第一幕〜石神井病院物語〜  
 
――気持ちのいい、朝だ。  
石神井病院の若きドクター、彩園すずは、四階にある窓から既に天高く昇った  
眩しい太陽を見上げ、腕を組んで全身を上へと伸ばした。  
腕を下ろすと、窓の下に広がる街並みが一望できる。この病院は坂の上を登った場所に  
建っているので、階層の割には見晴らしがよい。  
見渡した一面は均一な住宅街のようでありながら、ドラえもんのアニメに頻出するような  
幅広い車道が街を分断し、それから都内にも関わらず、所々に猫の額ほどの空き地や畑が  
残っていたりして、意外性に富んだ光景を見せている。  
開け放たれた窓にすずが近付く。アルミサッシに手を掛けて、彼女は軽く身を乗り出した。  
風が孕む熱に夏が残っている。  
見慣れたこの光景のどこかに――  
過日退院した若い男女、勝改蔵と名取羽美が住んでいる。早いもので、彼らの退院から既に二ヶ月もの  
時間が経ってしまっていた。  
病院の中で何年にも渡り、自分達が創り出す物語の住人を演じてきた彼らも、今やすずと同じ世界、  
同じ現実を逞しく生き抜いている事だろう。  
力を合わせて。  
「あの子たち」  
元気にしてるかな、とすずは呟いて、窓の後ろを振り返った。  
十時十分を示した壁掛け時計の左側には、鼠色に塗られたステンレスフレームの棚が壁際に  
置かれていた。ダンボール箱、人形や模型が所狭しと並べられている。  
作業室の中央には、窓から見える風景に良く似た、それでいてどこか現実味を欠いた街並み。  
289回にも及ぶ治療プログラムの果てに、作業室一杯に広がった箱庭だった。  
最初は名も無き普通高校から始まったそれは、最後には作業室の床をほとんど占領するまでに  
広がったのである。すずが窓際に立っていたのも、結局はこの箱庭に追い遣られたようなものだ。  
今や作業室の中は人間よりもその箱庭、とらうま町の為に用意された空間と化しており、彼女が  
格好を付けて立てる場所も他にはなかったのだった。  
「これだけは物語じゃなかったのよね」  
誰に言うでもなしに、すずは内面の感慨を素直に口に表した。  
 
箱庭、という表現を用いた。しかしその雄大な広がりと、微に入り細を穿つ精緻さを併せ持つ  
人工の街並は、どちらかと言うとジオラマと呼んだ方が似つかわしかろう。  
ウルトラ○ンコスモスの撮影に使われたセットをも、簡単に凌駕する出来栄えである。  
この街を、患者であった勝改蔵と名取羽美(実はもう一人いたのだが)は自力で作り上げたのであった。  
事情を知らない人間が、これほど巨大で精緻な箱庭を二人で作ったという話を耳にすれば、恐らく  
彼らはみんな嘲いながら、マンガのようだ、テレビの見過ぎと言って相手にもしないだろう。  
それでも――  
彩園すずが直接目の当たりにした、紛れも無く現実に有った出来事である。  
「ホントのことさ」  
何気なく唄い、慌てて口を両手で覆ったすずが思った事は、自分も知らず知らずの内に  
患者だったガンダム好きの青年、改蔵に毒されたのではないだろうかという心配だった。  
「あの子たち、『濃い』キャラクターだったな」  
そこが好きだったんだけど、と呟きながらすずはゆっくりと、床一面を支配したジオラマの周りを  
歩き出した。  
 
箱庭の主な舞台、虎馬高校を出てしばらく歩くとしがらみ商店街の店が並び、それから総合商業  
施設のマイキャルとらうま、トイチ銀行や「むじんぞう」、少学館に集英社。  
三人目の小柄な少年に似せて造られた人形の残骸や、千切られた股裂き人形のカケラやら、  
不気味な代物が建物の間に転がっている様子が、何処か病んだ心を想起させる。  
人形も街も均一に、二ヶ月分の埃を被っていた。  
そんな殺伐とした光景とは対照的に、丘の上に置かれた教会の前には、  
結婚衣裳に身を包んだ男女の人形が、仲良く寄り添って立っている。  
教会に駆け付けた、個性的なキャラクター人形たち。二人を見守るように取り囲んでいる。  
青年たちの退院直後、すずが祝福のつもりで「二人に幸あれ」と願って置いた物だ。  
勝改蔵と名取羽美、二人はこの街を創る過程で自我と精神を取り戻し、そしてこの街は――  
彼ら二人の間に絆を生み、育んで行った街でもある。  
不器用極まりないコミニュケーションの取り方だったな。  
彼らが模型を弄りながら交わしていた会話の様子を思い出しながら、すずは一人微笑んだ。  
 
彼らと同じグループに分けられ、一人病院に残された坪内地丹と組む適材が患者に居なかったので、  
箱庭の治療プログラムは一時中断されている。その為地丹もあの日以降この作業室には  
立ち入っていない。作業室の鍵もすず自身が管理していたため、二ヶ月もの間  
この部屋は無人のまま放置されて来たのである。  
何も変わらない。  
――何も変わってないはずなのだけれど  
作業室のどこかに違和感が漂っている。どこだろうか――  
その原因を突き詰めようとすずが思考を働かせた時  
 
どんがらがっしゃん  
 
廊下から突如として聞こえたマンガチックな物音に、すずは思考を中断されてしまった。  
 
石神井病院でこんな物音を立てる人物と云えば、唯一人しか思い当たる節がない。  
項垂れ眉間に指先を当てて、彼女はがっくりと溜息を吐いた。  
「あの看護学生は……」  
廊下は静かに、という決まり事を学ぶのは小学生の間と相場は決まっているが、件の看護  
学生は不注意なのかそれとも元気があり余っているのか、それすらまともには守っていない。  
と云うより一言で実情を述べるなら、彼女はそう――おっちょこちょいなのだ。  
噂をすれば影が差す。扉の向こうから、幼く甲高い声が呼び掛けて来た。  
「彩園せんせーっ!」  
典型的なアニメ声とともに、作業室の扉が勢い良く横に開かれる。  
ぱたぱたと小気味良い足音を響かせて、声の主が室内へと疾風の勢いで飛び込んだ。  
「彩園せんせーっ、ここにいらしたんですね!」  
黒いショートヘアを、すずに倣って外ハネにした看護服の少女が元気良く叫ぶ。  
胸の名札に注目するとそこには、「泊」と書かれていた。  
 
この底無しに明るい笑顔とキャラクターは、彼女の宝と呼んでも良い長所だろう。  
だが病院では本来、入院患者に不快を与えないよう、出来るだけ静かに振舞う方が正しい。  
彼女の言動は病院にしては少し喧しすぎるのだ。看護する者としての自覚が欲しい  
所だが――  
すずは気をつけの姿勢で立っていた看護学生に向かって、呆れも露に口を開いた。  
「こら看護学生、『廊下は静かに』って言うのは小学生でも守ってる事でしょうが。  
先刻ものすごい物音を立ててたでしょう。アンタは小学生か」  
「先生ヒドーい、看護学生って十羽一絡げに呼ばないで下さいよ。私中学時代からここに  
出入りしてましたよ。その時は先生、『亜留美ちゃん』って呼んでくれたじゃないですか」  
頬を膨らませて答えた看護学生、彼女の名は泊亜留美と言う。  
今自分で言ったように、彼女は学生時代からボランティアで石神井病院に出入りしており、  
いつも明るく外連味が少ないその人柄で、病院の患者スタッフを問わず人気者になっていた。  
「亜留美ちゃんはドジなのが玉にキズ」と言って息を荒げていた男性患者も、極一部に存在した位である。  
従って亜留美は、看護学生としてこの病院へ実習にやって来た時には既に有名人だった。  
実習の最初では、先輩の看護師に自己紹介を行うのが普通であるが、彼女は名乗ろうとした時に  
看護師の神埼から「じゃ亜留美ちゃんの番ね」と言われて、その場にいた皆を笑わせた逸話もある。  
だが今は一介の看護学生であり、他の学生と比べて区別されるべき身分ではない。それに  
看護学校を卒業しても、亜留美が一生石神井病院に勤務するとは限らないのだ。  
全く見も知らぬ病院に勤務すれば、そこには亜留美を見知った人間がいる訳でもない。  
彼女に有利な贔屓が介在しない環境でも、看護師が務まるような逞しい人間になって欲しい、  
すずはそう願うが故に、亜留美の事を敢えて『看護学生』と呼び捨てにしているのだった。  
すず先生の親心を知ってか知らずか、亜留美はむくれた表情で物音の話を始めた。  
「コケちゃったんですよ先生。さっきのでケガしちゃいました」  
スカートの裾を軽く持ち上げて亜留美は、ほらここ、と膝小僧の辺りを指差す。  
小麦色の肌にうっすらと赤みが差していたが、出血は全く無く、唾をつけるまでもない軽傷である。  
 
そんな傷いちいち見せるなという視線を送りながらすずが言う。  
「分かったから普通にしてなさいアンタは。いや、アンタの普通じゃ駄目なのよね……」  
「ほえ? 何ですか?」  
すずの云う事が理解できなかったのか、亜留美は大きな目をまんまるくして首を傾げた。  
「まあいいわ、とにかく用事があったから私の所に来たんでしょ」  
あっそうそう、そうですよと慌てた口調で亜留美は思い出したように言った。  
すずは落ち着きのない彼女の態度を咎めない。と云うよりは、もう咎める気力も湧かない。  
本筋とは関係のない部分に対し、一々突っ込みを入れては話が進まないではないか。  
細かい突っ込みが来なくなった事に安心したのか、亜留美はようやく本題に入った。  
「しえさんから聞いたんですけど、19さんの様子がおかしいって連絡が入ったんです」  
「19さん? ああ326号室のね。でもあの人は入院前から様子がおかしかったし  
(多分退院してもおかしいままだと思う)、何でそんな事が気になったの?」  
ナースコールがあったんですよう、と亜留美は抗議した。最初からそう言えばいいのだ。  
舌足らずな子供から的確に状況を聞き出そうとする母親の如く、すずは亜留美の言葉を繰り返しながらさらに訊いた。  
「で、ナースコールがあった訳ね、それで容態が急変したとか?」  
「安定はしてるんです。命に別状はありません。急変した訳じゃないけど、なんと言うか  
変なんです。てゆーか、あの様子はうまく説明出来ませんから先生に診てもらった方が早いです。  
それで山田さんに先生の居場所を聞いたら、作業室の鍵を持っていたって言ってたから」  
「19さんは若先生の受け持ちでしょーが。アンタ何で私の所に来たのよ。しえちゃんは何て言って  
アナタに用事を頼んだの?もう一回よく思い出してみて」  
うーんと暫し唸って、亜留美は自分の記憶を辿る。あっそうそうと言って、彼女は続けた。  
「えっと確か『先生探して来てくれない?』って言われたから、私は彩園先生を探して――あっ!」  
すずは漸く彼女がここに来た理由に納得した。しえは担当医を呼ぶように亜留美に頼んだのだろう。  
 
だが先生と聞いて亜留美は条件反射に自分を思い浮かべ、そそっかしい彼女の性格ゆえに生じた  
しえとの齟齬を確かめること無く、326号室を飛び出して、ひたすら自分の事を探していたのだ。  
まあ彼女が自分の事を頼りにしているという証拠であり、その意味で悪い気はしないのだが――  
「看護学生」  
すずは居ずまいを直して、亜留美の顔をまっすぐに見つめて云った。  
「私を頼りにしてくれるのは、個人的にはすごく嬉しいわ。スタッフの間で信頼関係を  
築く事も、病院の中では大切だから悪くないわよ」  
けどね、と間を置いて、すずは眼にプロフェッショナルの光を点す。  
石神井病院は経営の都合上、心療系に力を注いでいる。そのため外科手術に重点を置く  
病院と比べて空気が鋭く尖っている訳ではないが、それでも医療現場である事に変わりはない。  
すずは冷静に口を開いた。  
「意思疎通をしっかりとせずに動いて、結果取り返しの付かないミスが発生する事も  
大いに有り得るのよ。ここは病院だから、些細なミスが患者さんの命に関わる危険も  
あるんだから」  
「あっ若先生だ」  
亜留美は扉の向こうを歩いていた浅黒な美青年を見つけるや否や、医療現場に携わる  
人間の心構えを諭していたすずを放り出して、  
わかせんせ〜、と叫びながら廊下に飛び出ようと走る――  
 
どんがらがっしゃん  
 
こういう漫画的な擬音表現が似合う少女は他に居ないのではないか。  
亜留美は駆け出した際に箱庭の足元に置いてあったゴミ箱に蹴つまづき、大きく前に  
倒れたのである。  
オレンジ色の四角い箱は勢い良く蹴飛ばされ、中からは重みのある大きな紙屑が飛び出した。  
「いつつ……倒れるときは前のめり」  
床にぶつけたおでこを擦りつつ、亜留美は膝を突いて立ち上がる。  
顔からコケた筈なのだが、床に鼻をぶつけた様子も見当たらず鼻血も出ていない。  
器用なコケ方をするのだなとすずは妙な所で感心しつつ、亜留美が転んだ姿を目撃したのと  
ほぼ同時に、頭の中で何かが働いた事を自覚した。  
モヤッとした思考の渋滞が一気に解消するような、スッキリした気分だ。  
起き上がった亜留美は、再び「わかせんせ〜」と叫びながらぱたぱたと足音を立てて  
走り去って行った。  
 
騒がしい看護学生が立ち去った後で、すずは見慣れたはずの風景をもう一度皿のような目で眺めた。  
違和感の正体が判明したのだ。  
巨大な箱庭を載せている、長い机を連結して誂えた作業台。建物や乗り物の模型を収めた  
箱や、人形を収めた箱、それらがみっしりと載せられている鼠色の棚。  
作業台の足元には横向けに倒れたゴミ箱、そこから吐き出された紙屑。  
一通り見回した後、すずは膝を床に突き腰を屈めて、作業台の下に潜り込む。  
彼女の視線は、オレンジ色の四角い箱に集中していた。  
「こんなゴミ箱なんかあったっけ?」  
前述の繰り返しになるが、作業室は二ヶ月間も放置されており、しかもその間  
鍵はすずが管理していた。  
最後に作業室を出た時に、窓の施錠も確かめた。この部屋に誰かが入れた訳がないのだ。  
だからこの部屋で箱庭療法が行われる事もなく、ゴミ箱もその際中身ごと部屋から  
持ち出した筈なのだ。  
しかも当時そこにあった筈のゴミ箱は丸い青色のPP容器であり、今現在ある物とは明らかに形状が違う。  
 
――誰が  
――いつ  
――どこから  
――どうやって  
――何の目的で  
ゴミ箱を持ち込んだのか皆目見当が付かない。膝を突いたまま床を這って、すずはゴミ箱の  
周囲をもう一度確かめた。  
床の上は埃も薄い。埃の大部分は、作業台の上に置かれた箱庭に降り積もっているのだ。  
リノリウムの床が屋外の光を鈍く反射する。足跡が浮かび上がった。  
――亜留美ちゃんのか  
亜留美が毛躓いて転んだもの以外、足跡は見当たらない。靴の模様が一種類しかないのだ。  
念の為、すずはもう一度作業室を隈なく探して見た。足跡がない以上ワイヤーか何かを使った  
トリックではないかと疑ったからなのだが、棚にも作業台の脚にもそれらしき痕跡はない。  
第一仮にワイヤートリックが使われたとして、何故そのような手の込んだ方法を使って  
足跡を残さずにゴミ箱を作業室に置かねばならないのか。その理由は一体――  
 
――これはミステリーだ  
すずは作業台の下で四つん這いになったまま、首を横向けながら素直にそう思った。  
本来作業室にあるはずのない物、それが知らぬ間に床の上に現れていたのである。  
亜留美がこれに毛躓いて転んだのも、彼女のドジが招いた結果だとは一概に言えないだろう。  
物理的に考えられない状況で、ゴミ箱が出現した。  
怪奇現象だろうか。さしものすずと雖も、一瞬ムー的な考えに誘惑されそうになる。  
明らかに合理性を欠いたゴミ箱の存在を説明する上では、確かにそれは一番簡単な考え方だろうと  
思われるが――  
否――断じて否だ。すずは否定する。  
これは漫画ではないのだ。現実の石神井病院で、すずの目の前で起こった紛れもない現実である。  
――現実の出来事を説明するのに、蒙昧なオカルトを持ち出す訳には行かないじゃない。  
すずは軽く唸り、誘惑を振り払った。  
現実に起こった出来事である以上、何らかの手掛かりが部屋の何処かに転がっている筈だ。  
例えばそう、ゴミ箱から吐き出されている紙屑。ゴミという物は時として、廃棄した者の  
人と為りや家庭生活をトレースする上で、しばしば強力な手段となり得る。ストーカーが  
ターゲットの家庭ゴミを漁る所以でもある。  
本格的な捜査ともなると、毛髪や爪などからDNAを抽出、増幅、制限酵素処理を施し、  
酵素で切断されたDNA断片を電気泳動に掛けてパターンを調べる事も行われる。  
すずは病院関係者である以上、その分析鑑定を行なう施設や人材に心当たりが無かった訳でもない。  
然し疑わしい人間を病院の内外から見つけ出し、その都度DNAを調べる方法は効率の悪い事夥しい。  
時間も手間も掛かる上に、この現象が誰の仕業か分からない状況では、検出されたDNAが誰のもの  
であるかも分からず、徒労に終わる可能性が極めて大きい為である。  
一般的に、DNA捜査は大体の目星が付き、犯人の候補が絞り込まれた段階で用いられている。  
広域捜査よりもこれは寧ろ、容疑者の裏付けや公判での証拠固めに適した捜査方法なのだ。  
――そうではなくて  
今は素人捜査の範囲で、手掛かりが掴めたら十分である。例えばゴミ箱に捨てられていた内容物。  
ゴミ箱からはみ出ていた紙屑には、何か文字が書かれている。しかも手書き、好都合だ。  
 
文字の癖や筆圧から、書いた人間が男か女か、攻撃的か温和か、或いは粘着質か流動質か  
概その判断を下す事が出来る。よしんば書いた本人がゴミ箱を持ち込んだ人物その人でなくとも、  
何らかの関わりを持った人間である可能性は十分に高かろう。  
すずはFBI捜査官ではないが、しかし医師として人間の心理を専門としている。  
素人判断よりは手掛かりを探る事が出来そうだと、彼女は自分でもそう考えた。  
膝を床に付いて、すずは作業台の下を這って動き始める。ストッキングの膝が汚れるかも、  
と一瞬思ったが、目の前に現れた怪現象を解明したいという気持ちは、たかが服の汚れよりも  
より一層強く彼女を動かす力となっていた。  
すずは夢見る幼い子供のように、瞳の輝く、素敵な表情をしてゴミ箱に近付く。  
結局彼女は好奇心が人並み外れて強いのであろう。さもなくば改蔵や羽美の繰り出す、  
幅広く豊富な話題の相手など到底勤まらなかったと思われる。  
彼女の好奇心は理性とは裏腹に、この不可思議な状況を確実に楽しんでいた。  
 
文字が判読できる距離まで近付いた。見覚えのある汚い文字が目に飛び込んで、一瞬すずの表情が翳る。  
彼女は皺苦茶に丸められた原稿用紙を無言で手に取ると、急いで作業台を這い出し、立ち上がって  
がさがさと音を立てて広げる。皺を適当に伸ばして両手に持って広げ、紙の上に日光を当てる。  
逡巡の後、文字を追う。  
原稿用紙には一遍の小説が綴られていた。拾う直前の原稿用紙から、すずが思わず目を背けたく  
なったのは、単純に文字が汚なかったからと云う訳ではない。それよりも衝撃的だったのは――  
 
――何これ、私の字じゃないの  
原稿用紙に書かれた文字の筆跡、筆圧。それらすべてが、すず自身のものであると語っていた。  
作業室に居る今の時間は兎も角、すずの送る日々は基本的に忙しい。  
若先生と並ぶ石神井病院の二大看板として、すずの元には毎日ひっきりなしに外来患者が訪れる。  
その一人一人に対して、彼女はカウンセリングや治療を行なわなければならない。それだけなら  
まだしも、入院患者も何人か受け持っている上に、研究誌に症例を報告する論文も書かねばならぬ。  
 
小説を書く暇など作るよう筈もないし、そもそも彼女は論文など何がしかの文章を書く際、  
必ずワープロツールを使用する。手書きで記入する紙と云えば、石神井病院に勤務してからは  
カルテくらいしか触っていない。  
つまりこれはすずに取って二重の意味で、書いた覚えの無い代物なのだ。  
得体の知れない寒気に耐えつつ、すずは原稿を読み進めて行った。  
話を追うごとに、登場する人物名が増えて行く。しかし何度か繰り返して登場する人物は、  
どうやら限られているようだった。その名を確かめて行く。  
――改蔵  
――羽美  
――地丹  
――神崎  
「何これ……」  
冷や汗がすずの背中を伝う。  
名前の全てが石神井病院の関係者である。話の筋も、すずが改蔵と羽美に施した箱庭療法の話を  
下敷きにしているとしか考えられない内容であった。  
関係者で無ければ書けない話ではあるが、その割に医療関係の描写は驚くほど貧弱である。  
確かに他ならぬすずの汚い字で綴られているのだが、仮に彼女が小説を書いたとすれば、もう少し  
医療現場を克明に描写した内容が出来上がる筈だ。すずには小説を書いた経験など無いが、その点は  
自信を持って断言できた。  
――私の字だが、私が書くような小説ではない。  
この原稿を一体どう判断した物か。  
ゴミ箱の件も含め、誰かの悪戯にしては手が込み入り過ぎている。仮に誰か――最早石神井病院の  
関係者としか考えられない――の悪戯だったとして、行なった人間に何の得があると云うのか。  
原稿を下ろし、リノリウム床の目地に鋭い眼光を浴びせながら、すずは黙って思索に入る。  
 
若先生、或いはその取り巻き連中が、すずへの嫌がらせとして行なったのか。――否。  
若先生こと砂丹本人は、すずの秘めた野心を見抜いた上で彼女の実力を認めている、度量の大きい  
人間だ。彼ならば自らの脅威となりかねないすずを追放しようと企むよりも、彼女がこの病院で  
如何に実力を発揮できるかと云った事柄に力を注ぐに違いない。  
石神井病院をより発展させて行こうと考えるなら、すずを優遇する彼の判断は間違いなく正しい。  
病院の経営形態や規模を問わず、名医と呼ばれる医者は一人でも多く抱え込むのに越した事はないのだ。  
病院側は彼らに支払う報酬というリスクを背負う事になるが、世間の評判を取り込むメリットの方が  
大きい。実際砂丹の協力で彼女に当てられたポストは、個人経営の病院にしては恵まれていた。  
30にもならぬこの歳で診察室の他に自室を与えられる事など、普通は考えられない。考えように  
よっては大学病院より、すずの待遇は遥かに豊かであると言える。  
無論この病院の古株にとっては面白い事では無いだろうが、仮に彼女に対してこんな嫌がらせを  
仕掛けたとすれば、医師の資質を疑われるほど精神構造が幼稚であろう。  
第一彼らでは、すずでさえ見破れぬトリックを仕掛けられるとは思えないし、事が跡取り息子に  
露見すれば、真っ先にリストラ対象に指定されかねない。そんな危ない綱渡りに職を賭けるほど、  
彼らも愚かではない。  
美智子や山田、しえ達看護師たちは――犯人では有り得ないと信じるが、これも一応動機を  
考えてみよう。  
彼女らはすずが若先生と並んで廊下を歩いている時でも、先ずはすずに対して挨拶する。そんな  
彼女たちも勤務時間や仕事内容など不満は抱えているはずだが、それをぶつける相手としては  
病院の経営陣か、或いは若先生の方が妥当だろう。  
看護師たちがすずに対して何らかのアクションを起こすつもりなら、彼女らはすずにクーデターを  
唆す内容の直訴状を送ると考えられる。何より彼女たちが仕掛ける悪戯にしては、今回の件は余り  
にも悪趣味の度を越しているではないか。  
では――  
 
最終的に、自分を疑わねばならないのか。  
確かにすず自身の主観を取り除いて作業室を俯瞰した場合、最も疑わしいのは彼女自身である。  
亜留美以外の足跡が床に積もった埃の上に無かった事実も、誰か第三者に検証して貰わない限りは、  
すずの見た幻覚であった可能性を完全には排除できない。  
知らない内に夢遊病か、それとも精神乖離を患っていたのだろうか。  
だがそれでも、自覚する限りにおいては時間経過が早かったなどの兆候は見受けられない。念の為、  
若先生に診察して貰った方が良いだろうか。  
いや、それよりも誰かに原稿と足跡を見て貰えばそれだけで、すずが目撃した現象が幻覚でない事は  
明らかとなる。  
ならば誰を呼べばいいのか。自分が体験したこの不可思議な出来事を、どうやって説明しようか――  
 
窓ガラスが小刻みにびりびりと鳴リ出した途端、唐突にすずが顔を上げる。  
問題解決こそ出来なかったが、取り敢えず出口のない思考の迷路からの脱出は叶った。  
どうせ超常現象にしか見えぬゴミ箱と中身の問題も、今すぐ解決せねばならない課題ではない。  
放って置いて、後でふと解決策を思い付く可能性に任せた方が良い。下手な考え休むに似たり。  
それよりもこの揺れが気になる。悪くすれば、患者の生命に取り返しの付かない事態が発生する  
可能性があるのだ。  
即ち、地震である。  
地震の影響で機器類が停止したら、人工呼吸器の必要な患者にとって致命的である。停電だけなら  
機器の内蔵電池や予備電源で凌げるが、大地震で機器自体が損傷したら一巻の終わりだ。  
外科手術でも行なわれていたら最悪だが、幸い今日の所は予定が無い。よしんば予定を変更して  
行なわれていたとしても、手術中の地震にはブラック・ジャック先生でも為す術はない。  
それより最優先させるべき事は、患者の避難であろう。同時に自分の安全も確保せねば。  
頭の中に最短の避難経路を描きつつ、重篤患者が収容された病室の配置を思い返す。  
天井近い壁に掲げられた時計を一瞥し、時刻を確かめる。  
午前11時、長くこの部屋に居すぎたか。  
 
しかし揺れるのは窓ガラスだけで、鉄製の棚や箱庭には何の影響も出ていない。  
地震であれば、そろそろ本格的に揺れだして然るべきなのだが、その兆候も窺えない。  
「一体何なのよ、この揺れは」  
不審に思ったすずは、開きっ放しの窓サッシに歩み寄った。階上の様子を確かめて、  
窓から身を乗り出す。  
街はとりたてて慌てた様子もなく、寧ろ通りを歩く人の顔は穏やかである。  
自動車もごく普通に走っていた。  
ガラスを揺らした物の正体は、少なくとも地震ではない――  
 
病院のすぐ近くで、ずんずんと短く繰り返すような地響きがした、と思って頂きたい。  
 
<第一幕・終>  
 

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