あの日あの時……確かにあなたがいた――
『I'm here saying nothing』
初めてあなたに出会ったのは、放課後の図書館でした。
と言っても、当時の私は図書館以外に居場所がなかったのですから、当然と言えば当然です。
あの時、あなたは消防車の本を探している妹さんと一緒に図書館に来たんですよね。
私ったら消防車が書いてある本を全部持ってきちゃって……
やりすぎたかな? 気味悪がられたらどうしよう? とか思っていたんですよ。
ふふ、不思議ですよね。
人見知りの私が、初対面の人にそんな事を思うなんて。
今思うと、私はあの時すでにあなたを意識していたのでしょう。
でも、当時の私はそれに気付かなくて……結局その日は何も話せずに終わってしまいました。
もっと話したい、もっと触れ合いたいと叫ぶ心を押し殺して――
そんな自分を、図書館という虚構の城に閉じ込めて――
きっと、変な女って思ったでしょうね。
……そんな事ない?
ふふ、いいですよ、無理しなくても。
自分でもそう思うくらいですから。
だから次の日、あなたがまた図書館に来た事にとても驚いたんです。
高い所にある本を取ろうとしてバランスを崩した私を、あなたは優しく抱きとめてくれましたね。
いきなりの出来事に驚いて、とっさにお礼も言えなくて……
色々考えた結果、出てきた言葉が『あれ』だった事は忘れてください、お願いします。
……忘れて、頼むから。忘却の地平線に流して、今すぐに。
だ、だって……男の人に抱きしめられたのなんて初めてで……
華奢だけどしっかり男性の身体だったし、女性とは違う匂いとか……って、何言わせるんですか!
あ、いえ、その、言ったのは私ですけど……もう、知らない!
……あなたは優しいけど、たまに意地悪になるからずるいです。
あの時だって、『本はもうなくなっていい』とか言って……
え、怒ったかって?
当たり前です! 怒らない方がおかしいです!
本の重さ、表紙の手触り、紙を捲る感触、紙とインクの匂い……どれもディスプレイでは味わえないんですよ!
青空文庫とか邪道です! ケータイ小説なんて本に対する侮辱です!
……す、すいません、ちょっと熱くなってしまいました。
と、とにかく、意地悪するあなたは嫌いです!
図書館の本に勝手に書き込むし、自分の本にも書き込むし……
自分の本ならいいじゃないかって? 紛らわしい事しないでくださいって事です!
……もう、あなたといるといつもこんな感じ。
こっちのペースが乱れて、言わなくてもいい事まで言ってしまったり……
その……さっきつい嫌いって言っちゃったけど、それはあくまで意地悪するあなたという事で……
だから、その……意地悪しないあなたは……好き、かも。
……もっと大きな声で言ってくれ?
……馬鹿! やっぱり嫌い、嫌いです!
嫌いって言ってるのに、なんで笑うんですか、もう!
……前にもこんな事ありましたよね。
もう来ないでって言ったのに、堂々と図書館に入り浸ったり……絶対、私をからかってますよね。
違うって?
ふん、もう信じません!
でも……あの時、図書館を好きって言ってくれた事は……信じます。
そう言えば、あの時初めてお互いの名前を知ったんですよね。
初めて会った日から数日しか経ってないのに……なんででしょう、もっと前から知っていた気がします。
それだけ、あなたの事を意識していたって事なんでしょうか。
……それにしても、あなたも変な人ですよね。
こんな話しても面白くない私を相手にして。
私が図書館に篭った時も、一緒に篭ってくれたし……
なんであの時、一緒に篭ってくれたんですか?
図書館が好きだとあなたは言ってくれたけど、他にも静かな場所はあるし……
本が処分されても、あなたが困る事はないし……
なんで、あなたは一緒にいてくれたんですか?
……え、何? よく聞こえなかったのでもう一回言ってください。
顔が赤い? 気のせいです。
それより、今の言葉をもう一回言ってくれませんか?
意地悪? ふふ、だってあなたの真似ですから。
私の気持ち、分かってくれました?
……本当に? じゃあ、今の私の気持ちも分かります?
何、恥ずかしがってるんですか。
あの時、無理やり私の初めてを奪ったくせに。
性格変わってる? 誰かから勇気を貰いましたからね。
だから……あの時、私の閉じこもっていた心を解き放ってくれた時のように……
今度は優しく、閉じ込めてください。
あなたの心の中に――
*****
「何してんの?」
「っ! な、なんでもない!」
「……ふーん、じゃあ栞も手伝ってよ、本の整理」
「わ、分かった」
慌てて隠したせいでくしゃくしゃになってしまった原稿用紙を、私は溜息とともにカバンの中へと隠しました。
何を書いてるんでしょうね、私。
こんなの書いても、誰も読む人なんていないのに。
でも……あの日あの時、確かに誰かがいたんです。
私に勇気をくれた、誰かが。
「栞ー、早く手伝えー」
「う、うん!」
今は私の心の中にだけ存在する、あの人。
でも、いつか――
「神にーさまー、今の時代はダンプカーですよ、ダンプカー!」
「今の時代って、いつの時代だ」
歩き出そうとした視線の先、兄妹と思われる仲の良い二人組がこちらに歩いてくるのが見えました。
「これからです! これからは確実にダンプカーの時代です!」
「そんな訳あるか……大体、ダンプカーの本なんてあるのか?」
「ありますよ! 消防車の本だっていっぱいありましたし!」
近づいてくる二人。
何故か、私は動けなくなってしまいました。
兄と思われる男の人。その人しか目に入らなくて。
「いっぱいって……どうやって探すんだ、この中から」
「そんな時は……ほら、受付の人に聞けばいいんですよ」
そして、彼はこちらに気付いて――
「こらー、栞ー、サボるなー!」
「あ、う、うん……」
「ほら、受付の人も忙しそうだし今日は無理だ、諦めろ」
「えー、せっかく来たのにー」
「ほら、行くぞ」
そう言って、帰ろうとしたその人の腕を――私はとっさに掴んでいました。
「!? な、何?」
誰よりも一番驚いていたのは、私自身だったと思います。
自分がまさか、そんな事をするなんて。
でも――そうすべきだと、心が叫んでいたから。
だから――勇気を出して。
あの時に貰った、勇気を振り絞って。
「そ、その……」
あの日あの時……確かにあなたがいた。
今はいない、私に勇気をくれたあなたが。
今は私の心の中にだけ存在する、あなた。
でも、いつか――私の前に現れてくれるはずだから。
「い、一緒に本を探しましょうか?」
『I'm here saying nothing with you』- End.