それは去年の夏。蒸し暑い、ある夜のことだった。
にわかに信じがたいことだが、あの出来事は決して夢ではない。
僕の名は岸辺露伴。杜王町に住む漫画家だ。
一昨年、1999年にはこの街を脅かす殺人鬼を巡ってのいざこざに巻きこまれたりもしたが、それから一年がたったこの時は、以前と同じように平和な日常を送っていた。
ちょうどその頃、連載漫画の新章がスタートしたばかりだった僕は、連日熱中して原稿を書き溜めていた。
もう十分すぎるほどかいてはいたのだが、その夜もいやに筆がのっていて、
結局夜遅くまで執筆は続いた。
夜半過ぎ、僕はそろそろ寝ようと机を離れ、ベッドに入った。
目を閉じ、眠気がやってくるのをじっと待ったが一向にそれが訪れる気配はない。
じわじわと纏わりつくような空気が気に障った。僕は夏が嫌いだ。
寝苦しさを振り払うように勢いよく寝返りを打つ。
と、その時、かすかに背後で物音がした(ような気がした)
「…なんだ?」
体を半分起こし、振り向いて窓の方を見やったが、そこには夜の闇が広がっているだけだ。
去年の一件以来、こうした細かいことにもつい反応してしまう。
僕は軽く舌打ちをすると、再びベッドに体を横たえた。
しかしその直後。
(…ちゃん)
「なんなんだ!」
今度は声まで聞こえる。か細い女の声だ。
(…はんちゃん)
「どこだ!」
気配は感じないがスタンド使いかもしれない。僕はとっさに身構えると部屋をぐるりと見渡した。
(露伴ちゃん)
背後から、今度ははっきりと、確実に声が響いた。
何?露伴ちゃんだと?…まさか。
だがこの僕をそんな馴れ馴れしい呼び方で呼ぶのは知る限りひとりだけだ。
なぜ?そう思うより先に、僕は振りかえっていた。
月灯かりが射し込む窓の下、彼女は立っていた。
いや、浮いていたと言うべきか。
「ひさしぶりね、露伴ちゃん」
驚愕の余り何も言えずにいる僕に構わず、彼女は続ける。
「元気にしてるみたいね」
まるで出先で旧友に会った時のように気軽に言うその様子に、僕は戸惑いを覚えた。「なぜ」彼女が「ここ」にいるんだ?
あの日皆に見送られて、確かに逝ったはずの彼女がなぜ?
「露伴ちゃん、どうして私がここにいるのかって思ってるでしょ?」
ごく間近で声がして、僕はびくりと肩を震わせる。
考え事をしている間に移動したらしく、すぐ目の前に彼女がいたのだ。
全部お見通しだとでも言うように、上目使いで僕の顔を覗き込んでいる。
「ああ、思ってるよ。なぜ君がいるんだ?とっくに成仏したはずだろ?
それとも忘れ物でもしたかい?」
ようやくいつもの調子を取り戻した僕は、一度にそう捲くし立てて一呼吸置いた。
ちらりと横目で反応を伺うも、彼女の様子に変わったところはない。
――馬鹿馬鹿しい。
ちょっと冷たかったか、などと一瞬でも思ってしまった自分に腹が立った。
「そういうわけじゃないんだけど今はお盆だし、露伴ちゃんどうしてるかなと思って」
「………」
僕は再び絶句した。もう二度と会えないと思っていた。僕が死ぬ、その日まで、二度と会えないのだと。
なのにちょっとそこまで来たから寄ってみた、みたいな言いようをされると拍子抜けしてしまう。
「…とにかく、僕は今から寝るところなんだ。邪魔しないでくれるかな」
なんとなく面白くなくて、そっけなく言い放った。
今度こそ彼女は傷ついた顔をするだろうか。
しかし彼女はまたしてもそんな僕の予想を裏切り、とんでもないことを言い出した。
「じゃあ、露伴ちゃん、一緒に寝る?」
「…………何だって?」
「だから、一緒に寝てあげようと思って」
彼女は自分の言っていることにいささかの疑問も抱いていないようだった。
困惑する僕に更に追い討ちをかけるように、あっという間にベッドの上に陣取ると、催促するように2、3度マットを叩いた。まるで母親が夜更かしする子供を寝かしつけるような仕草だ。
「どうしたの?露伴ちゃん」
どうしたもこうしたもなかった。
突然、いなくなったはずの杉本鈴美が現われ、あろうことかこの僕に添い寝しようだと?
彼女にとってみれば、僕はいつまでも「お隣の露伴ちゃん」なのだろう。
僕と彼女とに流れた16年間の歳月は決して同じものではない。たとえ何年経とうと、彼女の時間は止まったままなのだから。
とはいえこのままペースを乱されっぱなしなのはどうにも面白くなかった。
――ここはひとつからかってみるか。
「いや。そうだな。そうしようか」
僕は自分の悪い癖が疼き始めるのをひそかに感じていた。
僕のひそかなたくらみなど微塵も感じていない様子で、杉本鈴美は僕を隣に招いた。
「じゃ、露伴ちゃん横になって」
そう言うと自らも体を横たえようとする。
――やれやれ。子守唄でも歌おうってのか?
なんとなく苛立った気分になったがここは素直に従っておくことに決め、僕は渋々ではあるが彼女に倣ってベッドに体を沈めた。
さて、これからどうやって一泡吹かせてやろう。彼女に背を向けながら、僕はそんなことを考え始める。
とりあえず何か話しかけてみるか、と声を発しようとしたその時、
「露伴ちゃん」
彼女に先を越されてしまった。
いきなり気勢をそがれた僕は返事に戸惑い一瞬の沈黙を作り出す。
「もう寝ちゃったの?」
「寝てやしないよ」
あからさまに不機嫌な口調に、彼女が一瞬だけ怯むのを感じた。
しかしすぐに元の明るさを取り戻し、矢継ぎ早に色んなことを話しはじめる。
彼女が僕に親愛の情を示しているのはわかる。僕にしても彼女のことが嫌いなわけではない。
なにせ命の恩人なのだ。だがなぜか、素直に受け入れるのは抵抗があった。
なんとなくはねつけたくなるのはなぜだろう。
「そうだ、露伴ちゃん覚えてるかしら。あの時の約束」
それまで片方の耳で聞き流していた声のトーンが少しあがる。
約束だって?馬鹿馬鹿しいと思いつつ、僕は少しだけ彼女の話に神経を集中した。
「露伴ちゃん私のことお嫁さんにしてくれるって言ったのよ」
「はあ?なんだって!?」
意識だけは傾けつつも相変わらず背を向けたままだった僕は、そのとんでもない言葉に思わず振り返った。
「私が高校に入学したばかりのころだったかしら。露伴ちゃんって随分おませだったのね」
くすくすと笑いをこぼしながら彼女は語る。懐かしそうに遠くを見ながら。
一方の僕は驚きから一転して拍子抜けしていた。
よくよく考えれば当然のことだが彼女の言う約束とは遥か昔に交わされたものだったのだ。
十数年前、僕が子供のころ、――彼女もまだ生きていたころのことだ。
「――そんな昔のこと忘れたね」
本当は微かに覚えている。
ご多分に漏れず、「お隣のお姉さん」は幼い僕にとっては憧れの対象だった。
それは当たり前の通過点であり、淡い思い出として残るものにすぎない。
けれど彼女は今もあの頃のままの姿でここにいる。
「そうよね。露伴ちゃんも大人になったんだもんね」
顔は笑っているけれど、とても寂しそうに彼女は言った。
「そうさ。もう大人だ」
少なくとも目の前のか細い少女を抱きしめることができるくらいには。
僕はそっと彼女の体を抱き寄せる。人間の体とはどこか違う、けれどぬくもりはたしかにあった。
そう体格がいいというわけではない僕の腕の中にもすっぽりと収まってしまう。
「露伴ちゃん?」
事態を把握していないのか、どうしたの?とでもいいたげに、上目遣いに彼女が僕を見た。
なんとなく、衝動的に抱きしめてしまったもののそれでどうしようというのだろう。
普通に考えればこのあとどうするかなんて決まっている。
だが彼女は。杉本鈴美は『すでにこの世にはいない人間』、平たく言えば「幽霊」だ。
すでにこの時、僕はどうかしていたのかもしれない。
結論から言えば、この日僕は「何事も経験だ」などという、およそ上出来とは言えないいいわけを胸に、彼女を抱いたのだ。
「…あの…」
ややあって、ようやく彼女の口に言葉らしきものが昇った。
同時に、それまで感電したように動かさずにいた体もわずかによじらせる。
ほぼ無意識の内の行動だったがその時、僕もようやく我に返ったような気がした。
その無言の訴えに促され、腕の力をゆっくりと和らげると、彼女は遠慮がちに僕の体を押し戻す。
頼りない月明かりに映し出されるその表情は、緊張と戸惑いに満ちていた。
どこへ向けたものか、迷う視線がやがて僕を捕らえる。
「あのね、…私…」
――そんなつもりじゃなかったの?
次の瞬間には飛び出すだろう言葉を、とっさに思い浮かべて苦笑した。
何を血迷ってるんだ僕は。
しかし、先走る僕の思いとは裏腹に、予想とは違った言葉を彼女はつむいだ。
「露伴ちゃんの…したいようにしていいから」
「……」
「それに…私もね、ここにいるって『実感』が欲しいの」
そう言って、今度は自ら僕の胸に顔を埋めた。どうやら次は僕が驚く番のようだ。
先ほど触れた、不思議な温もりが、再び僕を包む。
行き場を失ったまま宙に浮いていた両腕を、その小さな背中にしっかりと回した。
そのままゆっくりと、覆いかぶさるように体をベッドへ横たえていく。
唇を塞ぎながら、白いワンピースから伸びる長い脚に手を滑らせた。
指先が太腿を辿ると、体が一瞬ぴくりとはねる。
僕はきゅっと目を閉じて耐える彼女の首筋に吸い付くと、白磁のように白い肌のあちこちに紅い跡を付けていった。
「…やっ」
吐息と共に声が漏れる。抵抗するそのそぶりに、僕は知らず加虐心を煽られていた。
鎖骨から胸元にかけて舌を這わせ、同時に手は服を脱がせにかかる。
器用に中に手を差し込み、ブラジャーに手をかける。
ここでも彼女は逆らってみせたが、構わず、あっという間に片手で取り去ってしまった。
もうほとんどボタンの開いた胸元はあらわになっており、形のいい小ぶりな膨らみがそこにあった。
「露伴ちゃ…」
「今さら、だろ?」
隠そうとする手をあっさり捕らえるとばんざいの形で固定させた。
あまった片手でピンク色の突起を弄ぶと一段と大きく彼女は体をくねらせる。
「っ…」
抗議されるその前に、ぶつけるように強引に唇を重ねた。
歯列をねじ割って、無理やり舌を絡めとると、ついに観念したのか、少しづつではあるがそれに答え
始める。
そういえば、初めて会ったとき(正確には違うのだが)僕は色々と彼女のことを読んだ。
中にはディープキスがどうとか言うのもあったはずだ。
あんなことを読んだと彼女が知ったら怒るだろうな、なんてくだらないことが頭をかすめた。
同時に、形容しがたい暖かい気持ちがどこかに染み渡るのを感じた。
「…鈴美」
おそらくは初めて、彼女の名を呼ぶ。
名残惜しそうに糸を引く唇を離し、肩に、胸に口付けながらワンピースの肩口をずらす。
そのときだ。はじかれたように、彼女が僕を突き飛ばした。
「ダメっ!!」
いやに強い語調に僕は思わず怯んだ。
かなり強引に事を進めていたにもかかわらず、はっとさせられるほど強い否定を彼女は示した。
「…………どうしたんだよ」
尋ねても黙ったまま答えようとしない。見ると両手で体を抱くようにして、小刻みに震えている。
「…なぁ、何が…」
触れようと手を伸ばすと、びくりと肩が揺れる。
ひっこみがつかなくなった手を、頭の後ろに持っていき、なんとなく髪を梳く。
「…ごめんね…」
初めは彼女の行動も、ごめんねと言う言葉も理解できなかった。
だがすぐに合点がいった。
背中だ。
吉良に付けられたあの傷跡。
一度だけ見たことがあったが、忘れようにも忘れられないものだった。
ふいに胸がチクリと痛む。
事実を知ったあの日から、心のどこかに住み着いていた痛みが、思い出したように疼きだした。