私の名は吉良吉影…
「…っ」
「……ぁ!」
それだけだ…何一つ覚えていない。
「……ぅぁ!」
「………!!」
何時始まったのか…何時終わるのか…
きっかけは…結末は…分からない。
覚えていない…だから考える事など殆ど無い。
「……とぉ…イイわ…は……ぉ!!」
「お願い…やめ………て………母さ……」
だから私は目の前の、名前も知らない
男女の営みを───それも実の母子の───
ただ凝視していた。
──何も分からない
──だが
私の記憶があるのは、気がついたら一つの家の
庭に立っていた時からだ。
不思議と、嗚呼自分はもう幽霊なんだな、それだけ最初に分かった。
何処かへ行こうとしても庭を出ようとしたら、見えない壁に阻まれ
出る事はかなわなかった。
自縛霊…私はいわゆる自縛霊と言うものなのだろうか?
そして私の前に立っている一軒家…。
私は玄関の扉を素通りする事ができた。
これは奇妙な事だが、階段などを上る時には足は
しっかりと床を踏みしめてくれた。
一通り家中をまわってみる。
玄関、食堂、トイレ、子供部屋らしき部屋、風呂、リビングルーム、
地下のワイン…何一つ見覚えが無い。
それもそうだ。そもそも私には記憶が無い。なぜ幽霊になったのかさえ。
『生きている』人間の気配はしない…誰も居ないのだろうか…?
そう思ったがそうでは無い事が分かった。
最後の部屋を調べようとした時、中から嗚咽が聞こえてきたのだ。
「…………………」
正面には簡単な証明の点いている机…左手のベッド
住民は居た。だがそれが果たして『生きている』と言っていいのか…?
「あ…………あ…………」
『生きている』の定義とは何だろう?
彼女を見ながら思っていた。
『心臓が動いていれば』
『瞳孔に反応があれば』
それとも『呼吸をしていれば』…
それで『生きている』のだろうか?
ベッドの上で蹲っている彼女、彼女は確かに『死んでいない状態』だ。
「あ…………なた………」
うつろな眼、生まれたままの姿、深い隈、そして自分の秘所をただ
懸命に捏ね繰り回す姿。
むせるような匂いが私にまで届いた。
「どこに………いる…のぉ… あな…た…」
「どこ…行っちゃったの……?」
「帰って……来てェ………」
彼女の目から頬へと伝わる雫…
私には関係無い…生前の私もこのような面倒臭い事にはかかわらなかっただろう。
関係無いはずだ…
だが 私は
その女性の頬の雫を手の甲ですくいあげようとしていた
その手は何にも触れる事無く空間を通った。
──何も覚えていない。
「ただいま…」
控えめな少年の声が私に届いた。
ランドセルを背負った小学生…
この家の家族がもう一人帰ってきたのだ。
返事は無い。
先ほどの女性は行為に疲れ、すっかり夢の世界へと落ちていた。
少年は階段を上り、まっすぐ母親のもとへ向かっていった。
私も後を追う。
女性の姿を見ても、
少年は表情を変える事無く、
ただうつむき絶望の表情のまま、
女性──母親に布団をかけた。
「ママ…風邪ひいちゃうよ…」
女性は薄く目を開けた。
「おかえりなさい…早人…」
「うん、ただいま…」
「ねぇ…パパは? 見なかった…?」
少年は無言で首を横に振る。
女性はまた瞳に涙を溜めた。
少年が立ち去ろうとするのを、母親は腕を掴んで引き止めた。
困惑する少年はベッドの中に引きずり込まれ、強く抱きしめられた。
「早人……ねぇ…久しぶりに一緒に寝ましょ…?」
「ママ………?」
「ねぇ、いいでしょ?ねぇ?ねぇ?」
「……」
母親は淫乱な笑みを浮かべ、そのまま少年に口付けた。
──何も思い出せない。
──何も思い出せない。
──何なんだ?この不安は?
そして次の日も彼女は実の息子に性行為を望んだ。
次の日も。
また次の日も。
次も、次も、次も、次も、
一ヶ月、一年…十年…。
長い長い間、私はいつもそれだけを見てきた。
小学生だった少年も青年と言って良い年齢になった。
母親は、彼に失った夫を重ねていた。
そして彼も、もし自分が母親を拒んだら、母親は
きっと壊れてしまう。
それを理解していた。だから受け入れた。
母親の歪みを…。
──何だろう?この気持ちは?
「あなた…あなた…」
クスクスと壊れた笑みを浮かべ彼女は実の息子へ
顔を埋める。
「よかった…帰ってきてくれたのね…よかったよかったよかったよかったよかった
よかったよかったよかったよかった…クスクスクス」
「ずっと一緒よぉ…あなたァァァァ……」
「もう離れないでェ…ずっと此処に居てェ…
クスクスクスクスクスクスクスクスクスクス
クスクスクスクスクスクスクスクス」
「母さん………」
彼は…泣きながら母親の頭を抱きしめていた。
行為の後、彼はコップに入った水を入れ、その中に無色の
粉末を注ぎ込んだ。
そして自分の口にそれを含み、母親の口へと移した。
彼女はそれを躊躇わず嚥下する。
彼女は幸せな笑顔のまま…動かなくなった。
「さようなら…母さん…」
そして少年もまた、残された水を
飲み込んだ
動かなくなった二人…私はただ二人を見つめていた。
単純に言い表せば胸に穴が空いた…そんな気分になった…。
──何も思い出せない
──ワタシハ…ココヲ…シッテイル
──思い出せ
──カノジョハ……………
──
──思い出した
思い出した…何もかも。
「うわああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああ」
私は頭を抱えて叫んだ。誰にも聞こえない叫び声を、雄叫びを。
何もかもを思い出した。
私が何故幽霊になったのか。
どのような罪を犯したのか。
私は頭を抱えて叫んだ。誰にも聞こえない叫び声を、雄叫びを。
何もかもを思い出した。
私が何故幽霊になったのか。
どのような罪を犯したのか。
そして…彼女の事も…全て…。
彼女の隣は、安心できた事も。
彼女は私を、心から必要としてくれた事も。
彼女は私を、安心させてくれた事も。
何としてでも彼女の居る生活を、守りたかった事も。
ようやく手に入れた平穏を、自分でぶち壊しにしてしまった事も。
突然爆発音が響き、少年も、彼女も、ベッドも、机も、部屋も…
私自身でさえも何もかも吹き飛んだ。
吹き飛ばされ、何も無い空間を、全ての記憶が私から再び抜け落ちる。
まるで穴の空いたコップのように…全て…失う…
全て…全て…全て…
…………………………しのぶ…
──何も覚えていない。
──だが
私は気がつくと庭に立っていた。
なぜ立っているのかは覚えていない。
ただ自分が幽霊だと言うのはすぐに分かった。
──何も覚えていない。
──だが……一人の少女の声が聞こえた
私の頬に何かが流れているのに気づいた
──何も覚えていない。
──だが……………これだけは分かった
私に二度と平穏は訪れない
いつまでも…
ずっと…
永遠に…