そこむしむーらーのー しーんたろどーん  
  いーたーいいーたーいーと なあいてござるー  
  何ーがーいーたいーと 蟹コーがきいけば  
  悪たーれーいーたちーの ふうーうのしんに  
  喉ーをきいられーて 話ーがでえきぬ  
  それーで 痛いと なあいてござるー  
 
 わらべ唄を歌っている。  
 ここ一時間ぐらいの間、私はずっとわらべ唄を歌い続けている。  
 走る車の中。  
 目隠しをされているので何も見えないが、細く開いた窓から入る風が、冷たくなっているのを感じる。  
 多分、北の方に向かっているのだろう。  
「真理、寒い?」  
 隣で運転している透が、私に声をかける。  
 私は歌うのを中断し、  
「ううん」  
 とかぶりを振った。  
 
 三日月島から帰って、一年半あまりの時が経過した。  
 あれから私は、ずっと病院にいた。  
 でも今は、透の車に乗せられて、ドライブをしている。  
 なぜドライブをしているのかというと、透が行こうと言ったからだ。  
 行き先は内緒なので、透は私に目隠しをした。  
 目隠しを外さないよう、手には手錠も掛けられている。  
 見えなくて動けなくて、退屈だと私が言ったら、じゃあ唄でも歌えばいいと透は言った。  
「はい」  
 と言って私は歌った。歌う唄は決まっている。小さい頃からお馴染みだった、このわらべ唄。  
   
  びゅうびゅうびゅうーの ざんぶらぶん  
  びゅうびゅうびゅうーの ざんぶらぶん  
 
 この部分だけ、透も一緒に歌ってくれた。  
 
  びゅうびゅうびゅうーの ざんぶらぶん  
  ざんぶらぶん の どうどうどう  
 
 透と声を合わせて歌うのは、少しくすぐったかった。  
 かさぶたの下、生まれたての新しい皮膚が疼いているような、くすぐったくてむず痒い感覚。  
「真理、どうしたの?」  
 急に歌うのをやめた私に、透が尋ねた。  
 柔らかな優しい声。いつもそう。透はいつだって、私に優しくしてくれる。  
 ――私は幸せなんだろうな。……多分。  
 シートベルトに縛められた身体を傾け、私は、透に寄り添った。  
 
 それからしばらく経った後、車は徐行し始めた。どうやら目的地に着いたようだ。  
 エンジンが止まり、身体が車の震動から開放される。私は、ほっと息をついた。  
「疲れたかい?」  
 私のシートベルトを外しながら、透が呼びかけてくる。  
「ううん。平気」  
 本当をいうと、長時間車で移動するのは久しぶりなこともあって、少し疲れていたけれど、私はそう言った。  
「さあ真理。出ておいで」  
 車のドアを開け、透は手錠を掛けたままの私の手を引いた。  
 ひんやりとした空気。つんと鼻が痛くなるほどの気温の低さだが、  
頭のてっぺんには太陽の暖かさを感じる。  
 
 そして、この木々の匂いと、微かに聞こえる沢のせせらぎ。この感じには、覚えがある。  
 私は透に言った。  
「ねえここ……シュプールよね?」  
「さすが真理! すぐわかっちゃったな」  
 透は私の目隠しを取った。  
 
 青空の下の雪景色。  
 硬く凍った路肩の雪は、早春の穏やかな陽射しを浴びて、きらきらと眩い光をまき散らす。  
 そして、その雪景色の向こうに――まるで絵本の世界から抜け出たような、三角屋根のログキャビン。  
 間違いない。そこは、かつて叔父が経営していたペンション「シュプール」だった。  
 
「懐かしいなあ。もう三年ぶりにもなるのか」  
 ペンションを見上げて透が言う。  
 懐かしい、という感情は、今の私にはよくわからない。  
 三日月島での経験は、私の中から、ありとあらゆる感情を根こそぎ奪い取ってしまった。  
 それはある意味、平穏な安らぎの日々だった。  
 大きな喜びはないけれど、不安や苦しみもない日々。  
 何も考えず、何も感じず。  
 たまに見舞いに訪れる透と話す以外は、朝起きてから日が暮れるまで、白い病室でぼんやり過ごす。  
 それが、この一年半の私の日常だった。  
 
 
 透に連れられ、私はペンションに足を踏み入れた。  
 中は、妙にがらんとしていた。  
 がらんとしているというか――何だか、大掃除の最中みたいに雑然としている。  
「ペンション、閉めることになったんだってさ」  
 透が教えてくれた。  
「小林さん死んじゃっただろ? コックを雇ったりもしてがんばってたみたいなんだけどねえ。  
やっぱり、今日子さん独りじゃあ、ね」  
 
 透の言葉を聞いても、やはり私は何も感じなかった。  
 人の気配が絶えているところを見るに、今日子叔母さんはもうここに住んではいないのだろう。  
 ――人が住まなくなると、家ってすぐに廃墟っぽくなっちゃうんだなあ。  
 そんな、どうでもいいようなことをぼーっとした頭で考えるだけだ。  
 
 透は他にも、叔母さんが生まれ故郷にほど近い港町に越したことや、  
その土地で、パートをする予定であることなどを話して聞かせてくれたけど、私はあまり関心がなかった。  
 
「真理、お腹すいてない?」  
 急に話を中断し、透が訊ねてきた。  
 手錠の鎖をじゃらじゃら鳴らして遊んでいた私は、その言葉にふっと顔を上げる。  
 空腹は、特に感じていなかった。  
 一年半前に私が失ったものは、感情だけではない。  
 食べることの欲求とか、そういった本能的なものまでが、ぽっかりと欠落しているのだ。  
 病院で出される食事も、ただそこにあるから食べるだけ。  
 別に美味しいともまずいとも思わない。  
 
 だからその後、透が自ら腕を振るって用意してくれた豪勢な食事を前にしても、  
特に何の感動も湧かなかった。  
「へへ……結構いけるだろ? まあ、小林さんには敵わないかもしれないけどさ」  
 私は頷きつつ、ようやく手錠を外してもらった手でスプーンを使い、ミネストローネをすくう。  
 
 そういえば――テーブルに並んでいる料理の数々は全て、  
初めて二人でシュプールに泊まった時の、ディナーのメニューと同じものだと、ふと気がついた。  
 だからといって、どうということもないけど。  
 
 淡々と食事をする私を前に、透は上機嫌だった。  
「ぼくはずっとひとりで生きてきたからね。家事なんかはお手の物さ。  
ねえ、ぼくっていいお婿さんになれると思わない?」  
 自分の冗談に自分で笑っている。そんな透を見ている内に、私の頬も自然にほころんでくる。  
 透の笑顔が嬉しいからとかいうのではない。単に、つられただけだ。  
 
 椅子やテーブルが片隅に積み上げられ、だだっ広く殺風景になった食堂。  
 その真ん中に設えられた二人だけの食卓。  
 私達は、にこにこと笑顔を交わしながら食事をする。  
 傾きかけた太陽が窓を通り、寂しげな光をテーブルクロスに落としている。  
 それを横目に見ながら、私の心は相変わらず虚ろなままだった。  
 
 
 食事が済むと、透は私を二階へ連れて行った。  
 二階の客室。そこは、以前と変わらぬ佇まいを見せていた。  
「二階はまだ手を付けられてないんだよ」  
 二つ並んだベッドの内、カバーの掛かっていない方のベッドに私を座らせ、透は言った。  
 そして、私の隣にぽんと腰を下ろす。  
 ベッドが揺らぎ、私の身体は透の方に倒れる。透は、すかさず私を抱きとめた。  
「さ、寒くなってきたね……」  
 
 寒い土地にあるこのペンションは、気密性が高い作りになっているので、  
天気の日なら暖房を入れなくても結構暖かい。  
 けど、陽が翳るととたんに寒くなる。  
 夕暮れの迫ってきたこの時刻。確かに少し、肌寒くなっていた。  
 「でも、こうしてるとあったかいよ」  
 率直な感想を言う。  
 一人だったら寒くて暖房を入れてしまうところだろうけど、  
 こうして透と身を寄せ合っていれば、たいした寒さは感じなかった。  
 
 射し込む夕日が、オレンジ色に染め抜く部屋の中。  
 透と私はしばらくの間、二人並んで、窓の外の木立を眺めた。  
 
 私の肩を抱く透は、少し緊張しているように思えた。  
 二人でこんな風に過ごすのは、たいしてめずらしいことでもないのに。  
 私に何かを言おうとしているのだが、言い出せなくて逡巡している。そんな様子だ。  
 
「あ……あのさ、真理」  
 意を決したように、透は言った。  
「ぼく、真理に見せたい……いや、聞いてもらいたいものがあるんだけど、いいかな?」  
 いいかな? なんて訊くのも、ばからしいことだと思った。  
 透の言うことを、私が否定するはずないのに。それは、透にもわかりきっていることなのに。  
 透の言うことに、私は「はい」しか言わないのに。だから私は言った。  
「はい」  
 
 私の返事を聞くと、透は満面の笑みを浮かべて立ち上がる。  
 そして、部屋のすみに置いてあったバッグから、何枚かの紙の束を取り出した。  
 
 それは、透が私のために書いたという、詩だった。  
 
 『微笑む女神』というタイトルのその詩を、透は朗読し始めた。  
 君は微笑む女神のよう――私の前にひざまずき、頬を赤らめて愛の言葉を連ねる透。  
 私は透のひたいの辺りに視線を留め、曖昧な笑みを浮かべてそれを聞いていた。  
 
「真理……ど、どうかな? 気に入ってくれた?」  
 気がつくと、いつの間にか詩の朗読は終わっていたようだった。  
 詩の感想を問われても、はっきりいって、内容はほとんど頭に入っていない。  
 でも問題ない。詩の内容がどうであれ、私は、透が喜ぶ答えをしてあげればいいだけだ。  
「素敵な詩だったよ。透、ありがとう」  
 
 透は歓声を上げ、私に抱きついてきた。  
 子供のように率直な態度。――まあ、当たり前か。実際子供なんだから。  
 確か去年、十三歳だといっていたから、今は十四歳かな。  
 けれど――こうして私の身体を抱きすくめる逞しい腕は、子供のものではない。  
 熱い息吹きと共にしてくる、情熱的なキスも。  
 
「真理……愛してるよ、真理」  
 私の唇を唇で愛撫する合間に、透は、酔い痴れた口調で囁きかける。  
 私はほとんど機械的に、彼のキスに応える。  
 あわせた唇を半開きにして、侵入しようとする舌を受け入れる。  
 舌をすくい取る舌が動きやすいように、さらに唇を開ける。  
 くるくると絡みあわせる舌と唇の隙間から、甘い唾液が溢れ出し、口のまわりをねっとり汚す。  
 
 透とこんなキスをするのは、ずいぶん久しぶりのことだった。  
 二人きりになる機会はいくらでもあったのに。  
 透は、挨拶程度の軽いキス以上のものを、私に求めてこなかった。  
 入院中である私の身体を、気遣っていたのかもしれない。  
 
 その空白を取り戻そうとするかのように。  
 透のキスは、いっそうの激しさを増して長く続いた。  
 さすがにちょっと、うんざりしてくる。  
 くたびれたあごが震え出し、頬全体に広がった生ぬるい唾液が気になり始めた頃。  
 ようやく透は、私の唇を解放した。  
 
 透は呼吸を荒くし、熱に浮かされたように潤んだ瞳で私を見た。  
 私の息も、少し上がっている。透と唾液の糸で繋がった唇が、熱かった。  
「真理!」  
 突然、透は私をベッドに押し倒した。  
 抗う間もなかった。  
 もっとも、仮に、あらかじめわかっていたとしても、私は抵抗したりはしなかっただろうけど。  
 実年齢よりも早く成長した、二十代の青年の肉体を持つ透に、私が敵うはずもないし。  
 第一私には、透の意志に逆らう理由もないから……。  
 
「真理……いいかい?」  
 ベッドに横たわった私の肩の両脇に腕をつき、透は上から、確かめるように言う。  
 夕焼けが、透の顔の陰影を濃くしている。  
 あまりに真剣な、怒っているようにも見えるその表情。私は心に、奇妙な圧迫感を覚えた。  
 
 勢いに飲まれた私が頷くと、透は、再び私にくちづけた。  
 今度は、短いキスだった。  
 短い代わりに、何度も何度もした。  
 唇だけではない。頬にも。瞼にも。耳たぶにも。首筋にも。  
 熱っぽい透の唇に責められ続け、私の頭はぼおっとしてくる。  
 透とセーター越しに密着している肌は火照り、すでにじっとり汗ばんでいるようだ。  
 
 透もそれは同じなのだろう。  
 ちょっと身を起こして私を見つめる透の顔は、真っ赤で、額には汗のしずくが浮いている。   
 
 全身からすごい熱気を発散していて、陽炎が立っているような錯覚をしてしまう。  
 私は手を伸ばし、汗で張りついた透の前髪を、指先でくしけずった。  
「透。すごい汗」  
「ま、真理も……」  
 透は一瞬、照れ臭そうに微笑んだが、すぐ真顔に戻った。  
 なんとなく、わかっていた。今日はここで終わらない。  
 車で出かける前。透に目隠しされた時から、私にはすでに予感があったのだ――。  
 
 透の手が、私のセーターの裾に伸びていた。  
 下のカットソーと一緒に、セーターが捲り上げられる。  
 腕を上げ、私は透の作業を手伝う。  
 むき出しになった肌に、部屋の空気が直接触れる。ひんやりとして、気持ちがいい。  
 ジーンズのジッパーは、私が自分で外した。透がひどく手間取っていたからだ。  
 ジッパーを開けて腰を浮かせると、透はむしり取るように私の脚からジーンズを剥いた。  
 上下の下着と、靴下。私の身体を隠すものは、もう残り僅かだ。  
 
「すげえ……本当に……すごいよ、真理」  
 透は私を見下ろしながら、自分の着ているものを脱ぎ始めた。  
 セーターを。シャツを。そして、ズボンのベルトに手をかける。  
 中から飛び出した透のものが、びょん、と跳ねて、空を躍る。  
 生まれて初めて間近に見るそれは、バネ仕掛けの人形みたいで、どこか滑稽だった。  
 滑稽で、それでいて――ちょっとだけ可愛らしい、とも思った。  
 
 だが。そんな風に私が透を観賞していられたのも、ほんの短い間だけだった。  
「あっ」  
 胸を覆うブラジャーが引きちぎられ、思わず私は声を上げた。  
 カップの中から開放された乳房はぷるんと震え、  
冷えた空気に晒された乳首は、きゅっと縮込まって硬い突起になった。  
 透はその、とんがって上向いた乳首に強く吸い付く。  
「うう」  
 あまりに強く吸い付かれ、乳房の芯がじんと痛む。  
 吸われていない方の乳房は、透の大きな手の平に包まれて揉みしだかれる。  
 むにゅむにゅと。右、左、交互に。  
 透の指の間、様々に形を変化させる自分の乳房を、不思議な気持ちで私は見下ろす。  
 
 舐められ、吸われ、濡れた乳首は、外から射し込む夕日に照らされ、二つ並んでぬらぬら光る。  
 何かのオブジェのようだと、私は思う。  
 白い乳房の肉には、透の指の跡がくっきりと残っていた。  
 
 透は餓えた獣のように私の乳房を貪る一方で、空いた手を、そろそろと下の方に這わせていた。  
 乳房の脇辺りから、腰のくびれをなぞって、最後の部分を包む小さな布切れをさぐり出す。  
 私はとっさに、太ももをぎゅっと閉ざしてしまった。  
「ま、真理、あ、脚を……」  
 私に残された最後の防壁を取り去ろうとして、透がうわずった声を出す。  
 でも、私の脚は開かない。  
 なぜだろう? どうしても、身体が動かないのだ。  
 私が抵抗していると思ったのか、透は少し悲しげな顔を見せる。  
「真理……嫌なの?」  
 
 嫌、とかいう感情はない。  
 私自身、戸惑っているのだ。私の身体が、私の意思に反して自分を守ろうとしている。  
 久しく失われていたものが、私の中で膨れ上がっていた。  
 不安、という名の一つの感情が。  
 
 そんな私の“不安”を余所に。  
 透は私をなだめる言葉をかけつつ、太ももを撫でたり摩ったりして、  
なんとか脚を開かせようと躍起になっていた。  
 なのに、やっぱり脚は開かない。  
 結局。欲望に負けた透は、無理やり力任せに、私の脚を押し開いた。  
 強張った股間を覆う下着を、性急に引きずりおろす。  
 むき出しにされた部分が冷たい空気にさっと撫でられ、私の内ももは、ひくりと動いた。  
 
「ああ、真理」  
 透は苦しげな息をはきながら、私の、誰にも見せたことも、触らせたこともない場所に、  
指を伸ばした。  
 くすぐったい感覚。  
 それに加えて、何か、堪えがたいほどに強い感覚が、私のその場所を襲う。  
 何? これは……何?  
 
 驚いた私は、思わずももに力を込めて、透の腕ごと脚を閉じてしまう。  
 結果、透の手を強く挟み込むこととなり……  
透の手は、私が隠そうとした場所に、ぎゅっと押し付けられてしまった。  
 
「ああっ」  
 ももの狭間で、透の指が、もぞもぞと動く。  
 腰が勝手に動いた。くねくねと。透の指先から逃れようとして――。  
 逃れようとして?  
 いや、多分違う。わかってる。私、透から逃げたいなんて思ってない。  
 だって。だって私は――。  
 
 混乱と、困惑に陥る私をおいて、透は私の局所を本格的にまさぐり始めた。  
 上に。下に。縦筋にそって、柔らかく。  
 ――なぜこんな、自由に指を動かせるの?  
 と疑問に思ったが、それは私の脚が、いつの間にか半開きになっていたせいだった。  
 私は、また混乱する。私の脚、どうして開いてるんだろう?  
 ――ああ。きっと、透が開いたのね。  
 きっとまた、透が無理やり開かせたんだ。そうだ。そうに違いない。  
 間違っても、私が自ら股座を広げて透の前に晒した、なんてことは……。  
 
 私は、必死になって心の内で己の自尊心を取り繕う。  
 ところが。  
「……濡れてる」  
 透のその一言が、私の自己擁護を無情にも打ち砕いた。  
 おそるおそる、私は透を見た。  
 透は私の脚の間に屈み込んで、その部分に眼をやっていた。  
 探っていた指先を、上に掲げる。  
 彼の言葉を裏付けるように。  
 その指先は、とろみを帯びた液体に濡れ、夕焼けの光をきらきらと照り返していた。  
 
「ああ」  
 身の置き場所もない気持ちになり、私は両手で顔を覆った。  
 腰をよじると、あそこがくちゃりと音を立てる。  
 ――ああ、やだ、こんなになってたの? いつの間に? 私……私……。  
「は、恥ずかしがることなんて、ないよ」  
 かすれた声で、透が言う。  
 指の隙間から透を見上げると、彼は私の体液で汚れた指を自分の唇に付け、それを、舐めていた。  
 ――いや……やめてそんなこと……。  
 私の視線に気付くと、透は腕を伸ばし、私の口の中に指を突っ込んだ。  
 うぐ、と呻いて、私は透の指先を、指先に付着した私自身の体液を、舐めてしまう。  
 しょっぱいような、酸っぱいような、奇妙な味が口中に広がる。  
 恥ずかしい味。私の肉体が発情した証である、卑猥な味……。  
 
「ううう、ま、ま、ま、真理っ!」  
 透は急に声を張り上げると、私の身体にがばっと覆い被さった。  
 重い身体に圧迫されて息苦しい。私は、透を押し返そうとする。  
 だが透は、儚い抵抗をものともせずに、私の腰を抱きかかえ、  
もはやなんの抵抗もできなくなった箇所に、  
彼自身の、硬く起き上がったものをなすり付けようとしていた。  
 
「う……あ、と、透?」  
「うおお……真理、真理、真理!」  
 透の尖りきったものは、股座のあちこちを突き回したのち、ついに私の中心部を探り当てた。  
 宛がわれた部分が、熱い。  
 透が私を。透のあそこが、私の、あそこを……。  
 頭が、じんと痺れた。  
 訳のわからない熱情に浮かされ、私の鼓動は早くなり、身体が、煮え立った。  
 どうにもならない気持ちで私は、全てを諦めた。  
 全ての抵抗を諦め、私は、透の侵入を――透のものによって処女を破られる瞬間を、待った。  
 身体の力を抜いて、瞳を閉じる。  
 そんな私を焦らすように。透は、入口の辺りを自身の尖端でまさぐっている。ああ……。  
 
 と。  
 突如として透は、私の上から身を起こした。  
 そっと眼を開ける。透は、なんだか泣きそうな顔をして身体を硬直させている。  
 そして。  
 
「あ、あ、あああーっ?!」  
 素っ頓狂な透の叫び声。  
 何か、白い塊が眼の前に飛んできたかと思うと、眉間を直撃した。  
 熱い粘液。私は小さく悲鳴を上げる。  
 さらに。胸の上に、二発目が発射される。  
 三発目はみぞおちに。四発目以降は、お腹の上にぴたぴたと降りかかった。  
 
 顔面にへばり付いた粘液を手で拭い、透の様子を覗う。  
 透は、私のももの間にへたり込んでいた。  
 肩を落とし、はあはあと犬のように口で息をしながら、真っ赤に充血した彼自身を握り締めている。  
 握った手の中の丸い部分から、白い液体がだらだらと溢れ出ていた。  
 
 
「…………ごめん」  
 乱れた呼吸が鎮まった頃、透は肩を落としたまま、呟くようにぼそりと言った。  
 私とは、目線を合わせようとしない。かなり消沈しているみたいだ。  
 
 私は半ば呆然とした状態で、乳房に垂れた白い粘液を、指ですくい取った。  
 どろりとしたそれを、鼻に近づける。  
 むっと来る青臭さ。舌先に付けると、ぴりりと刺激を感じる。  
 
 ――これが……透の、精液……。  
 奇妙な感慨を覚えて、私は両手の指で乳房を、乳房にこびりついた透の精液を、玩んだ。  
 そして、乳房の膨らみに透の精液をまぶしてゆく。  
 乳房が、べとべとになる。精液の匂いがよりいっそうきつくなる。  
 不快なはずなのに、私の指はこの行為をやめない。  
「ああ」  
 弄り回す乳房から湧いた感覚が、下腹部を通って、わたしの女の部分へ、  
ゆっくりと降りてゆく。  
 熱っぽい疼きと、耐え難い――快感。  
 
 そう。紛うことなくそれは、快感だった。  
 もう、誤魔化しようもない。  
 その快感を確かめるように。私は、両の乳首を強く摘まんだ。  
 ぴんと尖って膨れ上がり、茱萸のような弾力を持った私の乳首。  
 乳房全体も普段より一回りほど膨張して見える。  
 大きく盛り上がった二つの白い丘は、自分の眼から見ても、淫らで、美しかった。  
 
 ふと気がつくと、透の胸板が、私の顔の真横にあった。  
 身体を伸ばし、サイドテーブルにあるティッシュケースから、紙を取り出そうとしているようだ。  
 多分、私の身体についた精液を、拭き取ろうとしているのだろう。  
 
 思うより先に、私の手は動いていた。  
「……真理?」  
 怪訝そうな面持ちで透は、私に掴まれ、引き止められた己の腕を見下ろす。  
 透の腕を掴んだまま、そっぽを向いた。窓を見る。  
 夕焼けのオレンジが眼に眩しい。私は言った。  
「舐めて」  
「えっ?」  
 
「透がつけたものは、透が自分で舐めるのよ。ティッシュなんて使わないの」  
「え、で、でも……」  
「出来ないの?」  
「だ、だって、そんなの」  
「私を愛してくれてるんじゃなかったの?」  
 
 私は、透を見上げた。  
 戸惑う少年の顔がそこにある。私は、少し意地悪な気分になっていた。  
「愛しているんなら、私のお願い聞いて。私だけに……恥ずかしい思いを、させないで……」  
 
 透は困り果てた表情で私の顔と、身体とを交互に見比べていた。  
 しかしやがて、意を決したように私の身体に覆い被さり、精液のこびり付いた乳房に口づけた。  
「もっとよ。もっと……付いてるとこ、全部舐めるの……」  
 ため息混じりに私が言うと、透は辛そうに顔をしかめながらも、私の乳房を手で持ち上げ、  
大きく口を開き、乳房を入るだけ口の中に入れて、頬張った。  
「はあっ、ああぁ……」  
 私は深く息を吐き、透に吸われる感覚を味わった。  
 ほんの短時間の間に、こんな行為に馴染んでしまった私の肉体は、多少乱暴に扱われても、  
そこから快楽を見出せるほどに順応している。  
 しかも、ただ順応しているばかりではない。  
 驚いたことに、私の肉体は、さらなる行為を渇望してさえいた。  
 
「ねえ透……もっと下も」  
「えっ?! し、し、下?!」  
「そうよ。こっちにだって、沢山かかってるんだから……ほら」  
 透の下で私は、自分のみぞおちから下腹部にかけて、ゆっくり撫で下ろした。  
 ぬるりと伸びた精液を、そこからさらに下の、恥毛の中にまで塗りたくる。  
 透は上体を少し起こすと、私の下半身の方に身体を下げていった。  
「真理、手をどけて」  
 私は、無意識の内にそこを手で覆い隠していた。  
 透に言われてそれに気付き、手を上にずらした。  
 指先に、熱くぬめった感触があった。  
 
「ここを濡らしてるのは、ぼくのじゃないよ」  
 眉間に皺を寄せ、凝視しながら透は言う。  
「嘘」  
 
「嘘じゃないよ。これは、真理の」  
「いや。知らない」  
「知らないことがあるか」  
 
 透は、いきなりそこに唇をつけた。  
 乳房を吸われた時とは比べ物にならない、強く鋭い快感。  
「ほら。ぼくのとは味も匂いも全然違う……間違いなくこれは、真理のだよ」  
 そう言うと透は、私のそこに舌を這わせた。  
 ぴちゃぴちゃと。猫がミルクを舐めるような音が、そこから響く。  
 
「あっ、あっ、あああっ」  
 私は、これが自分の声かと疑うほどに甘ったるい声を上げ、膝を立てて、脚を開いた。  
 そうせずにはいられなかった。  
 とてつもない快感に支配され、身体が勝手に動いてしまうのだ。  
「真理、気持ちいいの?」  
「あふ、う、ああ、あはあぁ」  
「喋る余裕もないのか……嬉しいな。そんなに感じてくれて。  
……ねえ。どこが一番気持ちいいの? やっぱ、これ? ああ……そうみたいだね。  
本で調べたとおりだ。これを、こんな風に……下から上に、優しくなぞるのが、一番いいんだ。  
そうなんでしょ? だってこれ、こうして……舐めたり摩ったりするごとに、  
ぴくぴく動いて勃起してるし。  
すごいなあ。もうぱんぱんだ。ほら、もう真っ赤に膨らんで、包皮から飛び出してる……」  
 
 透は私のもっとも敏感な核の部分を、唇や、舌先や、指で嬲る合間に、私を言葉で責めたてた。  
 でも、全部透の言うとおりだった。  
 私の、普段は裂け目の包皮に埋もれ、意識にすら上らない小さな肉の芽は今、  
透の愛撫に、熱い息吹きに反応し、最大限に勃起して、恥ずかしい自己主張を行っているようだ。  
 陶酔に引き込まれた脳は思考力を失い、まともな言葉を発することは不可能で、  
唇からは、盛りの付いた牝そのものの、いやらしい喘ぎ声しか漏れてこなかった。  
 
「真理、そんなにお尻をもじもじさせないでよ。真理の大事な部分を弄り辛くなるじゃないか。  
それに、そこまで股を広げたら、あそこがぱっくり割れて、何もかも丸見えになっちゃうよ?  
ほら、お尻の穴まで……。ねえ、気付いてる?  
真理のぬるぬる。膣口から溢れてこの、お尻の穴にまで垂れてるんだよ?  
ほらほら、こんなに沢山……もうシーツにまで染みを作ってる」  
「ああっ……いやあぁ」  
 肛門の皺襞をぞろりと撫で上げられ、私の腰が跳ねる。  
 
 もう、堪らない。  
 私が、私じゃないみたいだと思った。  
 こんな、透の前で大股を開いて腰をくねらせ、こんなに淫らなよがり声を上げているなんて。  
 ――こんなのって……信じられない。これは夢なの?  
 
 ――真理が、真理がこんなになるなんて……これは、夢なんじゃないだろうか?  
 
 え?  
 今のは何?  
 心の中で、私のものとは違う意識を感じたような……。  
 
 だが、訝る気持ちは、一瞬で消え去った。  
 透が――さっきの失敗を取り戻すべく、再び私の身体に乗り掛かって、  
回復しきった彼自身のものを、私の濡れそぼった場所に押し付け始めたからだ。  
「真理、すごいよ、さっきよりも全然……熱くなって、どくどく脈打ってるみたいだ」  
「あああ……と、透、だって……」  
 入口に感じる透の熱も、質量も、前の時以上に増している気がした。  
 
 もっともそれは、私の気のせいだったかも知れない。  
 情欲に飲まれた私の身体が敏感さを増しているから、そんな風に感じるだけのことなのかも――。  
「真理、いくよ」  
 興奮に震える声で、透は私に囁きかけた。  
 興奮はしているものの、一度精を吐き出したからなのか、幾分かは落ち着いた口調だ。  
 一方の私はといえば、透の落ち着きとは対照的な、熱狂のるつぼにあった。  
 何度も何度も。繰り返し愛撫され、執拗なまでに焦らされ続けた私の身体は、  
のぼせ上って透を待ちわびていた。  
 ――もうどうなってもいいの……早く。早く……。  
 
 透の身体の重みが、ずしりと圧し掛かってきた。  
 私の身体の中心部をこじ開けるべく。私の、処女を奪うべく……。  
 そして、丸く強張ったものが私の中にめり込んだとたん。  
「う……ぐっ?」  
 私は喉の奥底で、くぐもった呻き声を上げた。  
 それまでの恍惚感とは打って変わった、ひどい痛みをそこに感じる。  
 一挙に現実に引き戻された気持ちで、私は眉根を寄せた。  
 
「い、痛むかい?」  
 あらかじめ、私の反応を予期していたのだろう。  
 透は荒い息の中、心配そうに声を掛けてくれる。  
 大丈夫。と言ってあげたかったが、はっきりいって、大丈夫どころの騒ぎではなかった。  
 無理もないことだ。  
 今まで、タンポンさえもろくに使ったことがないというのに、いきなりあんな、  
透の大きなものを受け入れようというのだから。  
 
 ――でも、我慢しなくちゃ。  
 私は呼吸を整え、透を飲み込む準備を整えようと思った。  
 まずは大きく息を吸い、そして――。  
 
「い、一度挿れちゃえば、楽になるはずだよ」  
 私の準備が済んでいないというのに、透は一方的に、私の中に硬い兇器を押し進めてきた。  
 ――えっ、ちょ……ちょっと待って!  
 私は身体を強張らせ、腕を突っ張って透を押し留めようとする。  
 でもそれは、無駄なあがきだった。私が透に、腕力で敵うはずもないのだ。  
 透は暴れる私の身体を押さえ込み、あっという間に、頼りない私の防壁を打ち破って、  
秘められた場所に潜り込んでしまった。  
 
「痛っ……つう……痛……痛あい!」  
「う、お、お、ま……真理いっ!」  
 私と透の声が、交錯する。  
 透がどうだか知らないが、私のは純然たる、苦痛の叫びだ。  
 まさに、身を引き裂かれる苦しみ。  
 しかも、苦しみはこれで終わるわけではない。  
 見聞によれば、この後透は私の中でこれを動かし、挿したり抜いたり、  
さらには、腰をぐるぐる回して奥まで突いたり捏ね回したり、なんてことをするはずなのだ。  
 
 な、なんて怖ろしい……。  
 まなじりに涙をにじませて恐怖におののいていると、さっそく透は、その恐るべき行為を始めた。  
 
 まずは、ずん、と深く私の中に挿し入れる。  
 ずるっと這入り込む感覚に、私はおびえて低く呻いた。  
 ――ああっ、き、きつい……。  
 お腹の底まで響く衝撃。そして、違和感。  
 
 幸いだったのは、奥の方には入口ほどの鋭い感覚はなく、  
思っていたほどの苦痛がなかったことだった。  
 それでもこの、内臓をえぐられるような一種異様な感じは、なんとも馴染みがたいものがある。  
「ま、真理……まだ痛い?」  
「あああああ……」  
 当然、破られたばかりの膣口は、透が動く度に引き攣れて、尋常じゃなく、痛い。  
 それでもそう言わなかったのは、それを口にするゆとりもなかったからだ。  
 
 ――ああ……もう、早く終わって!  
 情欲も何もかも吹き飛んでしまった私は、  
とにかく今、この状況を耐え忍ぶことだけしか頭になかった。  
 潰れたカエルのような姿勢を取り、頭の両脇でシーツをぎゅっと握り締め、  
透が済んでしまうのをひたすら待つ。  
 
 私の心中を知ってか知らずか。透は、驚くほどに素早い動きで出し挿れを行っていた。  
 傷んだ膣口は、ぐっちゃぐっちゃと粘液質な音と共に、激しく擦られている。  
 全身が、ロッキングチェアーのように揺さぶられる。  
 それは愛の行為と呼ぶには、あまりにも暴力的に感じられた。  
 
「ま、真理、ごめん真理! こんなに、痛い思いをさせちゃって……」  
 透の身体が前のめりになり、耳元で、かすれた声が囁いた。  
 私は、固く閉ざしていた眼を開いた。  
 すぐ眼の前に、透の顔があった。  
 涙でぼやけた視界いっぱいに。  
 何かを訴え掛けるような、真摯な瞳が私を見ている。  
 重なり合った胸からは、早鐘のような鼓動が伝わっていた。  
 
「透……好きよ」  
 思いがけず、そんな言葉が口をついて出た。  
 シーツを掴んでいた両手を上げて、透の汗ばんだ背中に回した。  
 透の肌の温もり。硬く逞しい感触。  
 彼のものに責め立てられている入り口は熱を持ち、じんじん疼いて腫れぼったい。  
 そして――彼の尖端にノックされている深い部分からは、  
それまで感じていた異物感とは、また別の感覚が湧き起こっていた。  
 
 不思議な感覚。  
 私の膣の奥深い部分が、震えている。  
 わなわなと。ざわざわと。何かに共鳴するかのごとく。  
 
「真理! ぼくも、ぼくも好きだ! 愛してる……!」  
「あああ、透……透……とお……る!」  
 
 灼熱の塊になっていた。  
 私達は一個の塊となり、激しく震動しながらどこか、果てしない高みへと、  
昇り詰めようとしていた。  
 快感と呼べるものなのかはわからない。  
 けれどこの、身体の内側から揺るがされる凄まじい感覚に、私は抗えなかった。  
 
 何かが、迫っていた。  
 私の中で何かが爆ぜて、取り返しの付かないことになってしまいそうで……。  
 不安だった。不安で、心細くて、私は透にしがみ付いた。  
 透も、私を抱き締めてくれた。  
 安堵と、羞恥と。幸福感と。  
 様々な感情が、奔流となって胸の奥から溢れ出す。  
 
 
655 名前:サイキック篇ED093ハッピーエンドより 12 投稿日:2009/02/04(水) 17:12:54 ID:Y6ctkZ/l 
 
 私は泣き叫んでいた。  
 狂ったように、慟哭していた。  
 
  そして――ついに、それは、起こった。  
 
 私を貫き、深く侵蝕していたものが膨れ上がり、ぐっ、ぐっ、と、小刻みに痙攣した。  
 それを感じた時、私の意識は、弾け飛んだ。  
 
 誰かの絶叫を聞いていた。  
 絶叫、と呼ぶには切な過ぎるその声は、私の声だった。  
 白濁し、溶けて流れた私の意識は、霞む視界は、  
眼下で叫び、わななき震える全裸の私を捉えていた。  
 
 快感があった。  
 身体の芯から。管を通って、幾度も射出される快感に、私は打ち震えていた。  
 あまりの熾烈さに眼も眩み、力が抜けて、私は、私の上に倒れ込んだ。  
 熱い吐息が絡まり合う。  
 ぐったりと余熱を発する二つの身体にある心は、ただ一つ。  
 
  愛してる――――。  
 
 
 眼を覚ますと、窓の外は真っ暗になっていた。  
 陽はとうの昔に落ちたようだ。  
 廊下から射し込む明かりが、漆黒の窓ガラスに映っているのが見える。  
 ベッドの中。背後からは、ぴったり寄り添って横たわる透の、安らかな寝息が聞こえてくる。  
 ――そうか。私は、透に……。  
 記憶を反芻しながら私は、肩に掛かる毛布を引き上げる――。  
 
 ――毛布?  
 このベッドの上に、毛布なんてあっただろうか?  
 急速に意識が鮮明になる。  
 そうだ。ここには毛布なんてなかった。  
 それにこの、窓ガラスに映っている廊下の明かりも変だ。  
 私と透が部屋に入った時はまだ明るかったから、電気なんて点けてない。  
 そもそも、部屋のドアはちゃんと閉めたはずだ。  
 
「やっとお目覚め?」  
 入口の方から、聞き覚えのある声が聞こえた。  
 起き上がり、毛布で身体を隠して振り返る。  
 ドアのならびにあるクロゼットの前に、小さな人影が立っていた。  
「今日子……叔母さん?」  
 
「ごめんなさいね。勝手に部屋に入ったりして」  
 叔母さんは、本当に申し訳なさそうな口調でそう言った。  
「透くんが、真理ちゃんをここに連れて来ようとしてたのは、知ってたから。  
様子を見に来たのよ。それでその……。  
失礼かとは思ったけど、その格好で眠り込んで風邪でも引いちゃいけないと思って、つい」  
 
 叔母さんは、本当にごめんね。と、重ねて言った。  
「そんな……私達の方こそ、勝手に上がり込んで、こんなことしちゃって……ごめんなさい」  
 私は、ベッドの上に正座して頭を下げた。  
 正直、かなり混乱していた。  
 
 私が入院している間、叔母さんは一度も病院に見舞いに来ていなかった。  
 きっと、叔父さんが急死してから、ペンションを一人で切り盛りせねばならなくなって、  
見舞いどころじゃなかったのだろう。  
 だから、私が叔母さんに会うのは、三年ぶりということになる。  
 三年ぶりの再会でまさか、こんな醜態を晒してしまうなんて……。  
 
「真理ちゃんが気に病むことないわよ。あなたの意思じゃなかったんでしょう?  
透くんが勝手にしたことなんだもの。  
真理ちゃんが自我のない状態であるのをいいことに、透くんが、一方的に」  
「その言い方こそ、一方的なんじゃないかなあ」  
 
 眠りこけていると思っていた透が、突然口を利いた。  
 ぎょっとする私を尻目に、透は素早く起き上がり、叔母さんの方を向いた。  
「今日子さんの言い方だと、まるでぼくが無力な真理を、手篭めにでもしたみたいじゃないですか」  
「そうなんじゃないの?」  
「心外だなあ。違いますよ。ぼくと真理は愛し合ってるんだ。愛し合う者同士が結ばれるのは、  
自然なことじゃないですか?」  
「あなたのやり方は、全然自然じゃないわ」  
 暗闇の中、叔母さんの瞳が、怒気を帯びて光る。  
 
「透くん。あなたは三日月島事件のショックで、精神が崩壊した真理ちゃんに、  
暗示を掛け続けていた。真理ちゃんが、あなたを愛するように。  
あなたの言うことに服従し、けっして逆らわないように。  
そう……一年半もの時間を掛けてあなたは、真理ちゃんを自分の都合のいいお人形に、  
作り変えようとしたんだわ。  
そして、思うように完成したお人形の真理ちゃんを退院させて、とうとう自分のものにした」  
 
「よくご存知ですね」  
 透は、口元を歪めて言った。  
「何で今日子さんがぼくの計画を知ってるんですか? 誰にも話したことないのに。  
……まあどうでもいいですけどね。どうせあんたには何も出来ないだろうし」  
「確かに私は何も出来ない無力な人間だけど、していいことと悪いことの区別ぐらいは出来るわ」  
「ぼくのしていることが、悪いことだとでも?」  
「そうよ」  
 
 透は、乾いた笑い声を上げた。  
「どうしてですか? あのまま放っておいた処で、真理は精神崩壊したまま、廃人として、  
病院で惨めな余生を過ごすだけだったんじゃないですか。  
それだったら……ぼくの妻としての、幸せな人生を与えてやりたいと思ったんです。  
これって悪いことですかね?」  
「あなたなんかの妻になって、真理ちゃんは幸せかしらね?」  
 叔母さんは、冷ややかな口調でそう言った。  
 
「あなたみたいに幼稚で自己中心的で、やることなすこと独りよがりな男、女から見たら最低よ?  
はっきり言うわ。今のあなたに、真理ちゃんを幸せにすることなんて出来やしない。  
暗示が利いている内はいいでしょうけど、解けたらすぐに、真理ちゃんはあなたを捨てるわよ」  
 
「ふざけたこと言ってんじゃねえよ」  
 容赦のない叔母さんの言葉に、透の語気もきつくなる。  
「あんたに何がわかるんだ! 真理は心の底からぼくを愛しているんだ!  
現にぼくらは、たった今ここで愛を確かめ合ったばかりだ! 暗示の力なんかじゃない!  
真理は、ちゃんとぼくを受け入れてくれた。それは紛うことなく、真理自身の意思だ!」  
「そこまで言うんなら、真理ちゃんに掛けた暗示を解いてみたらどう?」  
 叔母さんは腕を組み、嘲笑混じりに透に言った。  
「出来ないでしょう。出来る訳がないわね。  
だって真理ちゃんを正気に戻してしまったら、真理ちゃんはあなたを憎むに決まってるもの。  
ええそうよ。あなたが三日月島でやったことを、正気の頭で考えたら……。  
ああ、だけどもう手遅れかもね。だって真理ちゃんの暗示、もう解けてるみたいだし」  
 
 透は、はっとしたように私を振り向いた。  
 鋭い視線に、思わず身体が縮こまる。  
「真理……?」  
 透は、私の両肩を掴んだ。そして、私の心を確かめるように、眼を覗き込んで来る。  
 
 私はどうしたらいいのかわからず、目線を泳がせてしまった。  
 その態度こそが、証明になってしまっていた。  
 叔母さんの言葉が、正しいものであるという証明に。  
 
「皮肉なものね」  
 叔母さんが、ふっと息を漏らす。  
「結局、本人の意に染まない暗示なんて、効力の弱いものなのよ。  
たとえそれを行っている人物が、特別な〈力〉を持つサイ能力者であったとしてもね。  
ちょっとした衝撃を与えれば、簡単に崩れ去ってしまうわ。  
例えば……初めての性体験、とかね」  
「真理……そんな」  
 
 私は、言葉もなく透から眼を逸らした。  
 胸の内には、複雑な思いが去来していた。  
 叔母さんの言うように、透に対し、許しがたい気持ちも当然あった。  
 だけど――だけど私は――。  
 
「真理……ぼくの眼を見て」  
 透は、不気味なほど静かな声で言った。  
「大丈夫だよ。何にも悪いことしないから……ね? いい子だから」  
 優しい声音。その反面、私の両肩を掴む指には無情な力が篭っている。  
「透……痛い……」  
「いいから早くぼくの眼を見ろよ!」  
「嫌! お願いだから放して!」  
 
「こいつ……! ぼくの言うことに逆らうのか?!  
お母さんみたいに……ぼくを見捨てようとしてるのか?!」  
 
「やめなさい!」  
 
 透が大声で怒鳴り出したとたん、それを上回るほどの迫力に満ちた声で、叔母さんが叫んだ。  
 透は私を突き放し、ベッドから飛び出て叔母さんの前に仁王立ちした。  
 その背中が膨れ上がって見える。  
 〈力〉のせいだ。  
 強力なサイ能力――すなわち、超能力を発現しようとしているせいで、  
彼の身体から気が噴き上がっているのだ。  
 まさしく、焔立つように――。  
 
「透、やめて!」  
 透は、叔母さんをサイ能力で殺害しようとしていた。  
 一年半前、三日月館に招待された人々を殺したように。  
 あの惨劇を思い出す。  
 無邪気に笑う透の前で、むごたらしく死んでいったみんなの姿。  
 当時の恐怖が蘇り、私は為す術もなく眼を覆った。  
 
 そうして、どれくらいの時間が経ったのか。  
 長く感じたけれど、実際はほんの二、三秒だったに違いない。  
 とにかく。私が再び眼を開いた時、予期したような最悪の事態は起こっていなかった。  
 でもその代わり――全く予想だにしなかった出来事が、眼の前に展開していた。  
 
「と、透?!」  
 部屋の中央。天井の付近に、透の身体が浮かんでいた。  
 一瞬、透が自らのサイ能力で浮かび上がったのかと思ったが、そうではなかった。  
「……叔母さん」  
 暗い部屋の片隅で。今日子叔母さんは、透をじっと見上げていた。  
 その瞳が異様に光って見えるのは、やはり――サイ能力のせいなのだろう。  
 
「ぐ……や、め、ろ……放……せ」  
 空中の透が、苦しそうに顔を歪めて言う。  
 手足をぴんと伸ばして宙に浮くその様はまるで、  
身体を縛られた状態で、見えない巨人に頭を掴まれ、宙吊りにされている姿に見えた。  
「今日子……お、お前も……ミネルヴァ社、の……人造、サイ、人間……だったのか」  
「違うわ」  
「じゃ、あ……なぜ、こんな……」  
「あなたの知ったこっちゃあないわよ」  
 無感動にそう言うと、叔母さんは片手を上げた。  
 天井に向けた手の平。透の顔が、恐怖に歪む。  
 それに構わず叔母さんは、開いた手を、きゅっと結んだ。  
 
 糸が切れたように。  
 透の身体が、どさりとベッドに落ちた。  
 白目を剥き、口の端から泡立った唾液を吐いている。  
 
「死にはしなかったみたいね」  
 警察沙汰を起こした芸能人の刑が、思いのほか軽かったことを残念がるような口調で、  
叔母さんは言った。  
「頭の中を〈力〉で強く押したら、大抵死ぬんだけどね。普通の人間なら。  
やっぱりサイ人間だわ。一筋縄じゃいかない」  
 
「どういうことなの?」  
 事態が飲み込めない私は、呆然と尋ねた。  
「叔母さんが、サイ能力者だったなんて。まさか、ミネルヴァ社の開発した薬を」  
 
「だから。それは違うと言ってるじゃない」  
「じゃあどうして?!」  
 
 
「三日月島の因縁話は聞いたかしら? あの島が昔、『監獄島』と呼ばれていたという話」  
 唐突な叔母さんの台詞。  
 
 その話なら、一応覚えている。  
 一年半前。三日月島に渡る途中、送迎船の船長が話してくれたのだ。  
 明治時代、無人島だった三日月島に、岸猿という地元の富豪が私設監獄を造り、  
楯突く奉公人達を監禁して、ひどい目に合わせていたとか。  
 私がそれを話すと、叔母さんは苦々しく笑った。  
 
「そうね……当時の岸猿家は、本当に物凄い権力と財産とを誇っていたらしいわ。  
地方有数の名家で……大規模な仕掛けを凝らした監獄ばかりか、  
島に巨大な人造湖を造ってしまうのさえ、たやすいことだった」  
 叔母さんは、懐かしい思い出を振り返るような口ぶりで言う。  
「岸猿家がそれほどの権勢を誇ることが出来たのには、理由があった。  
それは、あの家に太古から受け継がれてきた特別な〈力〉……。  
つまり今で言う、サイ能力のおかげだったのよ」  
 
「サイ能力……」  
 私は、叔母さんの顔を見た。  
 暗い部屋の入口で、廊下から射す明かりを背後から受けている叔母さんの表情は、  
杳として知れない。  
 けれど、強い光を放つ双眸が私を見ていることだけは、はっきりとわかった。  
 
「私の旧姓は、岸猿です」  
 私の眼をじっと見つめ、叔母さんは語り始めた。  
「太古の昔から……岸猿家の娘は皆、必ず不思議な〈力〉を生まれながらに具えていた。  
未来を予見したり、生霊を飛ばして政敵を呪い殺したり。  
そういった〈力〉を駆使することで、岸猿家はどんどん栄えていったの」  
「じゃあ、叔母さんも?」  
「そうよ。  
……もっとも私が生まれた頃、すでに岸猿家は没落して、一家は離散状態だったんだけど。  
没落の理由は単純。  
私が生まれるまで、岸猿本家に、何世代にも渡って娘が誕生しなかったのよ。  
サイ能力だけが繁栄の頼りだった岸猿家は、存続することが出来なかった」  
 
 叔母さんは、小さく肩をすくめた。  
 小柄なシルエットが、ますます小さく、頼りなく見える。  
「それでね。ここからが本題っていうか……真理ちゃんにも関係のある話になるんだけど」  
 叔母さんは、言い辛そうにちょっと口ごもる。けれどすぐに迷いを振り切り、口を開いた。  
 
「岸猿家はその権勢を失い始めた頃、新しい事業に着手していたの。製薬会社の創業よ。  
他の様々な組織や企業との共同出資という形だったのだけど、実際に岸猿が提供したものは、  
資金などではなかった。  
お金の代わりに……いにしえより伝わる特別な〈力〉を、売り渡したのよ」  
「それって、まさか」  
 思わず声が震える。叔母さんは、深く頷いた。  
「代々特別な〈力〉を受け継いできた岸猿家は、その〈力〉に関する様々な知識をも有していた。  
今のように科学が発達してなくて、サイ能力なんて概念もなかった大昔からね。  
世界中が、戦渦に巻き込まれつつあったその時代。  
岸猿の特別な〈力〉を軍事利用したいと考えていた、旧日本軍からの後押しもあって、  
製薬会社は大きく成長したらしいわ。その製薬会社こそが、ミネルヴァ社の前身」  
 
 叔母さんは、ため息をついて続けた。  
「だけど結局、太平洋戦争を前に岸猿家は完全に没落。  
残された家族は散り散りになって行方知れず。  
それに加え、戦局がどんどん悪化していったせいで、それどころじゃなくなったのか、  
製薬会社の〈力〉の研究は、立ち消えになりかけてたんだけど。  
戦後、会社がアメリカの企業に合併されたことで、研究は復活することになった。そして」  
 叔母さんはゆっくりと目線を動かし、ベッドに倒れた透と、毛布を胸の上まで引き上げた私とを、  
交互に見やった。  
 
「……昔とは比べ物にならないほどの資本と科学力の成果で、あなた達は生まれた。  
でもその大元をたどれば、私の……岸猿家の呪われた血こそが、  
あなた達の悲劇の原因ということよ」  
 
 
 叔母さんの告白を、私は愕然として聞いていた。  
 
 かつて、ミネルヴァ社でサイ能力開発薬の研究を行っていた、小林叔父。  
 その妻である今日子叔母さんが、  
そのサイ能力研究の礎ともいえる一族の人間だったなんて……。  
 
「……ところで真理ちゃんは、あの実験の記憶、完全に戻ってるの?」  
「うん。小さかったから、記憶が曖昧な部分もあるけど。  
大部分は叔父さんと……透から聞いてる」  
「透くんから?」  
「ええ……透は病院へ見舞いに来る度に、昔の話をして行ったの。  
そして、話の感想を私に尋ねたわ。  
私がちゃんと暗示の影響下にあるか、確認するためだったんだと思う」  
「そう……」  
 私と叔母さんは、いまだ気を失ったままの透の顔を見下ろした。  
 
 
 透から聞いた過去の顛末を思い返す。  
 
 ミネルヴァ社のサイ能力開発薬の研究。  
 八歳の時、私はその実験台にされ、サイ能力に目覚めた。  
 他にも何人かの子供達が実験に供されていたが、ほとんどの者は身体が薬に適応出来ず、  
死んでしまった。  
 その後、私はミネルヴァから洗脳を受け、実験の記憶を消された。  
 私以外に生き残った四人の少女達も、同様だった。  
 そのまま記憶を失い続けていれば、私達は一応、監視つきとはいえ、  
普通の生活を送れたはずだった。  
 
 だが、私達の仮初めの安寧は、思いがけない存在によって打ち砕かれることになる。  
 透だ。  
 当時、妊婦のお腹の中にいる胎児であった透は、  
実験に参加していた母体から開発薬を摂取し、その影響で早熟になり、  
まだ生まれる前から意識を持って、外界からの情報を得ていた。  
   
 その後、サイ能力で火災を起こし、研究施設からの脱出を図った透は、それから五年間、  
ミネルヴァにその存在を知られることもなく、母親と二人でひっそりと暮らしていた。  
 彼はそんな生活の一方で、密かに私に近付いた。  
 理由は、研究所に居た当時から、私を好きだったから。  
 けれど、私はそのことに全く気付かなかった。透が、私の前に姿を現さなかったからだ。  
 彼曰く。私に比べて当時の自分はまだあまりに小さ過ぎたので、  
多分、顔を合わせても相手にしてもらえまいと思い、遠くから見ているだけだったのだそうだ。  
 
 しかし。透のその行動は、彼自身の身を危険に晒す結果となった。  
 透の存在が、ミネルヴァに露見してしまったのだ。  
 ミネルヴァの目を逸らすため、透は新しい事件を起こすことにした。  
 生き残った被験者の一人に、洗脳を解くための手紙を送り、彼女がミネルヴァの監視下から、  
逃亡するよう仕向けたのだ。  
 ミネルヴァの混乱に乗じて、透は再び自由を取り戻す。  
 
 それからさらに数年経ち、透はようやく私の前に姿を現した。私は大学生になっていた。  
 透は私と同じ大学に通う、学生の振りをして私に近付いた。  
 私は、全く疑うことなく透と接した。  
 薬の副作用であるホルモン異常により、急速に成長した透は、  
同年代の青年にしか見えなかったから。  
 文字通り、子供のように純粋で無邪気な彼と。私は、友達以上、恋人未満の交際を続けた。  
 
 一年半前の、あの事件が起こるまで……。  
 
 
「考えてみれば……透くんだって被害者なのよね。  
ミネルヴァがあんな実験をしなければ、彼だって普通の人間でいられたのだから。  
他の被験者や、人造サイ人間だってそう。  
それだけじゃないわ。あの実験に関わったせいで、殺されてしまった人達。  
 正岡さん。村上さん。そして……あの人も」  
 
 叔母さんの言葉を聞いて、私の心にふと疑問が浮かんだ。  
 私は尋ねてみた。  
「ねえ叔母さん?  
叔母さんが、ミネルヴァの開発部に勤めていた叔父さんと結婚したのは、偶然だったの?  
それとも……」  
「さあ……偶然とも言えるし、そうでないとも言える……かしらね」  
 そっと眼を閉じ、叔母さんは答えた。  
 
「両親を亡くした後、単身上京した私は、ミネルヴァの子会社で働き始めたの。  
別に、ミネルヴァに近付いてどうこうしようという気はなかったわ。  
ただ、身寄りも知己もない大都会で、僅かでも自分と関わりのありそうな場所に、  
吸い寄せられただけ。  
心細かったのね。独りぼっちが。ほんの少しでも、心の拠り所が欲しかっただけなんだと思う。  
だから自分が岸猿の末裔であることも、岸猿の娘特有の〈力〉を持っていることも、  
人には明かさなかった。  
あの人……二郎さんとは、私の勤め先で知り合った。  
当時彼は、仕事の関係でしょっちゅう子会社に出入りしていてね。  
私達はすぐに惹かれ合った。  
彼の業務がサイ能力開発薬の研究という、  
ある意味、岸猿家との因縁が最も深い仕事だということが、多少気掛かりではあったけど……  
彼に強く惹かれていた私は、結婚を決意した。幸せな日々だったわ。  
その後彼もミネルヴァ社を辞めたし、これで私も、岸猿の血の軛から逃れることが出来る。  
そう信じていたのに……」  
 
 叔母さんは、ちらりと透を見た後、深くうなだれた。  
「あの日……一昨年の八月十五日。私は両親の墓参りに出掛けていたの。  
二郎さんには友達との旅行だと嘘をついてね。結婚以来、初めてのことだった。  
信じられる? あの事件が起こった日、私はあなた達のすぐそばに居たのよ。  
島にほど近い、漁場町に……。  
あの人の訃報も、旅館のテレビで知ったわ。島で何が起こったか、私にはすぐわかった。  
そして……後悔したわ。私が……あの人に内緒で墓参りになんて出なければ。  
私は、あの人を止められたのに!  
ううん。それ以前に……私なら、三日月島の惨劇を止められたかも知れない。  
私の、人造ではない、生粋のサイ能力を使えばきっと、透くんを止めることも出来たはず……」  
 
 生粋のサイ能力。  
 確かにきっと、そうなのだろう。  
 つい先ほど見た、叔母さんの凄まじい〈力〉。  
 私や透のそれとは比較にならない、本物の〈力〉だった。  
 
「あの事件の後、ミネルヴァ社は一連のサイ能力開発関連の事業を、  
無期限に凍結することになった。研究に伴うリスクが高過ぎるとの判断らしいわ。  
勝手なものよね。まあ、私が目的を果たすためには、都合が良かったけれど」  
「目的って?」  
「……復讐よ」  
 ずしりと重たい声で、叔母さんは言った。  
 
「私はね、真理ちゃん。  
一人でペンションを切り盛りするかたわら、あなたと透くんの動向を、  
遠くから見張り続けていたのよ。〈心の眼〉でね。  
真実を見極めるためだった。  
三日月島で夫を殺したのが、生き残ったあなた達二人のどちらかであるのは、わかっていた。  
でも、それがどちらであるのかが、判別出来なかったのよ。  
面倒くさくなって、いっそ二人共殺してしまおうかと思ったこともあった。  
それはさすがに思い留まったけどね。  
なんだかんだ言っても真理ちゃんは可愛い姪だし、透くんだってそう悪い子ではないもの」  
 
 優しく微笑んで、叔母さんは言う。  
 私には、そんな叔母さんが怖ろしく思えた。  
「それで……犯人はわかったの?」  
「ええ。思いのほか苦労したけどね。  
何しろ真理ちゃんはずっとあんな状態だったし、透くんは透くんで、  
用心深くてなかなか尻尾を掴ませなかったから。  
でもあの日。透くんが、真理ちゃんの見舞いに来て語った島の思い出話。覚えてるかしら。  
彼、こう言ったのよ」  
 
『……あの時は笑ったなあ。  
ぼくのことをただの木偶の坊だと思ってた連中が、ぼくの炎で次々に消し炭になってさ。  
小林さんだってそうさ。  
ほんというとさ、あの人を殺す理由なんてないし、生かしといてやっても良かったんだけどさ。  
だけど小林さんさあ、ぼくのこと、情けないやつ呼ばわりしただろ?  
ちゃんと聞いてたんだ。だから、ついでに始末しちゃった』  
 
 ……そうだった。  
 確か、一ヶ月くらい前だっただろうか。  
 あんな台詞を聞いても、何の感情も起こさなかった自分が、今となっては信じられない。  
 
「叔母さんは、透を殺すつもりなの?」  
 私は問いかけた。  
 叔母さんは、すぐには返答しなかった。  
 宵闇の中、沈黙の時が流れる。  
 
 
「ええ。透くんの『自白』を得た直後は、すぐにでもこの手で殺してやりたいと思ったものよ。  
でもすぐ考え直したの。透くんには……死ぬ前に、己の浅はかさを思い知らせてやるべきだって」  
 悠久にも思えた沈黙の後、凍りつくような口調で、叔母さんは言った。  
 
「その後しばらく、私は透くんが動き出すのを待ち続けたわ。  
その時は、すぐ訪れた。  
透くんが、シュプールを丸一日貸してくれないかと言ってきたのよ。  
予想通りだった。  
ロマンチストの透くんは、真理ちゃんとの初めての日に、  
この思い出のペンションを利用したがるだろうと思っていたのよ。  
勿体つけて承諾してやった時の、彼の喜びようったらなかったわ。  
馬鹿な子ね。自分の計画が、どういう結果を招くかも知らないで。内心、私は哂ってたわ。  
どうせシュプールの営業はもう停止していたから、何の問題もなかったしね。  
……本当は、続けていきたかったんだけどね。ここはあの人が、大切にしてきた場所だったから」  
 ふう、と力ないため息をついて、叔母さんは続ける。  
 
「まあとにかく。私はあなた達より先にここへ来て、隠れていることにした。  
真理ちゃんが正気に返った後、逆上した透くんが真理ちゃんを手に掛けないとも限らない、  
と思って。  
案の定だったわね。  
さっきの透くん、真理ちゃんに〈力〉を使おうとしていたわ。  
愛しているなんて言いながら、自分の思い通りにならないとわかるや否や、  
殺そうとするなんて! 本当に勝手な男だわ!」  
「……そうね」  
 
 叔母さんの言うとおりだ。と思う。  
 自分勝手で。我儘で。幼稚で。無思慮で。  
 ――でも。でも私は……。  
 
「叔母さん」  
「なあに」  
 闇の中、私は叔母さんを見据えた。  
 叔母さんも、私を見つめ返す。  
 私達の視線が、ちりちりと音を立てて絡み合った。  
 
「もしも今から、叔母さんが透を殺す気なら、私は……」  
「私は……何?」  
 そこから先は言うのがためらわれる。だけど――言わない訳にはいかない。  
 
「私……叔母さんと戦わなきゃならない」  
 
「透くんをかばう気?」  
 私は叔母さんを見据えたまま、はっきり頷く。  
「なぜ? 透くんは人殺しよ? 大勢の人達を虫けらのように殺した。  
そして、真理ちゃんの精神を破壊し、自分の言いなりになる人形に作り変えて、犯した。  
そのあげくに、自我を取り戻した真理ちゃんさえも殺そうとした……」  
「わかってる!」  
 私は思わず叫んだ。  
「わかってます……透のしたこと全部、到底許されるべきことじゃない。  
叔母さんが、透に復讐したいと思うのだって、無理ないわ。だけど、だけど私は…………」  
 
「言いなさい、真理ちゃん」  
 声を詰まらせる私に、叔母さんは言った。  
「言わないんなら、今すぐ透くんを始末させてもらうわよ? 私だって暇じゃないんだから」  
「私は透が好きなの!」  
 声を限りに私は叫んだ。  
 
「自分でもわかってるのよ……こんな気持ち、おかしい。  
透は叔父さんやみんなを殺して……憎まなきゃいけない相手なのに。  
でも私は、やっぱり、透が好き。  
本当に、好きなの……」  
 
「真理ちゃん。それは、本当にあなたの本心だと言い切れるの?」  
「本心……です。間違いない」  
「もしかしたらそれも、あなたの心に残った暗示の残滓かも知れないのよ?  
そうでなければ、単に抱かれて情が移っただけのことかも」  
「そんなのじゃない」  
「じゃあ、百歩譲ってそれが真理ちゃんの本心だとしましょう。  
でもその感情は、ほんの一時的なものなんじゃないかしら?  
色々あって不安定な状態にある真理ちゃんの心が、身近な男にすがりついただけなのかも」  
 
「……それも違う。  
私が透を想う気持ちは、そんなに軽いものじゃない。  
そうよ。叔母さんに言われて、やっと気付いた。  
私、透が好き。ずっと前から、透が好きだったのよ。  
自分で考えていたよりずっと。ずっと……」  
 
 毛布を押さえる手元に、熱い液体がこぼれ落ちる。  
 私は泣いていた。  
 感情が溢れて、どうしようもなかった。  
 泣き濡れる私に、叔母さんがゆっくりと近付いて来る。  
「真理ちゃん」  
 叔母さんはベッドの横に立ち、私の裸の肩を抱いた。  
 
「透くんを許すのね?」  
 私はもう口も利けず、ただこくこくと頷いた。  
「だったら」  
 叔母さんの温かい腕が、私の頭を抱き寄せる。  
「だったら真理ちゃん。私を……殺しなさい」  
 
「叔……母さ……どう……して?」  
 叔母さんの胸の中、嗚咽混じりの声で私は訊いた。  
「私は、透くんに復讐するためここへ来た。あなたが透くんを守りたいと思うなら――  
今ここで、私を殺すしかないわよ?」  
「そんな」  
「早くしなさい。今なら私はあなたに接触している。都合がいいでしょ?  
サイコメトリーで意識交換を行って『自殺』するもよし、  
気絶させて、その間に殺してしまうのもよし」  
 
 
「そんなことは出来ない」  
「なら透くんを殺すわ」  
「叔母さん」  
 私を抱く叔母さんの背に、そっと腕を回す。私は言った。  
「そんな風に脅したって駄目。私――叔母さんの自殺に、手を貸す気、ないから」  
 
「真理ちゃん……〈力〉を使って私の心を読んだの?」  
「そんなことしなくたって、わかるわ。叔母さん優しいから……  
いくら復讐のためだからって、私や透を、殺そうとしたりするはずない」  
「ずいぶんと信頼していただけてるようね。でもわからないわよ?  
何しろ私は、あの悪名高き岸猿家の女なんですもの。  
知ってるでしょ? 昔、岸猿の一族が、どれほどの悪行を重ねてきたか」  
「それは、叔母さんの先祖がやったことでしょ? 叔母さんには関係ないじゃない」  
「でも、業というものがあるわ」  
 さっきよりもか細くなった声で、叔母さんは言う。  
 
「岸猿家には、累々と積み重ねてきた悪しき業がある。それは、断ち切られるべきもの。  
岸猿家最後の生き残りである私さえこの世から消え去れば、岸猿の呪われし血脈も消えるのよ。  
私の背負った業と共に――」  
 
「叔母さんの背負っている業なら」  
 叔母さんの言葉を遮り、私は言った。  
「私と透も、もう一緒に背負っちゃってるわ。サイ能力という〈力〉に形を変えて。  
岸猿家の業を完全に断ち切ろうと思ったら、私達も死ななくちゃならないじゃない。  
でもおあいにく様。私、まだ死ぬ気はないの。透だってきっとそうだわ」  
 
「じゃあ私は……私はどうすればいいの……」  
 叔母さんの背中が、小刻みに震える。  
「あの人を喪って……復讐も出来なくて……自責の念だけに苛まれ続けて……  
そうして、当てもなく独りきりでさまよい続けろというの?」  
「一緒に生きましょう、叔母さん」  
 回した腕に力を込めて、私は言った。  
「透と私と、三人で一緒に暮らすの。  
三人で力を合わせれば、ペンションだって元通りに営業出来るようになるわ。  
私、がんばるから」  
「でも真理ちゃん、私は――」  
「嫌って言わせないわよ! お願い叔母さん! 私の我儘を、聞いて……!」  
 
「ありがとうね、真理ちゃん」  
 ふわりと包み込むような声で、叔母さんが言った。  
「そうね。あなたに断罪されて楽になろうだなんて、それこそ私の独りよがりってものよね。  
それで私の気は済んでも、あなたと透くんは」  
「……叔母さん?」  
「本当に……ありがとう、真理ちゃん。  
あなたに呪われた血を残してしまった私を……私の一族を、許してくれて。  
あなたはきっと、これから幸せに生きていけるわ。透くんと一緒に。  
私が遺す、最後の予言よ。  
あなたは本当の幸せを手に入れる。決して、過去に負けたりしない。  
偽りではない、真実のハッピーエンドを迎えるのよ」  
 叔母さんの言葉は、すぐ耳元で囁かれているようでもあり、  
どこか遠い彼方から響いてくるようでもあった。  
 奇妙な違和感。腕の中にあるはずの叔母さんの身体が、脆く感じられる。  
 
 そして――。  
 
 ――さようなら。  
 
 小さな風を残して、叔母さんが、消えた。  
 
 
 虚ろな時が流れた。  
 私はベッドに掛けたまま、ぼんやりと中空を見ていた。  
 今のはいったい――なんだったのだろう?  
   
 むき出しの両腕を掻き合わせる。  
 身体にはまだ、叔母さんの温もりが残っていた。耳には叔母さんの吐息の感触も。  
 それもこれも全部、幻だとでもいうのか?  
 
 ――もしかすると、叔母さんはもう……。  
 そんな想像が、心をよぎる。  
 私は首を横に振り、その想像を振り払った。そんな馬鹿なこと、あるはずない。  
 ――叔母さんは生きてるはずよ。きっとまた逢える。きっと――。  
 私は、必死になって自分に言い聞かせる。  
 
 
 そういえば、透は大丈夫だろうか?  
 ふと心配になり、私は透の頬を手で触れた。  
 
「う……」  
「透、気が付いたの?」  
 透は、やっと意識を回復した。ほっと胸を撫で下ろす。  
 目覚めた彼は身体を起こし、まだ眠たそうな顔で、眼をしばたかせている。  
 きょろきょろと周囲を見回した後、私の顔を見つけて嬉しそうに微笑んだ。  
 
「お母さん」  
 
 えっ? と思う暇もなかった。  
 透はまるで、幼児のような所作で私に抱きついた。  
 勢いに押され、ベッドの上、私は仰向けにひっくり返る。  
「お母さん……やっぱり戻って来てくれたんだ」  
「ちょっと、透?」  
「ごめんなさい……ぼくもう、熱い熱いしませんから……嫌いにならないでよお……」  
 透は、急に泣き出した。泣きながら、私の胸に顔を擦りつける。  
 
「透……」  
 私の胸で泣いている透は、大きな子供だった。  
 私は彼の、広い背中に手を回した。そして、優しく抱き寄せた。  
 さっき叔母さんが、私にしてくれたように……。  
 
 透の重みを全身で受け止めながら、私は考えていた。  
 今後のこと。  
 まずは、叔母さんを捜しに行かなくちゃ。  
 ミネルヴァ社のことも、気掛かりだ。  
 計画を凍結したとはいえ、忌まわしき実験の生き証人である私達を、  
奴らが本当に見逃してくれるだろうか。  
 奴らが私達を始末しようとする前に――こちらから、何らかの手段を講じるべきではないのか?  
 
 目の前に広がる、様々の選択肢に思いを巡らせる。  
 しかし、どちらにしても確実なことがひとつだけあった。  
 私は、透と共に生きる。  
 これは私が望んだ、私自身の決断だ。他の誰の意思でもない。  
 たとえこの先、どんな困難が待ち受けていようとも――この決定だけは、揺らぎはしないだろう。  
 
 
「お母さん……これからは、ずっとずっと一緒だよね?」  
 胸の中の透が言う。  
「そうよ。私達はずっとずっと一緒よ」  
 暗い天井を見上げ、私はしみじみと呟いた。  
 
【終】  
 
 

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