ここは何処なのか。僅かにかびくさい気もするし、  
じっとりと肌に這う感覚は既に馴染み深いものであるような  
気もする。しかし視界は闇に閉ざされ、春子が  
それを知る術はない。全身が冷えている。  
何故。そうだ、どうして。  
 
けれども彼女の脳裏を支配していたのは、現状を  
量りきれないゆえの混乱ばかりである。それでも何か  
考えなければ。考えていなければ、気がふれてしまって  
おかしくないと思った。  
 
閉ざされた視界は何を意味するのか。肌に伝う感覚で、  
何かで覆われていることはわかる。起き上がるために  
腕を突っ張ろうともがいたが、手首を縛られていた。布の  
ようだ。口には轡を噛まされている。  
 
体が冷えているのは何故だ。風を感じた。服がはだけている。  
気に入りのブラウスで、飾りボタンの愛らしい  
ものだ。夫に一度だけ、強請ったものだった。  
春子の中に、朧気ながら記憶というものが蘇りはじめた。  
自分はたしか、夫の様子を窺いに地下室へ向かったの  
ではなかったか。  
 
そしてそのとき、そう、彼を見たのではなかったか――  
 
「やあ、起きたね」  
 
柔らかな口調であるが、それにいわゆる人間らしさは  
見つけられなかった。低く甘く、気取りもわかるのだが、  
決定的に何かが抜け落ちている。冷徹。感情を失った、  
ただの塊に過ぎない。  
 
ごつごつという足音が耳障りで、春子は眉を撓めた。  
不意に髪を引かれたのだ。体側面を臥していた状態から、  
壁にもたれかかる格好に導かれる。背中を打つかと思った  
が、そうはならなかった。  
 
後頭部に、「何か」が触れた。それは視覚を奪っていた  
布を解し、春子に光を与えた。抑えつけられていた分、  
滲むように世界が白んだ。しかし明るいとはいえないそこに、  
目が慣れるのはじきのことだった。  
 
穏やかな室内灯に照らされた美樹本は、人好きのする  
笑みを浮かべていた。間近で見る顔はいわゆる男前と  
呼べるものであろうが、春子の背筋には寒気ばかりが  
押し寄せた。  
 
「強く殴りすぎたかと思ったけれど、そうでもなかったんだね。  
安心した」  
誰の耳にも嘘とわかる声色だった。自分の障害になるものを  
残酷に排除し、また、それを厭わない人間の証。  
彼の無骨な指先が強引に春子の顎を掴んだ。まだ、体に  
力は入らない。逃げなければ。逃げなければ殺される。  
本能に近い部分が叫んでいる気がした。  
 
「春子さん、といったっけ。きれいな人だ」  
既に三十を過ぎた春子であったが、そういった誉め言葉の類を  
受けることは珍しくなかった。瓜実顔の美貌は品高く、  
知性と相応の色香を滲ませている。派手な凹凸が  
ある顔ではないが、端正で機知に満ちた面立ちには違いなかった。  
 
しかし言葉そのものに嘘がなかったとて、彼女が抱くものは  
ひとつだけだ。  
目の前の男は、冷酷極まりない殺人鬼なのだという認識。  
自分よりは確実に年下と思しい彼は、まるで選別でも  
するかのように視線を与えてくる。舐め回すような、  
執拗なものだ。爬虫類のようにじっとりとした質感をおぼえる。  
春子は轡をきつく噛みしめ、呻いた。  
 
「怖いねえ。女性はこれだからいけないよ。外見や  
イメージだけで、随分と騙される」  
からかうような口調で美樹本は続ける。咽喉の奥で  
噛み殺した笑いはひどく不気味で、聴く者を戦慄させた。  
 
春子の顎を離れ、美樹本の手は再び彼女の後頭部へと  
回された。頭骨を圧迫していたもうひとつの結び目に手が  
かかったようだ。春子の口が自由になる。  
「これで話もできるだろ」  
美樹本はあくまで淡々とした様子で言った。いざとなれば  
いつでもおまえを殺せる、という余裕だろうか。  
 
「みき……もと……さん」  
たどたどしくその唇が紡いだ名は弱い響きで、巨大な影を  
作る大男の前であまりに非力である。強引に封じられていた口が  
痛み、感情がうまく言葉に乗らない。  
気のいい山男、という印象があった目は邪悪に窄められ、  
明らかな嘲笑を春子へ向けている。自分よりも明らかな  
弱者、そして汚らわしいものでも見つめるような目だ。  
 
「二つ、報せがあるんだ。どちらを先にしたらいいかな」  
にやにやと下卑た笑みを浮かべ、美樹本は屈んだまま  
尋ねてくる。その二つとやらに、春子は嫌な予感を  
閃かせていた。敢えて目を合わせているのだろう、  
それが余計に胸を乱した。  
「……答えないか。まあ、答えようもないよな」  
きつく睥睨を向けたままの春子から一度離れると、美樹本は  
立ち上がった。登山用にも見えるごついブーツが、床を  
削って音を立てる。  
 
「まず、ひとつ目」  
 
美樹本の手が暗闇へ伸び、ぐんと塊を引き倒した。それは  
勢いに任せてごろりと転がり、春子の前に姿をさらす。  
 
一瞬息が詰まり、何が起きたのか理解が及ばなかった。  
仰向けに倒れたその塊は人の形をしている。それが  
着ている服を染めた黒いものが血であることは、目を  
凝らさずともわかった。  
そしてその首は、力無くこちらを向いている。  
 
「……あなた……!」  
 
春子はその、見慣れた顔を見つめたまま声を上げた。  
悲愴に包まれたそれは決して大きくはなかったが、彼女の心情を  
如実に示している。  
 
「嬉しいだろ。心配そうにしていたから、これは  
会わせてあげなきゃいけないなと思ってね」  
 
人間じゃない。  
人間だなんて、思いたくない。  
 
春子は自身へ呟くと、瞼を固く閉じた。何か巨大な熱が、  
食道をせり上がってきているように思えた。  
苦しい。悲しい。怖い。それらが全て渾然一体となって、  
彼女の神経を攻撃していた。  
 
誠一さん、と出しかけた名を口中に抑えつけた。  
もしその言葉を飲み込んでいなければ、全ての感情が  
一気に吹きだしてしまいそうな気がしたのだ。  
 
そんな春子の有様を気に留めた体もなく、美樹本は  
不躾に口を挟む。  
「ああ、これは余談なのだけどさ。僕はそういう、今の  
君みたいな顔が大好きでね。だからもっと見られたら嬉しいなあ」  
サディスト。  
脳裏をよぎったそれは、自分にとって最悪の単語であることも  
同時に把握した。  
 
「ああ。……それで、もうひとつの報せだけど。  
このペンションで生きているのは今、あなたと、僕だけ」  
 
片端だけつり上がっていく口元が、彼の表情を更に  
悪魔的なものと見せていた。涙で滲む男の顔は、母胎に  
優しさを置き忘れてきたように歪んでいる。  
 
「……人でなしっ」  
 
痛々しげに春子は首を振った。雫が散るのを見るや、  
美樹本の口は面積を増す。対照的に白い歯は、彼の  
心の闇を偽りに見せようとしているようだ。  
 
「へえ、冷えた関係じゃなかったんだね。  
年が開いていたようだから、ただの金目当てだと思ってたんだ」  
美樹本は肩を竦め、おどけてみせた。彼女の頬を伝う涙を  
眺め、自分の膝へ頬杖をつく。  
 
もしも両手が自由なら、今すぐこの男の横っ面を  
張り飛ばしているに違いない。  
それがたとえ己の命と引き替えになる行為であったとて、  
厭わない心づもりがあった。  
 
「しばらくお話しようじゃないか。例えば……僕が今、  
殺してきた女の子の話とか」  
唇を噛みしめたまま、美樹本の言葉には顔すらも上げなかった。  
嗚咽がかすかに漏れ、吐息と混じる。  
突然腕が伸びてきた。春子の俯いていた首を掴み、  
持ち上げる美樹本。呼吸が強引に途切れたせいで、咳き込んだ。  
 
「人の話は目を見て聞けって教わらなかったのか」  
瞳に飛び込んできた男の眼には、禍々しい怒りが隠れ見えた。  
必死に理性が咎め、抑止しようとしているのもわかった。  
それは美樹本の、子供じみた人間らしい部分といえるのかもしれなかった。  
 
しかし春子にそのようなことを考える余裕はなかった。  
憎い。憎くて憎くて、殺してやりたくてたまらない。  
人間を殺す人間の気持ちだけは一生理解できないものだと  
思っていたが、今ならばはっきりとこれが殺意であると  
叫ぶことができよう。春子は美樹本をきつく睨み返した。  
だが、その代償は男の平手打ちだった。手の甲で与えられた  
それは骨が柔肉を叩き、春子の体をひねらせた。  
身が揺れると同時に汗と、ずっと前に浴びたシャンプーの  
香りが飛散する。頬をじんわりと侵蝕する痛みが  
気絶することを許さない。  
 
追撃するかのように美樹本が近づいてくる。大きな手が  
掴んだのはやはり、髪だ。  
女性の髪を引き掴むという行為には、性的な意味合いが  
多分に含まれる。そしてそれを自由にすることができる現状は  
彼にとって、彼女を征服する錯覚すら得られるだろう。  
 
「おまえが死にたいならそれはそれで構わない、死体が  
一つ増えるだけだからな。けどな、どうせなら楽しもう  
って誘ってるんだよ。粋がるんじゃねえよ」  
 
口角が切れているのだろうか、痺れたような痛みは打撲の  
ものではなさそうだ。ひどく熱い。そしてそれは、  
この男の容赦のなさを雄弁に語っていた。  
春子は反射的に身を竦めた。  
 
それを見るや、美樹本は満足げに目を細めた。  
 
「逆らわなきゃお互い、いい目を見られるんだ。  
頭は有効に使っていこうじゃないか」  
 
乱暴に手を離され、春子は再び床に口づけた。その双眸は  
相変わらず、美樹本を睨みつけている。  
 
引きずるように身を起こしながら、春子は美樹本を見据えた。  
彼は彼女から一時興味をなくしたように、顔を背けている。  
目にかかってくる黒髪の隙間から、忌々しい男の姿が見えた。  
 
「こう見えてね。堅気の人を手に掛けたのは初めてなんだよ。  
信じるかは、あなた次第だけどね」  
踵を高らかに打ち鳴らす様はひどく陶酔的で、美樹本の  
真意が何処にあるのかを探らせなかった。この男は恐らく  
与えられる印象よりずっと残忍で、冷酷で、狡猾だ。  
春子は転がった夫へもう一度目をやった。本来ならばどうにか、  
逃避したくなるような凄惨な姿に違いない。  
しかしそれを受け入れるのも妻のつとめと、どこかで  
言い聞かせなければいられなかった。  
 
脳天をかち割られたのだろうか、裂けた額からの流血が  
目に入った。だがそれは致命傷ではあるまい。既に血の  
失われた首筋に、もうひとつの傷が見える。ぐずぐずに  
なった肉の割れ目は、後頭部をも鈍器で殴られた証拠だった。  
血中の脂肪が乾き、固まって、白く浮いて見える。  
 
「ああ、それで話は戻るけど。女の子、たくさんいたろう。  
OLみたいにうるさいのは好みじゃないんだけど、ほら。  
あの子、何といったっけ。……ああそう、真理。  
真理ちゃん、だったな。あの子はなかなか、悪くなかったんだけど」  
 
気さくな口調で話しながら、美樹本が視界に割り込んできた。  
その表情は実に愉快そうで、春子の神経を更に逆撫でしていく。  
 
「ちょっと脅かしただけで泣き喚いた連中と違ってさ、  
肝が太いっていうのかな。若い割に頑張ってたよ。  
……でもちょっと、詰めが甘かったね」  
美樹本はからりと、こともなげに笑った。  
 
春子はその言葉の先を、聞きたくないと思った。心から、  
これが夢ならば覚めてほしいと願っていた。これ以上、  
この男の口から、残酷劇を聞かされたくはなかった。  
美樹本はポケットから何か、小振りの木札を取り出した。  
しかしそれはよく見ると、そんな平和なものではなかった。  
 
突きだした金属の突起に触れると、研ぎ澄まされた刃が  
身を翻す。飛び出しナイフだ。  
 
「これをね。ちらつかすと大抵、大騒ぎするんだよ。悲鳴を  
上げられると面倒だからさ、ついね」  
 
刃は白銀の光をもって春子の前、その姿を主張する。  
自分は人の肉を掻き分け、命を数多奪ったのだ。  
誇らしげな戦士のように、それは鈍く輝いていた。  
 
「真理ちゃんはね、そりゃあびっくりもしたみたい  
だったけど。叫んだり泣いたりしなかった。偉いと  
思わないかい、まだ若いのに」  
 
何かドラマの台詞でも聞いている気分だった。饒舌さと、  
突きつけられる現実の温度差が激しいせいだった。心を  
直接掻き回されているような、冷たくもなく熱くもない、  
気色悪い感覚に冒される。  
 
「まあ、でもさ。結局恋人君の話をしてみたら逆上して  
しまってね。抵抗が強くて、やっぱり殺してしまったんだ」  
美樹本の口ぶりは、朝食がスクランブルエッグか  
ターンオーバーかで迷った、と伝えるのと同じ軽さだった。  
日常会話の一端になってしまっているかのように、彼は  
何の躊躇もなく告げる。  
 
「春子さんは、一緒に楽しんでくれるよね」  
 
美樹本はナイフを、春子の頬にあてがった。熱をもった  
そこに、金属はとても冷たい。傷をつける気はないのだろうか、それはすぐに離れた。  
 
そのまま流れるようにナイフをしまいこむと、美樹本は  
やはり目を細めた。春子の顔に、息のかかる距離まで近づく。  
 
美樹本の顔は遠目に見るより整っており、顔だちだけを  
さすならば人懐こい印象だった。鼻がやや大きすぎる  
きらいもあるが、男臭くいかついといえば長所にもなる。  
しかしその眼窩に収まっている黒目がちな眼は感情も  
乏しく、惨烈な光をたたえていた。  
恐らく疑うことを知らない少女などであれば、この笑顔に  
見事欺かれることだろう。  
 
「僕は口うるさい女と子供は嫌いでね。だから、  
春子さんくらい落ち着いた人となら、心から気持ちよく  
なれると思っているんだ」  
 
美樹本の髭に覆われた口元から、愛を囁くような言葉が  
こぼれた。だがそれは、あくまで己の性的欲求を  
満たすために過ぎない。支配欲。相手を破壊しつくし、  
誑かし、弄び、誇りや人権をことごとく粉砕する。  
まさか、この男は殺人狂なのだろうか。いや、その言葉を  
当てはめるには冷静すぎる気がした。春子は闇色の目から、  
決して瞳をそらさなかった。  
 
「……やっぱり女は、黙っているのがきれいだね。  
扱いも楽でいい」  
 
いっそ喚き散らし、殺されてしまいたかった。  
だが四肢を縛られ、気力までも奪われた今、春子の肉体に  
そのような余裕はない。  
 
美樹本の指先が、頬骨より少し下に食い込んだ。凶暴性を  
露わにしたその態度は、取り繕う気など微塵も感じさせない。  
「歯を立てられちゃ困るんでね」  
美樹本はかぶりつくように、春子へ唇を落とした。  
 
目の前で火花が散った気がした。  
美樹本は激しく、春子の空洞を埋める。鈍痛を発し続ける  
口角を無視し、啄むように幾度も貪ってきた。ぷっくりと  
肉厚な唇を舌先でなぞり、生まれた唾液を交換し合うように  
口を塞ぐ。水音を伴って繰り返されるそれは儀式にすら  
似ていて、春子の全身を弛緩させた。  
 
柔らかな頬の内壁をこすり、歯列をなぞってから口蓋を這う。  
美樹本の舌は彼の態度さながらにおしゃべりが好きなようだ。  
長いそれは巧みに口内を蹂躙していく。  
女遊びを知っている、熟練したものであった。  
男を知らない無垢な女性はその技巧に、充分に熟れ、  
経験の豊富な女性はその情熱に似た苛烈さに弄ばれる。  
春子にとって美樹本の接吻は後者にあたった。  
 
年下の男が奏でる淫靡な旋律は彼女の理性を確実に攻撃してくる。  
顎を押さえた手はそのままに、反対の腕が回された。  
二の腕と、大きな掌が春子の両耳を閉じた。脳内に響き渡る  
蠱惑的な悲鳴に、彼女は身をよじる。  
 
必死に逃れようと頭をそらしてみたが、男の腕の中で  
懐くようにこすれただけだった。打たれた箇所が血流と  
共に痛み、涙が溢れた。それは精神的な苦痛であると同時に、  
肉体そのものが発した危険信号にほかならなかった。  
 
口が離れたかと思うと舌を導き出され、唇の触れぬところで  
絡められた。せめて抗おうと引っ込めるために舌根に力をこめる。  
 
ところがその谷間を抉られれば、彼女の謀は易々と  
打ち砕かれる。甘く痙攣する舌が、美樹本の口内で  
吸われ、嬲られ、舐られた。  
 
心から、気持ちが悪いと思った。  
 
夫も、少々強引な手つきで、舌遣いで春子を求めるままに  
いたぶったものだった。しかし、それとは違う。  
 
この男にあるのは、深い愛情などではない。  
 
美樹本はようやく春子の頭を解放した。窒息状態に  
近かったのだろうか、目の前が色とりどりに点滅する。  
荒く息を吐き、半開きになった口内へと美樹本の唾液が注がれる。  
 
いささか粘性を感じるそれは咽喉に到達すると、春子の  
嘔気を刺激した。胃の中にもう夕食は残っていなかったのだろう、  
苦く酸味のあるにおいが鼻腔を突き抜けた。胃液だ。  
春子の腫れた口の端から、掻き混ぜられた唾液と共にこぼれた。  
 
「汚らしいな。全部飲み干せよ」  
 
美樹本は春子の頬から指をはずすと、顎へその手を滑らせた。  
強引に仰ぐ形にされ、白い咽喉が上下する。胃液が再び、  
春子を灼いていく。そしてそれに続いて流れ込むのは、二人の唾液だ。  
 
咽喉の鳴る音がひどく五月蠅いと思った。そして一度  
飲み込むたび、眼球が勝手に上下する。  
春子が全て嚥下したことを確認すると、美樹本の手がようやく離れた。  
その顔は喜悦に染まり、目の前で崩れる女を見下している。  
 
春子の唾液がついたのだろうか、その手をブラウスに擦りつけてくる。  
薄水色のそれが肌にはりつき、冷えた肌に心地悪かった。  
 
「いいよ、奥さん。ああ、記念撮影しようか。  
あとでカメラをとってくるよ」  
大仰な動作で両腕を広げ、肩を竦める美樹本。彼の手らは  
フレームを作り、その狭い窓に春子をおさめているようだ。  
噎せる彼女に構わず、美樹本はまさしく「被写体」を追う。  
 
だがそれは芸術を解する人間のものではない。  
人を殺め、己の欲望と目的のままに生きる、悪魔の眼だ。  
 
口でシャッターを切る音を真似ながら春子を更に追い詰める。  
 
春子は屈辱に眉を歪めた。その怜悧な光を宿した瞳の中に、  
濁った翳りがしみ出していた。  
美樹本はその色を認めるや両手を下ろし、今度は跪いた。  
 
「ねえ奥さん。もっと色んな姿、見せてよ」  
言うが早いか、彼の手はブラウスを引き裂いていた。  
左右に千切られたそれは無惨にスカートからはみ出し、  
悲しくもひしゃげて見える。  
 
春子の姿に、美樹本は口笛を吹いた。  
濃い青紫のブラジャーは、それと対照的に白い肌を  
際立たせている。ふたつの膨らみは年齢よりは若く、  
しかし決して青さを感じさせるものではなかった。  
肌理の細かさは化粧で崩れた今時の娘より素晴らしいものだと、  
ひそかに自慢に思ってすらいた。  
 
「いや……やめてください……」  
春子は掠れきった声で、美樹本に哀願した。肌が粟立つのは  
寒さのせいだけではない。二つの眼球が、執拗にも  
その視線を、惜しげもなく押しつけてくるからだ。  
 
「まだ、自分の立場がわからないのかな」  
美樹本の声色はあくまで温和である。しかしそこに  
情けなどなかった。膝をたて、屈伸の要領で立ち上がると、  
春子から再び離れる。途中で転がっていた夫の腹を  
蹴り飛ばす美樹本。はっと息を呑んだが、今の自分では  
彼を助け起こすこともできない。春子は目を固く閉じ、耐えた。  
 
これは夢だ。夢に違いない。だから何をされても、  
何があっても、自分はいつものように朝を目覚め、夫に  
声をかけるのだ。  
目の前に転がっていたあの肉の塊は、決して香山誠一などではない。  
 
しかし、開かれた春子の目に映るのは、無惨な現実だ。  
 
夫の濁った目と向き合わずに済むのは、不幸中の幸いと  
いえるのかもしれない。中年太りを気にしていた夫。  
旅行なんてろくにいったことがないから、と自分を誘ってくれた夫。  
あまりに珍しいと思い、最初は気が乗らなかった。  
 
長い結婚生活の中で、はじめてのねぎらいだったのだ。  
不器用な、優しさのつもりだったのだろう。  
春子は夫を思うと、また涙が頬を濡らすのを感じた。  
 
「いつまでも泣いていると、肌が荒れるよ」  
脳天から降ってきた声に顔を上げる。美樹本だった。  
何も、変わってはいない。自分に突きつけられた現実は、  
逃れられるものではないのだ。  
改めて睨み上げた美樹本の片手には、ワインボトルが  
握られていた。濃緑の瓶に古びたラベルが貼り付いている。  
美樹本は目を細め、そこに書かれた文字を述べた。  
 
「ムートンの八八年もの。勿論赤だよ」  
一度言葉を切り、彼はそこに頬を寄せる。  
「いい塩梅だ」  
春子の視線が瓶を向いたことに気づいたのか、美樹本は  
軽く掲げてみせた。どこから回収してきたのだろうか、  
もう片方の手にはワインオープナーが握られている。  
 
慣れた手つきで開栓の作業に取りかかったようだ。  
ビニールを剥くと、螺旋状になった突起の先端を突き立てる。  
ぎちぎちと穴を押し広げる音が空間を渡った。  
柄を握り、奥まで差し込み終えると、太い腕に血管が浮いた。  
 
「じゃ、奥さん。乾杯」  
 
コルクが刺さったままのワインオープナーを放り捨て、  
美樹本は瓶で春子の肩口を強かに打った。衝撃に耐えきれず、  
彼女の体はあっさりと仰向けになる。美樹本は迷うことなく、  
倒れた春子へとワインを注いだ。  
 
まずその飛沫がかかったのは、頬だった。熱を持っていた顔に  
それは冷たく、鼻腔をスパイスに似た香りが突き刺す。  
流れていく深紅の液体はかすかに紫がかっていて、  
血液と違うのはその透明度だろう。食卓に並びグラスに  
注がれているそれと、人の体からあふれ出す生命の根源では  
比べものになどならない。  
 
美樹本の手がずれていく。注がれたワインは顎を伝い、  
首筋を辿って、鎖骨のくぼみに僅かに溜まった。  
十五度前後のぬるいそれは、しかし春子の体温よりもずっと冷たい。  
浅く溜まり滞ったワインは床へと滴り落ちる。  
 
美樹本の手は止まらなかった。次に狙いを定めたのは、  
その豊かな双乳である。しっかりと刻まれた谷間は  
熟した女の色香を放っていた。汗ばんだ肌に、薫り高い  
葡萄酒が降り注いでいく。水圧で、落下地点の肌が不規則に揺れた。  
それが面白いのか、美樹本は円を描くように春子の乳房を汚した。  
 
それらを丸く押し上げている下着が、水を吸って  
ぴったりと貼り付いた。重みを増したそれは、美樹本が  
直接乳房を押さえつけているかのような錯覚すら覚えさせる。  
山間を縫うようにワインが川を作り、それが下着から  
滲み出すと、臍へ続くラインを進んだ。スカートでそれは  
堰き止められているものの、背後へ流れたワインは  
白いシャツを染め上げる。自分では確認できないが、  
かなりの面積をワインレッドに支配されたことだろう。  
 
「くっ……」  
 
息を殺していた春子の口から、ついに声が漏れた。  
それは世辞にも悦楽ゆえのものとはいえない。先刻から  
繰り返す、目を閉じた顔。死への恐怖や、夫を殺されたことへの  
怒り、そして激しい恥辱が綯い交ぜになっている。  
 
しかし美樹本はそんな春子を見つめるばかりだ。  
ねじくれた欲望を感じさせるその視線は冷酷であり、  
残忍で、狂っている。  
 
「冷たいかな。いや、火照ってるだろうから丁度いいよね」  
幼子に優しく囁きかけるようにしてから、美樹本は瓶を呷った。  
太い首に隆起した喉仏が動くと、彼の中をその甘美な酒が  
流れていくのがわかる。  
 
空になったのだろうか瓶を放り捨て、美樹本は春子へ跨った。  
倒れた際に軽く曲がって浮いた膝に、彼の脹ら脛が絡む。  
美樹本のそれは筋肉質で、硬かった。近づけられた顔に  
先刻まであったはずの柔和さはない。逞しい両腕の先で  
春子の豊かな胸は歪められ、握り揉まれている。  
 
「や……やめて……やめてください……」  
下着が汗と、降りかかった葡萄酒で湿っている。  
それが与える感覚は既に、美樹本に支配されているかのように  
思われていた。しかし、実際に彼の加える愛撫を受けると、  
それがいかに生やさしいものであったのかを思い知らされる。  
 
春子の豊かな乳房がぴったりと収まる手は大きく、あたたかい。  
 
彼が殺人者であるという前提がなければ、人柄を映したもののように  
思われただろう。だが、今となってはそれも、  
得体の知れない恐怖を引き立たせる材料にしかならない。  
そしてその手つきは乱暴で、春子の胸をおもちゃとしか  
思っていないようであることが窺える。  
 
下着を食い込ませるように握力をこめ、揉みほぐす  
というよりは押しつぶすようにこね回していた。痛みを感じる。  
春子は絡め取られた足をばたつかせ、もがいた。  
 
しかしその両腕に春子がかなうはずもなかった。  
美樹本は思うまま彼女の乳房を嬲り尽くす。あれだけ  
強く揉み扱いていた手はやがて優しさを帯びたものになり、  
慈しみ撫で回すようになる。レースのフルカップブラジャーは  
その形を歪め、台無しになっている。なかなかに  
高価な品であっただろうそれは変色した布切れに過ぎない。  
 
美樹本の片手がポケットに伸びた。現れるナイフ。  
刃が横に寝ると、春子と下着の間へ侵入した。  
ぶつりとゴムが切れる音がして、ついにそれは役目を  
果たさなくなった。貝殻の半分に似たそれをあっさりと  
取り払うと、垂れ気味な乳房がその姿を現す。  
 
それを見るや、美樹本は舌なめずりした。  
 
解放されたといわんばかりにこぼれたそれはやはり、  
ふっくらと稜線を描いている。乳首の位置は耳より  
やや外側にあるだろうか。固くしこり尖ったそれは、  
小指の爪ほどの大きさがあった。濃いベージュのそれは  
体質だろうかそれとも、男性経験を主張しているのだろうか。  
かすかに震え、捕食されるのを待つしかない草食獣を思わせる。  
白磁のような肌はよく手に馴染み、揉まれほぐされた  
そこは上気して僅かに赤らんでいた。  
 
「結構好きものなんだね」  
肉体の条件反射で膨らんだ蕾をひねりあげ、美樹本は耳の裏へ囁いた。  
 
「あっ……ああ……」  
春子は頭の疼痛も忘れ、後頭部を床へ擦りつけた。  
鼻にかかった嬌声は美樹本に媚びる色を含み、それでも  
貞操を守ろうとしがみつく価値観、分別が耳に残る。  
だが美樹本はそれを打ち砕くかのように、春子の巨乳を責め苛んでいった。  
 
美樹本の愛撫はやはり巧みであった。遊び慣れているというか  
場慣れているというか、女の悦ぶ局所をよく知っていた。  
 
指先は最初、挟んで転がすような動きであった。  
が、表面へ僅かに爪を立て、引っ掻くように関節を曲げる。  
声を出すまいと堪えていたが、春子の歯列からは  
かすかな嬌声が漏れ聞こえた。  
 
「いいんだよ、奥さん。もっと派手に喘いでも」  
美樹本はまるで彼女を追い詰めることをゲームのように  
思っているのだろう。囁く声音は、自分は手加減などしないと  
予告しているかのようだった。  
 
春子の勃ちきった乳首は徐々にその過敏さを失っていく。  
しかし美樹本は、次々と新たな刺激を与え、彼女を  
休ませはしなかった。手の中心にできたくぼみにおさめ、  
指を使わずにその形を維持する。しばらくそのままであったと思えば  
今度は母乳でも搾るかのように下から持ち上げ、  
瓢箪のようにくびれを作ってみせた。  
 
飛び出したその突起へ美樹本は、すかさず唇を落とす。  
髭に囲まれた口元は、触れるだけでもくすぐったさが  
性感にかわりがちである。  
だというのに、加えて中心から別な攻撃も与えられるのだ。  
 
美樹本はその舌先に力を込め、薄い唇に挟んだままいたぶってくる。  
ちゅうちゅうと赤子のように吸い出したかと思うと、  
軽く歯に挟んで転がされた。圧搾するように手は丁寧な  
動きを見せながら、美樹本は降りかけて肌に馴染んだ  
葡萄酒を吸い出すように愛撫を繰り返していく。  
 
春子は許しを乞うように鼻を鳴らし、その心が快楽で  
たわみはじめていることをしらせた。涙で潤んだ目は  
痛みと悲しみよりも、体がおぼえる苦みに似たものを  
伴った快感に染まっていく。  
ちゅぽんと水音がして、美樹本の口が離れた。  
 
息も荒く、二人は見合っていた。雄と雌の情交。  
相手を屈服させ、何処までも辱め、貶めるための儀式。  
美樹本は薄笑みを浮かべたまま、春子を見下ろした。  
 
「旦那は、こんな風にしてくれたかい」  
貪婪な獣の目をした男は、陰惨を形にしたような声で囁いた。  
春子は横目に彼を見上げると、その柳眉を撓めて言葉を発した。  
 
「……あなた……最低です……」  
美樹本の下に潰され、呼吸は少々苦しいのだろう。  
しかし彼はそれを意にも介さず、春子の顎を掴んだ。  
 
「最低、ね。その割に悦んでたのは、何処の誰だろうな」  
 
口調はあくまで、余裕を感じさせた。頬をなぞり、額へと  
手を滑らせ、前髪をさらりと撫でる。  
美樹本はすっかり葡萄酒をなめ取った乳房へ、再び手をかけた。  
太腿はスカートをめくり上げ、春子の恥部を圧迫している。  
 
「どうせ濡らしてるんだろ。素直になっちまえよ」  
言うが早いか、美樹本は春子の耳へ歯を立てた。  
胸部への洗礼でより鋭敏になった神経は、それが愛撫であることを  
彼女に伝える。未だ唯一の自由を保っている右足が、  
美樹本の膝裏にかかる。抗するつもりの行動であった。  
 
「っは。なんだ、そんなに俺が欲しいのか。いやらしいおばさんだ」  
美樹本はそれを、鼻で笑って春子を罵った。  
それが本意か否かは重要ではない。ただ、彼女を叩き落とすことだけが彼の目的なのだ。  
 
「いや……いやっ……」  
 
侵入したがっているように動く美樹本の膝を受けながら  
春子は、開始された下半身への凌辱に身をすくめた。  
 

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