無機質な部屋の中。
目の前で立ち止まった今泉の顔を、洋子はただじっと見上げていた。
鷲のような眼。浅黒い肌に刻まれた細く鋭い傷痕。
口元には僅かに笑みが浮かんでいるのに、その奥の感情を読み取る事の叶わない、彫り深い男の相貌。
洗練された男らしい面差しは、どこか神宮寺と似たものを感じさせる。
だが、気配が違う。気性の荒い若衆達を従える極道の若頭に相応しい威圧感を、今この時も完全には打ち消せはしない。
これまで様々な男の相手をしてきたが、これほど存在感に満ちた男性はいただろうか、と洋子は自問する。
彼と同業らしき客は何人かいた。しかし、体の内側から滲み出ているようなこの覇気とは、おそらく比べようがない。
そんな男と今、洋子は二人きりで向き合っている。探偵助手と上司の知人という普段の間柄でなく、一人の男と一人の女として……
ぞくりと刹那、洋子の身に震えが走った。
畏怖からくるものだろうか。あるいは本能的な喜びによるものか。
「……今泉さん、は」
心中の疼くものに気付かれまいとするように、洋子は口を開いた。「どう思われましたか?」
「何をです?」
低く重い声が、洋子の耳に入る。問いかけの言葉ではあるが、答を分かりきっているかのような穏やかな声音だ。
「あの店での私の事を知って……」
決まり悪そうに語尾がよどむ。使い分けていた二つの顔を知る男を前にしているのだから、無理もない。
「……夜の仕事をしてる女は、この街には数え切れないほどいます」
洋子の問いから少し後、今泉は言いながら彼女の隣に腰を預けた。
風俗嬢とヤクザ。ベッドに並んで座る二人。
連想される事の中に綺麗なものなど微塵もないが、嫌悪や恐れを感じる事はない。
そのような清い心身でない事は、自分が一番よく分かっている。
一体いつから、この感覚に慣れてしまったのだろう。
自身を省みて苦く微笑む洋子の傍らで、今泉は言葉を続ける。
「抱える事情は様々でしょうが、自分の意思でやってる女が欲しがってるものは、大概決まってます。金か、男か、あるいは……」
今泉は顔を洋子の方へ向けた。目付きこそ鋭いが、眼光の強さはいくらか薄らいでいる。
「貴女もそいつらと同じ。ただそれだけの事です」
同じ──そう言う今泉の声に、侮蔑や同情の響きはない。
夜の世界や裏社会。真っ当に生きている人間には知り得ない世界の事をこの男は知り尽くし、おそらくそこに生きる者達の考えを尊重している。
故にそういった場所の住人をむやみに踏みにじったり、哀れんだりはしないのだろう。
「まあしかし」
洋子の顔にほのかな安堵の色が差したのを見計らったように、今泉は口を開いた。
「いつ、何がどう転がるか分からない世界だ。やはり、貴女のようなお人がいていい所じゃあない。もっと御自分を大事にしてやるべきです」
真剣な眼差しと言葉に諭され、胸の奥がじわりと熱くなる。
満たされない想いがあった。
それを忘れさせて欲しくて、風俗の仕事で自身を満たそうとした。
金を得る為だけの副業ならば、こんな仕事でなくても良かった。そんな事は最初から分かっていたのだ。
溜め込み続けてきた気持ちを紛らすには足る仕事だったが、渇きを癒やすには遠いものだった。
それもその筈。自分を偽って得るものに、心が満たされる訳がないのだから。
しかし今、洋子は胸中に染み入るような温もりを覚えていた。
誰かに、自分の事を思ってもらえる喜び──仮染めの娯楽と、どちらが本当に大切にするべきものなのか。答は分かりきっていた。
「……今泉さんのおっしゃる通りです」
洋子は姿勢を正すと、今泉に深く頭を垂れた。
「よく考えもしないで、ああいう仕事を選んだりして……軽率でした」
俯く彼女に、少しだけ柔らかめな声が届く。
「余計な世話かとも思いましたが……」
「そんな事はありません」
遠慮がちな言葉を、洋子は首を振ってさえぎる。
「こうして止めて頂いていなかったら、私……」
──今泉が危惧したような状況にまで、いずれは陥っていたかもしれない。
そればかりか、下手をすれば裏社会にも顔が知れている神宮寺にまで迷惑をかける事にもなりかねない。
副業自体は、確かに彼には関係のない事だ。
だが、だからと言ってそれを切り離した見方をしてくれる程、この街は甘くはない。
「店の方にはアタシから話をつけときます。もう顔を出さなくて良いですよ」
「え……でも」
今泉が既に店主と交渉済みである事を、洋子は知らない。戸惑う彼女に今泉は告げる。
「あの辺りもウチが面倒を見てる店が多いんでね。その方が手っ取り早いでしょう」
それでも洋子は逡巡している様子で、物言いたげに今泉の顔をじっと見つめる。
自分で決めて始めた事なのだからこれ以上気を遣わせたくない、という事なのだろう。
その頑なともとれる態度に、今泉の頬が僅かに動く。
気分を害した訳ではない。自分に食い下がる堅気の女など滅多にいないものだから、思わず笑ってしまいそうになったのだ。
そういえば、と彼女と出会って間もなかった頃の事を思い出す。
護衛役を頼まれた自分を怪我をしているのだからと怒って帰そうとしたり、あの神宮寺を反論も出来ぬ程の剣幕で叱りつけていたのが、今まさに目の前にいる女だった。
普段はあんなにもおとなしく、気の強さなどかけらも見当たらないというのに、全く女という生き物は分からない。
……ますます興味が湧いてくる。このたおやかな身の内側に、どんな艶姿を秘めているのか。
「……では、条件付きならいかがでしょう?」
男の内心を知らぬ洋子は、不意の提案に目を瞬かせる。
「条件……?」
意図が分からず問う洋子の顎を、男の無骨な指先がとらえた。軽く持ち上げ顔を上向かせ、互いの視線を重ねさせる。
「いっ……今泉さん」
あまりに突然すぎる行動に高い声を上げる洋子。
構わず顔の距離を縮める今泉の表情は変わらないが、目の輝きが少し強まっている。
「まだアタシの質問に答えてないじゃないですか……リョウコちゃんは、何がお好きなんです?」
「その呼び方、もう……」
「今夜はまだ何も仕事をしてないでしょう。物足りないんじゃあないですか?」
洋子の肩が強張る。
確かに今泉が言うように、今日はまだ誰の相手もしていない。
しかもこれで終わりにしようと決めたばかりだ。全く名残りがないと言えば嘘になる。
「アタシが最後の客じゃあ役者不足ですか?」
「そういう訳では……でも……」
心底困り果てた様子で眉根を寄せ、彼女は目を逸らした。「今泉さんからお代を頂くなんて……」
「条件付きで、と言ったでしょう」
言いつつ口端を歪ませ、にやりと笑った。普段彼女に向けていたそれとは異なる笑みだ。
「今夜一晩相手してもらえたら、金を払う代わりに店のモンと話をつけて差し上げる。そういう事です」
洋子の瞳が再び今泉に向けられ、ぱちぱちと瞬いた。
しばし固まったままだったその顔が、少しばかり不満げにしかめられる。
「……なんだか、一方的なご提案ですね」
洋子からしてみれば、そう考えるのも無理はない。
今泉も、それを承知の上で言っているようだ。変わらず落ち着いたままの態度を見れば分かる。
「でも、貴女は断らないでしょう?」
「どうして、そう思われるんです?」
顎を掴んでいる男の指が、そろりと肌を撫でた。
「夜の仕事はもう終い……だが、まだ貴女自身、満足出来てないからですよ」
反論の言葉は、頭の中のどこにもなかった。
隠し続けてきた自分を知られ、心根に潜む欲を刺激された今、自制など無意味に等しい。
思い悩んでいた事、今も抱えている気持ち……それら全てが、この男性には見透かされているような気がしていた。
だから、期待している。求めても満たされなかったものを、この男性なら与えてくれるのではないか、と。
洋子の手が上がり、その指が今泉の頬をすうっと撫でた。
指先は僅かに震えながらも頬骨の辺りを柔らかくなぞり、これより先の行為を厭わぬ事を示している。
「私こそ、今泉さんのお相手には不足かもしれませんけど……」
──その手の供給に事欠かない歓楽街の店舗のナンバーワンが、何を謙遜しているのか。
今泉は内心で笑ったが、洋子は本気でそう思っているらしく、やや緊張した面持ちで顔を彼の首元に寄せつつ、シャツのボタンを外していく。
厚い肌に唇ではむようなキスを何度か施していくが、赤みすら残らぬささやかなものだ。
遠慮がちな愛撫が露わになった胸板に行き着いたところで、今泉は苦笑混じりに告げた。
「アタシには特定の女とかはいませんから、そんな加減は無用ですよ」
返答代わりに薄く笑みを零し、洋子は指で男の硬く締まった胸を優しく撫でながら、乳首に甘く吸い付く。
唇と舌先を使って適度に刺激を与え、空いている方を愛撫する事も忘れない。大概の男は、これに気を良くしてだらしなく顔を緩めたものだ。
今前にしている男の反応は殆どないが、僅かに動く胸筋などを見るに、全く感じるものがないという訳ではないらしく、洋子は胸中で安堵の息をついた。
うなじに這う男の手の動きにこそばゆそうにしながら、洋子は頑強そうな肌に頬と掌で触れる。
不自然な膨らみや人肌のそれと違う感触の箇所に目を向けると、普通に生きていたなら目にする事すらないような傷痕が、いくつか刻まれていた。
堅気でない男の体も見てはきたが、取り分け物々しく映る。薄れているものばかりではあるものの、かつて幾度もの修羅場をくぐり抜けてきた事は明白だ。
初めて出会った日、自分を庇って銃弾を受けたその身で、一人で病院へ行ってしまった事もあった。
男の懐への愛撫を重ねながら過去の事を思い返し、洋子は改めて気付く。この人はやはり、様々な意味で普通の人間とは異なる人生を送ってきたのだと。
「ん………」
顔を上げると軽く頭を持ち上げられ、今泉の唇が洋子のそれに触れた。
応えるように温もりを押し付け、舌で乾いた唇をぬるりと湿らせる。
隙間に割り込ませて口内までなぞると、舌の表面に苦みを感じた。煙草の名残りだろう。
煙草混じりのキスの味にはもう慣れたが、それを味わう度に、神宮寺の事を考えている自分がいるのが分かる。
いつだったか、彼と同じ銘柄の煙草をよく吸うと言っていた客がいた時など、深い口付けを交わしながら想像していた。
彼の唇もこんな味がするのだろうか、と。
意識が過去へ飛んでぼんやりしかけていた事に気付き、ふと今泉の表情をうかがうと、じっと彼女の目を見つめていた。
唇を一時離し、問い掛けの念をこめて見つめ返すと、響く声音に僅かばかりの愉悦を含ませ、言った。
「……誰の事を考えていたんです?」
──見通されている。
「神宮寺は関係ない」などと言っておきながら、今も彼の事を考えている事を。
しかし、洋子はもう戸惑いを覚えはしなかった。
先程感じていたように、この男はとうに分かっているのだ。彼女が風俗業などに手を出した理由を。
「……………」
今泉の肌の上を絶えず滑っていた洋子の手の動きが止み、その顔がゆっくりと俯いた。
やがて彼の胸に額が擦りつけられ、小さな吐息が漏れる。
「……よく、分からなくなってしまったんです」
ぽつりと零したその声は力無く、囁きのようであった。
「私が想っているだけで、分かってもらえなくてもかまわないと思っていたんです……なのに」
「踏ん切りがつかなくなった、と」
頭上から降る声は、思いのほか柔らかかった。洋子はこくりと頷く。
「とても優しいから……時々、勘違いしてしまいそうになって」
またひとつ、消え入りそうな溜め息が落ちた。
おそらく──と今泉は考える。
神宮寺の中で割り切れないでいるところがあるのだろう。
その為普段接している分にも煮え切らないし、はっきりと距離を置く事も出来ないでいる。
彼女もそんな半端な形で接されては、諦めきれない。
勘違いなどと言っているところを見るに、彼の気持ちに気付いてはいないのだろう。
代わりに伝えてやってもいいかとも思うが、そこまでお人好しではない。
何よりそれは、自分の役目ではないはずだ。
「違う名前を名乗って、違う自分を装って……忘れられたらいいと思っていたんですけど」
上手くいかなかった、と曖昧に洋子は笑う。
穴埋めの娯楽など、所詮は一時のごまかしにすぎない。それでも──
「慰めにはなっていたんでしょう……? だからやめられなかった」
洋子は俯いたまま答えなかったが、今泉は構わなかった。
──最後くらい、せめて気休めよりはマシな思いを。
そう心で呟くと、今泉は彼女の体を離し、ベッドに横たわらせた。
「あ……え、今泉さん?」
「攻められるばかりってのは性に合わないんでね。こっちも楽しませて下さいよ」
するすると脱がせたブラウスの内側から現れたのは、仕事用の黒いブラジャーだ。
反射的に隠そうと洋子は腕を動かしかけたが、動きはびくりと固まる。
──何を、今更。
心中で誰かが、乾いた笑いを零した。
今まで散々見ず知らずの男達に肌を晒してきたというのに、この期に及んで何を迷っているのか。
風俗の仕事も、最初こそ気の乗らぬ副業だったが、次第に愉悦さえ覚えていたというのに。
刹那強張った表情は落ち着きを取り戻し、持ち上がっていた洋子の腕が静かに降ろされる。
その変化を見ていた今泉が、手を止めて告げた。
「無理強いはしません。嫌ならすぐにでもやめます」
相変わらずの低い声だが、脅すような響きはない。拒めば彼は本当にやめてくれるだろうし、それを責めもしないだろう。
だが、洋子は薄笑みと共に答える。
「大丈夫です。脱がせられるの、慣れていなくて……」
少し驚いただけ、と言うと今泉に続きを促した。
「リョウコちゃんが? それは意外ですね」
源氏名で呼んでみせる辺り、彼女の本心は見通しているだろう。下着の黒によく映える白い肌に手を乗せつつも、それ以上はまだ動かさない。
それも分かった上で、洋子はにこりと微笑む。
「自分で脱いで見せるのも、お仕事でしたから」
彼女はブラジャーのホックを外し、そっとそれをずらした。その動作に躊躇いは見られない。
それを確認すると、今泉は徐々にその手の力を強め、女の肌を揉みほぐしていった。
乳房を掴んで捏ねる手は、強すぎない力で膨らみ全体に感触を刻む。
硬さを増した突起を弄る指先も、押し潰さぬ程度の細やかな動きでこりこりと擦り、刺激する。
これまで洋子が受けてきた、求め味わおうとするだけのものとは、明らかに異なる感覚だった。
優しいと表現するような愛撫とは違うが、欲望のままに押し付けるものからは程遠い。
五指の丹念な動きで反応が変わる部位を探り当て、感じやすいよう加減して撫で摩ってくる。
女を慰める事に慣れている男の手だ。
自分の方がこの人に相手をしてもらっているようだ、と洋子は心地よさに浸りながら思う。
あるいは、そもそも最初からそうだったのか。
今夜あの店に彼が訪れたのは、言うまでもなく洋子に風俗業から手を引かせる為だ。
相手をしてほしいなどというのは彼女の後始末を肩代わりする為の口実に過ぎないし、今泉なら女に不自由してもいないだろう。
……かなわない。
緩やかに身を包む官能に息を震わせながら、洋子はそう思った。
素肌が火照りによる赤みにいくらか染まると、今泉の手は彼女の胸から離れた。
そして今度は膝から腿へと掌でなぞり、スカートの内側に潜り込ませてくる。
内腿の柔らかい肉を指の腹でまさぐられ、時折洋子の体はぴくぴくと震える。
「触られるのも、慣れてないんですか?」
喉の奥から笑いを漏らしつつ、今泉が問うてきた。
ぼんやりしてきた頭ではどう答えて良いか分からず、洋子はゆるゆると首を振るだけだ。
もちろん慣れていない訳ではない。こんなにも心地のよい愛撫を、身に受けるのが久しかったのだ。
下着の布地までたどり着いた指先が、微かに湿った中心を割れ目に沿って何度か擦ってくる。
「んん……んっ……」
秘唇に隠されていた小さな突起まで指先で撫でられると、洋子は声を抑えきれなくなり、両足をもどかしそうに動かした。
指で触れ続けられていた部分の湿りがじわじわと増し、熱をくすぶらせて疼く。
布越しに指を咥えるように割れ目は動き、抑えきれぬ欲に洋子の顔が恥じらいの朱を浮かべる。
そのさまを見て今泉は口端を笑みに歪めはしたが、焦らすでもなく下着の中に手を入れた。
淡い茂みの下の陰唇は生温かい蜜を滲ませており、触れてくる男の指をぬめらせる。
軽く力をこめただけで、秘唇の中へと招き入れられてしまいそうだ。
「中に挿れても……?」
許可を求める今泉の問いに洋子は内心戸惑ったが、少しの間の後に頷いた。
仕事で触られた事があるのは外側だけで、中まで他人に触れさせた事はない。
それを厭わず受け入れられるのは、心許せる相手だからか。あるいは疼くその身が求めるからか。
入り込んできた指は硬く骨張っており、彼女の指よりも一回り太い。
狭く閉じていた粘膜を拡げ掻きほぐす動きもまた、女をよく知っている男のそれだった。
「く、ふっ……んん……」
きゅっと口を閉ざして堪える洋子の耳に入るのは、熱に溶けそうな自身の息遣いと、秘部から響く淫らな水音。
さらに空いている方の手に先程のように胸を弄られ、快感はとどまる事なく彼女の身体を昂ぶらせる。
「んぅっ……は、あぁ……」
吐息と共に零れる蕩けたような自分の声に、洋子は思わず顔を強張らせた。
達してしまいそうになった。想い人でもない男の手で。
秘所はこれまでの心の奥底の飢えを示すように愛液に濡れ光り、男の指に襞をまとわせている。
自分の意思に関係なしにひくひくと蠢くそこは、指では足りないと訴えているかのようだ。
後ろめたさを覚えてか唇を噛んで声を殺す洋子に気付き、今泉の愛撫の手が緩む。
「我慢する事はありませんよ。辛くなるだけでしょう」
見上げる洋子の目には、まだ迷いがうつろっている。それを拭おうと、彼は耳元で囁いた。
「どうせ今日で最後……でしょう?」
「……………」
洋子はじっと男の眼を見つめ返し、思案した。
やがて逸らされた目から迷いは失せていたが、彼女の表情はますます恥じらいに染まる。
「あの、じゃあ……私だけじゃなく、今泉さんも……」
どうやら、自分だけが満たされる事には抵抗があるようだ。
今泉に断る理由は全くないが、彼女の気持ちを知る分躊躇いはある。本当に良いのかと目で問い掛けると、洋子は小さく笑った。
「今日で最後……ですから」
ゴムに包まれた、指とは比べものにならない熱の塊を秘唇で受け止めて、洋子は喉を反らしてわなないた。
久方ぶりに男を受け入れたせいか、悦び震える身を抑えきれない。
硬くそそり立ったものを飲み込んでは貫かれ、火照った肉壁を擦られ、掻き回される。
体の内でざわめいていた熱を全て吐き出すように、彼女は唇から喘ぎを漏らしていた。
何かに縋りたくて両腕を宙に伸ばすと、逞しい腕に抱き返された。ぐっとしがみついて男の肩に顔を埋め、温もりに浸る。
耳に響く男の呼気はやや荒さを含んでおり、自身の呼吸と重なってますます昂ぶりは増していく。
自分が本当に望んでいたのは、こういう事だったのかもしれない──今更のように、洋子は思う。
自分を理解してくれている誰かと温もりを分け合い、感じ合うような繋がり。
洋子の脳裏に、再び神宮寺の姿が思い浮かぶ。
叶う事なら、あの人と求め合いたかった──
掴みどころのない、想い尽くしても届いているのかさえ分からない、あの男性。
偽りの名と、作り上げた自分。
神宮寺にだけは、知られたくないと思っていた筈なのに。
今ようやく自身の中の気持ちが見えた。本当は彼に、気付いてほしかったのだ。目の前の男性が分かってくれた事を、誰よりも先に。
探して、見つけて、連れ出してほしかった。抱く感情が軽蔑の類であったとしても。
こんなにも想い焦がれている自分がいるのだという事を、分かって欲しかったのだ。
一際激しく膣内を掻き乱されて頂きに押し上げられ、洋子は愛しい男を想いながら、思考を外へと手放していった。
* * * * *
ぱたり、と閉じたドアの音で、洋子の意識は眠りの中から引き上げられた。
目を開き、ぼやけた視界が鮮明になったところで、横たえていた身をゆっくりと起こす。
部屋の外へ続くドアの側に佇んでいる今泉は既に衣服に身を包んでおり、手にしていた携帯電話をポケットにしまっている。
ぼんやりと見つめていると視線に気付き、ああ、と声をかけてきた。
「起こしちまいましたか」
「いえ……お電話ですか?」
「ええ、まあ……」
少し語尾を濁したが、今泉は落ち着き払ってソファーに腰を沈める。
「店には連絡しておいたんで、その辺は全く問題ありません。いくらか名は知れてますから、しばらくはあの界隈には顔出さない方がいいでしょうがね」
「あ……すみません。本当に何から何まで……」
「ナンバーワンのリョウコちゃん相手に、好き放題やらせてもらいましたからね。これくらいの事は」
冗談めかした今泉の言葉に、洋子は頬を赤らめる。
傍らに簡単に畳んで置かれていたブラウスを羽織り、他の衣服を抱えてベッドを降りると、今泉に遠慮がちに尋ねてきた。
「あの……すみません。シャワーをお借りしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ。そこのドアの先です」
礼を言って足早にバスルームへ向かう洋子。初々しささえうかがえるその様に、今泉は微かな笑みを浮かべた。
一服しながら今泉は再び携帯電話を取り出し、液晶を見つめる。
開いたのは発信履歴のページ。一番上には神宮寺の名が表示されていた。
発信時間は七時三十分。つい十分程前のものである。
日頃の疲れもあった為か、洋子はぐっすりと眠りこんでしまっていた。
起こすのも忍びないし、神宮寺にも断りは入れてある。
だが念の為にと連絡を入れてみたところ、起きぬけのような冴えない声で応答が返ってきた。
一目置いている男の聞いた事のない声音に少々驚きつつも用件を話すと、曖昧な返答だけ聞いて通話を終えた。
これほどの効果をあげるとは思っていなかった。今泉は苦笑を浮かべる。
これから先どうしていくかは神宮寺の問題で、今後そこにまで踏み込む事はおそらくないだろう。
そしてそれは洋子にも言える事だ。風俗嬢を辞めた事で、行き場のない気持ちの矛先は失われた。
自分をおとしめるような行為にはもう走らないだろうが、想いを満たせた訳ではないだろう。
だがそれもやはり、彼女自身で向き合うべき問題でしかないのだ。
しばらくしてバスルームから出てきた洋子は既に衣服を纏っており、普段と変わらぬ笑みを今泉に向けてきた。
「ありがとうございました……ところで、今何時頃でしょう?」
「ああ……八時を過ぎましたね」
今泉が腕時計に目を向けて答えると、洋子の笑みが凍りつき、焦りの色を顔に浮かべた。
「大変……早く帰らないと」
「御苑さん?」
問い掛けると、今日は仕事なのだと言う。
今から自宅へ戻って事務所に出勤するとなると、遅刻は免れないだろう。
そう考えたからこそ、今泉は少し前に神宮寺と連絡をとったのだ。彼女は休むかもしれないと。
「今日は休ませてもらったらいかがですか?」
連絡済みだと言う訳にもいかず提案する今泉だが、そうはいかないと洋子は携帯電話を取り出す。
「書類がかなり溜まっているんです。遅れてでも行かないと……」
言いながら慌ただしくボタンを押し、電話を耳に当てる。
「あ、先生。おはようございます」
少し遅れそうだと申し訳なさそうに告げる洋子の表情は、やや気まずげにしかめられている。
真面目そうな彼女の事だから遅刻をした事などなかっただろうし、昨夜の件がやましいのだろう。
「……え? あの、でも……」
戸惑いの声を上げる洋子。焦りは失せたが、明らかな困惑の色が見える。
それから何言か言葉を交わして通話を終わらせた洋子だが、呆気にとられた表情で携帯電話を閉じる。
「何ですって?」
見当はついているが、あえて尋ねてみる。
「今日も休んでかまわないと……」
洋子を気遣ってか。あるいはまだ向き合うだけの覚悟が出来ていないのか。
いずれにせよ、想定通りの答だった。
「なら、ゆっくりしていったら良いでしょう。アタシも今日は大した用事もない」
ソファーにどかりともたれかかってくつろいで見せる今泉。
しかし洋子は頷かない。真剣な眼差しで携帯電話を見つめて、しばし佇んでいた。
ややあって後、洋子はすうっと顔を上げた。その瞳にはもう、惑いはない。
「……やっぱり、行きます」
そう言って改めて身の周りを整えると、今泉に深く頭を下げた。
「今泉さん。昨夜はお世話になりました……本当に」
「礼を言われる事はしちゃあいませんが……」
言葉を返しながら、煙草の火を揉み消す。
「大丈夫なんですか? 本当に」
「はい」
答えて洋子は、すっと背筋を伸ばす。
「先生の助手は、私一人ですから」
助手──そう言う洋子の声音に少しばかり無理を感じたが、今泉はもはや何も言いはしなかった。
「御苑さん」
立ち上がりながら、彼は何とは無しに口を開いていた。
「良ければまた、お相手願えますかね?」
洋子が目を見開いて、今泉を見つめる。
さほど間を置かずに、その目は細められた。
「もう、充分です。ありがとうございます」
気を遣って言っているものと思われたらしい。
その誤解に、今泉は軽く安堵していた。
「では、お邪魔しました」
「ああ、送りましょう」
「助かります」
部屋を出ていく洋子の顔は、迷いを吹っ切った女のそれとなっていた。
それを見届けると、今泉は口元に満足そうな笑みを零しつつ、部屋のドアに鍵をかけた。