仄暗い室内に、一組の男女が足を踏み入れた。
黒のキャミソールを身に纏った女性は、中に入ると静かにドアを閉め、男の方を振り返る。
薄明かりに照らされて生じた影が、彼女の顔に浮かぶ憂いを濃く見せていた。
「……どうして、ここに?」
おずおずと、女が口を開く。
彼女の視線の先に立つ男の表情は、普段と変わらない。感情の読めない顔で、彼女を見つめ返している。
彼女にとってもうひとつの職場であるこの場所で、彼と顔を合わせるのは初めての事だった。
気付かれていないと思っていた。気付かれぬようにと、注意を払っていた筈だった。
しかし彼はこうして、ここに来てしまった。彼の様子からして、偶然とも思えない。
金を出してここを訪れている以上、この店の従業員としての彼女にとって、男はただの客でしかない。
それでも彼女──御苑洋子には、目の前の男を単なる客と見る事など出来なかった。
ここではない職場で、自分が心から尊敬し慕っている上司──神宮寺三郎を。
「知り合いが働いていると聞いて」
静かな声で神宮寺は答える。「少し様子を見に来た……なかなか、評判が良いそうじゃないか」
誉められているのだとは思えなくて、洋子は黙ったままで目を伏せる。
相手が彼だから、というだけではない。この仕事において、客にどんなに上手いと言われても、充足感を得られた事などないのだ。
「見にいらしただけ……なんですか?」
洋子が探るように尋ねた。ただその為だけに金を払ってまでここに来たという事に、疑問を覚えぬ筈はない。
「仕事ぶりを見に来たんだ。君がどんな風に客の相手をするのか……」
ジャケットのボタンを外し、ネクタイを緩めながら神宮寺は言う。「見せてくれないか?」
その言葉を聞いて、彼がやはり客としてここを訪れたのだと洋子は確信した。
戸惑いが少しずつ薄れ、代わりに言いようのない哀しさに置き換えられていく。
やむを得ずとはいえ、自分で選んだ副業だ。相手を選べる立場ではない事は、よく分かっている。
神宮寺が脱いだジャケットを受け取りながら、洋子はそう自身に言い聞かせた。
* * * * *
軽くシャワーを浴びる間にも、不自然な沈黙は流れた。
彼の前で初めて裸身を晒す事、そして彼の身体に見て触れる事への羞恥と緊張。恐らく、それだけではない。
この仕事にだいぶ慣れた今では、見知らぬ客であれば、会話を弾ませる事も出来ただろう。
赤の他人相手だからこそ、自分を偽る事を受け入れられる。
だが洋子はこの男に対して、どんな偽りを纏う事も許されないような気がしてならなかった。
彼女の所作に全てを委ねるように身を動かさず、ただ黙々と見ているだけの神宮寺の目は無感動で、何も読み取らせてはくれない。
その瞳に、いつ軽蔑の色が宿ってもおかしくない。それを洋子は恐れている。
「……こういう所には、よくいらっしゃるんですか?」
無言の時に耐えかねて、洋子が問い掛けた。緊張に上擦りそうな声を抑えるように、小さく。
「そうでもないな」
少し間を置いて、神宮寺から答が返ってきた。
彼の声になんとなく安心しながら、ついでにもうひとつ問う。
「こちらにいらした事は……?」
「ない。今日は……」穏やかな声音のまま、神宮寺は続ける。
「君に会いに来ただけだから」
その言葉に、洋子は思わず視線を上へ向けた。
神宮寺の表情は変わらない。それ故、どんな思いを込めてそう言ったのか分からない。
ここで働く内に、自分をよく指名する客も出来た。彼らも時々、同じような事を言ってくれる。
だがこの男はきっと、それと同じ意味で口にした訳ではないのだろう。
どう受け取って良いのか分からず、洋子は再び俯いた。
湯を当てられて上気した男の身体を這う彼女の手は、いつもよりもぎこちなく動く。
そこからは、十分な快感を与えるには遠い、消極的な愛撫しか生み出せない。
仕事ぶりを見たいという彼の願いを、まともに果たす事が出来そうにない。これまで神宮寺の指示に応えられなかった事など、滅多に無かったというのに。
こんな形で彼に応えて良いものか、判断が出来ない。
いつか求められる事を淡くも望んでいた男の肌に触れているというのに、この場から逃げてしまいたいとさえ、洋子は願っていた。
「んっ……」
唐突に、神宮寺の手が洋子の顎を捕らえた。
俯きがちだった顔を自分へと向けさせ、唇を重ねてくる。急な事に驚いてシャワーヘッドを落としそうになる手に、洋子は慌てて力をこめた。
彼女が落ち着く間もなく神宮寺は唇を開かせて舌を押し込み、中をなぞり出した。
生温い口内に舌を這わせ、洋子のそれと絡める。そしてぬめった感触を触れ合わせ、裏側を撫で上げた。シャワーの音に消えてしまいそうな水音が、互いの内側で響く。
731 名前:22 投稿日:2009/03/03(火) 20:08:30 ID:2IpQs6Kd
動き自体は優しいものであったが、動転している彼女はただただ彼の為すままに流されるばかりで、困惑の視線を彼に向ける。
しかし相も変わらぬ落ち着いた表情で、神宮寺はそれを受け止めた。
(……どうして)
洋子の視界が揺らいだ。
見損なったのなら、いっそあからさまに態度に表してくれれば、傷つきはしても、どうすれば良いのか察する事も出来るのに。
何とも思っていないから、こんなに冷静でいられるのだろうか。
ここで働いているから、この人も他の客と同じように自分を見ているのだろうか。
心の内を示さぬ彼の眼差しと唇の内側の温もりが、洋子の胸中を掻き乱した。
彼女の様子を窺っていた神宮寺は、しばらくして唇を離した。
「……話と随分違うな」
震える息を吐き出す洋子を見下ろしながら、そう告げる。
「かなり手慣れていると聞いていたんだが」
「……っ……」
かっと熱くなる顔を、洋子は神宮寺から逸らした。
彼の声に、責めるような響きはない。それでも彼女を苛むには足る言葉だった。
「す、すみません……」
その一言だけを絞り出すと、洋子は湯を止め、体に浴びた水滴を拭い始める。
「知り合い相手では、調子が狂うか」
ふ、と笑うような息を吐き、神宮寺が呟いた。
「そんな事は……」
はっと顔を上げ、否定しようとする洋子を止め、神宮寺は耳元で囁いた。
「嫌なら、ここで止めるか?」
その声には、気遣うような響きがあった。
更に、彼女の括れた腰を大きな掌でそっと撫でる。これより先の行為が務まるのかと、問い掛けるように。
彼の思惑がますます分からなくなり、洋子は戸惑った。
「……続けさせて下さい」
それでも途中で仕事を放棄する事など出来る筈もなく、彼女は口を開き、そう答えた。
時間は限られている。自分の仕事を、成さなければ。
自分を叱咤し集中せんと努める洋子の顔から、焦りは失せない。
それに気付いていながらも、神宮寺はそれ以上何も言わなかった。
* * * * *
「……失礼します」
ベッドへと場所を移し、そこに腰を落ち着けた神宮寺と向き合う形で床にひざまづいた洋子は、一言断って彼へと手を伸ばした。
体を洗う間にも直視出来なかった、彼の下半身。多少硬さを帯びているそれを目の当たりにすると、とくんと一つ、大きな鼓動が胸を打った。
他人のそれを目にした時とは違う意識の昂ぶりに合わせて、吐き出す息に熱がこもる。
洋子は指先でそっと側面をなぞった。肉の内側で息づく性の脈動。微かな男性の臭い。
この仕事を始めたばかりの頃は、見つめる事にすら抵抗があった。
が、今ではその躊躇いを容易に押し止められる。
何度も見て触れ続けていたが故の免疫、そして、これが仕事なのだと言い聞かせ続けてきた彼女の生真面目さによって培われたものだ。
そう、これは仕事に過ぎない。
金を得る代わりに、快感と一時の憩いを与える、取引でしかない。
たとえその相手が、この男性であっても──
そう思いながら、洋子はペニスの先端に舌を伸ばした。敏感になっている所に触れられ、それがぴくりと震える。
舌先を窄め、鈴口に押しつけるようになぞる。始めはゆっくりと、時折口付けながら。その感触を確かめるように。
動きは次第に大きくなり、やがて亀頭全体に唾液を擦り付けていく。
吹きかける息は熱く、彼自身を更に昂ぶらせるには充分なものだった。
頭上から、荒い呼吸音の合間に、堪えるような低い声が零れてくる。
毎日のように顔を合わせている上司の、色気を感じさせる声音。
この人はこんな声を出せるのか。
次第に上を向いていく亀頭に舌を這わせながら、洋子は口内に溜まる唾液をごくりと飲み込んだ。
しばらくの間、洋子は先端だけを攻めていたが、舌を広げ、だんだん肉棒の側面へと下ろしていった。
同時に手を添え男根を扱き上げる。
やや力を込めて幹を舌で濡らし、その動きに合わせて指の腹で上下に擦っていると、抑えきれなくなったものが先端に滲み出してきた。
苦みのあるそれを厭わずに舌に塗し、指先と掌で優しく包み込むように棹に纏わせる。
細く整った眉は眉間に寄せられ、知性を感じさせる眼は熱い情欲に潤み、自身の手によってそそり立った男根を愛おしむように見つめていた。
一物を扱く手は止めずに唇を離し、はぁ、と洋子は深く息をついた。
唾液に塗れてねっとりとした男根の感触に、胸の高鳴りが収まらない。
これまでは、客を達させて仕事を終える事しか考えられなくて、そこに喜びを覚える事など無かった筈なのに。
下から裏筋に口付けると、神宮寺の顔が視界に入った。
見下ろしてくるうっすらと細められた彼の目と、自身の目が合う。
少なからぬ熱を含みながらも、まだ意識を欲に奪われきっていない、静かな視線。
それがまっすぐ自分に向けられているのだと気付き、胸中に宿りつつあった興奮が霧散した。
同時に冷静さを取り戻した思考が、自身のはしたなさを責め始める。
そもそも本業以外に職を持ったのは、彼に気付かれぬように金銭的な負担を緩和する為だ。
利益ばかりを望んだ仕事をしていないが故、経営状態の危うさは否めない。
そんな状況だからこそ、せめて自身の身の回りの事位は、と考えた。
にもかかわらず、この店の客として現れた彼から金を得ている現状。
挙げ句、好き好んで携わっている訳でもない仕事の中で、我を忘れかけた。
虚しくて、滑稽だった。
「……………」
一定の速度で上下していた手の動きが緩み、洋子の唇が彼から離れた。
彼女の様子の変化に気付いた神宮寺が、前に垂れた洋子の髪を一筋、そっとなぞる。
「……辛いのか?」
達しきれぬ半端な快感に浸りながら、彼は問い掛ける。今、辛いのは彼の方だろうに。
ここで止めてはならない、と洋子は再び愛撫に専念しだした。
「止めても構わない。俺には」
神宮寺の言葉に答えず、洋子は男根に舌を伸ばす。考えるのは後でいいと、後悔や自責を頭の片隅に追いやって。
「君が、無理をしているように思える」
僅かに、彼女の肩が震えた。
「こんな仕事を……好きでやっている訳ではないだろう」
息の整わぬままに、神宮寺は続ける。髪を撫でる彼の指の動きは、優しかった。
押さえ付けてきた気持ちが、溢れてしまいそうになる程に。
「それに……」
まだ何かを口にしようとする神宮寺を遮るように、洋子は彼自身を強く擦り、先端に唇を押し付け、音を立てて吸った。
堪えきれずに放たれた彼の精。生温かいそれを口内で受け止めながら、切れ切れの神宮寺の言葉を、彼女は聞いていた。
* * * * *
それから特別何を語るでもなく、時は過ぎた。
神宮寺が店を出るまでに交わした会話は、ここの従業員としてのもののみで、彼もまた、それ以上の事を彼女に求めはしなかった。
予想していたような態度は終始示されず、投げ掛けられたのは気遣う言葉だけだ。
『君には、似合わない』
彼を昇り詰めさせたその時に告げられた言葉が、じわりと胸の奥で疼いた。
揺れる洋子の意識を、スタッフの声が現実へと引き戻す。次の客が訪れたようだ。
忘れなければ。今だけは、何もかも。
いつも通りの笑顔を作れているかどうか確かめながら、彼女は個室のドアを開いた。