媚びた上目づかいも、仕事場ですらめったに使わない誘うような声も、上唇をそっとなめ、男性の顔に顔を近づけるしぐさも。  
「ああ。好きだ」  
ほら、やっぱり夢。私、こんな卑しいことをあなたにさせてる。ごめんね、桂馬くん。肖像権の侵害だよね。  
「嬉しい……」  
首に手を回し、顔を近づけても彼は顔を真っ赤にしたまま視線をそらさない。  
意地になっているのだろうか。同い年なのにかわいらしいと失礼なことを思ってしまう。名誉棄損だ。ひどい女。  
 
眼鏡をかけていないせいでぼんやりしか表情は見えなかったが、ここまで近づけば同じだ。  
唇を触れ合わせる。彼の唇が焼けつくように熱い。身体が燃えてしまう。  
だが、その熱さが欲しくて、もっと彼を感じたくて、舌で彼の唇に触れた。  
経験などない。拒まれたらおしまいだ。開けて、開けて、と控えめに舌で唇をつつく。  
ほんの少し唇が開いた。わずかなチャンスを逃さないよう必死にねじ込む。  
堅いものに舌が当たった。歯だ。さすがにまだ舌を絡ませるのは怖いのでとにかく歯をなめてみた。  
気分は歯磨きだ。表面をゆっくりとなめて粘つく歯磨き粉を付けた後、ブラシを使って丹念に裏側も洗う。  
彼の口の中はものすごく甘い。何を食べたらこんなに甘くなるんだろう。虫歯になったらキスするとき私が困る。  
歯茎もきちんと洗っておかねば。上も下も満遍なく。歯槽膿漏になったら大変だ。  
奥歯も洗おうとするが、さすがに届かない。  
必死に舌を伸ばしていたら、ついに空いた隙間から歯磨き粉、いや、よだれがこぼれた。  
「あは……これでセカンドキスもささげちゃった。幻滅したよね。私、二回目なのにこんなことしちゃうんだよ。  
 あなたの気を引くためにこんなこともしちゃうの」  
自分にとって都合のいい夢にこんなことを言って何になる。頭の中でそんな声が聞こえた気がした。アポロかな。うるさい。  
「ボクは、現実(リアル)に幻想なんか抱かない。だから、お前がどんなことをしても幻滅なんか、しない」  
夢にしては程よく彼を再現していた。でも私にとって100パーセント都合がいいわけじゃないから満点はあげられないかな。  
「そう。じゃあ、こんなことをしても幻滅しないでくれる?」  
自分で驚くほど自然に、挑発的な目つきでかのんは制服のリボンに手をかけた。  
 
 
 
「愛を感じさせろ?」  
「うむ」  
女神の発言に桂馬は眉をひそめた。  
女神の力が愛を源にしていることは知っている。かのんを助けるために力をよこせ。そんなところだろう。しかし、  
「なぜ、ボクだ」  
そうだ。協力することはかまわない。むしろさせてもらえるならばどんなことでもするだろう。  
「ボクは、かのんを、愛していない」  
周囲が息をのむ気配が伝わる。この場面でそう言うことがどれほど残酷か、桂馬にもわかる。  
だが事実だ。桂馬はかのんを愛しているか、という問いに是、と答えることはできない。  
だが非ではない。かつてのような無関心にはなれない。それは認めるべきだ。意識はしている。そんな言葉が適切だろう。  
「そうかもしれんな」  
拍子抜けするほどあっさりと、女神は桂馬の言葉を受け入れた。  
 
「じゃあ、なぜ」  
「愛にも種類があるということを知っておるか、桂木桂馬。  
 恋人ばかりではない。親子、兄弟、友人、長く連れ添い、互いの価値すら忘れてしまった者たちの間にもまた愛はある。  
 発するばかりではない。受け取る愛にも多くある。敬愛、親愛、情愛、……実態のない、ただの思い込みすら愛と呼べる」  
「ボクがかのんを愛していると、かのん自身に思い込ませろって言うのか」  
「いかにも。言うたであろう、桂木桂馬。わらわはお主のことなど何も知らぬ。  
 じゃが、かのんがお主をどう思っておるかはよく知っておる。かのんは、お主に愛されたがっておる」  
言っていることは分かる。いつも駆け魂狩りでやっていることだ。偽りの想いで心を満たし、対象の人生を救う。  
なんら違いはない。だが何故迷う。どうして逡巡する。  
この事態を起こしたのは自分の責任だ。もっと早くから積極的に女神を探すべきだった。問題を先送りにした。  
「ああ。それなら……」  
「嫌ならしないというのも、ありぞよ」  
仕方がないな、と続けようとした言葉をあっけらかんと女神はさえぎった。  
 
「な……」  
「かのんがこうなったのはひとえにわらわの責任じゃ。わらわもかのんも自身が狙われていることは知っておったし、  
 かのんに至ってはお主を頼ろうともしていた。拒否したのはわらわの我儘じゃ。  
 護るべき人間などに頼ることはできないと考えておった。かのんもまた、わらわの護るべき者であったのにのう」  
だから気にする必要はない、と女神は言った。かのんの命も、自分の存在も。  
そんなことを言われてなお迷うことなど、桂馬にはできなかった。  
睨みつけるようなまなざしを窓に向けた後、桂馬はベッドで寝込むかのんを見据えた。  
「どうすればいい」  
「さしあたっては会話じゃな。かのんが喜びそうな、お主に対する想いを募らせるような、そんな言霊の応酬を頼む。  
 わらわはこれからかのんの中で治療に専念するぞよ。おそらくこれまで溜めた力のみならず、  
 これからお主の行動で得られる力もすべて使い果たすことになる。その後はこれまでのように眠りにつくことになる」  
「眠り? どのくらいだ」  
「さあて。三日かもしれんし、一週間かもしれぬ。一年か十年か。かのんが死ぬまで眠りっぱなしということもありかもな」  
「無責任な。旧地獄はどうなる」  
「それならばわらわの妹たちが何とかしよう。わらわよりもよっぽど頼れるものばかりぞよ。ディアナにも苦労をかけるな」  
「それは、いつものことです。もう、慣れてしまいました。いずれまた、会いましょう、姉さま」  
およそ数百年ぶりの再会であろうに、かわした言葉はほんの一つか二つ。  
気丈にも微笑むディアナの目じりにはかすかに涙が浮いていた。  
 
 
 
(そして現在に至るわけだが、……どうしてこうなった)  
目の前ではかのんが制服を脱いでいる。  
(さしあたっては会話、とアポロは言った)  
ピンクのリボンタイを見せつけるようにゆっくりとほどき、ブラウスのボタンが二つほど外される。  
さすがにそれだけで済むとは楽観していなかった。日常的な接点がほとんどないのだ。  
キスや場合によってそれ以上も考えていなかったわけではない。  
(しかし急展開過ぎる……。やはり、最初の展開がまずかったか)  
秋服のブラウスは厚手のものだが、存在感のある乳房がはっきりと自己主張していた。  
あそこでつじつま合わせの状況を口走るのではなく、自分との接点を語った方が良かったか。  
(……でかい)  
攻略手順の反省などしている場合ではなかった。  
女の裸自体は幾度となく見たことがある桂馬でも、さすがに女の脱衣をこれほど間近で見たのは始めてである。  
ふっくらと盛り上がったバストはその本質とは無関係にまるで現実感がなく、  
薄桃色の下着も相まって肉や脂肪というより巨大なマシュマロを布で飾っているような錯覚を桂馬にさせた。  
「あは。桂馬くんが見てくれてる……ねえ、もっと見て。私、桂馬くんに見られるの、大好き……」  
その大きさを強調するように両腕を乳房の下に回し、上目づかいで見上げるかのんの声にあらがうことができない。  
瞬きすることすら忘れ、食い入るように見つめてしまう。  
 
「どうかな……? ヘンじゃない?」  
「わからない……」  
「わからないの? じゃあ、私が初めて?」  
「ああ……」  
「嘘だよ……写真も、ビデオも、御本も、探せばいっぱいあるよ?」  
「探したことなんかない。それに、……こんな近くで見たこともない」  
「えへへ、そうなんだ。じゃあもっと見て。もっと近くでいっぱい見て。私もこんなふうに見られるの、初めてだよ」  
四つん這いでかのんがにじり寄り、腰を落とした桂馬にのしかかるような姿勢になる。  
目の前三センチという超近距離で巨大な肉果実が揺れ、我知らずつばを飲み込んでいた。  
先ほどのキスで濡れた喉が大きな音を立てて動く。誘うような動きに意識することなく手が伸びた。  
見た目に反して重量感はそれほどではない。つつんでいるはずの掌が逆に包まれるような不思議な感触。  
「あん」  
甘い声に驚いて電流が流れたかのように手を話す。にじり寄って遠ざかろうとすればすでにベッドの端だった。  
 
「す、すすすすまん」  
「いいよ。それより、もっと触って……。  
 見てもらうのもいいけど、触ってもらうのはもっと気持ちいいって分かっちゃったから」  
それ以上は口を開く時間すらもったいないとばかりにブラウスのボタンが外される。  
一つ、二つ、あっという間に脱ぎ去り、かのんの上半身は下着姿になる。  
目も据わっており、完全に桂馬を飲み込むつもりだ。  
「待て待て待て! いくらなんでもキャラクターが崩壊しすぎだ」  
「あはは。キャラクターが変わってるのは桂馬くんだよ。もっとしっかり私を見て。私に触って。  
 好きだって言って。  
 もう、やなの……こわいの。桂馬くんがいないなんて。桂馬くんが私を忘れてるなんて、  
 あんなところに戻りたくない。ずっとここにいたい。だから……」  
取り乱す桂馬にかのんが笑いながら近づく。心なしか、いや、実際に泣いているのだろう。表情だけはそのままで。  
 
「かのん……」  
そして桂馬は見てしまった。胸の谷間の下、臍の上にあるものを。  
傷だ。細長く、臍の上から胸のあたりを縦に走る傷。  
周囲の皮膚は醜くひきつり、傷の中央は溶接したかのように白い肉で埋められている。  
「え……? !?」  
期待していたものと違う種の視線に違和感を感じたのか、桂馬の視線を追ってかのんもそれを見た。  
瞬間、かのんのために作り上げられていた夢の世界は崩壊した。  
 
 
 

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