ああ、また傷んできてしまった。  
吉良吉影は無常を嘆いた。  
 
どんなに美しい指先でも、臭いを発するようになれば使い物にならない。  
いくら防腐処理を施したとしても、それはすぐに腐った『物』へと姿を変えていってしまう。  
本体から切り離され、人格を失って、ただ美しい造形物として存在している『手』は何よりも美しいものだが、その美しさ故か長くは持たない。  
そろそろ替えが必要な時期だろう。  
 
家族のいる生活というのは平穏で、案外苦痛でもない。  
もし自分に殺人癖というものがなければこのような生活を送っていたのかも知れない。  
だが、以前のように行動するには、随分厄介ごとが増えてしまった。  
一人の時なら気の向いた時に、適当なターゲットを見つけて、さっさと『彼女』を手に入れることが出来たが、今の状態ではそう簡単にはいかない。  
妻や子どもに勘付かれたなら、この川尻としての吉良吉影の平穏な生活に支障を来しかねない。  
そのことが、わたしにとってはあまりにも窮屈で煩わしい。  
『彼女』と楽しみに興ずることも戯れることもできやしない。  
美しいものと暮らせない日々は、私の喉元を圧迫するように息苦しく、思わず呼吸が荒くなるほどだ。  
爪が伸びる時期、私はそんな自分を抑えることが出来ない。  
どんなに堪えようとしても、息をするように、ものを食べるように、それは当然の如く欲求としてあらわれ、叶えた時の喜悦を思っただけで体が震えてしまう。  
他のなにを犠牲にしようとも、ただ私の生活にあの美しささえあれば、私はずっとそれで良かった。  
 
それなのに、危険を冒してまでして、ようやく手に入れたこの美しい手も朽ちてしまおうとしている。  
愛しているものとの別れは悲しいが、醜くなっていくだけのものに用はない。  
さっさとばれないうちに処理してしまおう。  
彼女は買い物に出かけたばかりで、しばらく帰ってこないはずだ。  
キラークイーンを仕掛けようとしたそのときに、がちゃりと勢いよく扉が開いた。  
「あなたの好きな紅茶が安売りしてたの。  
嬉しかったから、いっぱい買って、、急いで帰って来ちゃったわ。って、え・・・?」  
ぼとりと持っていた手首を落としてしまった。  
見られた。  
 
「あ、あっ・・・」  
彼女は腰が砕けたのか、床にへたり込んだ。  
どうする。  
一体どうすればこの状況を切り抜けられる?  
平穏な生活をこの手に取り戻せる?  
この女を殺してしまえば、証拠は残らずとも、いつか不審に思う誰かからあいつらに伝わってしまうだろう。  
だが、他によい方法があるだろうか?  
「あ、あなた、人殺しをしたのね?」  
尻餅を付いて、恐怖に顔を引きつらせながら、彼女は後ずさる。  
その顔は、今まで見てきた死に際の女たちにそっくりだ。  
その絶望に囚われたような恐怖、救いのない蒼さ、助けさえも求められない虚ろを見たとたんに、体の奥から強烈な喜びが湧き出てきた。  
殺せる。  
この女を、殺すことができる。  
ああ、こんなにも身近に獲物はあったのだ。  
 
「驚くことなどないさ。もう、大丈夫だ。」  
彼女はもう、まともな言葉を発しない。そもそも、聞いているのかどうかさえはっきりしない。  
この最後の稀なる美しい瞬間に、会話が出来ないのは残念だ。  
事切れる瞬間には、体の奥まで響くような嬌声を鳴らしてくれるだろうか?  
「死人が増えるのは望むことではないが、見られたのなら仕方がない。  
なるべくなら、時間を掛けて、ゆっくりとやれたらよかったんだがね。  
騒ぎが起きないうちに、君を急いで殺さなければならないのは、本当に残念だ。」  
髪は後ろ手に縛ってあるから、締めやすいうなじが剥き出しだ。  
「そうだ、最後に手を見ておこう。  
ふむ、君は手が美しいというわけではないね。薬指の辺りが歪んでいる。肌も少し荒れているようだ。」  
その少し荒れた手を取って、口に含んでみる。  
指に沿って舌を巡らすと、彼女は微かに声を上げた。  
生きている女特有の、生身の臭いがする。切り離したほうが、ずっと素敵だろうか?  
思案しながら指を口から抜き出すと、彼女の手首にだらりと唾液が伝った。  
「それにしても、どうしてはじめに君の手を見なかったのだろう?  
女性の一番魅力的なところは手だというのに。」  
細い首筋に手を掛けて、力を込めたら、今度はどんな表情を見せてくれるだろう?  
「まあ、もういい。最後に全身を爆破させれば済む話だ。  
大丈夫、痛みも感じないうちにすぐに終わる。  
あっと言う間だ。」  
やってくる瞬間を思い、体中を走る興奮に、手が震える。  
うずくまる彼女に、そっと近づいて。  
あと、もう少しで・・・。  
 
 
「これ、どうしちゃえばいいの?」  
「は?」  
泣き笑いのような表情で彼女は、仰向けになって天井を向いている手首を指さした。  
なにを言い出そうとしているんだ、この女は?  
「このままにして置いたら、騒ぎになって、あなたが捕まってしまうわ。早人だって驚くと思うし・・・」  
「君は・・・」  
「なんでぐずぐずしてるの?  
それともあなた、もしかして捕まりたいの?」  
「いや・・・」  
「じゃあ、早く始末しなくちゃ。わたし、あなたが捕まってしまうのは嫌だわ」  
なぜだか涙を浮かべながら、彼女はそんなことを言う。  
何を言っているんだ、この女は。  
危うく死にかけていたことに気付いていないのか。  
だが、この状況は私にとって、有利なのか、不利なのか?  
とりあえず手首を爆破して、最良の行動を改めて考えなければなるまい。  
どのみちいきなりこの女が居なくなったら、色々と面倒なことが起こるだろう。  
そうすれば、自分の今手に入れている平和な生活は危うくなってしまう。  
 
「しのぶ、お前はあっちに行ってなさい。ここは私が片づけておくから」  
「そ、そうね。最近のあなた、頼りがいがあるもの。きっと上手くやれるわ・・・。」  
彼女は頬を染めて、随分と明るくなった様子で扉の向こうに消えた。  
しのぶがドアを閉めたことを確認すると、背中から冷や汗が一筋流れた。  
この安堵感のようなものはなんだ?  
もしかして、自分は安心したのでは無かろうか。しのぶが死ななかったことに?  
命を持った女に対してなんの興味を持つことの無かった自分が。  
直前まであんなに殺そうと欲したのに?  
馬鹿らしい。  
面倒が減ったことと、余計な殺人を重ねずにすんだのでほっとしただけだ。  
もう愛着も起こさせない手首をさっさと爆破する。  
それにしても、あの女にばれた事が私にとってどう影響するだろう?  
誰かに漏らされれば、それこそ私の望む平穏な生活が崩されてしまう。  
やはり、殺すべきか?  
いや、目立つことは避けるべきか。  
「あなた、もう入ってもいいかしら?」  
扉越しに彼女が尋ねた。  
「ああ」  
 
外行きの上着を脱いだ彼女が入ってくる。  
興奮に上気した彼女が胸に飛び込んできて、私はそれを受け止める。  
「すごいわ、あなた。あれを塵一つ残さずに片づけちゃうなんて。  
わたし、最近あなたのこと、誰にも負けないと思えるの」  
「ああ、もう大丈夫だ」  
行き場のない腕をもてあましながら、この不可解な状況のことを考える。  
ゆっくりと肩に手を回ると、ますます彼女は身をすり寄せてきた。  
「あなた、このごろ少し変わったわ。出会った頃のあなたとはまるで別人のよう。  
でも、そんなことどうだっていいわ。  
わたし、わたしは、そう、あなたを愛しているんだもの。」  
 
川尻しのぶという、この女は、愛していると言い放った。  
 
自分の胸に柔らかい体を押しつけ、背に手を回しているこの女は誰だ。  
殺されかけていたくせに、陶然と幸せそうに目を瞑っているこの女は誰だ。  
この吉良吉影に向かって愛を囁く女は。  
 
興奮に潤んだ目が私を見つめ、湿った吐息が私の耳を滑る。  
「ねえ、あなた」  
焦げるように熱く甘い声が囁きかける。  
体の線を辿って蠢く指が、ベルトをがちゃがちゃと弄くる。  
布越しに微かに伝わる刺激が、耳に吹き掛かる湿り気が、半ば狂った思考が、吐き出したくなるくらいの熱を催させる。  
私はどうしようもないほど昂っている。  
 

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