春過ぎて夏来るらしくなるといつも思うのだが、布団の替え時というものほど  
難しいものはないんじゃないだろうか。  
秋口の肌寒い夜と並んでオレの懸案となっている事なのだが、日本は年間の気温  
変動が激しい所為か、季節の変わり目にはつい眠れない夜を迎える羽目になる。  
もちろん単純な気温変動の激しさを体感したかったら、仮に砂漠で一日過ごせば、  
オレの悩みがいかに贅沢であるか思い知ることになるのだろう。ただし数日、いや  
数週間過ごして身体が環境に適応すれば、さほどの苦痛でもなくなっているかも  
知れない。結局のところ砂漠は年中砂漠でしかなく、そこでの生活様式を守って、  
摂氏数十度も気温が変動する一日を無難にやり過ごす術を覚えたら、後は数週間  
経とうが数ヶ月過ぎようが同じはずであるから。  
しかし日本で春から夏、あるいは秋から冬にかけての数週間を過ごせば、身体が  
環境に適応する前に季節が変わってしまう。そうなれば数週間前に安眠できた  
同じ寝具でも、後になるとテンピュール枕を併用しても結構寝辛くなるものである。  
 
夜も白む刻限にこんな小理屈を捏ねてしまうのも単純な事である。  
そう今夜はオレにとって、その寝苦しい夜だったのだ。  
頭をどこか麻痺させたままで薄暗い部屋を眺め回す。彼女とオレの寝巻や下着類は  
枕元にだらしなく散らかっており、その合い間に転がる二機のケータイ。それから  
少年誌では言えないようなアレとアレを拭き取ったティッシュの残骸が、三つほどの  
塊に纏められて丸まっていた。朝になったら片付けなければ。  
視線を下にやると、オレの傍らに眠る羽美のあどけない顔がある。普段のこいつは  
あらゆる意味でドキドキさせてくれるだけに、寝ている時の大人しい姿を目にすると、  
結構可愛いかも知れないとオレは思う。二人を包む毛布の闇に少し目を送るだけで、  
彼女のごくわずかな胸の膨らみが、息づかいに合わせて上下する様子まで観察できる。  
だが今はさほど気にならない。それよりも布団の中にいると、熱気と湿気が辛すぎる。  
もう一発やって眠気を呼ぶのも選択の一つだが、この暑苦しい状態で布団の中羽美と  
絡み合ったら、それこそ事の後でますます眠れなくなってしまいそうだ。  
 
オレは自分に絡みつく羽美の細腕をそっと退けて布団を這い出ると、とりあえず下着  
だけを身に付けて、少女を包む掛け布団の上に寝転んだ。布団の中に留まるよりは  
快適そうに思えるが、それでも夜の湿った風に自分の裸を晒せば風邪を引いてしまう。  
安らかな羽美の寝息でも聴きながら寝るとするか。コイツは恐怖に満ちた寝物語を  
語って聞かせるより、ただこういう安らかな寝息を聞かせる方が、よっぽど上手に  
聞き手を眠りへと誘ってくれる。  
本当に人の役に立ちたければ、お前は何もせず、そのままでいてくれたらいいんだよ。  
オレは羽美の無垢な寝顔にそう呼びかけながら、眠りに就こうと仰向けになって目を閉じた。  
 
どうしても今夜は眠れない夜になるというのか。  
子守唄になるかと思った羽美の寝息も功を奏さず、むしろ鼻や歯の隙間から聞こえる  
高い周波数が耳に付いてしまう。時を刻む壁掛け時計が鳴らす、こちこちとした音も  
オレの心拍数か呼吸のリズムとずれている所為か、眠りに誘うよりもむしろ邪魔を  
してくれる。休日であっても真面目に勤めを果たす新聞配達のバイク音が止めを刺した。  
頭の働きは寝足りた状態と比べて確実に落ちているのだが、妙な部分だけは普段以上に  
鋭く冴え渡っているのが自分でも分かる。今の感覚を維持できれば、キュベレイの  
サイコミュでも正確無比に撃墜できそうな気がする。  
いや、そんな気がするだけだ。感覚が鋭敏になっていても、疲労回復できていない身体が  
追い付いて行けない以上、それが不可能な芸当であることは分かっているのだ。  
心に移り行くよしな事を、そこはかとなく考えている内に、オレの関心はある一点に  
向けて昇華して行った。  
 
なぜ眠れないのか。  
布団の中は暑苦しいし、布団の外は肌寒い。どちらに移動した所で、オレにとって歓迎  
すべかざる場所であることには違いない。せめて薄手の毛布が一枚あれば望ましいのだが、  
生憎とクリーニングに出してしまって我が家に戻るのは明日以降となっている。  
脱ぎ散らかした寝巻を纏ったら、少しは寝やすくなるか。――否やっぱり毛布だ。  
オレはふと興味深い事に気付いてしまった。人間は毛布がないと眠れないのではないか。  
 
他の文化圏ではどうか知らないが、少なくともオレたちはいつも布団に包まって眠る。  
無論日本でも例外はある。最近とある漫画家がネタでよく使う段ボールハウスも、  
中は意外と快適らしい。だがそこに住む彼らでも寝る時は新聞紙に包まるだろう。  
我々が寝る時に必ず何かに包まるのは、最早本能にまで刻み込まれた習性ではないだろうか。  
寝ている時、人間は図らずも無防備にならざるを得ない。睡眠時に予期せぬ外敵から  
襲われた時、毛布はそれらに対するささやかな防御幕となってくれる。  
生物の防御幕と言えば、母親の胎内環境に勝るものはないだろう。胎児は出生までの  
長い眠りの間、常に母親の子宮に包まっている。そして外部で何か変動が起こる度に、  
胎児は子宮壁にしがみ付いたり、あるいはそれを蹴ったりする。  
この世に生を受けた人間は、その後眠る時には子宮の代用として毛布に包まる。悪夢に  
魘された人間は、その都度無意識の内に毛布にしがみ付いたり、あるいは蹴ったりしな  
がら、目覚めまで子宮に包まれていた胎児の夢の続きを見るのだろう。  
寝ている間にしがみ付いたり、あるいは蹴ったりできるという点で、中国の籐婦人や  
ちぃの等身大抱き枕は毛布の変形であると言える。毛布がないと人間は、安心して  
胎児の夢の続きを見ることが出来ないのだ。  
 
そこまで考えた時、ある考えが突然オレの頭に閃いた。  
オレは布団から身体を退け、羽美を守り包んでいる掛け布団を奪い取ったのだ。  
少し涼しすぎる外気に晒されて、羽美は敷布に横たえた細い裸身を素早く縮こめた。  
まるで夢を見ている胎児のような有様だ。安らかだった可愛い寝顔は、得体の  
知れない恐怖に晒されたかのようにように歪んでいた。  
彼女の隣に身体を横たえると、果たせるかなしがみ付いて来た。オレも安心して、  
身体の力を抜く。安心したのか、強張っていた羽美の腕からも力が抜けた。  
これで眠りに就いて胎児の悪夢を見ても、羽美の身体にしがみ付いて不安を凌げる。  
彼女の体温が暖かく、それでいて全身がその温度に包まれている訳でもないので、  
丁度良い具合だ。これが均整の取れた博士の豊満な身体だったら、少し肉が多くて  
若干の寝辛さを感じたかも知れない。  
 
鳴鳥の、もとい雀の歌声が遠くから聞こえて来た。そんな中、夜明けの温もりを二人で  
分かち合う状況も、どうして具合の悪いものではないと思う。  
朝日が窓から差し込んで来る。温いのは有り難いが、眩しいのは邪魔で敵わない。  
オレは羽美の顔を手元に引き寄せ、長い髪に自分の顔を埋めてカーテン代わりにする。  
人間の感情とは現金なもので、眠気が心地よくなって来た途端に、羽美の寝息が  
耳元で聞こえている事が嬉しくなった。音は掛け布団の上で寝転がっていた時より、  
ずっと大きいはずなのに、オレが初め期待していたような最高の子守唄に変わっている。  
 
寝入りの時間から考えると、起きる時間は昼を過ぎるかもな。今日は休日だし、その  
辺は何も問題ないから、安心して寝坊できる。  
それより起きるタイミングが悪ければ、二人して裸で(オレは下着だけで)抱き合って  
寝ている所を、おふくろに目撃されてしまうかも知れない。母親に現場を見られるのは、  
流石に気分のいいものじゃないな。  
でもまあおふくろの事だし、オレが外で何人かと関係を持っていることも、そして  
オレたちがどんな関係であるか、もうとっくに察しは付いている頃だろう。オレと  
羽美とは戸籍の上でも正式な夫婦だから、最悪見つかっても道徳的に非難される  
筋合いはないだろう。多分。  
 
それよりも――  
昨夜の羽美を思い返せば、よがり声が凄まじかった。羽美とあそこまでやったのは  
随分と久し振りであるような気がする。目覚めて自分の乱れっぷりを思い出せば、  
彼女はどんな顔をするんだろうか。ものすごく恥ずかしがる事だけは確実に予想  
できるが、その後で下手を打てばオレが殺されるかも知れない。  
まあ夜の事はオレが主導権を握っているから、上手く丸め込む自信も少しだけあるが、  
いずれにせよフォローが大変だろうな。  
そんな事を考えている内に、オレは朝日と羽美の温もりに包まれながら、今度こそ  
心地よい眠りへと落ちて行った。  
 
<終>  

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