怪我をしたの? と女は言った。傷口を確かめようと、跪き、擦ってしまっ  
た膝を見つめた。  
 バイ菌が入っちゃう。あそこで、あんよを洗わないとね。  
 そう告げると、女は手を引いて、公園の水飲み場まで連れて行った。蛇口を  
ひねり、流れる水で、傷口を洗う。陽は既に陰り始め、空は黄昏を帯びていた。  
オレンジ色した夕日の色が、水に弾かれキラキラ光った。  
 形の良い白魚の手が、水を止める。真っ白い、縁をフリルで彩ったハンカチ  
を取り出し、傷口を優しく拭いた。白いハンカチは血を吸って、じわ、じわと  
赤く染まった。  
 ほら、これでもう、大丈夫。と、女は言った。もう遅いから、お姉ちゃんが  
お家まで送るわ。痛くない、怖くない! 怖いことがあっても、お姉ちゃんと、  
 
 「――がいるんだから」  
 
 ガタガタ窓が鳴いていた。庭の木々が風で揺れ、ザァザァ雨が降っていた。  
大丈夫、と。女は唇を噛締めながら、泣きそうな顔で、それでもどうにか笑っ  
て言った。  
 大丈夫よ。怖くない。この木を伝って行けば、外に出られるわ。そうしたら  
直ぐに此処から逃げなさい。振り返っちゃ駄目。後ろを振り向かないで、進み  
なさい。……お姉ちゃんは、大丈夫。――がいるもの。だから、ね?  
 
 「だから――で、露伴ちゃん」  
 
 
-------- よ も つ ひ ら さ か --------  
 
 
[ 1 ]  
 
 目が覚めると、カーテンの隙間から陽が差しているのに気が付いた。朝だっ  
た。布団を除けると汗をびっしょり掻いていて、僕は首筋の汗を拭うと、ク  
ソッっと短く呟いた。  
 杉本家の墓に参って以来、ずっと見続けている夢だった。想像にしてはリア  
ル過ぎる。かと言って、記憶と言うには確証が無い。  
 ちらりと時計を見て、溜め息をひとつ吐く。今日は担当との打ち合わせの日  
だった。冷蔵庫の中には卵と、ベーコンがあった筈だから、あとはパンを焼い  
て……と、僕は今朝の献立を考えながら、ベッドから立った。  
 
 他の漫画家はどうだか知らないが、僕が担当と打ち合わせする回数は少ない。  
大抵は僕の思うがままに話が進み(当然だ)、僕は毎回その話に沿って、原稿  
を描く。  
 たまに担当から直しを入れられることもあったが、それは大体「大人の事情」  
というヤツで、度のきつい風刺やら、エロやらグロやらによる規制だった。そ  
ういった場合はこっちも向こうも慣れたもので、淡々と該当箇所と理由をFAXで  
送ってきて、こっちも直したものを、淡々と送った。  
 表現の自由などと叫んで、ムキになったりはしない。そんなことをするのは、  
表現力の無い連中がする事だ。度が強すぎるからといって、別に緩める必要は  
無いのだ。ただ、やり方を変えれば良いだけの話で、捉え方によっては元より  
さらにキツくなる場合も時にはあった。そういった物が掲載される度に、僕は  
苦虫を噛み潰しているであろう上役達の顔を思い浮かべて、ほくそ笑むのだった。  
 
 だが稀に直接会って、話し合うこともあった。これは話の流れが読者に伝わ  
り難いだとか、ついて来れないとか、そう担当が判断した時で、今回の打ち合  
わせが、そうだった。  
 
 「先生のお話は分かりましたが……」  
 そう、目の前の担当は言った。貸切の一室。卓上にはこの店の自慢だとい  
う料理が乗せられている。コンテのコピーを手に、担当は困ったように顎を撫  
ぜた。  
 「これじゃあ読者には伝わりませんよ。  
 つまり、この、主人公達が忍び込んだ屋敷にいた召使の女性は、ごく一般的  
な、善良で、控えめな人物で、主人公が絶体絶命のピンチの時に、この女性が  
現れて、敵を刺し殺す。どんでん返しに、伏線回収……というのは分かります。  
ただ、これじゃあ、ね……」  
 フゥ、と溜め息を吐いて、担当は言った。  
 
 「露伴先生、申し訳ないですが、この構成じゃあ、この女性は自分の利益の  
ために機会を窺っていた。そうとしか取れないですよ」  
 「何でだよ! その女性の人となりが、きちっとその前に書いてあるだろ!」  
 「だって、説得力ないですもん。露伴先生の絵って、濃ゆいし」  
 
 エゴイズムの描き過ぎですかねぇ……と、担当は言った。  
 「キャラクターが個性的で、自分の道を持っているのは良いんですよ。でも、  
何て言うんですかね、もっとね、平凡で、凡庸で、その辺に転がっているよう  
な良心、って言うのも魅力があるんですよ。露伴先生が今回言いたいのはソレ  
でしょ? この女性じゃあ、それは伝わりませんよ。  
 ……今更ですけれど、露伴先生って、『普通の女性』描くの、ホント苦手で  
すよね……」  
 
 トントン、と、書類を揃えた。今日はここまでのつもりらしい。いっそのこ  
と、と担当は言った。  
 「この女性を出すのは止めて、代わりに昔出たキャラクターを使って主人公  
を助けさせたらどうですか?  
 ……とにかく僕はあなたの担当として、このままではOKを出せません。必要  
なら近隣の女子高に取材申し込みを入れましょうか? どうします?」  
 いや、いい……と、苦虫を噛み潰した顔で、僕は答えた。  
 「もう一度考えてくる。時間はまだあるだろ?」  
 露伴先生は仕事が速いですからね。とスケジュール帳を捲って、担当は言う。  
まだ、十分悩まれて良いですよ、と。  
 
 帰り際に、担当は僕に、こんな事を言いやがった。  
 「先生、今更ですが、漫画は読み物。読み物は、読者がいてこそ、です。描  
きたいものを描くのは良いことですが、読者を置いて行かないで下さいね」  
 
 
[ 2 ]  
 
 鈴美の所に行こうと思ったのは、取材依頼を断ったものの、そのまま家に帰  
るのはなんとなく悔しかったからだった。彼女は幽霊であるから、『普通の女  
性』と考えて良いかは疑問だったが、死んでいようといまいと、女であること  
には間違い無いし、その辺のキャーキャー煩い女子高生にあれこれ尋ねるのも、  
とっ捉まえて『本』にするのも、正直言って気が乗らなかった。  
 
 杜王町勾当台2の、コンビニ『オーソン』の隣。小道を渡り、辻の『境』を  
右手に行くと、すぐ側に赤い郵便ポストが見え、僕が来たことを気配か何かで  
気が付いたのか、音も無く、まるでふわりと霧が出るように、「どうしたの?」  
と、杉本鈴美は僕の前に現れた。  
 
 ”あの事件の日、君のご両親は急用でどうしても留守に……”  
 
 先日、住職から聞いた話が僕の脳裏で甦った。鈴美はこの間、僕と遇った時  
の格好のままだった。あの時あった時と同じ服、同じ靴、同じ、ピンクのマニュ  
キアをしていた。  
 別に、と僕は答えた。  
 「ただ、何となくこの近くを通りかかったから、寄ってみただけさ。それと  
も、僕が此処に来ちゃいけない理由でもあるのかい?」  
 僕の言葉に、彼女は眼を幾らか大きくさせた後、まさか! と笑んだ。  
 「大歓迎よ、露伴ちゃん。だって私、露伴ちゃんに会えて嬉しいもの」  
 僕は何だか言葉に詰まって、顔を伏せた。  
 
 鈴美が立ったまま話を続けそうな様子だったので、君は立ち話は好きなのか  
い? と声を掛けると、彼女は困惑するような表情を浮かべた後、こっちよ。  
と僕を背中で案内した。  
 少女の細く、女性らしい丸みを帯びた肩を見つめながら、僕は彼女に続く。  
一戸建ての大きな家が見えて来たところで、ぽつん、と鼻先に、何かが触れた。  
雨だった。  
 
 怪訝に思って空を見上げる。来る時青かった空が、何時の間にやら鼠色を帯  
びている。今日は一日晴れの筈だ。いや、それよりも、この『空間』にも雨が  
――そう思っていると、ぐんと、手を引かれた。  
 
 「露伴ちゃん、濡れるわ、こっちよ!」  
 言い、彼女は僕の手を引き、自宅へと導いた。ぎぃ、と言う鈍い響きをもっ  
て門戸を開き、家の軒先まで手を繋いだ。手は繋いでいたが、どこかしら虚ろ  
だった。手ごたえと温もりが、無かった。  
 ドアノブに手をかけて、入ろうとしたところで、彼女は何故か動きを止めた。  
何かに惑うような様子で、  
 「入らないのか?」  
 と僕が声を掛けると、困ったような顔で微笑むと、ひとつ呼吸をしてから、  
戸を開けた。  
 「どうぞ入って、露伴ちゃん……」  
 
 
[ 3 ]  
 
 室内はやや薄暗いものの、なかなか洒落た内装だった。僕の家ほどではない  
が、調度品は木製の、重厚感あるしっかりとしたもので、室内は広々として落  
ち着いている。暖かそうな絨毯の上には、何故か紙と、クレヨンが数本、散ら  
ばっていた。  
 「絵でも描くのかい?」  
 と僕が聞くと、鈴美は苦笑をしながら、私のだけど、私のじゃないの、と答  
えた。  
 「あれは、よく家に遊びに来ていた男の子の物なの。おはなしを考えて、絵  
を描くのが好きな子でね、いつ遊びに来ても描けるように、お姉ちゃんも置い  
といて、って……」  
 「我侭なガキだな」  
 結構ひとを引っかき回す性格なの、と、朗らかに笑いながら、鈴美は言った。  
 「でも、良い子よ。あたし、好きだわ」  
 君は相当のお人良しだなと告げると、鈴美は可笑しそうにクスクス笑った。  
そうねと笑いながら、僕にソファを勧める。外の雨は、本降りになって来たよう  
だった。  
 
 「今日は晴れだって言っていたのに、本当に、あの天気予報士はあてになら  
ない。……それより、こっち側でも、雨って降るんだな」  
 「降るって思っていたらね」  
 苦笑しながらの言葉に、僕は首を傾げた。意味が良く分からなかった。  
 何ていったら良いのかしらね、と、鈴美もこきゅ、と小首を傾げた。  
 
 「うーんと、あたしと同じように、この屋敷も本来はあっちゃいけないモノ  
で、幽霊なのね。で、モノの幽霊って言うものは、あたしの存在よりも、より  
複雑なのよ。  
 たとえば、露伴ちゃんの持ってる……スタンドっていうの? ……は、その  
ひとの『想い』を具現化したもので、普通のひとたちにも見えないでしょ?  
 あたし達もそうなの。あたしは、あたしが此処に居たいと強く『想って』いる  
から此処に在るのよ」  
 「……じゃあ、モノにはモノの意志があるって言うのか? 生き物みたいに」  
 僕は彼女の側に座っている犬に目をやった。彼女の話からすると、この動物  
も、彼女と共に在る事を願ったということだ。  
 
 「だから、難しいのよ。うーんと、スタンドを動かしているのは露伴ちゃん  
でしょ? 露伴ちゃんのスタンドに意志があるわけじゃないじゃない。露伴ち  
ゃんがいなくなれば、露伴ちゃんのスタンドもいなくなる。これが普通よね?  
 でも、中にはスタンドが一人歩きしちゃってる場合もある。持ち主が亡くなっ  
て、本人も現世に居ないのに、残っている家、とかがそれね。『想い』だけが  
残って、在り続けるの」  
 ふぅん。と僕は呟いた。  
 「じゃあ、この家は?」  
 多分、あたしが創っちゃっていると思うの。……でも、それだけとも言い切  
れないの、と、鈴美は答えた。  
 
 「あたしたちの世界は、ひとりだけじゃなくて、みんなで創っている場合も  
あるの。大きな事件が起こった場所とかは、そう。皆が『この場所はこういう  
場所なんだ』って、想うからよ。『想い』というものは流動的で、一時的なも  
のだから、スタンドみたいに安定して具現化はしないけれど、条件が重なり、  
『想う』人が増えれば変わって来るわ」  
 ――だから、と、鈴美は一呼吸切ってから、言った。  
 「あたしがママやパパの所に行って、皆が皆、この場所のことを忘れ、時間  
さえ過ぎれば――きっと、持続させる『想い』もなくなって、此処は消えるわ」  
 
 ガタガタと風で、窓が揺れた。雨の降りが強くなっていた。庭の木々が揺れ  
ていた。  
 「言いたい事は、なんとなく分かった。つまり、モノが幽霊となるには人々  
がそうと思い込む強い想いが必要で、創り手は其処に住んでいた人であったり、  
不特定多数の誰かであったり、或いは残された念のみであり、それらの念が消  
えるまで、モノの幽霊も消えない。……そういうことだろ?  
 でも、それとイコール、この場所に雨が降っている理由とは良く分からないな」  
 
 言うと、鈴美はきゅっと、悲しそうに眉を寄せ、優しい目で、口元だけは笑みを  
浮かべて、僕を見つめて、言った。  
 「大丈夫、いずれ止むわ。露伴ちゃん、『今』の、露伴ちゃんのお話をして頂戴」  
 
 
[ 4 ]  
 
 仕事の件もあった。僕がする話に、鈴美は柔らかな笑みを浮かべながら、時々  
適度に相槌を打って、僕の話を聞いていた。僕は自分でも珍しいくらい、ぺら  
ぺらと漫画の構成やら、描きたいテーマとかを話していた。  
 断っておくが、僕は決して口の軽い方ではない。ましてや漫画家にとって、ア  
イディアは命だ。なのにこうもぺらぺら話をしてしまうのは、僕にしても驚き  
だった。  
 きっと、彼女はもうこの世にはいない人物だから、だから、安心して話をし  
てしまうのだろうと、僕はひとりで考え、納得した。  
 
 話をしていると何だか疲れて来た。一呼吸吐くと、この家は、と僕は言った。  
 「この家は客人に茶も出さないのかい?」  
 そう言って、やや不機嫌にソファへと背を預けると、鈴美はやはり、何やら  
考え込む様子で、困ったように眉を寄せてから、席を立った。  
 
 暫しの後、紅茶を盆に乗せて、鈴美が戻った。  
 「出すことは出来るけど、露伴ちゃんには意味がないと思うわ」  
 言い、鈴美は紅茶に口をつける。こくり、と飲む彼女に、毒でも入っている  
わけでもないだろ、と僕は口をつけて、驚いた。  
 
 ひとくち、僕は紅茶を飲んだ筈だった。なのに口に入れた紅茶は、僕の喉を  
通らず、そのまますり抜け、手にしていたカップに戻ったのだ。紅茶の味は、  
きちんとした。ただ、僕の中へと入らない。  
 
 唖然として手にした紅茶を見つめていると、くすくす、という笑い声が耳に  
触れた。  
 「言ったでしょ? この家は幽霊で、本来は無いものなんだって。ここにあ  
るものをお茶として出すことは出来るけれど、結局は、無いものだもの。露伴  
ちゃんが飲むことは出来ないわ」  
 言うと、鈴美は手にした紅茶をこくりと飲んだ。紅茶は喉から零れることも  
なく、鈴美のうちに収まっている。少女はどこか勝ち誇った、満足げな笑みを  
浮かべていて、僕の負けん気に火を点けた。僕は黙って眼を閉じ、暫く呼吸を  
落ち着けると、精神を集中して、再度紅茶を、飲んだ。  
 
 「露伴ちゃん!?」  
 鈴美が立ち上がった。がたりと間にあったテーブルが揺れる。紅茶は、すり  
抜けなかった。ごく一般的な飲み物を飲むのと同じように、僕の喉を滑り落ち  
た。  
 「ふん、どうだい。不特定多数の『想い』でこれらは形を持つんだろ? 僕  
は確かに此処の住人じゃあ無いが、僕の精神だって……」  
 「何てことをしたの!!」  
 がばり、と鈴美が僕の両頬を挟んだ。顔が近づく。心なしか、先ほど繋いだ  
手よりもより感触が確かで、柔らかく、温かいような印象を覚えた。  
 「何って……何だよ、客が出された紅茶を飲んで、何がいけないんだ」  
 「そうじゃない。そうじゃないわ。駄目だわ、露伴ちゃんが『近く』なっちゃ  
う。 ああ、体温が……」  
 言い、僕の頬においた手をそうっと動かした。僕はやや、目を見開いた。彼  
女の香りが、体温が、鼓動が感じ取れた。僕に触れる手がどんどん現実を帯び、  
彼女の存在が確かなものとなって行くのが分かった。  
 
 「とにかく、このまま此処にいるのはマズイわ。まだ、外は小雨だけど……  
そんなことは言ってられないわね。出ましょう、露伴ちゃん!」  
 
 言い、彼女は僕の手を引いて、家を出た。  
 
 
[ 5 ]  
 
 僕を繋ぐ彼女の手は、温かい。柔らかく、しっとりして、ペンだこの出来て  
いる僕の指を包み込んでいる。傘も持たずに、僕らは進んだ。小雨が鈴美の身  
体を濡らし、彼女の薄いワンピースがしっとりと濡れるのが目に付いた。細い  
肩甲骨が、両翼のように浮き上がっている。空は変わらず、暗い。  
 彼女は僕の手を引いたまま、ポストを抜けて左道の辻へと入る。以前と同じ  
ように声がした。吐息がした。闇が深かった。ヒタヒタと言う後ろから着けて  
来る音が、以前の時より一層大きく、恐怖感を煽った。  
 
 「何時もより確かに聴こえると思うけれど、振り返っちゃ駄目よ、露伴ちゃ  
ん。前だけを見て、進むの」  
 
 手を繋ぐ、すぐ前から鈴美の声がした。彼女の背は見えない。繋いでいる手  
だけが暗闇にぼんやりと見えている。白い、細く、しなやかそうな綺麗な手だ。  
形の良い、白魚の手だ。僕の膝の怪我を治した優しい―――  
 
 「ほら、出口よ。露伴ちゃん」  
 
 視界が、開けた。  
 
 鈴美はゆっくりと振り向いて僕の方を見つめると、また、すっと僕の頬へと  
手を伸ばした。手は、僕に触れている筈なのに、体温というものが感じられな  
かった。鈴美は僕の戸惑っている様子を尻目に、ふぅっと安堵の息を、零した。  
 
 「良かった。ちゃんと『向こう側』の住人だわ。全くもう、露伴ちゃんがま  
さか飲んじゃうだなんて、思いもしなかったわ……」  
 
 言って、ふわりと笑む。どういうこと何だ、と不機嫌な様子を露わにして問  
うと、ヨモツグヘイって知ってる? と、鈴美は言った。  
 
 「向こうの世界のものを、食べたりして体内に取り込んじゃ、駄目なのよ。  
向こうの世界の住人になってしまうの。あくまでひとくちだったし、直ぐにこっ  
ちに戻ったから平気だったけど……」  
 「どういうことだ? 何で食べたりしちゃあ……」  
 「向こうの世界のものは、どうであろうと、向こうの世界のルールで成り立っ  
てるわ。露伴ちゃんは自分の『想い』であの紅茶を自分のうちに入れようとし  
たけれど、それよりも上に、『食べたら戻れなくなる』ってルールがあるのよ。  
だから、露伴ちゃんの『想い』はルールの下に置かれる。向こうの食べ物を口  
に入れて、それを体内に入れるってことは、向こうの世界と同化するってこと  
を意味するの。  
 ……でも、無事で本当に良かったわ。駄目よ、露伴ちゃん……」  
 言いながら、とん、と、僕の胸の上に、軽く彼女は手を乗せた。重みも、ぬ  
くもりも、手の平から感じなかった。  
 
 「……一緒に居ようだなんて、考えないで……」  
   
 頬に熱が集まるのを感じた。違う! と僕は叫んだ。自分で叫んでおいて、  
あまりの大声にハッとして、周りを見ると、怪訝そうな目で通行人がこちらを  
見ていた。慌てて彼女の方へ目を戻すと、彼女はもう、居なかった。  
 
 
[ 6 ]  
 
 アーノルドがいるんだから、大丈夫。夕暮れだって、夜だって、怖くないわ、  
平気よ。ほら、行きましょう。お手てを繋いで、お姉ちゃんと。  
 ……そうそう、お姉ちゃんのおうちにも、クレヨンを買って置いといたから、  
来た時に何時でも描いて良いわ。本当よ? だからまた、お話を創って聴かせ  
てね。お姉ちゃん、あなたのお話を聴くのが好きなの。……え? ええ、そう、  
そうね。  
 お姉ちゃん、きっとあなたのファンなんだわ。  
 
 雨が降っている。窓が鳴いている。雷が落ちた。お姉ちゃん、怖いよ。と声  
を上げると、大丈夫よと抱いてくれた。微かに彼女も震えていた。  
 ……お姉ちゃんは、大丈夫。アーノルドがいるもの。時間を稼いでくれてい  
るわ。今がチャンスよ。振り返っちゃ駄目。後ろを振り向かないで、進みなさ  
い。  
 大丈夫よ。お姉ちゃんは大丈夫だから、だから、ね?  
 
 「だから――ないで、露伴ちゃん」  
 
 頭が痛かった。起きて鏡を見ると、まるで徹夜したかのような隈があった。  
昨晩は仕事を少し進めた後、寝た筈だ。――夢のせいか、眠りが浅かったのだ  
なと、僕は自分を納得させた。  
 
 今日は……と、ぼんやりした頭で予定を思い出す。これといって用事は無い。  
仕事もあらかた昨日のうちに済ませてある。今日はもう少し原稿に手を入れて、  
『召使の女性』のデザインを考えようと、僕は思った。  
 
 もそもそと朝食を摂りながら、昨日のことを振り返る。一緒に居ようと思う  
なと、彼女は言った。僕はそれを否定した。だがあれは肯定したも同然だった。  
僕があの紅茶を飲むとき、考えたのは普段僕が飲む紅茶のイメージと、彼女の  
驚く顔だった。  
 紅茶なんてどうでも良かった。要するに僕はあの時、鈴美を驚かせたかった。  
そうしてそれは、さらに突き詰めて言うのなら、彼女と一緒に居たい。彼女と  
この時を味わっていたいという、そうした『想い』に他ならなかった。  
 
 笑ってしまう。僕が、この僕が、誰かと一緒に居たいと想うだなんて!  
 ごくり、と湯気のたつコーヒーを飲み干す。胃の部分だけが、熱かった。  
 
 普段ならすぐに片付ける食器を、水につけたままにして、僕は仕事部屋でス  
ケッチブックを広げる。ページを捲って、『召使の女性』のデザインを見直す。  
担当は濃いと言った。悪かったな、と僕は思う。だが確かに、彼の言うとおり、  
もう少しデザインも見直した方が良いのだろう。  
 ごてごてとした厚いスカートを止めて、さらりとしたスカートにする。胸元  
もすっきりさせて、爽やかさを出す。首筋は女性らしい細らしさを、腕も露出  
させる。しなやかな、ゆるやかな腕を描く。髪形ももう少し単純に、一般的で、  
だが可愛らしい……。  
 思うがままに筆を走らせる。出来上がったデザインは以前のものと比べると  
素朴だが、優しそうで人好きするデザインになった。なかなか良いかも知れな  
いと思う反面、どこかで見たことがある人物だな、と僕は思った。  
 はて、どこだったか……と首を傾げて、あっと気づいた。  
 
 杉本鈴美、そのひとだった。  
 
[ 7 ]  
 
 辻の『境』を越えても、鈴美は其処には居なかった。空はどんよりと曇って  
いた。僕は迷わず杉本家まで足を運ぶと、トントン、と軽くノックした。扉が  
開いた。隙間から惑うような顔で、鈴美が居た。露伴ちゃん、と呟く。  
 僕は何も言わずに身を乗り出して、小さく開いた扉に滑り込む。今日は鈴美  
は「どうぞ」とも何にも言わなかった。僕が家へと入り込むと同時に、見計ら  
ったように、空から雨が降り出した。  
 
 仕事とか、平気なの? と彼女は聞いた。僕は天才だぞ、とそれに返した。  
 「ちゃんと片付けて来たさ。それとも何かい? 君は僕が此処に来ちゃいけ  
ない理由でもあるのかい?」  
 言うと、彼女は悲しそうな目で俯いた。  
 
 「来て欲しくないなら、そう言って欲しいものだな。何も言わないのも不快  
なものだぜ?」  
 僕の言葉に、私は良いの……と、ぽつりと鈴美は呟いた。  
 
 「露伴ちゃんを一度、『お招き』しちゃった以上、露伴ちゃんの意志でしか、  
来ることを拒むことは出来ないもの。ただ、露伴ちゃん……酷い、隈よ? 暫  
くの間、此処に来るのは勧めないわ……」  
 聞きたいことがあったんだ、と、僕は言った。  
 
 「この場所で、雨が降る理由だ。今もそうだ、僕が来たところで、雨が降る  
ように感じられる。……どうしてだ? この場所、いや、この家と、僕と、雨  
とに、どういう関係があるんだ?」  
 僕の詰問に、彼女はただ深く眼差しを伏せ、ごめんね、と呟いた。  
 
 「此処はあたしの記憶の場所なの。多分、この場所を創り出しているのは、  
あたし……なんだと思う」  
 「僕が、泊まりに来ていた夜の?」  
 言うと、鈴美は零れ落ちそうなほど眼を見開き、こくり、と悲しそうに頷い  
た。  
 
 「あの、絨毯にあるクレヨンも、画用紙も、露伴ちゃんのために用意したも  
のだった。椅子の配置も、あの時のままなの。あの日のことは、忘れられない  
し、忘れちゃいけないことだから……」  
 ごめんなさい、と。再度、彼女は言った。……何を詫びるというのだろう。  
彼女は何も、悪いことなど、していないのに。  
 「雨が降るのは、露伴ちゃんが泊まりに来ていた夜が、そうだったからなの。  
これはあたしも怖いから、なるべく忘れようとしていた事なんだけど……」  
 でも、僕と逢ってしまって、思い出してしまったのだと、彼女は言った。  
 
 「ごめんなさい。巻き込んでしまってごめんなさい。でも、これ以上被害者  
を出したくなかったの。あたしのことなんて忘れていいから、露伴ちゃんに幸  
せになって欲しかった。でも、耐えられなかったの! あたしの大好きな街が、  
大好きなひとたちが、何も知らないことで、あたしみたいに死んでしまう事に!」  
 ごめんなさいと、また、彼女は詫びた。  
 「不安にさせてごめんなさい。知らせてしまってごめんなさい。あたし、も  
う、いないのに。付き合わせてしまって、ごめ――」  
 
 ――だから、何を詫びると言うのだ!!  
 
 「――!?」  
 雷鳴が、轟いた。僕の間近に鈴美の驚いた顔があった。重なり合った唇から、  
僕はすっと舌を差し入れた。  
 ”初めて男の子とキスした時に舌を――”  
 頭の中に浮かんだ、『本』での情報を、僕は打ち消すように、舌を重ねた。  
ちゅぱ、じゅぷ、と僕は鈴美の口内を犯し、互いの唾液を交わす。僕の中に彼  
女の唾液が、彼女の中に僕の唾液が伝わり、僕は逃げる彼女の舌を執拗に捕ら  
え、求めた。  
 外の雨音が、異様なまでに近く聴こえた。  
 
 互いの唾液でいっぱいにしながら、僕は唇を離した。腕に抱いた彼女の身体  
が、鼓動を持ち、近くに感じた。鈴美は涙で目をうるませて、僕を見上げてい  
る。逃がさないように、僕は彼女を強く抱いた。  
 「……悔しいことに、僕は、君が好きだ」  
 だから、お願いだから、謝らないでくれ、と掠れた声で僕は告げた。鈴美は  
僕に抱かれている。互いの心音が近くに聴こえる。抱き締めた肌の感触が、鈴  
美の体温が快い。それが、何を意味する事なのか、分からないほど僕は血迷っ  
てはいなかった。  
 否、血迷っていたかもしれないが、正直言って、どうでも良かったのだ。僕  
は、今、この胸に押し寄せてくる感情を、見過ごすわけには行かなかった。僕  
の胸に去来し、ぬくもりを与え、掻き毟らんばかりのこの激情を素通りにさせ  
たら、僕は一生後悔するに違いないと、そう思った。……例えそれが、神話よ  
り人に科せられた禁忌であっても、だ。  
 そうだ。僕は彼女が好きなのだ。死人であっても、過去の人間であっても。  
僕の昔の恩人だからかも知れない。或いは15年以上もただ一人現世に留まり、  
警告を発してきた少女だからかも知れない。だが、そうした細々とした理由は  
本当のところ、どうでも良いのだ。  
 『彼女は僕にこの感情を教えてくれた』それだけだ。そしてそれだけで、僕  
にとっては十分過ぎる理由なのだ。  
 
 僕は、杉本鈴美が好きなのだ。  
 
 「露伴ちゃん……」  
 しかし、鈴美は悲しみ溢れた目で僕を見上げただけだった。これが現世であ  
れば、嬉しいと言って僕に抱きつくだろう。死人だって、自分と共にあること  
を願い、もう少し嬉しそうにするに違いない。  
 だが、ここは此岸と彼岸の境目であり、僕は生者で、彼女は死者だった。そ  
して彼女は、僕を生かすために自ら犠牲となった、少女なのだ。  
 鈴美はそっと腕に力を入れて、僕の胸から離れた。ありがとうと、一言言っ  
て。  
 「でも、駄目よ。露伴ちゃんは生きなきゃ駄目なの。あたしは、露伴ちゃん  
に生きて欲しくて、あの晩、露伴ちゃんを逃がしたの。好きだって言ってくれ  
て、有難う。でも、あたしたちは一緒になれないの。なっちゃ、駄目なの。  
 露伴ちゃんがまだ、そんな事を言うって言うなら、あたし、露伴ちゃんを引っ  
ぱたいてでも、『向こう側』に連れ戻すわ!」  
 
 きっ! と僕の目を見て少女は言った。……ああ、やはり、僕の好きなった  
女性だなと僕は思った。僕は再度、優しく彼女を抱き寄せながら、こう言った。  
 
 「怪談話には、現世の人間と、死者との逢瀬を語ったものも多い。そういっ  
たのには、『取り殺す』までタイムリミットがある。それは、『こちらとあち  
ら』にあるルールだ。違うか?」  
 違わないわ。と、腕の中で鈴美は言った。  
 「彼等は、食べ物を食べたりはしないが、死者と夜を共にする。つまりそれ  
は、期間を守り、黄泉戸喫(ヨモツグヘイ)をしなければ、一定の間は共に居  
られると言う事だ。……違うか?」  
 ……違わないわ。と、鈴美は答えた。彼女の身が、小さく震えていた。  
 
 「教えてくれ、鈴美。共に居られる期間を。その間だけでも、僕は君と共に  
在りたい」  
 僕の言葉に、鈴美は迷いの色を眼に浮かべた後に、「七日七晩」と、僅かに  
頬を赤らめながら、僕に答えた。  
 
 
[ 8 ]  
[ 一 日 目 ]  
 
 七日七晩、というのは連続した日で、互いにそう誓いを立てた日から数える  
のだと、鈴美は言った。これは両者が違える事無く等しく思ったという証明で  
あり、『想い』は力となる。  
 だから、もし長く……というのならば、明日一日間を置いて、明後日から行  
えば日にちを間違えることもなく、互いの認識が一日ずれていて……というこ  
ともなくなる。と鈴美は言った。  
 
 「それでも露伴ちゃん。日にちが経過するほど、露伴ちゃんの身体は悪くな  
るわ。それに、続ければ続けるほど、離れがたくなるの。これは、呪(じゅ)  
でもあるのよ。  
 だから露伴ちゃん。気持ちは嬉しいけれど、やっぱり……」  
 目を伏せて続きを言おうとした鈴美の口を、僕は自分の唇で塞いだ。そのま  
ま彼女の口内を味わった後に、僕が一度やると思ったことを、止めると思うか  
い? と彼女に告げた。鈴美は頬を真っ赤にして、昔から、やると思ったこと  
はやっちゃう子だったものね……と、鈴美は呟いた。  
 
 「分かったわ。でも、これだけは聞いて。あたしは露伴ちゃんをこの家に  
『招いて』しまっているわ。一度許しを出してしまった以上、あたしの手で露  
伴ちゃんを外に出す事は出来ないの。呪を止めるにも、露伴ちゃんの強い意志  
が必要になって来るわ。それだけは、忘れないで」  
 分かったと僕は答えて、その日は別れ、約束通り一日挟んで、夜、彼女の家  
を訪れ――現在に、至った。  
 
 戸を叩いて来訪を告げると、小さく戸が開いた。僕は中に入り、戸を開けた  
鈴美の肩を抱き、そのまま熱っぽくくちづける。初日のようにされるがままで  
はなく、彼女もぎこちなく、おずおずとだが舌で動きを返して来て、僕は嬉し  
くなってさらに深く、さらに熱く、彼女を求めた。次第に彼女の脚がカタカタ  
震え始めた事に僕は気づき、ほくそ笑みながら、抱いていた背を少しずつ離す  
と、くたり、と鈴美は床下へと座り込んだ。  
 おやおや、どうしたんだい? と僕が声を掛けると、彼女は上気した顔で露  
伴ちゃんの意地悪、と唇を尖らせた。そんな扇情的な顔で言われても、怖くと  
も何とも無い。僕は彼女のしなやかな腕を肩に乗せ、抱き上げるとソファに運  
んだ。  
 
 ソファの上に、鈴美をそっと横たえる。少女はやや緊張感をもった面持ちで、  
僕の行動を待っている。僕はもう一度彼女にくちづけると、細い首筋に唇を落  
とし、ゆっくり、ひとつずつ、ワンピースのボタンを外した。  
 下着は鈴美らしい、白を基調とした下着だった。ところどころにピンク色の  
小さなリボンとフリルとがあしらわれている。鈴美の清純さや可愛らしさが現  
れていて、オッサン臭いと言われそうだが、正直言って嬉しかった。  
 「露伴ちゃん、すっごい、やらしい笑顔……」  
 そんな僕の内心を見て取ったのだろう。唸るような声で鈴美は言い、僕は何  
を言っているんだ、と下着をゆっくりと剥ぎ取った。  
 これからもっと、やらしいことをすると言うのに。  
 
 下着を外すと、ほんのりと桃色に染まった頂が現れた。少女の白い肌に似つ  
かわしいそれは、やはり可憐で、僕はちょっとした感動をもって少女の裸体を  
眺めていた。美術をやる人間なら、ヌードなんて珍しくも無い。美しい肉体も、  
醜い肉体も、正直僕は見慣れている。それでも僕が感動したのは、それが杉本  
鈴美だったからだ。彼女の持つ肉体は、清楚で、それでも女性らしい柔らかさ  
を持ち、瑞々しい張りある肌で、しっとりとしていた。美しい魂は美しい肉体  
に宿るのだなと、そんなロマンティストなことを僕に思わせた。  
 しかし、見つめられている鈴美からしてみたら、視姦以外の何物でも無いの  
だろう。もぉ、露伴ちゃん、見ないで、と、涙声で胸を隠そうとした。分かっ  
た。見ない。と僕は答えた。  
 
 「そのかわり、触るよ」  
 言いながら伸ばした手に、ひゃん! と鈴美の身体が跳ねた。  
 
 ちゅぱちゅぱと音を立てて、鈴美の頂を僕は吸った。紅潮させた鈴美の口か  
らは、色づいた喘ぎ声が洩れている。下の下着に手を伸ばすと、じんわりと灯  
心の部分が濡れていた。率直にそれを述べると、鈴美はさらに顔を赤くして、  
だって……と、半泣きの声で、こう言った。  
 「だって、露伴ちゃん、素敵なんだもの! しょ、しょうがないじゃない!!  
あ、あたしも、露伴ちゃんのこと、す、好きになっちゃったんだからッ!!」  
 とんでもない殺し文句に、今度は僕の頬が色づいた。  
 
 「……僕のこと、好きかい? 四歳児の僕じゃなくて、二十歳の、岸部露伴  
を?」  
 こくり、と、彼女は身体中熱で真っ赤にしながら、僕の下で頷いた。だって、  
と、彼女は呟く。  
 「そりゃあ、露伴ちゃんは小さい時も可愛かったし素敵だったけど、まさか、  
こんな、格好良くなると思わなかったし。生きていてくれて嬉しかったし、告  
白されたのも嬉しかったし、で、でもあたし、死んじゃってるし、まさか、こ  
んなにも……」  
 ぽそりと、彼女は言った。  
 「想ってくれているって、思わなかったから……」  
 ――数日前の僕ならば、彼女の言葉を確実に否定していただろう。だが、今  
は違った。僕は彼女を想ってる。悔しいが、惚れているのだ。そしてそれは事  
実だろう。そうでなければ、彼女の想いが一緒であることを知って、こんなに  
も心が浮き立ってしまうわけが無い。  
 
 僕は嬉しくて、でも、やはり認めるのが気恥ずかしくて、言葉を掛ける代わ  
りに、彼女にくちづけを与えながら、灯心を、撫ぜた。  
 
 わざと音を立てながら、僕は花芯を舐める。指で花弁を広げ、子房へと押し  
入る。甘い、蜜の香りがする。鈴美は必死で声を押し殺そうとするが、吐息は  
甘い。僕は彼女の好いところを見つけようと、指を進める。やがてとある箇所  
で彼女の身が跳ねたのを見、そこを重点的に攻めた。  
 「ろは、んちゃん! や、其処ッ、だ、だめぇッ!」  
 ぁあん! と声を上げて身を震わすと、とろとろと僕の指に愛液が溢れた。  
僕はとろりと目を蕩かせて放心している鈴美に、それを見せ付ける。そうして  
おもむろに、それをペロ……と舐めて見せた。  
 
 ここまで来て恥じ入る必要も無いだろうに、それを見て鈴美はぱっと顔を横  
に背け、ちろり、と、恨めしげな目で僕を睨んだ。  
 僕はそれを見て、にっと笑うと、まだ鈴美の愛液で濡れている指を、彼女の  
口元へと差し出した。  
 「舐めてくれるかい? 鈴美『お姉ちゃん』」  
 少女の目が驚愕と、戸惑いで染まった。それを見て、嫌なら良いぜ。と僕は  
言った。  
 「僕が舐めるから」  
 言って、見せ付けるように舌を出す。そこで待って! と声が上がった。  
 「あた、あたしが、舐めるからッ!」  
 言い、ぎしっとソファから身を起こす。舐められるのと、舐めるの、どちら  
が恥ずかしいのかは正直疑問だったが、どちらであろうと、鈴美の反応が見れ  
ればそれで良かった。  
 
 鈴美はちろり、と赤い舌を伸ばして、僕の指を、舐めた。  
 頬を染めながら、悩ましげに睫は伏せられ、丁寧に、鈴美の舌と、唇が僕の  
手にある、彼女の愛液を舐め取る。  
 ぞくり、と、僕は自分の下肢に熱が集まるのを感じた。……彼女が僕の手を  
舐めている最中、僕が想像していたもっとふしだらな図に関しては、男なら皆、  
分かってくれるものだと思う。  
 兎に角僕は暫くその倒錯的な様を楽しむと、もう良いと手を離し、最早何度  
目とも数えられないくちづけを彼女に与えた。そうしてまた、彼女の花に潤い  
をもたせると、僕は自分の衣服に手をかけ、彼女の身に、押し入った。  
 
 鈴美の中は、温かく、快かったが、かなり狭く、きつかった。僕は何度も彼  
女の顔に、頂にくちづけを与え、気を掛け、どうにか全て挿れた時には、僕も  
彼女も、互いにぐっしょりと汗をかき、下半身はぬちゃぬちゃと互いの液で濡  
れていた。  
 「ぁん! ふぁ、ぁあん! ろは、ろはん、ちゃん! ろは……ァん!!」  
 もう、声を抑えることは出来ない様子だった。僕は互いの肉がぶつかる音が  
する程、彼女を求め、ありったけの精を、彼女に注いだ。  
 
 
 雨の音が聴こえていた。身の寒さに起きると、僕の下には彼女が居た。すや  
すやと、心地好さそうな寝息を立てていて、幽霊でも眠るのだなと、何だか僕  
は可笑しくなって、身を起こした。随分と彼女を汚してしまった。始末を……  
と、思ったところで、固まった。  
 
 彼女は汚れていなかった。そして、僕も汚れていなかった。  
 ソファも、床板も、ただ、僕らが互いに裸体であり、衣服は床に散らばって  
いる。だが、それだけで、あの、むせかえるような互いの匂いも、交し合った  
互いの愛液も、其処にはなかった。  
 「始めから何も起こらなかった」……そんな空気が、そこにはあった。  
 
 「露伴ちゃん……お早う。どう、したの……?」  
 僕の様子に、鈴美は戸惑いながら、身を起こした。僕は何でもないよ、と、  
胸に押し寄せる波を堪えながら、そう答えた。  
 「外、雨なのね……」  
 窓を見遣っての呟きに、僕は何も言えなかった。  
 
 
[ ニ 日 目 ]  
 
 未明過ぎに帰宅し、目が覚めると昼だった。頭が兎に角重かった。鏡を見る  
と、前と同じように目の下にたっぷりと隈をつくった自分がいた。食欲は無かっ  
たが、どうにかして胃に入れようと、コーンフレークを出して口に運んだ。ヨ  
ーグルトもあったので、それも一応胃に入れた。  
 昨晩のことを思い返し、僕は深く、溜め息を吐いた。  
 
 あの家は、自分の記憶なのだと彼女は言った。彼女が殺されたその日で、構  
成されているのだろうと。それは、犯行が行われたその日を、忘れない為であり、  
忘れられない為だろう。  
 昨晩、僕が鈴美を愛した記憶も、結局は、あの、忌まわしい記憶の下に消さ  
れた。それは、彼女が幽霊であり、現世に留まっている限り、仕方が無いのか  
もしれない。けれども――  
 「別の『想い』が反映されたって、いいじゃないか……畜生! 僕は諦めな  
いぞ!」  
 言い、僕はもう一杯分コーンフレークを皿に注ぐと、ぐしゃぐしゃと牛乳と  
流し込み、自分の口へと放り込んだ。  
 
 その日鈴美の家を訪れた時も、やはり雨が降っていた。鈴美は複雑そうな顔  
で扉を開け、くちづけを与えると、ソファに運んだ。  
 「そういえば、あの犬は?」  
 僕の言葉に、あたしの部屋、と鈴美は答えた。  
 
 「……あまり、見て欲しくないから、あたしの部屋に居て貰っているの」  
 そういえば、僕は彼女の部屋にまだ行っていなかった。見てみたいと告げる  
と、あからさまに、鈴美は身を硬くした。  
 「い、イヤ! ごめんなさい! 露伴ちゃんが気になるのは分かるわ! で  
も、でもあたし、あの部屋、駄目、嫌いなの!」  
 
 必死になって、そう告げて僕の動きを止めようとした。其処まで言われたら、  
嫌でも好奇心がくすぐられるというものだ。君の部屋だろ? 何がイヤだって  
言うんだ。と、僕は軽い口調で立ち上がると、追いすがる彼女を無視して、二  
階に進んだ。  
 「お願いよ露伴ちゃん! 止めて! お願いだから! あたしの部屋は見な  
いで!!」  
 「君は僕を『招いた』んだろ? だったら、僕に君の部屋を見られるのも、  
覚悟してのことだろう? 大丈夫、散らかってたって、驚きゃしないさ」  
 
 そうじゃないのよ! と、彼女は叫んだ。  
 二階に登った。恐らく手洗いだろうと思える一部屋と、二部屋分の扉が見え  
た。廊下の壁のコート掛けの下には、何か赤黒いものが溜まっていた。  
 そこで、僕は、彼女の言わんとする事に気づき、息を飲んだ。そうしてゆっ  
くりと……僕は部屋の扉に近づき、ノブを回した。  
 
 ガタガタ窓が鳴いていた。庭の木々が風で揺れ、ザァザァ雨が降っていた。  
 室内は血臭で満ち、窓のカーテンは、血塗れだった。否、カーテンだけでは  
ない。床下も、天井も、壁も、良く見ればあちこちに血液が付着しており、苦  
しそうにのた打ち回ったのだろう。爪で掻き毟った後が、部屋の壁に見受けら  
れた。  
 深い、深い悲しみで沈んだ、部屋だった。あたし、と震える声が、背後でし  
た。  
 「あたしは……自分のこの部屋が、家で一番、嫌いなの……」  
 彼女の声が響くと、クゥン? とベッドの下から声がした。はっと声の方へ  
目をやると、アーノルドが顔を出し、心配そうに彼女を見ていた。  
 僕はやはり、何も言えず……手を繋いで、一階に下りた。  
 
 ソファに腰掛け、手を繋いだまま、僕らは暫し無言だった。彼女の目は深い  
悲しみに彩られ、目はどこか、遠くを見ていた。僕はただ、このままで居るの  
が嫌で、鈴美を抱き寄せると、すまなかったと、素直に詫びた。鈴美はまだ、  
黙りこくったまま、目線を僕から外している。  
 (どうすりゃいいんだ。クソっ! 恋愛モノは苦手なんだよ!)  
 気分を害した女の心境なんて、ましてやその機嫌のとり方なんて、僕に分か  
ろう筈もなかった。ただ、このまま帰るのはマズいと、僕は思い……ふと、目  
線の先にある絨毯上に散らばったクレヨンに、気が付いた。ソファから立ち  
上がってそれを手に取り、同じように落ちていた画用紙を、拾い上げる。  
 そうして鈴美の正面に腰掛けると、シャッシャっとクレヨンを動かし、描き  
始めた。  
 
 「……あたしを、描いているの?」  
 「そうだよ。光栄に思いなよ、この僕が、誰かのために描くだなんて、珍し  
いことなんだからな。……ほら、笑いなよ」  
 僕がそう言うと、鈴美はちょっと困ったように眉を曲げてから、それでもにっ  
こりと、僕のほうへと笑んでみせた。……正直言って、その笑顔を見て、僕は  
心の底から安堵した。  
 
 似顔絵はものの数分足らずで出来上がった。出来上がったモノを見て、やだ、  
と鈴美は顔を赤らめた。  
 「露伴ちゃんってば……あたし、こんな綺麗じゃないわよ……」  
 え? と、今度は僕が問い返した。ハッキリ言う、僕は漫画家で、デフォル  
メするのはお得意だが、写生だって勿論出来る。そして、この鈴美は「見たまま」  
描いた。つまり、対象を美しく描こうとも、醜く描こうとも、思っていない。  
 一体、鈴美には自分がどう見えているのだろうと、僕は思った。  
 「だって、あたしは……」  
 言いながら、無意識にだろうか、鈴美は自分の肩へと、手を回していた。そ  
こで、僕は、理解した。鈴美、と僕は呼びかけ、彼女の手を取った。  
 
 「背中を見せてくれ」  
 「……!!」  
 言葉に詰まられた。当然だろう。あの部屋と同様、鈴美のこの、背中の傷も、  
忌むべきものなのだから。  
 「大丈夫。僕は見たところで、引いたりしない。何よりももう、一度、君の  
背中を見ているだろう?」  
 鈴美は目線を背け、僕から逃げようと、身を引く。僕は放すまいと、掴んだ  
手を、引き寄せる。  
 「君は綺麗だ。少なくとも僕はそう思っている。君は僕が描いた、そのまま  
の人物だ。像を歪めているのは、君自身だ、鈴美。君は自分が思っているより  
も、ずっと素敵な人物なんだ。背中の傷なんか、気にすることは、無いんだ!」  
 でも、と、鈴美はなおも逃げようとする。僕は彼女を抱き寄せながら、心か  
ら、彼女を暗闇に繋いだ犯人を憎んだ。  
 
 「お願いだ。お願いだから……僕に、『君』を見せてくれ……」  
 僕の懇願に、しかしながら力なく、彼女は首を振った。  
 「今は……お願い、今日は、やめて。心の準備を、あたしにも頂戴……」  
 そう言われたら、先刻の無礼の手前、引き下がるしかなかった。鈴美はソフ  
ァに背中を押し付けたまま、僕に抱かれ、僕は傷ついた彼女の背を何度も撫ぜ  
ながら、彼女の身を貫いた。  
 外からはまだ、雨音がしていた。  
 
 
[ 三 日 目 ]  
 
 気づけば昼を過ぎていた。食欲なんて欠片も無かった。カーテン越しに見え  
る太陽の光が眩しくて、不快だった。胃に入れなければ身体が持たないことは  
分かっていた。それでも袋にあるコーンフレークの香りを嗅ぐだけでも吐き気  
がした。どうしても食べる気にならない。仕方が無いので、『忙しい朝食に!』  
とか書かれている、携帯飲料食をどうにか飲んだ。  
 身体が重く、何をする気にもならない。仕事のことが頭に浮かんだ。やるべ  
き仕事は一応既に、上げてある。普段だったらデザインを練るか、次の話の推  
敲を進めている。  
 創らなきゃ。と、僕は身体を引きずるようにして机に向かった。スケッチブッ  
クを捲ると、『召使の少女』があった。少女はどこか寂しそうな顔で、それで  
も唇だけは、笑みをつくって、こちらを見ていた。  
 僕は短く「くそッ!」と叫んで、頁を破き、くしゃくしゃにしてゴミ箱に  
投げた。  
 分からなかった。彼女が。そして、僕自身が。  
 否、「何をしたいのか」は分かっているのだ。僕は杉本鈴美を知りたい。彼  
女が恐れるものを取り払ってやりたい。彼女の不安を、安寧に変えてやりたい  
のだ。  
 (それは、僕が彼女の事を好きだからだ。だけど、僕は漫画家で、僕はそれ  
を自分の生きる意味だと思っている。自分の務めだと! だのに何だ! この  
低落は! 僕はその務めを放り投げて、女にうつつをぬかしている。そう言わ  
れても、仕方が無い状態じゃないか! 何なんだ僕は! そのくせ、もう今日  
を除いて三日しか残っていないのに、僕は仕事も、そして彼女も救えていない!  
 この僕が! この、天才漫画家、岸部露伴が!!  
 僕は! そうだ、僕は、なんて……!!)  
 
 「――不甲斐ないんだ!!」  
 机を両の拳で叩いた。インク壺が倒れ、ペンが転がる。悔しかった。無力だ  
と思った。自分は彼女に救われたのに、彼女を癒せるのは自分だけだという自  
負も密かに持っていたのに。それなのに、彼女の心は変わらず深淵に閉ざされ  
ている。それに比べ、自分の心はこんなにも揺れ動いている。  
 
 床にへたり込んだ。こんなにも不安定な自分が自分で滑稽だった。数日前は  
自信満々だったくせに、なんと情けない姿だと、自嘲した。肩が震えた。何だ  
か酷く、己の情けなさで泣けてきた。自分はこんなにも弱い人間だったのかと、  
こんなにも非力で、不安定で、ぐちゃぐちゃな人間なのかと。喉の奥と、熱く  
なった目頭を、奥歯を噛締めてどうにか堪えた。  
 ふと、ゴミ箱が目に付いて、這いずるようにして投げ捨てた紙を中から拾い  
上げ、皺を広げた。  
 杉本鈴美似の、『召使の少女』だ。デザインはこれで確定ではない。これは  
僕のカタチではない。ただ、杉本鈴美の表面を似せただけた。これではない。  
僕の生み出したいものは、このカタチではない。何故だか分からないが、それ  
は分かった。  
 「僕は一体、どうしたいんだ……」  
 机の上にあるスケッチブックは、破られ、真っ白い、次のページが、挑戦す  
るかのように広がっていた。  
 
 雨が降っていた。鈴美は僕の顔を見ると、不安そうに寄り添った。  
 「……露伴ちゃん……。ちゃんと、ご飯食べてる?」  
 食べてるさと短く応え、彼女の身を抱き締める。そうして、そのまま貪るよ  
うに、鈴美の首筋に顔を埋めた。わざとらしく、音を立てる、いつもより乱暴  
に、彼女を抱く。  
 『どうせ、明日には戻っている』  
 そう思うと、何だか全てがどうでも良いように思えてきた。乳房を味わい、  
下肢に手を這わせ、玩ぶ。  
 鈴美は抵抗しない。ただ、悲しそうな目で、こちらを見ていた。唇を重ねる。  
舌を入れる。指の動きを早め、濡れるのもそこそこに、服は脱がずに自分のモ  
ノを取り出し、貫く。服が擦れ合う。鈴美のスカートが広がり、交わる部分を  
隠す。耳鳴りがする。雨音が煩い。窓が泣いてる。木々が揺れ、風が何かを叫  
んでる。  
 
 「――で、露伴ちゃん」  
 僕が精を放ったその時に、微かに唇を噛締めながら、泣きそうな顔で、それ  
でもどうにか笑みを浮かべて、鈴美が囁いたのを、どこか遠くで僕は聞いた。  
 
 雨音がしていた。気づくと僕はソファの上で、頭の下には柔らかいものがあった。  
 「気づいた? 露伴ちゃん」  
 上を見るとすぐ近くに鈴美の顔があった。どうやら膝枕をしてくれていたら  
しい。大分磨り減った気恥ずかしさを呼び戻し、慌てて起き上がろうとすると、  
そっとしなやかな手で、鈴美は止めた。  
 「良いのよ露伴ちゃん……もう少し、こうしていて」  
 そう言うと、鈴美は恐らく子供の頃、僕にそうしたように、僕の額を優しく  
撫でた。そうして、僕を膝に乗せながら、ぽつりぽつりと、こんな話を僕にし  
た。  
 
 「イザナギと、イザナミのお話は、知ってるわよね。国を生んだ、二柱の神。  
イナザギはイザナミに逢いたい気持ちで、黄泉の国まで行くけど、約束を破っ  
て、イザナミの醜さを知ってしまい、離縁するの。  
 イザナミはきっと悲しかったし、約束を破り、逃げられたことが憎らしかっ  
たのだと思うわ。……でも、それって、普通のことだと、あたしは思うの。  
 ……死って、怖いもの。恐ろしいもの。そしてとっても……醜いもの。イザ  
ナギが逃げ出すのも、無理ないわ。  
 ……だから、ね、露伴ちゃん……逃げてもぜんぜん、良いと思うの……。  
 誰も、露伴ちゃんを責めたりしないわ……」  
 
 そう言うと、鈴美はきゅっと唇を噛締め、俯いた。僕はゆっくり身体を起こ  
した。  
 「――それは、僕に、『出てけ』と言っているのかい? 鈴美……?  
 僕に諦めろと。僕が君の側に居ることを止めろと。そしてそれは普通のこと  
だと、僕が逃げることも普通だと、僕に――同情しているのかッ!?」  
 
 僕は鈴美の両腕を掴んだ。そして語気荒く、吐き捨てた!  
 
 「醜いだって!? ヒトはそりゃ、醜いさ! 誰だってそうだ! 僕だって!  
君は、そう言って、自分の汚い所を見せたく無いだけなんじゃないか! 良い  
『お姉ちゃん』ツラしようって、綺麗でいようって! それだけだろ!?  
 だから、そんな遠まわしに言って、僕を……!!」  
 
 彼女を傷つけている。どこか冷静に、僕はそれが分かった。それでも、言葉  
は止まらなかった。辛かった。悲しかった。彼女を安らげたいと思っている癖  
に、彼女を傷つける自分が酷く愚かに思えた。  
 
 「お願いだから……ぼくを、拒まないでくれ……」  
 擦れた声が洩れた。彼女を強く抱き締めた。露伴ちゃん。と鈴美が呼んだ。  
 「……明日、あたしの部屋に、来て……」  
 
 
[ 四日目 ]  
 
 既に日は暮れていた。目が覚めた瞬間、起きる時間を間違えたのかと、一瞬  
時計の針を疑った。だが、時刻は合っていた。ただ、眠りすぎた。  
 昨日と同じように携帯飲料食を口に運ぶ。どうにか胃に、滑り込んだ。重い  
身体を動かし、服を変える。枕元には、スケッチブックがあった。昨日破り捨  
ててから、次のページは白いままだ。  
 僕は、と、ぼうっとしたまま鉛筆を持ち、機械的に手を動かした。紙の上の  
線は集合し、形を持つものの、それは僕の願った形ではなかった。  
 
 「神サマだって、独りじゃ、生み出すことなんて、出来なかったんだ。だか  
らきっと、黄泉路を下って――」  
 僕は呟き、家を、出た。  
 
 鈴美の家は静かだった。僕は階段をゆっくり登った。雨音と、階段の軋む音  
が染み込むようにその場に響いた。廊下には前と同じように、血溜まりがあっ  
た。それを無視して、三回ゆっくり、部屋の扉をノックして、僕は鈴美の部屋  
に、入った。  
 彼女は窓の側にいた。僕に背を向けたまま、窓の近くに生えた、じっと木を  
見つめていた。あのね、と、彼女は僕を見ないまま、言った。  
 
 「地縛霊って言うのはね、前も言ったかもしれないけれど、其処で亡くなっ  
た人の恨みの念なの。……よく、トンネルで亡くなった霊が、次の事故を引き  
起こすって、言うじゃない? あれはね、初めはちゃんと意識があるのだけれ  
ど、段々恨みの念だけが残って、それ以外は忘れてしまうの。だから、関係の  
無いひとも、巻き込むのよ。  
 ……あたしはね、露伴ちゃん。あの日殺されてから、殺人鬼のことを恨んだ  
わ。でも、同時に強く思ったこともあった。それは露伴ちゃんのことだった。  
きちんと逃げられたか、その後無事か。そればかりを思ったわ。幽霊になって、  
この環境を理解して、オーソンで、この街の状況を知って、殺人鬼のことを伝  
えなきゃと思った。露伴ちゃんはまだ無事かしら、とも思った。  
 ある日、雑誌で露伴ちゃんの漫画が採り上げられていることを知ったわ。あ  
たしは凄く嬉しかった。露伴ちゃんは生きてた。そうして夢を叶えていた。良  
かったと、あたしは心から思った。そして、同時に願った。  
 ――『この街に帰ってきて、あたしの想いを、伝えてくれないかしら』って――」  
 
 言い、ゆっくり鈴美は、振り返った。  
 「でも露伴ちゃんは忘れてた。無理も無いわ。あの頃四つだったんだもの。  
あたしだって、自分が四つの頃を思い出せって言われたら、無理だわ。  
 ……それでもちょっとガッカリした。でも、顔が見れて嬉しかった」  
 鈴美はそこで、息を切った。そこで、すぅっと吸い込んだ後に、こう言った。  
 
 「あの時、露伴ちゃんは小さかった。あたしは露伴ちゃんよりもお姉さんだっ  
た。だから守った。それだけよ。それに露伴ちゃんが負い目を感じることは何  
も無い。あたしはあの日、怖かったけど、当然だと思ったことをした。それだ  
けなの。後悔だって、していないわ。此処に残っているのも、あの日の殺人鬼  
を捕まえたいから。あたしの好きなひとたちを、大好きなこの街を、汚して欲  
しくないから。だから、あたしは此処にいるの。醜くても……浅ましくても……」  
 
 鈴美はそう言うと、ゆっくりとワンピースのボタンを外した。僕は彼女の意  
図を知り、こくり、と、唾を飲み込んだ。  
 ボタンが外れ、鈴美は自分の手で、肩に掛かった布地を落とす、はさりとい  
う軽い音を立てて、淡い服が床へと落ちる。鈴美は両腕で胸を隠すこともなく、  
静かに僕に、背を向けた。  
 
 惨かった。白く、薄い彼女の背中に、まるで落書きでもしたかのように、ナ  
イフで切り刻まれている。腰や腕にかけては傷が無く、美しい肌を保っている  
事が、さらに痛々しさを示していた。  
 ……傷が無ければ、さぞかし美しい、背中だったのだろう。少女の華奢な肩、  
薄い肌に、まるで羽を連想させる肩甲骨の膨らみといい、その赤黒い線は、余  
りに少女の身に不似合いだった。  
 
 「……醜いでしょう?」  
 身じろぎもせず、鈴美は背を向けたまま、僕に語った。  
 「良いのよ、露伴ちゃん。無理しないで。  
 あたしは殺された。これはその『しるし』……それだけよ……」  
 ガタガタ窓が鳴いていた。庭の木々が風で揺れ、ザァザァ雨が降っていた。  
カッと、雷が、光った。  
 
 ”大丈夫よ。怖くない”  
 「ちがう、君の、その、傷は――」  
 ”この木を伝って行けば、外に出られるわ。そうしたら直ぐに此処から逃げ  
なさい。”  
 
 違和感が、あった。  
 何故彼女は背中にのみ傷を負っているのだ? 何故殺人鬼は彼女の背のみ傷  
つけた? もし、僕が殺人鬼なら、狙うのは、喉か、心臓だ。  
 
 ”振り返っちゃ駄目。後ろを振り向かないで、進みなさい”  
 快楽殺人ならどうする? まず、相手の苦悶に歪む顔を見たがるはずだ。だっ  
たら背中など刺さない。相手を仰向けにして、顔を見ながら、傷つける筈だ。  
ならば何故背を刺した? 背中しか刺せない、理由でもあったのか?  
 
 窓があった。その向こうには、木が。ぼく、は。  
 ”大丈夫よ。怖くない”  
 ”この木を伝って行けば、外に出られるわ。そうしたら直ぐに此処から逃げ  
なさい。”  
 ”振り返っちゃ駄目。後ろを振り向かないで、進みなさい”  
 
 「きみ、は」  
 ”……お姉ちゃんは、大丈夫。アーノルドがいるもの。だから、ね?”  
 
 「ぼくを逃がした後も、ぼくを、庇ったんだ」  
 窓が泣いていた。庭の木々が風で踊り、空が、泣いていた。僕は、掠れ、し  
わがれた声で、鈴美に、言った。  
 「犯人の気を逸らして、僕を逃がして、その後、犯人が窓を見て、僕が逃げ  
ていく姿に気づいたらいけないから、だから、窓の前に、立った。  
 ……違うかい?」  
 
 鈴美は否定しなかった。そして、彼女の肩は僅かに震えていた。  
 「犯人は、君が逃げると思って、滅多刺しにした。でも、君は其処から動か  
なかった。だから、犯人は、君の背中しか刺せなかった……」  
 何を言っているの……? と、鈴美の、小さな声がした。  
 「これと同じ傷を負った魂が飛んでいくのを見た、って、最初に会った時、  
言ったじゃない……」  
 
 「『同じ傷を持っている』のと、『同じ傷しかない』のとは、違うぜ?  
 ……他の連中は、他にも君とは違う『特徴』を、持っていたんじゃないか……?」  
 僕は鈴美に歩み寄り、そっと、少女の細い肩に触れた。  
 「僕はその傷が、醜いとは思わない。君が何と言おうと、だ」  
 鈴美は俯いていた。小さな小さな嗚咽が聞こえた。僕は彼女を抱き寄せた。  
窓と、木々の泣き声が小さく、雨音が少しずつ遠くなるのを、確かに感じた。  
 
 その晩、僕らは鈴美の部屋で、身体を求め合うことなく、ただ、手をつない  
でベッドで眠った。十五年経った鈴美の身体は、僕の胸の中にするりと収まり、  
僕は彼女の柔らかな髪の中に、顔を埋めた。  
 
 
[ 五 日 目 ]  
 
 小道を渡り、辻の『境』を右手。鈴美の自宅、軽くノックすると、「いらっ  
しゃい」と、笑顔と共に、鈴美が迎えた。  
 
 僕は慣れない笑顔を彼女に浮かべ、軽く頬にキスをする。彼女はやや、恥じ  
らいながらも両腕を僕に回し、少し背伸びをして、僕の頬にキスを返した。自  
分でも馬鹿だな、阿呆だなと思うが嬉しさというものを抑えきれず、そのまま  
鈴美を抱き締め、深い深いくちづけを与える。鈴美の脚が震え出したところを  
見計らってひょいと抱き上げ、二階に向かう。  
 「ちょ、ちょっと! 露伴ちゃん!」などと、抗議の声が聞こえるが、無視  
をする。しばらくそうやって無視をしていると、ぷぅ、と鈴美が子どものよう  
に膨れて顔を背けて僕の胸に押し付けた。  
 何度か僕が名前を呼んでも無視をする。するり、と脚を抱いている指先を動  
かし大腿部を撫ぜると、びくりと身体を震わせた。真っ赤な顔でこちらを睨む。  
 ……だから、そんな顔をしたって、怖くなんてないと言うのに。  
 口角を吊り上げて笑みを形作りながら、鈴美の額にキスをすると。むぅっと、  
鈴美は一層膨れて、こう呟いた。  
 
 「……ずるいわ、男の子って……」  
 それがまるで彼女の敗北宣言のように聞こえて、僕は何だか嬉しくて、鈴美  
の部屋に入ると、彼女をベッドにゆっくり降ろし、僕は静かに彼女を包み込ん  
だ。  
 
 互いにベッドで座り込んだまま、僕は鈴美に背を向けさせて、後ろから緩や  
かに彼女の衣服を脱がせた。唇は彼女の首筋に、ボタンは手探りで、ひとつずつ、  
丁寧に外してゆく。  
 やがて、白い背に刻まれた傷口が見えた。僕は彼女の下着を取り外し、背中  
を広げさせると、顔を埋め、ゆっくりとその傷を、舐めた。  
 「やぁ……あん」  
 ふるりと、鈴美が震えた。僕は傷を埋めるように、丁寧に、ひとつずつ、傷  
口を舐めてゆく。背中から、僕の唾液の香りがした。僕は彼女のうちに塗り込  
めるように、僕のものが、彼女のうちに浸透するように、ねとりと、彼女を愛  
撫し、舌で、唇で、唾液で、彼女の傷つけたものを打ち消した。  
 「ろは……んちゃん」  
 僕の好きな声だ。甘やかな響きだ。もっとずっと呼んで欲しい。もっとずっ  
と、側にいたい。  
 あと、一日。  
 明日で、僕らのこうした日々は終わる。初日に感じた事後の空しさなど、今  
はどうでも良かった。現実に反映されなくても良い。ただ、僕なりの方法で、  
彼女を愛してやりたい。僕の『想い』を伝えてやりたい。  
 僕はそんな気持ちで、ただひた向きに、彼女の傷を、愛撫した。  
 
 
[ 六 日 目 ]  
 
 杜王町勾当台2の、コンビニ『オーソン』の隣。小道を渡り、辻の『境』を  
右手に行くと、壁に寄りかかって、鈴美が其処で待っていた。  
 「……迎えに来て、くれたのか?」  
 夜空は曇っているのか、星や月は見えない。このような夜分に――と思った  
ところで、ああ、そういえば相手は幽霊だったな、と思い直した。  
 「露伴ちゃんが、夜道は怖いよって、泣いてないか心配でね」  
 冗談めかしての言葉に、泣くもんか、と僕は答えた。そうかしら、と、鈴美  
は小鳥のような囀りで笑った。  
 僕らはどちらからともなく手をとって、家まで歩いた。今日で、最後だった。  
 
 小さい頃ね、と、鈴美が言った。  
 「露伴ちゃん、近くの公園で怪我をしたの。転んで、膝を擦っちゃってね。  
夕焼けの、日が落ちる頃で、怖かったみたい。帰りたくない、動きたくない、  
……一緒に居たいって、ぐずってたわ。アーノルドがいるから大丈夫って言っ  
たら、露伴ちゃん、アーノルドの顔をじっと見て、ぽんぽん、ってちっちゃな  
お手てで、この子の頭を叩いたの。  
 ……ふしぎ、ね……」  
 こてん、と、鈴美は僕の腕に軽く頭を乗せて、呟いた。  
 
 「――露伴ちゃん、ありがとう――」  
 
 それから僕たちは、初々しい恋人たちみたいに、家に入って、客間のソファ  
で軽くお喋りして、小さい頃のことを、話し合った。専ら彼女がお喋り役で、  
僕はそれを聞いて、時々文句を言ったり、驚いたり、笑ったりした。  
 家に入ってから、やはり降り出した雨は、静かだった。  
 僕らはゆっくりした時間を持ち、そして二人で――手を繋いで、二階に登った。  
 
 静かに、重ねた手を、伸ばしあい、抱き合う。唇を重ねる。まぶたに、額に、  
頬に、首筋に、胸に――彼女の衣服を脱がし、ベッドに横たえる。傷ついた背  
中を撫ぜ、胸の頂を攻め、ゆるゆると下肢へと頭を動かし、指と舌で、鈴美を  
好くする。  
 攻めるその度に、鈴美は子猫のような声を上げる。猫は嫌いだが鈴美の上げ  
るこの声は好きだ。そんな、鈴美に知られたら叱られるようなことを漠然と思う。  
 やや、身体が出来上がったところで、鈴美の身体をうつ伏せにさせる。ぎゅむ、  
と形の良い両の胸が潰れるのが分かった。ろ、露伴ちゃん!? と、戸惑いの  
声が上がる。  
 
 声は無視して背を撫ぜる。そして、昨日そうしたように、舌で、傷口を愛撫  
する。時折、肩にくちづけを落として強く吸う。たまに軽く歯を立てる。  
 「ん! ぁ!」  
 吐息が、甘い。身体の下に手を差し入れて、両胸を優しく揉みしだく。鈴美  
の胸はふにふにと柔らかい。下肢に手を入れ、舌で傷を、片手で頂を、もう一  
方の手で花芯をいじった。待ちきれないのか、とろとろと、愛液が溢れてゆく  
のが分かった。  
 
 「ろ、露伴ちゃん。も、もう……!」  
 顔を紅潮させ、瞳を涙でいっぱいにして、鈴美が僕の方を見つめてきた。  
 僕は乱雑に服を脱ぎ捨てると、そのまま後ろから――鈴美のものを、貫いた。  
 ぐち、ぎちと、僕らのものは交じり合った。僕は彼女の身体を引き寄せ、チュ、  
チュ、と、彼女の傷ついた背中にキスをした。鈴美は華奢な肩と、腕で、自分  
と圧し掛かる僕の体重を支えながら、甘く甲高い嬌声を上げた。気づいている  
のか、いないのか、彼女自身も僕に合わせて腰を振っていた。  
 僕の汗が、彼女の小さな背中に落ち、僕は高まる瞬間に彼女を逃すまいと両  
の腕で抱き寄せ、引き寄せ――うちへと、放った。  
 
 「ん……露伴、ちゃん……」  
 くたり、と身体を弛緩させながらも、背を起こして、鈴美は僕の方を見つめ  
てくる。顔は完全に上気し、ぷくりと唇は紅くふくらみ、色づき、瞳は涙でう  
るんでいる。僕はほぼ衝動で彼女の唇に食いつき、舌を、絡めあう。  
 すっと、身を引いて、鈴美の身体を仰向けに反転させる。僕のものが抜ける  
瞬間、切なそうに瞼が震えるのに、僕は気づいた。  
 鈴美、と、僕は、彼女の名を、呼んだ。呼びながら、僕は彼女のてのひらと、  
ぼくのてのひらとを重ね合わせ、彼女を求め、また、動く。  
 
 側にいたい。  
 離れるのは嫌だ。一緒に居たい。彼女と、ともに。  
 これで、終わりだなんて。僕らの蜜月は御終いだなんて、嫌だ。一緒に居た  
い。叶うならば、黄泉路まで、ずっとずっと、共にいたい。  
 ――露伴ちゃん、と、声がした――  
 
 女は、自分の下で、唇を噛締めながら、泣きそうな顔で、それでもどうにか  
笑って、言った。  
 「大丈夫だから……あたしは、大丈夫。……だから」  
 ふわり、と笑って、鈴美は言った。  
 「だから、泣かないで、露伴ちゃん」  
 
 誰が……と、僕は喉からせり上がった言葉を、飲み込んだ。僕は彼女の手を  
強く握り、肉体を繋ぎながら、ぼろぼろと、子どものように泣いていた。  
 視界が曇っていた。彼女の手が、ゆっくりと、握り返すの僕は感じた。  
 僕と、鈴美の、意識が重なる。  
 僕は狂ったように彼女の名を呼び、彼女は応えるように、僕の名を呼び、僕  
らは互いに混じり、溶け合い、手を、肉体を結び合ったまま、意識だけを、手  
放した。  
 
 目が覚めた。散々泣いてしまったせいか、瞼が少し痛かった。鈴美は既に起  
きていたらしく、僕の下で、妙に神妙な顔で縮こまって、小さくなっていて、  
そういえばまだ、彼女のなかに挿れたままだったことに気が付いた。  
 身を起こし、ゆっくりと彼女から引き抜く。その時ごぷり、と、僕のものと  
彼女のものが、一緒になって溢れ、シーツを汚した。  
 
「すまない。重かったろう?」  
 問うと、彼女は固まっている。どうした? と、再度声を掛けると、あ、あ  
のね、露伴ちゃん! と、彼女は言った。  
 
 「し、シーツがカピカピなのッ! す、凄い匂いなの!! な、なんでッツ!?」  
 僕ははっと、気が付いた。見れば確かにその通りだった。彼女の肌には、う  
っすらと僕がつけた痕があった。あぁ、うん、まぁ、そういうモンだからなと、  
僕は驚きで思わず、そんな間の抜けた返事をした。  
 
 「匂いは換気すれば良いと思うぜ?」  
 そう告げると、そうね! と、鈴美はシーツを身体に巻きつけて、ベッドか  
ら立ち上がった。そして、次の瞬間、真っ赤になって、座り込んだ。  
 「……どうしたんだ?」  
 「ろは、露伴ちゃん! 露伴ちゃんのが、ドロって、ドロって今ッツ!!」  
 言いながら、ぐず、ぐずっと鈴美は涙目になった。僕、は。  
 鈴美には本当に、まぁ申し訳ないが正直、嬉しくて、この部屋が僕と彼女の  
ものになったのが嬉しくて、くつくつと笑って、しまいには大爆笑して、腹を  
立てた彼女から、枕でばすばす叩かれた。  
 ひとしきり大笑いしたその後に、彼女をぎゅっと抱き締めて、そのままベッ  
ドに横たわった。  
 
 「見て、露伴ちゃん。お外に虹が掛かってる……」  
 
 窓を見遣っての呟きに、僕はひとつ、微笑んだ。  
 
 
[ 9 ]  
 
 あたしは此処で、待ってるねと、『境』の手前で、鈴美は言った。  
 「なんだ、一緒に来てはくれないのか」  
 うん。今日は送れないの、と、彼女は言った。  
 「露伴ちゃん……『後ろを振り向かないで、進んで』ね……?」  
 囁くように、鈴美は言った。分かっていると、僕は応えた。  
 「そうだ……鈴美、君、ピンクのマニュキアは、止めた方が良い。今言って  
も無理かもしれないけれど、今のうちから、言っておくよ」  
 
 僕がそう言うと、鈴美は一瞬きょとんとした顔を浮かべたあと、破顔した。  
 「そうね『肝心なところで本当の恋を逃す』だなんて、真っ平御免ですもの。  
でも、あたし、占いなんて信じてないの。恋を逃したつもりなんて、全く無いわ」  
 「奇遇だな、僕もだ。『女の子にフラれる』なんて、思っちゃいないさ。  
『女の子と結ばれる』なら、自覚はあるがね」  
 二人して暫く睨み合い、次の瞬間、吹き出した。  
 
 「行ってらっしゃい、露伴ちゃん」  
 「ああ……行ってきます、鈴美……」  
 
 『境』を抜け、闇路を抜け、僕は光に、辿り着いた。  
 
              ・  
              ・  
              ・  
 
 はぁと、空中への吐息が白く流れた。コートの身を、震わせる。堤防の上で  
待っていると、露伴先生! と声がした。康一君だった。  
 「すみません! 待ちましたか?」  
 と、康一君は真っ白いふわふわなマフラーと、これまたお揃いの真っ白い手  
袋で、僕に缶コーヒーを差し出した。道行く途中で買って来たらしい。気の利  
く少年だと、僕は改めて彼に感心した。  
 「いや、僕も今来たところだ。……ム、偉いな康一君。きちんとブラック無  
糖じゃないか」  
 「だって前に僕が砂糖入りの買って渡したら、露伴先生メチャクチャ怒った  
じゃないですか。同じことやって怒られるのは嫌ですから」  
 そう言って、彼は自分用らしい、カフェラテの缶を開けると、こくりと飲ん  
だ。白い湯気が、互いの缶からこぼれていた。  
 少し歩こうと、僕は彼を誘って、堤防の上を歩いた。風が冷たい。冬だった。  
露伴先生、と、後ろから僕を呼ぶ声がした。  
 
 「昨日発売された読み切り描き下ろし、読みました。面白かったです」  
 そうか、と僕は答えた。  
 「あの、召し使いの女の子が主人公として出ていたから、始めはちょっとビッ  
クリしたけれど、とても良かったです。今までの露伴先生だったら、『ドギャァ  
アアアン!』って感じで、あのお話は合わないと思ったけれど、優しくて、しっ  
とりしていて、でも、露伴先生らしい、芯の通ったところがあって、素晴らし  
いと思いました」  
 
 フン。と、僕は鼻で答えた。当然だ、僕は、岸部露伴だぞ、と。  
 「……とても面白かったから、由花子さんにも薦めてみました」  
 「あの女に、僕のセンスが理解できるか、疑わしいものだな」  
 「『あの男にしちゃ、いいお話を描くじゃない』って、言ってましたよ」  
 「……どういう意味だい、それは……」  
 
 「褒めてるんですよ。だって由花子さん、露伴先生のこと嫌いだし、少年漫  
画なんて、読まないもの。『意外ね。丁寧に、話も絵も描けるんじゃない。ち  
ょっとばかり見直したわ』って。これって、由花子さんにしては最高の賛辞で  
すよ、先生」  
 ちっとも褒められている気がしないな、と、僕は答えて、ズッと、音を立て  
てコーヒーを啜った。  
 
 「あのキャラクターって、鈴美さんが、モデルなんですか?」  
 「……何故、そう思う?」  
 「露伴先生にとって、鈴美さんって、あんな感じだったんじゃないかなって  
そう思ったんです。これは僕の想像です。根拠なんて、ありません。僕の想像  
だから、聞き流してくれて、結構です。  
 僕は、あのお話が読めて、凄く良かったです。描いてくれて、有難う御座い  
ます」  
 「別に、君のために、描いたわけじゃない……」  
 「そうですね。それでも、良かったです」  
 
 暫く無言のまま、僕らは歩いた。ひとって、と、康一君が声を上げた。  
 「生まれ変わったり、するんでしょうか? 『魂の量が一定なら、どこかで  
何かに変わらないと、帳尻が合わない』そうでしょう?」  
 僕の漫画の一文を引用して、康一君は言った。  
 
 「想っていれば、出逢えるでしょうか? 僕ら、また、『彼女』と。僕は、  
また、『逢って欲しい』です。『彼女』と」  
 言い、康一君は、じっと僕の方を見つめてきた。本当に、この友人は……と、  
僕は心中感心した。  
 
 「分からないさ。でも、逢いたいって願って、それを作品という形にする  
のは、そのひとの勝手だろう?」  
 それを告げると、なら、良かったです。と康一君は満面の笑みを浮かべて、  
飲み干した空き缶を、近くのゴミ箱へと放り投げた。  
 
 「まぁ……今日は塾の時間も割いて、わざわざ僕に付き合ってくれて、コー  
ヒーの好みも間違えずに買って来てくれたわけだし、今度何か頼みがあったら、  
聞いてやろう。君の願いだったら、辞書丸一冊分の書き込みも、頼まれてやら  
ないことも、ないからな」  
 言って、僕も空き缶をポンと、放り投げた。  
 
 空き缶は『引力』に従い、僕の『想い』に従って、カァンと、ゴミ箱の中に、  
収まった。  
 
 
[ 9 ]  
 
 ルーシー! と、友人の呼ぶ声に、あたしは振り返った。聞いたわよ!?  
と、彼女は血相を変えて、あたしの隣に並んだ。声を潜めて、あたしに問う。  
 
 「婚約したってホント? しかも、あんなに年上のひとと!!」  
 本当よ、と、あたしは答えた。  
 「あんた……本気で言ってるの? だって、あんなに……」  
 「年齢なんて、関係ないわ。あたし、彼のしてくれるお話が好きなの。彼  
の考える世界が好き。彼が好きなの。だから、婚約したの。悪い?」  
 
 悪くは無いけれど……と、友人は言った。何だか苦いものを食べたような、  
顔をした。  
 
 「悪い噂になってるわ。あんたが金目当てで彼に近づいたって。親がそうさ  
せたって。……平気なの?」  
 「あたしは、彼のことを愛してるわ。子どもの戯言だって、周りの人は言うか  
も知れないけれど、あたしはそう思ってる。そして彼は、あたしが大人になる  
のを待ってくれている」  
 じゃあさ、と彼女は、掠れるような声で、言った。  
 「私らとも会えなくなるって、本当……?」  
 本当よ。と、あたしは俯きながら、答えた。  
 「ゴメンなさい。夫に付いて行きたい。出来る限り、力になりたいの……  
当分の間、二年か、三年か……は、会えないわ」  
 「分かってる。各地に行くんでしょ」  
 「……連絡も、多分、取れない」  
 「分かってる。一般人だもんね、あたしたち……」  
 ゴメンなさいと、あたしは俯いた。あたしは、この人たちよりも、あの夫を  
取ったのだ。いいよ、と彼女は言った。そうしてコツンと、あたしの肩に、頭  
を乗っけた。  
 
 「あんた、穏やかそうに見えて、結構意志が強いもんね。良いよ、行ってお  
いで。祈ることしか出来ないけれど、あんたの幸せを、願ってるよ……」  
 
 言い、友人はあたしのことを抱き締めた。ありがとうと、あたしも俯き、抱  
き返した。  
 そう言えばさ、と、彼女は言った。  
 
 「あんた、ピンクのマニュキア、止めたんだね。何で?」  
 え? だって……と、あたしは言った。  
 「だって、ピンクのマニュキアは『肝心なところで本当の恋を逃す』って、  
言うじゃない。だから、止めたの」  
 「何それ? 誰に聞いたの?」  
 言われて、はて、誰だっけ? あたしも思わず小首を傾げた。誰かは思い出  
せない。ただ、誰かから言われて、嫌だなと思った。そうした記憶はあるのだ  
が、それが何時の頃だったか定かではない。うんうん頭を悩ませていると、あ!  
と友人が空を指差した。あたしも思わず歓声を上げた。  
 「わぁ……お外に虹が掛かってる……」  
 
 「お外に」って、変ね、ルーシー。「お外」じゃなくて、「お空」でしょう?  
と言う友人の言葉に、自分でも可笑しいなぁと思いながら、あたしは「お外の虹」  
に眼を細めた。  
 
 
----------------------- 終 -----------------------  
 

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