――さて、行くとしますかね  
 
新宿の繁華街、雑居ビルの一角にある一件の風俗店に今泉は足を踏み入れた。  
いかつい顔の店長らしき男が近づいてくる。  
一般人の客に聞こえないよう配慮し、小さく挨拶をしながら耳元でささやく。  
「これは、明治組の・・・。今日はどうなさいました?」  
「ここにリョウコという女がいるな」  
「ええ、当店のナンバーワンですよ。ご指名ですか? さすがにお目が高い。」  
「そいつはアタシの身内だ」  
男の顔がさっと青ざめる。  
「ま、まさか若頭の・・・・・・」  
店長は震えながら小指をおそるおそる立てた。  
誤解されたようだが、さっさと用事を済ませたい。今泉は男を促した。  
「・・・まあ、そんなところだ。連れて帰らせてもらう。案内しろ」  
 
案内している間、男はすっかり恐縮しきってぺこぺこと頭を下げていた。  
「もういい。それよりリョウコの情報は今後一切漏らすな。  
・・・いや、最初からいなかったことにしろ。お前の頭の中からもだ。履歴書や写真もすべて破棄させてもらう。  
もし守れない場合はどうなるか・・・分かっているだろうな?」  
「ひっ! お、お約束します。ですから何卒・・・」  
部屋の前に着くと、男が中の女に声をかけた。  
「リョウコちゃん、お迎えの方が来たよ」  
振り向いた女はまぎれもなく神宮寺三郎の助手――御苑洋子だった。  
洋子は何が起こったのか分からず呆然としている。  
 
――すみませんね、御苑さん。詳しい説明は後回しです。  
 
今泉は軽く息を吸い込み、洋子を怒鳴りつけた。  
「行くぞ・・・さっさと支度せんかい!」  
洋子はびくんと体を震わせ、そそくさと身支度を整え始めた。  
その顔は恐怖に青ざめている。  
 
――とにかく、話のできるところに移動しないと  
 
洋子の腕を引っ張り、外へと連れ出し黒塗りの車に乗せる。  
「行ってくれ」  
運転手にそう命じ、今泉は洋子の方へ視線を移した。  
今泉が話しかけようとしたが、洋子は茫然自失している。  
洋子の目が宙をさまよう・・・と次の瞬間、洋子の体は力なく今泉の方へ倒れてきた。  
「参りましたね・・・」  
今泉はため息をつき、洋子が目覚めたときの言い訳を考えていた。  
 
車はほどなくして瀟洒なマンションの前に止まった。  
「ご苦労だった。今日はもう帰っていいぞ」  
車を降りた今泉は洋子を抱きかかえ、建物の一室へと向かった。  
ベッドに洋子を横たわらせた後、上着を脱ぎネクタイを緩めソファに身を沈めた。  
一日の疲れがどっと出てくる。  
意識のない洋子の顔を、今泉はまじまじと見つめた。  
 
――気丈な方かと思いきや・・・まだまだお嬢ちゃんですね、御苑さん。  
 
探偵神宮寺の優秀な片腕。才色兼備の敏腕秘書のイメージが強かった。  
しかし眠る洋子の顔は、まだほんの少しあどけなさを残している。  
それでも、めったにお目にかかれないいい女だ、と今泉は改めて思う。  
 
――確か、まだ20代半ば・・・。  
  そう考えりゃ、モノホンのヤクザに威嚇されて、平気でいる方がおかしいかもしれませんねぇ。  
  そんな人にあんな仕事に飛び込もうとまで思いつめさせて・・・神宮寺さんも罪な方だ。  
 
今泉には、なぜ洋子があんな仕事をしていたのか、おおよその見当はついていた。  
洋子のことを自分にゆだねたあの神宮寺の態度。  
お互いに好意は持っているものの、  
まだ神宮寺と洋子の間は、上司と部下という関係以上には進展していないらしい。  
それも神宮寺の方が抑制する形で、と今泉は直感していた。  
 
神宮寺の気持ちも分かる。  
探偵も所詮は裏稼業だ。神宮寺も明治組だの怪しげな情報屋だの裏社会に生きる人間たちとの付き合いがある。  
危険な仕事も秘書なら深入りさせずに済むが、もしそれが愛する女だとしたら?  
女を自分のものにしたいという願望と、守るべきもののために身動きが取れなくなるという不安。  
その狭間に神宮寺は居続けている。  
上司と部下という中途半端な関係のまま女を傍らに置くということで。  
 
しかしそれは洋子にとって生殺しに近い。  
表面は取り繕えても、押さえ込まれている「女」の部分はいつか爆発する。  
おそらく女として求められたいという欲求を、風俗の仕事でかろうじて発散しているのだろう。  
本人が自覚しているのか無意識なのかは別として・・・。  
そんな女を今まで何人も今泉は見てきた。  
金でも体でも言葉でもいい。女は何かで繋いでおかないと、不安でどこかへ行ってしまう。  
少なくとも今泉はそう思っている。  
 
――アタシは生憎と迷う性質(タチ)じゃないんでね。どうなっても悪く思わないでくださいよ、神宮寺さん。  
 
御苑洋子は悪夢から目覚めようとしていた。  
 
――怖かった・・・疲れているのかしら。最近書類整理もたまっているし早く起きて事務所に行かなきゃ・・・  
 
しかし、うっすらと開いた目に映ったのは、見覚えのある自分の部屋ではない。  
「・・・ここは?」  
「気がつかれましたか?」  
その声に洋子は思わず洋子は身構えた。  
夢ではなかった。  
声の聞こえる方に目をやると、長身の男のシルエットが近づいてくる。  
「・・・今泉さん」  
洋子は恐怖で体が凍りつくような錯覚を覚えた。  
しかし、男は洋子の目の前に立つと、いつも通りの慇懃さで頭を深々と下げた。  
「御苑さん、先ほどは申し訳ありませんでした。少々芝居が過ぎました」  
「芝居?」  
「あの店から連れ出すために店長をちょいと脅しましてね。  
成り行き上、貴女を丁重に扱えなくなってしまいました。  
あんなに驚かせてしまうとは思ってなかったもので・・・お詫びします」  
洋子は大きく安堵の息を吐いた。緊張から解かれ、目から涙がこぼれそうになる。  
「いつもの今泉さんですね・・・よかった」  
「どちらもアタシです。貴女には今まで見せていなかっただけのことでね」  
洋子はハッとした。いつも忘れてしまう。この人は明治組の若頭という地位にいるということを。  
 
「これは失礼。お客様に何もお出ししてませんでしたね」  
今泉は奥のキッチンへ行き、コーヒーカップを手に戻ってきた。  
「こんなものしかありませんが」  
そう言いながらサイドテーブルにコーヒーを置いた。  
「あ、ありがとうございます」  
洋子はベッドに腰掛け、ソファに腰掛けている今泉と向き合った。  
この男と二人きりになるのは初めてだ。しかもこんな形で。  
知られてはいけないことを知られてしまった。  
それがこの男で果たしてよかったのだろうか? もやもやとした不安が湧き上がる。  
 
その不安を振り切るようにコーヒーを口にし、洋子は部屋を見回した。  
まるでホテルの一室のように生活感のない部屋。  
「ここは、今泉さんのご自宅なんですか?」  
「別宅、といった方が正しいですね。何かあったときのために押さえてあるだけで、普段は使っていません。  
もっとも、こんな使い方をするとは夢にも思いませんでしたが」  
コーヒーの苦味で徐々に落ち着きを取り戻しつつあった洋子は、一番の疑問を今泉に投げかけた。  
「今泉さん、どうして店にいらしたんですか?   
私があそこで働いているのをなぜご存じだったんですか?」  
返ってきたのは当たり前すぎるほどに当たり前の答だった。  
「御苑さん、新宿は明治組のシマです。お忘れですか? ヤクザの情報網を舐めてもらっちゃ困ります。  
しかもウチの若造たちの間で貴女に入れ込んでるヤツらもいましてね」  
 
洋子は自分の浅はかさを悔いた。  
数え切れないほど多くの人が行きかう新宿。  
そんな大きな街の片隅なら、源氏名を使えば、誰にも分からないと思っていた自分を。  
 
「御苑さん、貴女はまだこの街の闇の深さを知らなさ過ぎます。  
もう、あんな仕事はお辞めになることです。  
貴女のようなお嬢さんをあのまま放っておいたら、  
どこぞのチンピラかホストの甘い言葉にだまされて金づるにされるのがオチです」  
「そ、そんなことはありません・・・私」  
「今の貴女は脇が甘すぎますよ。  
第一、探偵助手ともあろう人が、明治組の存在を忘れるなんてね」  
痛いところを突かれて、洋子は俯くしかなかった。  
「それに、アタシの目の届くところで御苑さんに何かあったら、神宮寺さんにも申し訳が立ちませんしね」  
「せ、先生は関係ありません! 私が好きでやっていたことなんですから」  
 
洋子の見間違いだろうか?   
洋子がそう叫ぶと今泉の目つきがどことなく変わったような気がした。  
 
今泉はゆっくりと脚を組みかえると、フッと笑いながらこう言った。  
「ほぉ、何がお好きなんですか?」  
「えっ・・・そ、それはその・・・」  
予想だにしない問いかけに洋子はしどろもどろになったが、やがて眉をしかめてやっと言葉を返した。  
「今日の今泉さんは・・・なんだか意地悪ですね・・・」  
今泉はその言葉も軽く受け流した。  
「いえ、先ほど貴女が神宮寺さんは関係ないとおっしゃられたのでね。  
それならば、今日はただのヤクザの男と風俗の女として  
二人で話をしたいと思っただけですよ、リョウコちゃん。  
・・・そういえば先ほどの答をまだ聞いていませんね。教えてくれませんか?」  
 
今泉はゆっくりと立ち上がり、洋子に近づいてくる。  
「言えなければアタシが代わりに答えてあげましょうか?」  
 
洋子は逃げられなかった。  
いや、正確には逃げようとはしなかった。  
今泉の言葉に、心が丸裸にされたような気持ちになっていた。  
 
「リョウコちゃん」と呼ばれた瞬間、  
洋子の頭の中にはあの店で接客した男たちの様々な痴態が頭を駆け巡った。  
おとなしそうな男、まじめそうな男、若い男から中年まで、  
ありとあらゆる男たちが洋子の前で人には見せられないような姿をさらけ出した。  
その男たちを観察するのを、洋子はいつの間にか楽しむようになっていた。  
時には冷たく、時には面白おかしく。  
 
新宿一帯を束ねる関東明治組の若頭である今泉直久。  
それほどの男が自分にどんな姿を見せてくれるのだろうか?!  
長い知人でありながら、今までその本性を見せなかった男。  
そんな女としての「興味」が今泉に対する「恐怖」を押しのけ始めていた。  
 
――こんなことを考えるなんて、私はどうかしている・・・  
 
今泉の姿は次第に近づいてくる。  
体中しびれるような感覚のまま、洋子は立ちすくんでいた。  
 
 
・・・・・・To be continue  
 

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