地丹が、病院の中庭…いつもの隔離病棟の中庭ではない、一般病棟の中庭…に出てきた。パジャマ姿の
まま、しえに付き添われて。美智子から花束を渡される。
看護師たちが口々に何か彼に言っている。すずの部屋からは距離があるのでよく聞こえないが、『退院
おめでとう』と言っているのだろう。
婦長がうれし泣きしている。眼鏡を取り、ハンカチで涙を拭う。
すぐ脇を、例の車椅子の少女が通り過ぎる。車椅子を押す山口さんも、そんなささやかなセレモニーを
見て微笑んでいる。
当の地丹だけが―――あの扉をくぐってからすでに一時間経った今も、まだ完全には状況を理解しかね
ているらしく―――所在なさそうにしている。
今回の『治療』を開始してからはだいぶ抜け毛が減り修復されつつある後頭部、そこだけがすずからは
見える。だが、すずには地丹が今どんな心理状態にあるのかがよく理解できた。
すずもそのセレモニーに参加したかったのだが…窓から見えるそれから目を離し、屋内に向き直った。
亜留美は窓の外の情景に背を向け、うつむいている。
すずが何か言おうとしたのを遮るように口を開く。
「すいません…私…」
涙が流れ落ちる。
「大丈夫です…恋とか愛とかじゃなかったんですから、平気です…だけど…ただ…」
「亜留美ちゃん…」
「気にしないで下さい…私、こう見えても結構タフなんですよ…ちょっとやそっとじゃくじけ…」
それきり言葉が続かない。窓枠の下にしゃがみこんでしまった。床に涙がいくつも滴り落ちる。
無理もない。すずは思う。どうしても必要なことだったとはいえ、つらい出来事ではある。そしてそれ
は、すずが計画し、こうなることはわかっていた上で亜留美に行わせたことなのだ。
すずは無言で彼女の肩に手を置いた。特に言うべき事はなかった。釈明も意味がないだろう。
亜留美はすずを恨んでなどいないと言う。
それが本当の事だとしても、恨みというものは数年、いや十数年を経た後で、突然沸き起こったりもす
る感情である事をすずは知っていた。まあ、恨みを買うのは慣れてるし…彼女はそれは構わなかった。
構わない、では済まないのは、亜留美の方だ。
『時がたてば心の傷も癒える』とよく言われるが、そう簡単に行くものではないことを、職業柄すずは
嫌というほど見てきていた。彼女は立ち直れるかどうか…。
すずはまだしゃくりあげている亜留美の方に、無言で手を置いたまま佇んでいた。
そうして、地丹は婦長の所に引き取られていった。
しえもほかの看護師も、ちょっと気の抜けたような状態になった。
『やっかいな患者さんだったけど、いなくなるとさびしいわね。』
皆の思いは同じようだ。竹田先生は話し相手がいなくなって手持ち無沙汰だ。
ただ、美智子だけが、なんだか浮かれた表情でいる。どうやら、新しい彼氏がSEX上手らしく、やっ
と彼女も本当の『天にも昇る気持ち』を堪能できるようになったらしい。きっと次に描かれる同人誌は、
彼女の実体験からのエクスタシー描写を大盛りに盛り込んだものとなるだろう。
しえは今では元ライバルとは仲良しだ。たまに過去の改蔵の事で口論になるが、それももう二つも前の
事件になってしまった。本気で言い争うには遠すぎる過去のことだ。
そうして地丹の不在は次第に埋め合わされていった。ちょうど、改蔵と羽美のそれのときのように…。
「説明してくれないか?」
今、すずは青松理事の部屋にいる。さっきまでは二人とも理事会に出席していた。すずはその中で小さ
な一議題として地丹の治療終了の報告をしてきた所なのだ。彼は自分の椅子にふんぞり返る。
「どうも理解できないんだよ。何であれで、いままで治らなかった坪内地丹の病状が快復したんだ?却
って傷つくんじゃないのか、あんなことをしたら…。」
「確かに彼は傷ついたでしょうね。でも、それも必要なことだったんです。」
理事は説明を開始しようとするすずに、ソファに座るように促した。
「今回の『治療』の要点は、彼に、とらうま町の存在を全否定させるためにはどうすればいいか、の一
点にあったと言っていいんです。そのために、彼に理想的な、思い通りにいかないという点でもリアリ
ティのある状況を箱庭世界に作り上げ、経験させのめりこませておいて、そこから一気にそれを壊す…」
「残酷だな。」
「確かにそうです。だから最初に、今回の計画は強引だ、と申し上げたわけで。」
すずはしれっと微笑んだ。
「先に治った二人の快癒に関する解析がもう少し進んでからなら、『なぜ改蔵くんと羽美ちゃんがとら
うま町の全否定に至ったか』解って、それを地丹くんに対して応用できたんはずなんですが、そうも…」
理事が『私のせいかね?』という表情をしたので、すずは話題を切り替えた。
「ご存知の通り、この療法の根本は、『患者の病的部分を虚構の世界に思い切り吐き出させ、十分にそ
れが進んだ段階でその虚構世界を患者に全否定させる』ことにあります。患者自身に『自分の病的な部
分は虚構世界に置いてきたのだ、もうあの性格・性質は自分から切り離されたのだ』と考えさせること
が重要なんです。」
「…」
「そんな意味で、この療法は、普通一般のいわゆる『箱庭療法』とは異なるわけですが。とにかく、現
在は地丹くんに対しては、彼に強い印象が残っている内に『とらうま町は全て虚構だったのだ、地丹く
んの心の不具合の部分は全てあの町においてきたのだ、もうあなたは元通り健全な心の持ち主なのだ…』
という後暗示を与え、その状態の定着を見守っている所です。」
「そしてそれは上手く行っている、と。」
「はい。」
「SEXの関係にあった看護師に関する感情はどうなってるんだね?」
「…たしかに、今気がかりな点はそこにあります。彼女への恋愛感情が彼をあの世界に引き戻さなけれ
ばいいのですが…彼にとってはつらいことですが、はっきり言って、その点に関しては突き放して見る
以外に方法はないですね。今のところ、二人とも立ち直れそうな方向で状況は推移していますが。」
「そう推移することも、君の計算に入っていた部分なのかね?」
「いいえ。偶然です。こうはいくまいとの前提で対策案を立ててあったんですが…必要なくなりました。」
「つまり、彼らにとって良かったことも悪かったことも、全部君の計画にはプラスに働いた、という訳
だ…今回の事は全部君の評価点の加点になり、私の失点になった…」
理事は、椅子を回転させ彼女から視線をそらすと呟いた。
「つまらん。実につまらん。」
<以下、商店街>
地丹は街に出た。
新しい自宅から商店街への道を、戸惑いながら歩く。とらうま町ではないその市街地。しかし昔の自宅
からさほど遠くない…そこを、中学当時の記憶を引き出しながら。
ふと、一つのビルに目がいった。そういえばあのビルの2階に、鉄道グッズショップがあったはずだ。
そう思い行ってみると、そこは漫画喫茶に衣替えしていた。
(そうだよな…あれからもう、5年が経ってるんだ…)
仕方なく、当てもなくふらふらする。現実の街のはずなのに、何だかふわふわした非現実感がする。
そして思う…この街が現実なのだとしたら、この足が地に付いていない感覚は、きっと自分自身にリア
リティがないせいなのだろう。現実世界で自分はいったいどんな「坪内地丹」であるべきなのか。
どん、と誰かにぶつかった。思わず膝をつく…と、視界に、マンボウ柄のパンツが飛び込んできた。
ぶつかって尻餅をついた女の子、大開脚状態のその娘は女子高生か。
ぱっ、と両脚を閉じ、真っ赤になって地丹を睨み付ける、強気そうなショートの茶髪少女。
「すけべっ!!」
平手打ち。眼鏡が外れ、かちゃんと落ちる。
一緒にいた友人と思われる娘が眼鏡を拾いながら言う。
「だ、だめよ乱暴でしょ!?す、すみません、この娘ちょっと乱暴で…」
地丹は手渡された眼鏡をかけなおす。
礼を言おうと相手を見ると、その三つ編みの娘は少し頬を染めて彼に見とれていた。
ショートの方の娘が彼女の腕を引っ張り、耳元でささやく。
「またぁ…あんたね、誰でも彼でもー目見ただけでのぼせあがっちゃダメよ。」
「すみませんでした。じゃ。」
地丹は無表情でその場を離れた。彼女らは何か言いたそうだったが、それに背を向けて。
(…まるでラブコメの第一話冒頭みたいなシチュエーションだな。でも、この世界ではそうはならない
んだ…あの娘たちとは二度と出合うことはないんだろうな。)
それは正しいのかも知れないし、そうではないかも知れない。それは誰にもわからない。
なぜなら、この続きに関して、すずのようにシナリオを書いてくれている人はいないのだから。
また少し背中が痛んだ。亜留美との愛の行為の記憶が蘇る。
自分が完全に社会復帰できるまで、亜留美とは会うことが出来ない。
だが、地丹はもう亜留美と会うつもりはなかった。社会復帰できた頃は、おそらく彼女は彼女自身の新
しい恋を見つけているだろう。そうでなければいけないし、そうであって欲しいと思う。
だけどやっぱりそれは悲しい…地丹は無理やりにでも別のことに考えを移すことにした。
(そうだ…改蔵くんと羽美ちゃんのアパートに行ってみようか…。)
住所は教わっている。それほど遠くない所…もうすぐだ、その角を曲がると…
「…なのよね、あのアパートの新しい夫婦。苗字なんだっけ、『勝さん』だっけ?」
道端で会話する奥さん達の会話が耳に。地丹は立ち止まる。
「そうそう、ホント仲いいみたいよ。ていうか、まるっきりやりまくり夫婦なの。隣に住んでるOLっ
て人が事細かに話してくれたんだけど、今も週末なんて明け方までずーっとSEXですって。」
「こないだ薬局で、奥さんのほうがスキンのお徳用を大量に買い込んでるのを見たわ。そりゃもう、あ
のかわいい顔を恥ずかしそうに真っ赤にして。」
「そりゃ勤労学生の夫婦だし、避妊しないとね。でも昼は何の仕事を?二人とも日に焼けてるわよね。」
「これもOLさんからだけど、休みの日には、ちょくちょく二人で海を見に行ってるらしいの、電車を
乗り継いで。なんでも、『もっと広い世界が広がっている』っていう事実を実感しに行くんだそうよ。」
「ふうん…それより夜のほうの話はもう無い?二十歳そこそこの新婚夫婦の性生活、私興味あるのぉ。」
「あるある、あのね…」
そこまで聞いたところで、地丹は二人には会わずに引き返す事にした。
『もっと広い世界が広がっている』か…
よかった、二人が仲よさそうで、世界にリアリティを持てていて。
僕はもう少し待とう、そして、同じようにリアリティを感じられる自信をつけてから顔を合わせよう。
そうだ…とりあえず、それを今の自分のとりあえずの立ち直りの目標にしよう。
今は会えないが、改蔵も、羽美も、すずも、箱庭ではないこの街で自分と同じように暮らしてるのだ。
そして会える機会はないとしても、亜留美も…。
そう考えると、この街とその上に今立っている自分に、地丹はようやくリアリティが感じられ始めた。
<以下、病院内>
すずはまた箱庭のある部屋にふらりと入ってきた。
とらうま町。
住人を失ったその箱庭の街は、完成直前まで出来上がりかけていた新幹線の駅もそのままに、ひっそり
と静まり返っている。
ここに、とすずは思う、ここにまるで本当に人々が生活していたかのように、賑やかに活気溢れていた
時があったのだ。そしてその中で、自分も実際の生活者であるかのように振舞っていたことも…。
今その箱庭は存在意義を終えた。
しかしそれは十分に役割を果たしたのであり、今後は少しずつ解体されながらどのようにそれが作られ
たかを分析されることになっている。その分析データはまた、べつの治療研究に役立つはずだ。
すずは、箱庭と、窓の外の現実世界を見比べるように視線を移した。窓の外の世界では、いまも改蔵と
羽美が仲良く暮らし、地丹も街に出て新しい世界に慣れようとしていることだろう。
背後の廊下を、看護師たちが慌しくかけてゆく音が聞こえる。
「ほら急いで…今日は新しい仕事を覚えてもらうわ、ちょっときついけどがんばってね。」
「はいっ、わかってます亜留美センパイ、私がんばりますっ。」
足音が遠ざかる。
亜留美の下に、試験的に看護学生を見習いとしてつけてみたのだ。
しばらく虚脱状態だった彼女も、後輩ができてはりが出てきたようだ。
すずもそろそろ仕事に戻らなければなるまい。
彼女にも現実があった。青松理事は今後も彼女に絡み続けるだろうし、離婚調停や親権問題に関しては
彼女のほうが元夫より分が悪い状態なのだ。若先生のお誘いもいなさなければならないし…。
彼女は、もう一度箱庭を見つめ、その上で起きた色々なドタバタや愛憎劇を、最後に一度だけ思い起こ
し直した。面白かったことも、困り果てたことも、同じように懐かしみながら。
そして彼女はそれらの思い出を胸にしまいこんで踵を返し、病棟での仕事に戻っていった。
ドアが閉じられ、時が止まった箱庭の街の上には、いつまでも午後の日差しが穏やかに降り注いでいた。
おわり