第三幕 〜楽屋ネタは手詰まりの証〜  
 
地響きがする、と思って頂きたい。  
ライターの彩園すずはその地響きを自宅兼仕事場の書斎で聞くと、机の上にあった書きかけの  
原稿用紙から万年筆を離して時計を見た。後三十分で日付が変わる。  
椅子の背後で14インチのテレビがつけっ放しに置かれている。画面には丁度「トレたま」が映っていた。  
地響きの正体は、どうやら若い男の叫び声のようだ。一体どんな目に遭ったら、深夜の住宅街を  
揺さ振るような大声が出るのだろうか。しかも蜘蛛がどうしたとか言っていたような気がする。  
眼鏡のずれを直して机に目を戻すと、一匹のジョロウグモが紙の上を這っていた。  
窓の隙間から入ってきたのだろうか。  
――たかが蜘蛛ぐらいで大袈裟な  
蜘蛛といっても、日本に生息するのはこんなに可愛いらしい物に限られている。毒蜘蛛の代表例と  
して恐れられるタランチュラとて、その毒は人間にとって死に至るほど強烈な訳でもないのだ。  
冷静になれば、蜘蛛ぐらいで騒ぎ立てる方がどうかしている、すずはそう思う。  
特に理由がなくても怖い、と言う人間も確かに存在はするだろう。  
男が蜘蛛を怖がるのがいけない、とは言わない。言わないが、それにしても深夜の住宅街に  
地響きを引き起こすような叫び声を上げるのは、さすがに如何な物か。  
地響きがするほどの大声を出すのは――  
 
何かを思い付いたのか、すずは再び万年筆を手にして原稿に向かう。  
都市伝説の代筆を行なう傍ら書き進めていた原稿に、彼女は手早く数行の文章を付け加えた。  
 
<< ずんずんと短く繰り返すような地響きがした、と思って頂きたい。 >>  
 
男の悲鳴に着想を得て、たった今閃いたばかりの文章だ。  
インクの乾き切らない文字をしばし見つめて、すずは表情を変えずに頷いた。椅子を立つ。  
一寝入りする前にシャワーを浴びるべく、彼女は扉を開けたその先へと歩いて行った。  
 
午前九時。  
本日分の仕事をこなすべく、すずは書斎の机を前に座っていた。  
昨夜はシャワーを浴びた後すぐ寝入ったお蔭で、睡眠時間は十分足りている。朝食も摂り、  
新聞雑誌テレビネット等で本日の情報は大方仕入れてある。すぐにでも仕事に取り掛かる  
事ができたのだが、昨夜寝る前机の上に放置した原稿が気になってしまったのだ。  
取り敢えず一度寝た頭で、もう一度目を通す。  
読みながら彼女は眉間に皺を寄せ、軽く首を捻った。  
<< 地響きがした、と思って頂きたい。 >>  
書いている最中はあれほど気に入っていた言い回しだったにも関わらず、起きてもう一度  
目を通すと、最早その面白みは影すら残さず消え去っている。  
この文章は全く使えない。  
殆ど同じ言い回しが他の作品にあるのも、理由の一つとして挙げられた。クレームを言われたら  
パロディだと誤魔化す手も無いではないが、元の作品とは似ても似付かない文章をパロディと  
呼ぶのは、矢張り原作に対して失礼ではなかろうか。  
だがそんな事は然程大きな問題にはならない。何よりも――  
――つまらない  
それが彼女自身の、率直な感想だった。  
仮にもプロである自分が、最初の数行で読むのを挫折しそうな文章を書いたと言うのか。  
あの時は酒を飲んでいない。だが寧ろ酔った勢いで筆を進めていた方が、まだマシな文章が  
書けたのではないか、斯く思える程に文面が痛ましい。  
――正直、つまらない  
それが魂の悲痛な叫びだとでも言わんばかりに、彼女は何度も頭の中でそう繰り返した。  
病院を舞台とした話であるにも関わらず、医療現場の描写も拙い。精々が箱庭療法について  
軽く触れているだけで、それがどのような治療プログラムだったのかも、読者の立場から見れば  
読み取り難いと容易に想像できる。彼らが多くの疑問を抱く事になるのは、疑う余地も無かった。  
 
大体思い付きで『地響きがした』などという一文を書き加えてしまったが、今後そこから  
どのように話を展開して行けば読者に納得してもらえるのだろうか。  
突発的な事故か、それとも何らかの事件を発生させるしかないだろう。そうすれば話は自ずと  
進むだろうが、何れを選ぶにせよ最初に意図した病院モノからどんどん遠ざかってしまう。  
恐らく――仮にこの『石神井病院物語』を書き上げた所で、編集者の返事を待つまでもなく  
没となる。A談社のエディター勝改蔵でも、B学館の名取羽美でも、C書房の坪内地丹でさえも、  
その判断に違いは無いと思われる。すずは彼等が原稿を手に取り、何か言いたげに浮かべる  
困った笑みまで想像してしまった。  
レンズの小振りな眼鏡を外し、白いマグカップの隣に置く。天を仰いで目頭を軽く揉みつつ、  
彼女は考えた。  
矢張り間違っていたのだ。  
物語を作っても、所詮それは妄想の産物でしかなく、妄想は全らく現実からの逃避活動である。  
そう考えて豪邸漫画家は、物語そのものを破綻させるような終末を人気漫画の最終回へと当て嵌めたに  
違いあるまい。さらに言うならば、物語にその姿勢は全ての作品に共通してるのではないか。  
漫画と文字で立場は違えど、例え辛くとも現実を直視して生きねばならないという豪邸漫画家の  
主張には、大いに参考になるものがある。  
そうすずが思った時――  
 
どんがらがっしゃん  
 
漫画の事を考えた矢先に、漫画的な擬音を聞かされる。そんな羽目に陥る様子を、  
先人は事実は小説より奇なりと呼んだのだろう。  
そんな事をつらつらと考えつつ呆れ気味に溜息を吐くと、すずは原稿の束を丸めてオレンジ色の  
ゴミ箱に投げ込んだ。紙屑は殆ど何も入っていないゴミ箱の四角い角に当たり、弾む事なく  
内側を伝って中へと滑り落ちて行った。  
どたどたと騒々しい足音が階段を上ってやって来る。書斎の扉が勢い良く内側に開かれる。  
陽の当たらない北側に位置していたにも関わらず、その扉が晴れた窓際の書斎よりも明るく  
感じられたのは、単に窓のブラインドが下りていた為ではない。  
今にも室内に飛び込まん勢いを持った、外ハネの娘が――  
普段から眩いばかりの元気と、そして瑞々しい生命力を常に発しているからかも知れない。  
 
太腿のラインをぴっちりと強調する、膝上で裾を切ったデニムパンツ。オレンジ色をした  
半袖シャツの袖口からは、十代前半の少女を思わせる小麦色に焼けた肌。  
男の子のような格好をした彼女から受ける印象は、生成りのオレンジを枝から?いで  
一気に切った時のような、甘酸っぱく爽やかな果汁が勢い良く飛び散る光景すら想起させる。  
彼女の名前は泊亜留美――元気の化身とも例えらる娘だった。  
半年ほど前からすずの仕事を手伝っている。主な役割は、すずが記事や作品を書く上で  
必要な資料収集と、それから資料の大まかな分析であった。  
頭も良く、すずが指示した資料を素早く取り寄せ、またメモ書きで手渡す報告も要領を得ていて、  
仕事上のパートナーとしては十分過ぎるほど役立つ娘だったのである。  
ただし。  
その有能さとは裏腹に、亜留美は天性のおっちょこちょいだった。  
常日頃から仕事場でコーヒーは溢すわ、気を利かせたつもりで家事を手伝えば皿は割るわ、  
買出しを頼めばお茶と間違えてふりかけを買ってくるわ、考え付く限りの失敗をこの  
自宅兼仕事場でやらかしてくれた。情報収集以外になると、てんで駄目なのだ。  
――それでもS学館の羽美ちゃんよりは役に立ってくれてるんだけどね  
前髪をぱつんと切り揃えた女の童顔を、すずはすかさず脳裏に浮かべた。  
もし当の名取羽美本人が彼女の呟きを耳にする機会が訪れたならば、彼女は必死の形相で  
「私役立たずですか?! ワタシヤクタタズデスカ?!」  
と喰らい付いて来る事は目に見えている。  
下手をすれば怪奇雑誌の企画がすずの元に飛び込んで、武蔵清明神社に丑の刻参りを夜毎行う  
白い和装束の女について、彼女が目撃談を書くような羽目にもなりかねない。馬鹿馬鹿しいとは  
判っていても、日頃から負のオーラを発散している羽美を見ると、すずはつい彼女の和装束姿と  
そんな光景が頭に浮かんで気が滅入る。  
そう考えると同じドジでも根が明るい分、亜留美の方が傍にいて心地良いキャラクターだと、  
すずはそのように亜留美を見ていた。  
 
亜留美の挨拶は声の大きさも張りも、そして表情までもそれは元気なものだった。  
「すずせんせー、お早うございます!!」  
体育会系のノリで、甲高いアニメ声。広めの額の中央には、何かに打付けたような赤い跡が残っている。  
一体どうしたのよそのおでこ、と言ってすずは彼女に首を向けたまま、自分が座る椅子を回転させた。  
「さっき廊下で転んじゃったんですよう」  
亜留美は痛ててと溢しながら額を擦る。壁にでも当てたのだろうか、すずがその旨を亜留美に  
伝えると、彼女は猫のようなまんまるい目で訊き返した。  
「ほえ? 足を滑らせただけですけど?」  
「それにしては物凄い音だったわね。一体どんなこけ方したらあんな音が出るのかしら」  
「階段を上ろうとして足を滑らせちゃったんです、でも安心して下さい。亜留美は階段でもそうですけど、  
例えドブ川で倒れる時でもいつも前のめりですから!」  
亜留美はえっへんと胸を張り、笑顔で答えた。表情も仕草も、本当にくるくる変わる娘だ。  
 
「まさかとは思うけど亜留美ちゃん、前のめりに倒れて空中を飛んで――」  
「えー何で分かるんですか?! 確かに一瞬身体が浮いたかと思ったら、そのままおでこから階段に……」  
亜留美は再び猫のように目を丸めた。現場を目撃された訳でもないのに、転び方を  
言い当てられたので驚いたのだろう。とは言えすずにしてみれば、顔に打撲の跡が残っているのに、  
鼻を打付けた形跡、特に鼻血が見られない以上、そう予測したのは当然の事だったのだが。  
下手をすれば頭蓋骨折から脳挫傷コースの危険な転び方ではないか。すずは悪戯っ子を諭す  
母親のように優しく言った。  
「次からはヘンなコケ方しないように注意してね。首とか折ったら危ないし」  
はーいと小学生のような返事をしてから、亜留美はそうそう、と何かを思い出したように手を打って言った。  
「それより先生、もう都市伝説の資料は集めなくていいんですか? そろそろあの先生が  
催促して来る頃ですよ」  
 
亜留美が言っている話は、この間受けた都市伝説の仕事についてだった。  
先日すずはとある有名作家から都市伝説の代筆依頼を受けたのだが、それは本来件の作家がA社の  
勝改蔵から受けたものであるらしい。勝の口から聞く所に依ると、有名作家は話を受ける際に  
「自分はかわいがもん並に忙しいのだ」などと言って勿体振っていたらしい。もっとも勝は、  
件の有名作家がすずの窓口でしかない実態を知らずに、本物の書き手を目の前に口を滑らせたのだが。  
――あの男、自分が大作家になったとでも勘違いしてるんじゃないでしょうね  
おどおどと小心者らしい物腰で仕事を頼んで来た彼の表情を思い浮かべながら、  
すずは彼の増長ぶりに内心で舌を打った。もっともそんな素振りは顔に出さない。  
しれっとした表情を崩さずに、すずは亜留美の質問に答える事にした。  
 
「うん、それならもう内容と文面のチェックまで済んでいるわ。今回はやっつけ仕事だったから、  
『地下鉄の改札には小さい人が入っている』なんて投げやりな話になってるけどね」  
「ああそうか、だからこの前改札の資料を集めて来いって言われたんですね」  
こくこくと首を縦に振って納得して見せた亜留美に対し、すずは微笑を投げ掛けた。  
「精々が原稿二三枚程度の分量だし、後はFAXで送れば問題ないわ。さあ亜留美ちゃん、  
今日も元気良くお願いするわね」  
「あれ? 先生また何か没にしたんですか?」  
すずが言い終わった時には、亜留美は既に彼女の話を聞いていなかった。オレンジ色の  
ゴミ箱の中身を興味深げに覗き込んでいる。  
すずは傍目には判らない程度に、やや眉を顰めた。  
話を聞いていなかった亜留美に対して呆れた事もあるが、それ以上に没原稿を見られる事に  
厭な気分を覚える。原稿を細かく破って捨てていれば、亜留美が興味を示す事もなかったかも知れぬが。  
 
しかしゴミ箱の原稿は破られもせず乱暴に丸められた状態で、取り出して広げるだけで  
彼女に中身を読まれてしまう。気に入らない作品を読まれるのは、すずでなくともあまり  
気分のいい物ではないだろう。  
それでもすずはそんな態度を?気にも出さず、黙って亜留美の仕草を見下ろしていた。  
子供のように好奇心の強い亜留美が、一度興味を示した物については生半可な事で諦めないと  
知っていたからである。止めろとか言って捨てた原稿を取り上げるというのも、大人気ない  
態度だとすずには思われた。  
紙束の塊を四角い箱から取り出し、亜留美はがさつな物音を立てて広げる。  
目を落とす。  
両手に持った紙の上に目を走らせていた亜留美だったが、やがて感心したような溜め息を一つ。  
彼女は目を上げると、すずに向かって興味深げな目を向けて言った。  
「何ですかこれ、病院モノじゃないですか? 書くつもりだったのなら、私資料集めますよ」  
いや面白くなかったし、とすずは涼しげに返した。一度捨てた話を再び持ち出す気がなかったので  
そう言ったのだが、淡白な彼女の態度が却って亜留美の好奇心を燃え上がらせたのだろう。  
ますます瞳を輝かせながら、亜留美は浮かれた調子で質問を続けた。  
「でもゴミ箱のトリックは気になりますよね。これ仕事場のやつと同じものじゃないですか?」  
そうね、とでも言いたげな笑みを浮かべ、すずは無言で肯いた。亜留美は作家の仕草に  
納得した表情を作り、すずを正面に見ながら続ける。  
「あ、やっぱり。じゃあこのゴミ箱はどうやって消えたんですか? 私はこの看護学生……」  
これ私の名前じゃないですか、と亜留美は原稿にもう一度目を落として言った。  
「……この看護学生が嘘を吐いてるように思うんですけど。だとしたら辻褄が合いますよね」  
亜留美は目に星を宿し、期待を込めて返事を待った。  
すずは答えない。  
しばらくは書斎の空気が微かに揺らぐだけの時間が過ぎた。およそ数秒の出来事だったが、  
すずに取っても亜留美にとっても非常に長く感じられたかも知れぬ。  
 
種を明かせばお筆先の文章だったのだが、尤もらしい理屈を捏ね造り上げて亜留美に説明する事も  
すずには可能だった。だが彼女はそうしない。  
亜留美の純真な性格を考えると、彼女を騙す様で気が引けた事もある。何より彼女は質問魔だから、  
一度の説明で満足するとは考えられなかった。  
すずの説明を一度受けるとさらに深い所まで訊いて来る。その都度すずは嘘を作って  
答えねばならず、亜留美の質問は繰り返される。続けて行けば、やがてすずの話は破綻する。  
彩園すずは友達の気を引こうとして嘘を重ねる小学生のような――既に成人している筈の  
名取羽美にもその傾向無きにしも非ず――愚を冒す人間ではなかった。  
原稿用紙に書かれた文章という形態を取ってはいるが、どの道アイデアの段階で書いた  
メモ書きなのだ。詳細がすず本人にも不明なのは当然と言えよう。  
 
すずが口を開いた事で、漸く時間が動き出した。  
「それは違うと思うわ。だけど本当の所は私にも分からないのよ」  
分からない――意外そうに目を丸めて、亜留美はすずの言葉を反芻した。  
「どーしてですか先生。ミステリなら結末が決まってるものじゃないですか?」  
「結局は物語なのよ、この『石神井病院物語』っていうのも。現実のものじゃない。  
登場人物が自分で生み出した世界じゃなくて、誰かが作り上げた話でしかないのよ」  
でも――亜留美は戸惑いながらもそう言って、すずの流れを堰き止めた。  
「でもですね先生。この人達――名前は私たちと一緒ですけど――にとっては、話の世界が  
現実な訳ですよね」  
「まあ理屈の上ではそうなるわよね」  
「この人達は、私たちの存在を知る手段はない訳ですよね」  
普段通りのポーカーフェイスで、すずはゆっくりと頷く。差し当たって亜留美の言い分に  
おかしな所は見当たらないので、当然と言えばの反応である。  
「じゃあ私たちが誰かに作られたとして、作った人の存在を知る事も出来ないんじゃないですか?  
そんな人が本当にいるかどうかは判りませんけど、少なくとも『いない』とまで言い切る事は  
先生にも私にも出来ませんよ」  
 
亜留美の言った事は間違っている訳ではなかった。  
自分たちの住む世界を支配する存在を証明する事は非常に難しい。と言うより現実には不可能だ。  
それこそ「一足す一は二」と決めた世界で、どうしてそうなるのかを説明する事と  
同程度に難しいだろう。それは一応現実と見なせる世界に準えた「決まり事」でしかないのだから。  
よしんばその存在を示すことが出来たとして、その証明が一体何の役に立つと言うのだろうか。  
大規模な世界の潮流は当然として、個々の思考経路も運命も世界感覚も、その存在によって  
既に支配されているとしたら。  
思考自体が無意味なものになってしまうではないか。常識的な感覚を備えた人間にとっては、  
到底受け入れ難い世界である。  
とは言うものの、亜留美の意見は彼女らを支配する存在を証明した訳ではない。「いない」と  
断言出来ないと言うだけの事であって、あくまでそういう存在の可能性を示唆するに留まるものだ。  
 
「もし本当にそんな存在があるとしたら、私たちの言動から全ての能動性が消えてしまうわ。  
向こうは私たちを完全に支配しているのに、こっちはその存在に影響を与えられない訳だから。  
亜留美ちゃんも、もっと自分の感覚を信じていいのよ」  
すずは言い終わると、卓上の白いカップを優雅な動作で口元に運び、中身を軽く啜った。  
朝食の時に自分で淹れたコーヒーの残りはすっかり冷めている。どうせなら新しく淹れておけば  
良かったと思いつつ、彼女はカップを卓上に戻して亜留美に向かい直った。  
そんな事はありませんよ、と亜留美は少し怒ったような声で言った。どうやらすずから  
反論を受けた事で、機嫌を損ねてしまったらしい。  
「どういう事なの、亜留美ちゃん」  
すずは亜留美に話の先を促す。慌てて眉間の皺を元に戻した亜留美は、少し躊躇ってから  
ゆっくりと言葉を選びつつ口を開いた。  
 
「コアなアニメファンって、同人誌とか作りますよね」  
所謂『オタク』と呼ばれる人たちの事だ。漫画やアニメ、ゲームに小説と、市場に出回っている  
物では満足出来ない程に感情移入して、その結果自分たちで作品を作ってしまう人たちの事である。  
すずにもその手の知り合いが一人いる。漫画家で、彼女自身もマンガやアニメが好きなのだが、  
普段は堅気を気取っていて趣味をひたすら隠している。すずに限らず周囲には丸判りだったが。  
「それで」  
すずに促され、亜留美は頷いて言った。  
「同人誌って結局は、そのアニメが好きだから作る訳でしょう。言うならば架空の物に  
実在の人物が動かされる訳ですよね」  
「そういう事になるわね。でもその捉え方は正確じゃないわ」  
アニメキャラなどの架空の存在であっても、それは『実在』しないだけであって存在はする。  
ただし彼らには、主体的な認識能力はない。アニメキャラと実在の人物との差はそこに帰着する。  
架空の存在は、常に他者によって行動と認識を決定されてしまうのだ。  
アニメや漫画のキャラクターによって動かされる人間は、間接的にはその製作者によって  
動かされていると考えるべきである。そうしないと――  
すずが、否あらゆる人間が信じる存在の共通認識が、その定義からして崩壊してしまう。  
そういう土壌においては、正確な意思疎通を伴った議論が出来なくなるのだ。  
「正確かどうかって話じゃないですよ。同人誌はものの例えです。架空の存在が私たちを  
生み出したんじゃないかって言う話をしようかと思ったんですけど」  
「どういう事?」  
亜留美の話は例えが拙かった。彼女の話を認めるにせよ、架空の存在が実存在に影響を  
与えると考える事と、架空が実在を生み出したという考えを同列に並べるのは無理があった。  
論理が飛躍しすぎる。  
つまり、と言って亜留美は軽く咳払いをした。ここから先は、半ば本気で語るのだという  
彼女なりの意思表示であった。何時に無く真剣な表情で彼女は語った。  
 
「例えばどこかに勝さんとか名取さんとかが高校生やってるような世界があって、  
私たちが彼らの住む世界から生み出された物だったりしたら」  
 
亜留美にとって筋道立てて説明するには、矢張り無理のある問題だったのだろう。あちこち  
論理が破綻していて、すずもどこから訂正すれば良いのか判らない。  
それでも何とか亜留美は結論に辿り着いた訳だが、中々に恐ろしい考えだった。  
亜留美の意見はある意味、世界の大前提を破壊するような思い付きだ。但しその意見が  
事実に基づいていると万人に受け入れて貰えたらの話だが。さもなくばそれは、オタク達の  
生み出した妄想と大差はない。  
大体高校生という発想がどこから出て来たのか。すずはそれを興味深く訊ねてみた。  
「えー、だって都市伝説を作り出す作家なんて、思いっきり高校生の想像っぽくないですか?」  
そんな想像をする高校生が本当にいるのなら、是非とも一度お目に掛かりたいものだと彼女は思う。  
いや、既に目にしているのかも知れない。亜留美はつい一二年前に高校を卒業したばかりで、  
しかもここに来る前はもっと顔付きも言動も幼かった。彼女が高校生だった頃を思い浮かべるに、  
今言ったような想像をするような娘だったに違いあるまい。  
矢張り亜留美はユニークな娘だと、すずは嘆息した。  
「私たちの存在を根本から否定しかねない意見ね。面白いけど」  
「だけど知りようのない存在に対して想像を巡らすのは、数千年以上昔の哲学者にでも  
任せておいた方がいいわ」  
無理矢理話を続けようとしたら、それこそ神だの悪魔だの持ち出すような羽目に陥りかねない。  
神も悪魔も信じないすずにとって、そんな物を持ち出してまで亜留美の想像に付き合う事には  
何の意味も見出せなかった。失楽園などナベジュン位で丁度いい。  
 
亜留美は原稿を丸めると、再びゴミ箱に投げ込む。背中からは元気が失せていた。  
無邪気な子供のように見えて、だからこそ硬化しているすずの態度を敏感に感じ取っていたのだ。  
亜留美に取って必要なのは、論理の正確性を添削してやる事ではなかった。面白い事を考えて、  
一生懸命筋道立てて説明しようとする態度を褒めてやれば良かったのだ。  
大人気ない、とすずは自省した。亜留美にそんな態度を取らせてしまったのは自分の所為だった。  
萎んだ顔で見上げ、残念そうに言う亜留美を、すずは無言で見詰める。  
「そうですか。やっぱりこういう話、先生はキライですか?」  
なまじ普段明るいだけに、彼女の気分が沈むと余計に場の空気が重苦しくなる。  
今は亜留美の機嫌を直す事が優先される。さもないと亜留美の作業能率が落ちるし、  
鬱屈した亜留美を側に仕事をしたくない。  
否――すずは混沌や迷い、そう言った負の感情を振り切って言った。  
「嫌いじゃないけど、でも今すると仕事の時間が減っちゃうからね。続きは今度の休日、  
何か甘い物でも食べながらしましょうか。その時はご馳走するわね」  
すずには亜留美の耳がぴくりと動いたように見えた。食べ物に関心を示す辺り、まだまだ  
お子様だなと彼女は思った。  
枯れかけた所に水を貰った花のように、見る見る亜留美の表情に元気が戻る。  
これでいい。矢張り亜留美ちゃんには笑顔が一番似合う。  
「さあ亜留美ちゃん、気を取り直して今日も頑張ろうね」  
「はい先生! 頑張って爪楊枝とヌイグルミの資料を纏めます!」  
気持ちの切り替えが早いのは、彼女の長所と言えるだろう。元気良い返事を合図に  
すずは窓側へ、そして声を上げた亜留美は壁際の机へと着席した。  
 
時刻は十時半を回ろうとしている。すずの経験上、亜留美の集中力がそろそろ切れる頃合いだった。  
お茶でも淹れて休憩しよう。お茶請けはスイーツの森で買ってきたショコラにしようか。  
せっかく買ってきたあれをア○ロチョコ宜しく一口で放り込み、コーラで流し込むような真似は  
是非とも避けたい所だ。  
以前羽美が原稿の完成を待ってこの仕事場に詰めていた時、彼女がそんな食べ方をした事が  
思い出される。別に編集者の為に買ってきた訳でもなかったが、それでも内心かなり気が滅入った。  
あんな台無しにする食べ方を目の前でされたら、幾らすずでも怒りの表情になるというものだ。  
 
「ねえ先生、ゴミ箱が消えちゃいましたよ?」  
今まさに席を立とうとしていたすずは、背後から聞こえた亜留美の素っ頓狂な声に振り返った。  
亜留美は着席しておらず、仕事場の中央に立って不安そうな目をすずに向けていた。表情から  
理解不可能な出来事が起きたことが窺えるが、それにしてもゴミ箱が消えたとはどういう事なのか。  
すずは亜留美を宥めて、話を聞き出す事にした。  
「借りてきた本のコピーをスクラップしててゴミが溜まったから、捨てようと思ってゴミ箱の  
あった所を見たんです、そしたら」  
そこにある筈だったオレンジ色の箱が消えていたのだと言う。  
「さっき没原稿を捨てたでしょ。どこかに移動させたって事はないの?」  
ふるふると首を振って亜留美は否定した。  
「原稿をがもん先生の所に送って、戻ってきた時にはあったんです。その後ずっと触ってません」  
「がもん先生?」  
「ほら、あの有名な作家先生ですよ。すず先生あの人が『私はかわいがもん並に忙しいのだ』って  
言ってたって、私に話してくれたじゃないですか」  
「ああ」  
それでがもん先生、と言う訳だ。亜留美がかってに決めた呼び名が妙に似合っていたので、  
すずは思わず笑いそうになる。あくまで表情には出さないが。  
 
「それで? がもん先生に原稿を送った後はずっと机に向かっていた訳ね」  
亜留美がこくこくと肯く。仕草がゼンマイ仕掛けの人形みたいで面白い。  
「五分……いや十分前の事だったと思うんですけど」  
盗みでも発生したか。ゴミ箱だけを持って行く侵入犯など、すずは聞いた事もない。  
だが現実問題としてゴミ箱は仕事場から消えている。  
亜留美が自分で隠して嘘を付いている事も可能性としては残る。だが何の為に――  
取り敢えず最悪の事態に備えて、すずは直ちに立ち上がりドアへと足を進めた。  
彼女を呆けた表情で見送っていた亜留美に、落ち着いた調子で告げる。  
「亜留美ちゃんは二階の戸締りを見て、お願い」  
元気な返事を背中に受けながら、すずは階段を下りて行った。  
 
一番懸念された盗みに関して言えば、結局一階の居間も各部屋も荒らされた形跡は無かった。  
預金通帳、各種有価証券や不動産の権利書も無事だ。冷蔵庫の中身まで確かめたが、今朝と比較して  
何の変化も見当たらなかった。窓や扉の開閉まで、朝食を摂った後と同じ状態に保たれていた。  
もし何者かが窃盗目的で侵入したのなら、床の上に靴の跡が残っている筈だった。だがそれも無い。  
ご丁寧に玄関で靴を脱ぎ、上がり込んだのか。それも違う。玄関の鍵を表から確認したが、  
外部からこじ開けた形跡もない。第一屋外に接するドアや窓には警報器を仕込んであったのに、  
それらのけたたましい音も聞こえなかった。外部から侵入された可能性は、現実的に有り得ない。  
二階に上がって書斎に戻る直前、彼女は亜留美が寝室の方角から戻って来る所に遭遇した。  
あっ先生と待ち構えたように、亜留美が声を掛ける。  
「寝室もトイレも、窓は全部閉まってましたよ」  
「ドアはその時ちゃんと閉めた?」  
「最後までちゃんと閉めましたよ。閉めた後でゴミ箱を見たんです。無くなってるのに」  
ふむ、とすずは考えを纏めるように息を吐いた。亜留美がドアを開けっ放しにしていて、  
侵入犯がこっそりゴミ箱だけを持ち去ったとすれば辻褄が合うのだが、彼女の証言で  
第三者の線は消えた。大体ゴミ箱だけを持ち去る窃盗犯など、聞いた事がない。  
他の可能性としては、亜留美が嘘を吐いている事が考えられるが――  
「あの……先生?」  
何か物言いたげな目付きで、亜留美はすずを上目遣いに見ていた。  
 
こういう時はすぐさま彼女の言いたい事を言わせてやった方がいい。  
「ちょっと言い出せなかったんですけど、ゴミ箱の代わりにこんな物が」  
彼女は恐る恐る、左手を差し出して握り込んでいた物をすずの前に見せる。  
それは――  
トランプと同じ位の大きさを持った、一枚のカードだった。  
 
すずは亜留美からカードを取り上げた。指先に冷たい感覚が走り、それが金属製だと見当が付いた。  
重さからして、材質はアルミか。カードの丸まった隅の一つを摘み、全体を見る。  
隅と中央に、アルファベットの『D』をあしらった紫色のシンボル。中央の『D』内には薄紫の口紅が。  
裏面には黒背景に深紅のバラをあしらったシンボルと、その上には流れるような銀文字で  
『le Pique Silencieux』と書かれていた。光に翳すと、表面には目立った瑕は見られない。  
「……『静かな潜行』、これ一体どういう意味かしら」  
「私に聞かないでくださいよう。何て書いてあるのかも分からなかったんですから」  
「それでこのカードは何処にあったの?」  
「その辺りです。床の上に刺さってたんです」  
亜留美が指差した扉の先、書斎の床をすずは一瞥した。乳白色のカーペットは光を反射するので  
遠目には何の変化もないように見える。もっと近くで説明するように亜留美を促し、すずは彼女の  
後ろに続いて書斎に戻った。亜留美は指を向けた箇所を見失わないよう注意深く歩き、やがて  
中腰から膝を床に付いて進む。  
すずも屈み込んで床面を観察した。舐めるように目を動かすと、光の加減でごく細い  
筋状の跡が浮かび上がる。その筋は窓側と扉とを繋ぐ直線方向に伸びていた。  
「カードを頂戴」  
すずは片目を瞑り、床に生じた筋に隅を宛がう要領でカードを差し込んで行く。カードは  
床に対して垂直に侵入して行った。一番奥まで達した所でも、筋の両端には若干の余裕が見られる。  
床面と同じ所に指先を添えて、カードを引き抜く。およそ一センチ、カーペットを貫通して  
フローリングにまで達している計算だ。  
もっと詳しく調べたら何か判るかも知れない。すずはカーペットを凝視したまま、  
手持ち無沙汰にしている亜留美に言った。  
 
「虫眼鏡。私の引き出しの右側、上から二段目の引き出しに入っているから」  
がちゃがちゃと喧しい音に続いて、亜留美がすずの頭上に大き目の虫眼鏡を翳した。  
受け取ったすずは、それを細い溝の上に持って来てさらに観察を続ける。拡大した像を  
凝乎と眺めていると、一方の端は曖昧で、もう一端は比較的はっきりと映っていた。  
「それで何が判るんですか先生」  
「カードがどっちから飛んできたのかよ。またカードお願い」  
再度カードを溝に差し込む。縦に横に挿入を繰り返し、やがて彼女は軽く唸りながら  
カードを手に立ち上がった。  
「何が判ったんですか先生」  
「それがね、亜留美ちゃん――」  
すずは困惑を隠さない顔――それでもかなり親しくないと判別し難い――で、調査から判明した  
状況を語った。  
それによると。  
結論としてはかなり高い確率で、このカードは窓から飛来したものだと思われた。  
カーペット上の跡は、扉方向の一端が若干鮮明だった。その事からカードの持っていた  
運動量はその一端で受け止めたと考えられる。カードが扉側から飛来したのなら、  
窓側の一端が鮮明だったはずだ。  
更にカードの刺さり具合を察るに、かなりの速度がカードに掛かっていた筈である。  
亜留美の腕力では到底不可能な力だった。例えば万力などの道具を使ったとしたら  
可能かも知れないが、それだとカードの表面に形跡が残る筈だ。この事から、亜留美の  
悪戯だという可能性は完全に消滅した。  
だとすると、更に矛盾が残る。  
すずは窓を閉めており、そして窓ガラスは割れていなかった。眩しいのでブラインドを  
下ろしていたのだが、それも綺麗なままだった。  
ガラスとブラインドの両方をすり抜けたカードが、カーペットと床に突き刺さった。  
物理的にナンセンスな状況だ。ケネディを狙撃した魔法の弾丸よりも有り得ない。  
「それって」  
すずの説明を聞くや、亜留美の顔から血の気が引いて行く。最も聞きたくない言葉が、  
彼女の口を突いて出る予感をすずは覚えた。  
 
「超常現象――」  
亜留美が口にした言葉を、すずはどうにか否定しようと試みる。その言葉で片付けるのが、  
この不可思議な現象を説明する上で、最も安易な方法だと思われたのだ。  
「先生。確かあの原稿って確か、ゴミ箱に入ったまま石神井病院に現れるんですよね」  
亜留美は当惑気味にそう言った。元々は安物のゴミ箱一つ消えただけの話で終わる筈だったのに、  
出所不明なカードと、それに纏わる説明不可能な状況まで目の当たりにすれば  
頭が混乱してしまうのも無理はない。その勢いで、メモ書き原稿の通りに進む世界を  
想像してしまったのだろう。  
「石神井って言ったら近所じゃないですか。これで地響きとか聞こえて来たらイヤですよ先生」  
物語だとしたら、亜留美の言ったような展開も許される事だろう。だが――  
これは物語ではない。現実世界で起こっている出来事なのだ。  
一見不可解な現象に見える物でも、必ず合理的な説明を付ける事が可能だ。  
世の中に幾通りも存在する要素の内、本来は独立事象だった要素同士に、間違った因果関係を  
結ぶ事でオカルトは誕生する。  
例えば何処でも起こり得る発光現象と、死のイメージを喚起させる墓場。たまたま墓地に現れた  
発光現象に死者の存在を重ねる事で、鬼火の一丁出来上がりである。呪いにしても本来は、  
偶々不幸に巻き込まれた人間に対し、誰かが怨恨を持っていたというだけの事だ。  
ゴミ箱の消失とカードの出現。薄い確率ではあるが、両者は独立した物として別個に扱うべき  
事件だろう。ゴミ箱はいずれ見つかるだろうし、カードのにしても然り。  
何か見落としている要素は、本当に無いのか。  
すずは自問する。それが判明すれば、頭の霧が晴れるようにどちらも解決するに違いない。  
例えば自分が窓を開けていた事を忘れて、そこからカードが飛んで来たとすれば。  
南向きの窓から午前中差し込む光は眩しすぎて、遮光なしでの作業など出来る物ではない。  
それでも僅かに残る合理的な理由を求めて、すずはブラインドを上げた。閑静な住宅街の光景を  
目にしながら窓を開け、新鮮な外気が書斎へと流れてきたその時――  
 
ずんずんと短く繰り返すような地響きがした、と思って頂きたい。  
 
<<れざぼあ(仮)・全部終わり>>  
 

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