シーツとブランケットで区切られたこの空間が、世界のすべて。  
 遠い潮騒も、自分と王の心臓の鼓動の音と呼吸する音とで聞こえなくなる。  
 王と…いや、カザミと、自分とが共有するこの空間だけが、世界だ。  
 傷を負った王の体は、ブランケットの中の空気を強く暖めて、海風にさらされて  
冷えていたネフェルティティの体を包み込む。  
 世界は、こんなにも暖かい。  
 砂と、石と、死者とが全てであった世界は…カザミと出会う事で生まれ変わった。  
 自分自身も死という闇を抜けて、生まれ変わった。  
 肉を供え、重なっていく鼓動を感じることは、なんと喜ばしいことなのでしょう。  
 カザミ。あなたは、やはり王です。  
 あなたがいれば、世界は熱を帯び、息づき始める。  
 黄砂越しに、生命を焼き焦がす無情な太陽も、きっとあなたのそばでは柔らかく  
輝く慈悲深い光になるでしょう。  
 だから、おやすみください。愛しいカザミ。  
 ハトホルの乳房に抱かれたホルスが、再び空へと舞い上がるまで。  
 私はあなたの眠りを守りましょう。  
 
 首を傾け、肩越しに振り向けば…猛禽の翼が威嚇するように広げられていた。  
 ネフェルティティは、立ち上がり…きつく唇を結んで黒い男を見据える。  
 たおやかな両手に現れるのは…スレイベルにも似た神器。  
 己が威を備えたる者であることを示す楽器。  
 その先端でベガを指して、それ以上の接近を許さないことを視線とともに告げる。  
 また、ベガもそんなネフェルティティの行為に対して心外そうな表情も、怒りや  
なだめるような表情も見せなかった。ばれてしまったか、というような気軽な笑みを薄く  
浮かべただけ。  
 
 落ちた鷹は、もう飛べない。  
 彼の翼は、BADANの見えない手によって既に縛られている。  
 ベガはニードルの造反を幸い、『王妃』を足がかりとしたライダー達の暗殺を命じられていた。  
 今更――― 一度死んだところで、一度屈した自分には、戻るべき道など無いのだ。  
 彼女にはそこまでの事情など見えてはいないのだろう。…もっとも、見えたところで、彼女が  
とる行動は今の状況と変わりはしなかっただろうが。  
 王は眠っている。大切な、カザミの眠りを妨げる者は、全て黄泉に送る。  
 ただそれだけを黒いまなざしにこめて、こちらを睨む視線は…嫉ましいほどにまっすぐだった。  
 
 風見の眠りを妨げることを恐れるかのように…奇妙なことに、二人とも無言を  
貫いていた。  
 波の音に満たされた部屋で視線で互いを縫いとめたかのように動かない男と女。  
 チリ、チリ、とうなじの毛がそそけ立つほどに空気が張り詰めていく。  
 まもなく、頂点は来るだろう。  
 どちらかが動けば、空気の粒子が火花をたてるのではないか、というところまで来たとき、  
二人の気配がさすがに肌に感じられたのか…風見がうめくような声を漏らす。  
 その声に背中を押されたように浅黒い裸足の足が、絨毯を蹴った。  
 
 がちゃりと無遠慮というよりも、性急な様子で開けられた扉から吐き出されたのは、  
沖一也のしなやかな姿だった。  
 「風見センパイ…!?」  
 すぐさま身構え、室内を鋭い目で見回すが…  
 そこにいるのは、ベッドに横たわる風見一人のみ。  
 彼の知覚に鋭く刺さってきた、あの張り詰めた空気は…名残が僅かに感じられるだけで。  
 「…いったい…?」  
 名残はあれども、気配はない。  
 窓も開けられた様子はなく、寝乱れたか、風見のかぶっていたブランケットが多少乱れて  
いただけだった。近づき、それを直せば、ジャコウにも似た香りが鼻先を掠めた気がする。  
 「…?」  
 クンクンと、なんとなく鼻を鳴らしてその香りを追ってみるが…結局、正体がつかめず、  
また、ひどく行儀の悪い行為をしている気になってしまい、軽く頭を振って一也は苦笑した。  
 ベッドに横たわる風見の寝顔は、痛みに時折歪むものの、多少は腫れが退きはじめており  
体の内側もまた、回復に向かっているのだろうと窺える。  
 「…大丈夫、ッスよね」  
 信頼し、頼りにしている先達の戦士。  
 傲然たる物腰と厳しく切り捨てるような口調の中に、激しく燃える意思を包み込んだこの男。  
 幾多の戦いを潜り抜けてきた風見の生命力を沖は信じ、部屋を出て扉を閉めた。  
 …が。  
 もし、沖に夜目が効けば…もしくは、今が昼であったなら。  
 彼の目は、窓際に落ちている一枚の羽…鷹の羽を見出すことができたであろう。  
 この部屋に流れていた時間が、決して平穏な眠りだけではなかったことを知ることが  
できたに違いない。  
 しかし、夜の闇はすべてを抱いて密やかに寝室に横たわっていた。  
 
 床を蹴り、彼女が飛び込んでくるのに対して、ベガは鷹揚にその肢体を抱きとめるように  
避けようともせず胸に軽い衝撃をぶつかってくるのを許した。  
 ―生まれ変わって、愛する己の王と再び出会うことができたんだ。上出来だろ?  
 ―だから…静かに、王の眠りを妨げないように。その細い首をそっと捻じ切ってやるよ。  
 ―機械と人間とが同じあの世を持つかどうか、アヌビスを装っていた自身で確かめれてこい。  
 彼と同じ、太陽と近しい人種の肌に手をかけて、肩を掴もうとしたその鼻先に、突きつけられたのは  
スレイベルに似た楽器。  
 だが、二枚の板に挟まれた鈴は可聴域にはない、すさまじい高い音とはるか地中で流砂の目が  
できて蠢くような低い音とを同時に立てた。  
 「!?」  
 面食らう彼は、続いて己の翼が触れている窓に、ガラスの抵抗感が失われたことに気づいて  
肩越しに振り返り…息を呑んだ。  
 ガラスの表面の、まるで生きてるかのように脈動する紡錘形の光に、翼が飲み込まれている。  
 虚をつかれた彼の身が彼女の体当たりを受け、更に数歩後に進み…彼女ごと、その光に飲み込まれた。  
 
 
 彼女に幸い…あるいは災い…したのは、彼女に肉体を与えるにあたって、大きく関わる事に  
なったのが伊藤博士であったことだった。ある種、ZXと正反対の存在、脳以外は限りなく人間に  
近い存在に彼女を生まれ変わらせるために、繊細な調整が必要だ、と実験と称しての再生術に際して、  
理論上は完成し、規模と安定度の向上を図っていた時空破断システムを、組み込んでおいたのだ。  
 ユリ子、という改造された女のことが博士の脳裏にあったかどうかは定かではないが…  
 戦いの渦中にいる男の下に、己の身を守れない女を送り込むことに躊躇いが生まれたのかもしれない。  
 空間を切り開いて一時的に異空間を作り出し、己の身を隠す。  
 大きな出力を望めないこともあり、その程度に利用方法を想定して彼女の知識に新たに書き加えた  
力であったが…  
 これもまた、奇跡と呼んでいいのだろう。  
 彼女の願いは、風見の無事であったのだから。  
 傷を負い、弱っている風見を敵の傍に置いておくわけにはいかない。なら、敵を別の世界に閉じ込めて  
しまえばいいのだ。 風見の最後の盾となり、その命を守ることができるのなら、この身など惜しくはない。  
躊躇いなど、生まれる余地もなかった。  
 渾身の力を込めて、無礼者の胸を押しやり、自身の力で生み出した空間の亀裂にもろともに押し込む。  
 ガラスは水面のように波うち、抵抗無く男の体を…そして、自分を飲み込んでいく。  
 違和感は一瞬の事で、すぐさま、目に飛び込んできたのは…先ほどまでいたのとよく似た寝室。  
 ただ、違うのは…風見がいないことだけ。  
 成功したのだ。  
 そう安堵する間もなく、肩を襲った強い力に声も出せずに彼女はあえいだ。  
 「ッ…あぅ…」  
 「…この…また、やりやがったか…クソプログラムが」  
 低く毒づいた声は、どこか倦怠感をはらんでいたが、右肩に食い込んでくる指の力には全く遠慮が無く、  
何とかもぎ離そうと痛みに震える手をかけても寸毫も動かない。男の指が、自分の体にじわじわとその身を  
埋め込んでくる感覚に息も詰まりそうだった。  
 
 「無礼な…ぁあ…離しな…さ…ッ」  
 呻きながらも命じる彼女を、床に突き転がし、ベガは軽く肩をすくめた。  
 「何を細工しやがったかは知らねェが…お前…、もう一度、壊されたいってのか?」  
 「…王へ…カザミへの無礼は、許しません…」  
 にらみ上げてくる黒い瞳をサングラス越しに見返し、軽く手を伸ばす。  
 反射的に足を引こうとした彼女の努力を意に介さずに、易々と足首を掴んで、引きずり寄せた。  
 「いつまで…王妃のつもりでいるんだ、お前は」  
 自分の声とは思いたくないほどに、それは苛立ちと恫喝とを備えて低く口から漏れる。  
 「何もかもが、パァだ――俺が守ろうとしたものは…消えちまったよ」  
 胸倉を掴み、引きずり上げてこちらをにらみ続ける彼女に、冥界からそのまま持ち帰ったような  
毒を声にして吐き出し続ける。  
 塞き止められない。  
 自分の胸がこのドス黒いものに埋め尽くされ、蛙の喉のように膨張してどろどろと言葉になって  
口からあふれ出していく。  
 「奴らが約束を守ってたのは、俺が生きている間だけだった――とっくに、俺の家族は…  
ZXの材料になっちまってたよ!」  
 襟元へと布が絞られた麻の貫頭衣は本来のラインを失い、女体の形状を隠すことなく晒す。  
 気管がつまり呼吸を妨げられる苦しみを、食いしばった唇を震わせるだけに留める彼女を見ていると  
体の内にたまっていた毒は呪詛の声となるだけでは収まらず、更に凶暴なものを深い場所から  
呼び覚まそうとする。  
 かすかな逡巡が脳裏を掠めた気がした刹那、皮と皮がぶつかる音と、軽い衝撃がそれを吹き飛ばす。  
 「…へぇ…王妃手ずから打たれるとは…やっぱ、アンタは王妃じゃないな」  
 もとより、女の細腕による打撃などたかが知れている。張られた頬を押さえようともせず、彼は  
胸倉を掴んでいる手を思い切り引き、その勢いのままに彼女を窓ガラスに叩き付けた。  
 「…BADANを裏切った時から、お前には何も残っちゃいなかったんだよ…お人形さん」  
 

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