ことの始まりがいつだったのかは分からない。  
全てが終わった今でも、あの事件が起こった前後の記憶を思い出すのは難しい。  
だが、事件そのものの記憶は鮮明に残っている。おそらくこれからも記憶に深く残り続けるだろう。  
 桜の開花は歴史的な遅れを見せていた。母親が階段を踏み外して軽い捻挫をしていた。  
弱小プロ球団がペナントレースの首位を独走しているのが朝のトップニュースになっていて、全てのものが眠気をもよおしているように見える、そんな四月の日だった。  
「ありがとうございます」  
 それがエルシィが僕に向けて放った第一声だった。  
その時僕は耳にイヤホンをつけていたのだが、その声が聞こえる一瞬だけ、ゲームの音楽はたまたま鳴っていなかった。  
そうでなければ、彼女の声は僕の耳に届かなかったかもしれない。もちろん音楽が鳴っていなかったように思えただけかもしれない。  
 僕は反射的に、携帯ゲーム機をスリープ状態にした。  
まず、当たり前のことだが教師に声をかけられらたと思ったのだ。次に誰か知り合いの生徒だと思った。  
しかし即座に僕はそれらの案を打ち消した。教師が昼休みの自習室で今更僕に声をかけるとは思えなかったし、同級生が声を掛けてくるのはもっとありえなかった。  
僕は振り向いた。声の主は、教師でも生徒でもなかった。  
 背後には知らない女の子が立っていた。  
僕と同じかいくつか下ぐらいの年齢で、長い髪を一つにくくっている。制服を着ていたがそれはいかにも借り物のように見えた。  
「ありがとうございます」  
 また彼女は言った。イヤホン越しに響いてくる彼女の声を聞いて、なぜか僕はすっかり焦ってしまった。  
「静かにしろ。ここは自習室だ」  
 どう考えてもとんちんかんな返事をしてしまった。しかし彼女は、とてもよく分かります、とでもいう様に深くうなずいた。  
「はい。でも、誰もいませんよ」  
 確かに、自習室には誰も居なかった。四月のうららかに晴れた昼休みに、わざわざ図書館の奥の自習室に来る高校生はいない。僕ぐらいだ。  
 あまりに呆然としている僕に不審を抱いたのか、彼女はほんの少し訝しげに言った。  
「あの……メール送ってくれましたよね?」  
「メール? ああ、もしかして君があのメールの差出人?」  
わざわざ直接会わなくても良かったのに、と続けようとしてそんなはずはないことに気がついた。  
目の前の女の子の一挙一動、目線の動きや言葉の発音、その節々から彼女は僕にゲームの攻略法を聞くためにメールを送ってきたわけではないことに気がついた。  
予想もしていない、とても複雑で大きなことに巻き込まれ始めていることを悟ったのだ。  
「ありがとうございます」エルシィはまた言って、大きな黒い瞳を見せた。  
 
 これはとても複雑で理解するのが難しい話だと思います、とエルシィは話し始める前に言った。  
確かにそれは非常にややこしい話で、僕は全体の一割も理解できなかったと思う。かろうじて、理解できなかったことがぼんやりと理解できただけだった。  
「私は地獄から派遣された悪魔です」とエルシィは言った。  
「もちろん地獄というのは、便宜上のことです。私の立場は今回あんまり関係ありません。私がどこから来たとしても、神様にとっては何の関係もありません。  
あっ、そういう意味じゃないんですよ。私の来たところについて神様が知りたいって言うんだったら、喜んでお話させていただきます」  
 とにかく、終始こんな感じで話が進むのだ。  
たぶん筋道立てて人に説明することが苦手らしい彼女の話は、一度来た道を戻り、脇道に脱線し、そのことについて僕に謝罪し、謝罪の中からさらに脇に脱線した。  
長い時間をかけて、何とか三つのことを理解できた。彼女の名前がエルシィであること、彼女は僕にある女の子を「恋に落として」ほしいということ、  
そして、もしできなければ「たとえ話じゃなくて、神様の首が飛んじゃう」ということ。  
 彼女が話し終えると、沈黙が部屋を覆った。完全防音のこの自習室は、誰かが声を発しない限り何の音も聞こえない。  
この異常な事態に、理由を聞いてとりあえずでも納得してみようという気はとっくに失せていた。  
エルシィは何度でも同じ説明を繰り返すだけだろうし、駆け魂、心のスキマ、契約といった単語は千回聞いても頭で納得できるはずもなさそうだった。  
 恐ろしかったのは、彼女の話を聞いているとどうやらこれは夢ではなさそうだと思い始めてしまっていたことだ。  
彼女が放つ言葉はまさにうわ言そのものなのに、僕の頭は対照的にどんどん冴えていった。  
 最後の望み、つまり彼女が話していることはすべてジョークである、あるいはもっと単純に彼女は支離滅裂なことを口走って喜ぶタチの人間であるという可能性も、最後の最後に断ち切られた。  
午後の授業の予鈴が鳴ると  
「詳しいことは、明日また同じ時間に」と言って、彼女は消えた。  
瞬きと瞬きの間に消滅してしまったとしか思えなかった。一瞬で蒸発したように、悪魔のエルシィは姿を消した。  
 
 ここまで、とことん意味不明な出来事が起こっても人というものは習慣を変えようとはしない。  
僕も、いつものようにその日の午後の授業を受けると、帰宅して部屋に入りまず3台のパソコンの電源を入れた。パソコンが立ち上がるまでに服を着替え、鞄に入れた携帯ゲーム機のスリープを解く。  
昼休みに慌ててスリープにした直後からゲームが起動する。それを見ると、確かにあれは現実の出来事だったのだと実感する。黒い髪の女の子、エルシィ。彼女の姿は何か違和感があった。  
すらりと通った鼻筋に幼さを感じさせる目。そんな彼女と周りの風景に、1枚の透明な膜があるように感じた。周りと溶け込んでいない。その居心地の悪さは何だったのだろう。  
そう考えながら、起動したパソコンの一台の前に座った。ヘッドホンを両耳に装着し、HDDから昨日から始めていたゲームのアイコンをダブルクリックする。  
 
 従兄がいなくなったのは、僕が9か10歳の夏だったと思う。どちらだったのか分からない。  
親や親戚の話、アルバムの写真、僕の記憶をたどれば断定は出来るのだろうけど、それにはあまり意味がない。  
9歳か10歳の時に従兄は消え、僕は紙袋一杯のギャルゲーをを手に入れた。  
 当時、僕は人見知りだった。世の中の無数の人々のうち、両手で数えられるほどの人としか会話を交わそうとしない、徹底した人見知りだ。  
いなくなった従兄は僕がまともな会話を交わすことのできた数少ない人の一人だった。  
 従兄はその年大学の2回生で、僕の家から歩いて1000歩のアパートに下宿していた。  
彼が大学入学と同時にそのアパートに下宿し始めると、僕はかならず月に2回は遊びに行った。  
従兄は僕が訪ねると、いつでも心の底から歓迎してくれていろんな話を聞かせてくれた。  
それは僕にも読める面白い小説の話であったり、サッカープレミアムリーグの話であったり、フクロウの面白い習性であったり、世界遺産の話であったりした。  
それらの話はただ一つ、僕にとってとても面白いという点でだけ共通していた。  
 たとえば小学校で僕はひとりぼっちだった。休み時間に僕に積極的に話しかけてくる子はいなかった。  
けれども僕は小学生にして自分が一人である原因を知っていた。僕は他人の気持ちが分からなかったのだ。それは、他人の考えていることをとことんまで考え過ぎるということだ。  
何をするにしても周りの人々の気持ちを想像してみる。少しでも気に触るような言動を起こさないように。  
当時の僕は、想像してみれば他人の気持ちが分かると思っていたのだ。そのようにして、僕の周りから友達は離れていった。皆は僕を必要としていなかったし、僕も皆を必要としていなかった。  
 だから、従兄が外国に行くと言い出した時は悲しかった。これが別れの悲しみなのだということを初めて心で理解した。  
「まずはヨーロッパに行こうと思う。イタリアとかね。それからどこに行くかはわからない。うん、一人だ。これは一人で行かないと意味がない。どれぐらいかかるかは分からないけど、少なくともすぐに帰ってくることはないと思うよ」  
 そして従兄は僕にアパートの合鍵を握らせた。  
「僕がいない間、この部屋に置いてあるものは好きにしていい。どの本も漫画もゲームもパソコンも自由につかっていい」その日のうちに、彼は僕以外の誰にも告げずにこの街を去った。  
 彼が去ってから僕は二日に一度アパートに向かった。長い時間を二人で過ごした部屋で、僕は放課後を過ごした。  
ある日は本棚から一冊の小説を取り出して読めるところまで読んだ。ある日はバスケットの試合のビデオを身じろぎもせずずっと眺めた。ある日は戦艦の模型を頭の中に明確に焼きつけようとあらゆる角度から観察した。  
 僕はまた、部屋にあるものを少しずつ僕の部屋に運んでいた。ランドセルに本棚の本を詰めて家に持って帰った。この部屋がこのままの状態でいるのが長くは続かないだろうということを僕は何となく感じていた。  
従兄から本などをもらってくることは前から珍しくはなかったから、母も特に追求することはなかった。彼の持ち物だったものが僕の部屋に増えるにつれて、僕は安らぎのような感情をもった。  
 従兄が消えて1ヶ月が過ぎた時、家に母へ電話がかかってきた。母の姉、つまり従兄の母親からだった。ヒステリックに騒ぐ叔母と、母の反応からして従兄の件が発覚したのだと分かった。実際にその通りだった。  
「1ヶ月目で分かったのは奇跡だわ」と後で僕の母は言っていたが、それが速いという意味か遅いという意味なのかは判断がつきかねた。  
 その電話を聞いて僕は矢も盾もたまらず従兄のアパートに走っていた。従兄がいなくなったことが分かったら、あの部屋はおそらく解約されるだろう。  
そうすると、もうあの部屋にいくことはできない。鍵を開けて部屋に入った。できればこの部屋のものすべてを持って行きたかったが、物がなくなっているさまを祖母が見れば強盗にでも入られたと思うかもしれない。  
悩んだ末、数十冊の本と無数に置いてあるゲームソフトの入った紙袋を持っていくことにした。本棚の本はそもそも異常なほど大量にあったので、少し抜けていても気づかれないだろう。ゲームソフトの紙袋も福袋のごとく並べられていた。  
両手で重い紙袋を持って、ドアの鍵を閉めた。そして近くの川に架けられた橋の上へ向かった。日は暮れていて街の明かりが目の奥を刺激した。僕はポケットからアパートの鍵を取り出し、町の光めがけて思いきり投げた。  
 
 従兄の消失が明らかになり、アパートの部屋に別人が住み始めたのをきっかけに、僕は従兄の部屋から持ち出した本を読み始めた。  
もちろんそれまででも彼から貰った本は大体目を通してきたが、興味の比較的薄い本は、流し読みかほとんど手つかずで済ましていた。  
そうではなく、彼の持っていた本すべてを読もうとしたのだ。毎日学校から帰ると、すぐに本に手をかける。読み終えると、息継ぎする間もなく次の本へ。全ての本の、すべての文字に目を通そうとした。  
来る日も来る日も、ただの一文字も飛ばすことなく文字を追い続けた。それと並行して、彼の部屋から持ち出した他の物も取り出し始めた。メジャーリーグ全球団のピンバッジを3時間眺め続けたこともある。  
本棚二つを埋めるほどの本をすっべて読了し終えたとき、僕は中学一年生になっていて、季節は初夏だった。  
 最後の本を読み終えた次の日、本棚の小説をすべてダンボールに詰めて古本屋に売った。そして最後に残った紙袋を開けた。あの日アパートから持ってきた紙袋にはゲームソフトが詰まっていた。  
中身の3分の1はパズルゲームで、残りの3分の2は恋愛シュミレーションだった。おそらく、並べてあった紙袋にはジャンル別にソフトが入れられていたのだろう。  
 従兄の数ある娯楽知識の中でも、特にテレビゲームに関してはすごかった。実際に数え切れないほど一緒にゲームをプレイしたが、その会話の中でもギャルゲーに関する話題はしばしば登場した。  
もちろん僕にそれをプレイさせようとはしなかったが、それは小学生だからというもっともな理由のほかに別の理由が見え隠れしていたように思える。できればギャルゲーなんて一生やらない方がいい、という意味のことを従兄はたまに言っていた。  
「でも、ギャルゲーみたいなゲームをやるやらないっていう選択をするのは、意志の問題とはまた少し違う。やらない方がいいけど、気がついたらやらざるを得なくなってるってことがほとんどなんだよ」  
 彼の本をすべて読んだ後、総仕上げとして僕は紙袋に詰まったギャルゲーをプレイすることに決めた。初めは本と同じように一字一句見逃さないようにディスプレイを食い入るように見つめた。  
だが、それは三十分であきらめた。このゲームは、小説とは違う。ましてや、現実ではない。桃色の髪の少女がほほ笑み話すその世界はどこでもなかった。  
見たくないもの、見てはいけないもの。知りたくないもの、知ってはいけないもの、それらが全て排除された、ここではなく、どこでもない世界。季節が初夏から冬に移るにつれて、紙袋の中のゲームは減っていった。  
そして最後の一本、数百本目のゲームを僕は泣きながらプレイした。それは、ゲームの内容とは何の関係もない涙だった。もはや僕は、誰かの物語で泣くことなんてできなかった。ただ自分自身のためだけに、涙を流し続けていた。  
 それから僕の生活は変わった。僕自身が変わったわけではない。見えなかった何かを見つけたといえるかもしれないし、持っていた何かを落としてしまったと表現できるかもしれないが、僕は変わっていない。  
だが周りの生活が変わったのは事実だ。学校で人並みに他人と会話するようになったのである。  
 
 ヘッドフォンは美少女の甘い吐息で満ちていた。画面上で彼女の肢体がこれでもかというほどに、艶めかしく動いている。  
だが今日はずっと昼間の出来事が頭に残っていて、文章が目の上っ面を素通りしていくだけだった。諦めてゲームのウィンドウを閉じ、隣のパソコンでウェブブラウザを開いた。「神のみぞ知るセカイ」のページを開く。  
それは三年前から僕が運営しているホームページだった。千を超えるタイトルの攻略・批評を中心とするネット上でも有名なギャルゲー・エロゲーの総合サイトだ。  
 決して誇張ではない。従兄のゲームを全てプレイし終えた後も、僕は毎日新たなギャルゲーをプレイし続けた。小遣いと従兄の本を売ったお金はすべてゲームにつぎ込んだ。  
お金がなくなってもプレイするゲームに困ることはなかった。現代ではゲームをプレイするのに必要なのはお金ではなく、モラルを捨てることだけだ。  
そんな日々を送り、プレイしたゲームの攻略法をコミュニティサイトに書き込むことを続けているうちに、僕には「落とし神様」というあだ名がついていた。  
僕は「神様」というふざけた、どこか哀しい言葉の響きが気に入って、自分のホームページを作ったときにもタイトルに冠してみた。画面の中の彼女たちには知る由もない、神である僕が生きている、神のみぞ知る世界。  
 一日に数万件のアクセスがあるこのサイトの「名物」は、掲示板での管理人――つまり僕の書き込みにあるらしい。  
つまり悪ふざけで僕が書く、ゲームやマンガのキャラクターに対するちょっと笑ってしまうような愛情の書き連ね。または架空の女の子と僕が二人で過ごしているという妄想上のエピソード。  
これらはすべて、従兄のソフトをすべて終えたあたりから僕が編み出した処世術によるものだ。まるで意味のない、けれどもとにかく他人を笑わせることができるセンテンスをとにかく口から飛ばす。  
そうすることによってとりあえずは対人関係は円滑に進む。役を演じる方が、ありのままでいるよりよっぽど単純で簡単なのだ。掲示板にそんな文章を書き込むたびに、僕の胸の奥底では何かがうずくような感覚がある。  
 サイト利用者とは違って僕が一番重要だと思っているのは、ゲーム攻略のコンテンツだった。そもそも僕がギャルゲーやエロゲーの恋愛シュミレーションに惹かれた理由を説明するのは難しい。  
ただ、この攻略という概念がとても自分の中では重要なのだということは感じていた。ある一定の選択をすれば、ストーリーは一本道に進む。そこには現実のように、他人の心を想像する必要がない。  
彼女らの心の動きは数式のように一つの樹形図にまとめることができる。――いつもここで思考は終わってしまう。僕が数年の時間をかけてやってきたことの理由は、自分自身でも納得のいく説明が付けられない。  
だからなのかは分からないが、サイトに届くメールでゲームの攻略法を質問された時は大抵丁寧に答える。今日もそうだった。昼休みにだれもいない自習室でゲームをしようと教室の席を立ったとき、一通のメールが届いた。  
「どんな女でも落とせるという噂をきく。まさかとは思うが、本当なら攻略してほしい女がいるのだ。自信があるなら返信してくれ」  
 具体性も何もない酷い質問メールだと思ったが、一応具体的なソフト名とキャラ名を明記の上返信してください、という旨のメールを返信した。そうして、エルシィが現れたのだ。  
 ディスプレイから目を離し、両手を頭の後ろで組む。やはり、部屋の景色はいつもとは違って見える。エルシィのように、嫌な感じの違和感を頭に残す。そしてその違和感は次の瞬間には気のせいだったように跡形もなく消え去ってしまっている。  
何かが変化してしまっている。でも、と僕は従兄の持っていた小説の一節を思い浮かべた。何かが変化するときには、気づいた時には何もかもが変わってしまっているのだ。  
 
「どういうことですか神様」再びエルシィと会ったのはそれから一週間後の放課後だった。自宅に入る直前、背後から声をかけられた。仕方なく近くの公園のベンチに二人で腰を下ろした、  
「一体何をしてるんですか?」  
 腰に手を当てて怒る姿は、外見の幼さに似つかわしくなくて、ついほほが緩んだ。意味不明な出来事が次々に起こる中で、ようやく人間らしい一面を見れたようだ。  
「放っておいてくれ。僕には僕のやり方がある」  
 高原歩美。それが彼女の名前だった。陸上部のエースで、誰とでもすぐに打ち解ける明るい性格、そして器量は悪くない。  
「だいたい、同じクラスなだけの女子といきなり仲良くなれるわけがないだろ」  
 絶対にこちらに理がある正論も、エルシィの眼を見ていると恐ろしく馬鹿げたことのように響いた。  
「大丈夫ですよ神様。私達のメールに返信してくれたじゃないですか」  
「あれは手違いだ。ゲームの中の話だと――」  
「ゲームの中、だから何なんですか?」  
 エルシィのトーンが急変した。彼女ではなく、誰か別人の言葉だ。  
「言うまでもなく、神様のことは私達は知っています。神様本人よりもよく知っているかもしれません。大丈夫です。ゲームの中のようにすれば、すべてはうまくいきます」  
 何か僕は言うべきだったのだろう。だが言葉は何も出てこなかった。  
「問題は、神様が行動するかしないかだけです。神様が動けばすべては解決します。誰にとっても悪い話じゃない。  
でも神様がこのまま何もしなければ、どうなるかは分かりません。どこまで悪い結果になるかは予想できないんです」  
 エルシィは立ち上がった。  
「頑張ってください。神様」  
 その天使のような笑顔は、やはり公園の風景とは混じり合うことなかった。  
 
 
 翌日登校し、高原歩美が左隣の席に座ると僕は彼女の横顔を見つめはじめた。頭の中では昨日のエルシィの言葉をずっと反復させ続けていた。  
そうして午後の授業が終了するまで、彼女の横顔を見つめ続けた。一日中すぐ傍でクラスメイトが自分を見ていて、何も気が付いていないのはあり得ないことだった。  
しかし、彼女は実際に全く何の反応も示さなかった。放課後陸上部の練習に参加している彼女を、僕はグラウンドの脇で見た。彼女だけではなく、周りの人皆が僕の視線に気が付いていないようだった。  
 翌日も、その次の日も僕は彼女の横顔を見つめ続けた。従兄のピンバッジを眺めたように、高原歩美の睫毛の長さ、髪をいじる仕草、息づかいを眺めた。  
 機会をじっと窺って数日後、きっかけはやってきた。その日の教室の掃除当番は僕と高原歩美の二人だった。  
「ねえ――」  
 彼女が僕に対して初めて口を開いた。  
「今日の掃除やっといてくれない? 今部活でいっぱいいっぱいでさ――」  
 それがスタートの合図だった。僕は即座に、思いつく限りの語彙を駆使して笑ってしまうようなふざけた冗談の返答をした。幸運なことに――本当に幸運なことに高原歩美は笑ってくれた。  
畳みかけるように僕は最悪の悪ふざけを演じた。頭に血がのぼるのが分かったが、その理由は自分ではわからなかった。結局その日の掃除は二人で行い、話声と笑いが絶えることはなかった。  
 それからおよそ一月の間、僕と高原歩美は幾度となく声を交わしあった。授業中、移動教室、昼休みに二人で弁当を食べたこともあったし、一度など二人で買い物に行ったこともあった。  
彼女の部活動に関する面倒事が起こり、解決した。結果的には全てがうまく言った。そして高原歩美と親密になるにつれて、エルシィに感じていた現実との剥離感は加速度的に強まった。  
あらゆる出来事が、夢の中で起こることのようだった。けれども、僕にはどうすることもできなかった。僕に選択肢はないのだ、と自分に向かって言った。  
でも、もし選択肢が表れても僕の朦朧とした視力ではそれに気がつくこともできなかっただろう。  
 その日の昼休み、公園で会った時以来にエルシィが現れた。  
「もう彼女の心のスキマは殆ど埋まっているといえます」  
 僕と一緒にグラウンドを眺めながらエルシィは言った。  
「後は、最後のひと押しです。それで駆け魂は捕まって、私達の仕事はおしまいになります」  
 最後のひと押し。僕は呟いた。  
「分かってる。今日だ。今日すべてを終わらせる」  
「分かりました」  
 そう言うとエルシィはお辞儀をした。  
「早いですけど、改めてお礼を言わせていただきます。神様」  
「うん」と僕は言った。  
「もう、会うことはないだろうな」  
「そうですね」エルシィは芝生に座っている。僕もその隣に座った。予鈴が鳴るまでの時間、僕たちは何も言わずにそこに並んで佇んでいた。  
 
 掃除が始まってから、僕と高原歩美はお互いにお互いを見ないように努めていた。教室に二人きりになってすぐに、僕の心の中に耐えがたい彼女への欲求が存在することに気がついた。  
それは今まで感じたどんな欲求とも比べ物にならないぐらい強力なものだった。  
炎天下の砂漠を12時間歩き回った後の水への欲求、フルマラソンを終えシャワーを浴び食事をした後の睡眠への欲求、それらと同格の欲求だった。  
ゆっくり歩かないとこぼれ落として爆発してしまいそうな感情、彼女の姿を見てしまうとそれがどうなるのか見当もつかなかった。そして、同じ空間にいる彼女からも僕と全く同じ欲求があることがわかっていた。  
お互いに無言で箒を動かし続けた。教室内の空気は熟れすぎた桃のように、どうしようもなく微妙に緊迫していた。  
 僕は箒を置いた。意を決して彼女の居る方向を向くと、彼女は後ろを向いていた。彼女のスカートからのびるふとももは、何かにこらえ、自分を戒める様に固く内側にすりあわされていた。  
僕の欲求はとっくに器からはみ出て、あたりを濡らしていた。僕は熟れすぎた桃を突いた。  
「歩美」  
 背後から高原歩美を抱きしめた。こらえていたものが崩壊するように彼女は声を出した。僕の肩、胸、へそ、ふともも、股間の隆起が彼女の背中のくぼみに合わさる。  
「歩美」  
 真っ赤に染まる耳にめがけてもう一度言う。制服のズボン越しにペニスを彼女のお尻の谷間に擦りつける。ペニスによって刺激を与えるたびに、身をよじる。  
足を彼女の足に絡ませ、内太ももと内太ももを擦りつける。ズボン越しに彼女の太ももが湿っているのが分かった。  
 前に回って彼女の顔を正面から見た。すぐに上気する頬と意志とは無関係に半開きになった口、その唇に糸を引いているだ液。僕は右手の人差し指をそのつぼみに近づけた。  
指の最も鋭敏な場所に、間違いなく電流が走った。口内僕の人差し指は頬張られ、舐められ、吸引される。彼女も同じように人差し指を僕の口にくわえさせる。  
人差し指から伝うだ液が手首に来るころようやく僕たちは指を引き抜き、そして今度はお互いの唇を合わせる。僕は彼女でまみれた右手で背中をなでる。腰をなでる。お尻をなでる。  
そのたびに抑えきれなくなった喘ぎ声がからめ合った彼女の舌から漏れた。  
 キスが終わると彼女は自然に教室の床に寝ころんだ。僕も彼女の上に覆いかぶさった。二人の間に会話はなかった。僕は彼女を求めていたし、彼女も僕を求めていた。それで充分だった。  
膝を立てて寝ころぶとスカートが捲れて、白い下着が濡れそぼって太ももに彼女の汁がたまっているのが分かった。彼女のブレザーのボタンをはずすと、ブラジャーとブラウス越しに乳首の形がはっきりと分かった。  
彼女は何も言わない。ただ僕を見る。僕は濡れた人差し指で、それを押す。彼女は甲高い、教室中に響き渡るような喘ぎ声をだし、直後にその自分自身の声に赤く縮こまって恥ずかしがった。  
会話のない僕たちには時間の概念もなかった。ただ、とても長い時間をかけてお互いの体の考えられるすべての部位を触り、舐めた。僕の欲求は初めよりもさらに激しい勢いを保ち続けていた。  
「痛い」  
 やがて彼女は言った。実際には口に出さずに目で訴えただけかもしれなかったが、その二つの間には何の差もなかった。僕は彼女の左肩を、思いがけず強く握りしめていたようだった。  
「痛いよ」  
 今度は本当に口に出していた。でも僕はそれを無視して、彼女の中のペニスを上下に動かした。エルシィの顔が浮かんだ。神様が動けばすべてが解決します、とエルシィは言った。考えるな。何も考えるな。  
頭の中で唱え、口に出した。高原歩美は、僕の動きに合わせて声ではない声をあげつづけた。本当に長い間、僕は彼女の中で動き続けた。限界になり、引き抜いた瞬間に射精した。  
体の水分が全て抜けてしまったかと思うほどの精子の量だった。教室の床には彼女の愛液と僕の精子で小さな水たまりができていた。  
体の動力をすべて抜かれたような疲労感が一気に訪れた。なすすべもなく僕は崩れ落ち、まぶたが降りると一瞬で僕の意識は闇に溶けた。  
 
 夕焼けの日差しで目が覚めた。高原歩美の姿はなく、僕と彼女の体液でとても着れたものないはずの制服を僕は着ていた。  
教室を見回して何か違和感があると思い、それは違和感がないことに違和感があるのだと気がついた。  
エルシィと初めて会った時以来感じていた違和感は消え、机、椅子、掲示物、あらゆるものに以前の現実感のある現実を感じることができた。  
 氷のように重たい体を動かして、グラウンドわきまで来た。グラウンドでは陸上部が練習を終え、タオルを首に巻き仲間たちと談笑しながら歩いている。  
僕には最後に確認しておかなければならないことがあった。大勢の部員達の中から、高原歩美の顔を見つけた。僕は右手を上げて大きく左右に振ってみた。  
彼女もそれに気づいて僕を見たが、その表情は完全に「クラスメイトという以外に何の接点もない、知り合いの男子」以外の何物でもなかった。  
彼女は隣のチームメイトに何事か冷やかされ、ほんの少し顔を染めながらなにかしら言い返していた。僕はグラウンドに背を向けて歩き出した。そして2度と振り返らなかった。  
 帰り道、最後の力を振り絞ってスーパーマーケットで4Lのペットボトルのミネラルウォーターを買った。部屋に入り、キャップを開けた。そして何のためらいもなく、パソコンの上にかけた。  
3台のパソコンに、ペットボトルがなくなるまで水をかけた。あらゆる隙間から水がはいり、パソコンの中のすべてのデータが消えていく様を想像していると、だんだん元気が出てきた。  
これでいい。僕は確信していた。僕は、生まれて初めて正しいことをしている。水は机を伝い、床に流れやがてとどまった。僕はすべての水滴があるべき場所にとどまるまで、ずっとそれらを眺めつづけた。  
 

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