「八島様、どうか、息子の病気を・・・・・・」
「借金の返済が・・・」
「隣の家のばばぁがよぉ・・・」
人の願いは様々だ。それこそ数え上げればきりがない。きりがないのなら、当然、叶う願いもあれば、叶わない願いもある。
そして叶わない願いは圧倒的に多い。
全部の願いをかなえてあげられたら、と八島様は思う。
「でも、それじゃあ、神様じゃありません、か・・・」
夕方にもなると、神社の参拝者もほとんどいなくなる。八島様は本堂の畳の上に横になりながら、うとうととし始めていた。
「やしまたま〜、どこ〜」
すると廊下からとてとてと、かわいい足音。やがて一人の少女が本堂に入ってきた。
「やしまたま、ここにいたの〜」
「あぁ、すみません。祀さん、少し、疲れたものですから、気がつかなくって・・・」
祀と呼ばれた少女はぷぅと頬を膨らませた。
少女の本名は三枝 祀。
この神社――八島神社の長女である。
「もう、やしまたまったら」
満面の笑みを浮かべながら、少女は歩み寄ってくる。「きょうは、なにしてあそぶ?」
「そうですね・・・」
神社の血族には、少なからず視える者たちがいる。祀もそのひとりだった。
「・・・ん? 祀さん、その、手に持っているものはなんです?」
そうだ、わすれてた、と祀。ぐぃと、右手に持っていた「花」を差し出す。
「これ、やしまたまにあげる」
八島様は花を受け取ると、しげしげとその花弁を観察する。
「この花は・・・ツツジですね」
「・・・ツツジ?」
「ええ・・・そうですよ。綺麗な花でしょう・・・花言葉は、たしか――初恋」
「ち、ちがうもんっ!」
と、そのとき祀が顔を真っ赤にしながら怒鳴った。ぷぃっと顔を背けると、そして境内の方へと走り去って行く。
八島様は慌ててその小さな背中を追いかけた。
「ど、どうして逃げるんですかっ」
「ばかっ」
そんな追いかけっこが続くこと数分。やがて祀が足を止めた。二人とも荒い息をつきながら、地面にへたり込む。
陽が落ち始めていた。オレンジ色の空を数匹の雀が連れ立って泳ぎまわっている。二人はしばらくその様子を眺めていた。
「やしまたま・・・ずっと、一緒?」
やがて、俯きながら、祀が淋しげな声を漏らした。
「ずっと、一緒ですよ・・・」
嘘をついた。あと数年も経てば、この子は、”視えなくなるだろう”。でも、言えるはずがなかった。ツツジ。花言葉。初恋――
「やしまさまっ、だいすき!」
少女が嬉々と飛び跳ねる。八島様はいつまでもその姿を眺めていた。
「八島様、どうしたんですか、ぼーっとしちゃって。ツツジがそんなにお好きですか?」
季節は春。優しげな太陽の下――三枝家の縁側。
隣に座る、おかっぱ頭の少女がたずねた。
「少し、昔を思い出しまして・・・」
なんでもないですよ、と付け加える八島様。その視線の先には、燃えるような赤を咲かせているツツジの花。
おかっぱ頭の少女は、不思議そうに首をかしげた。
「たっだいま〜、みこ〜? おやつ買ってきたわよ〜」
玄関から女の子の声。するとおかっぱ頭の少女は、可愛い瞳をきらきらとさせながら立ち上がった。
「八島様、また、あとで、お話しましょうね」
それだけ言うと、急ぎ足で去っていく少女。すると八島様の目に、その小さな背中が、
あの日あの時――ツツジの少女の背中と重なる。やがておかっぱ少女の背中は廊下の角で見えなくなった。
ツツジの少女は、やはり数年後、視えなくなった。悲しくないと言えば嘘になる。でも仕方のないことなのだ。
こうやっていつの時代も、自分だけがある種の宿命的な砂時計によって時間を止められ、やがて埋もれていくのだ。
ツツジを見るといまでも思い出す。燃えるような花弁の色に重なって、少女の笑顔。
二人が再会するのは、もうすこしさきのお話である。