「まずいな……霧が濃くなってきた」
呟きながら、神宮寺はミニを車道の端に停めた。
一旦外へ出て少し先まで様子を見に行ってみたが、夜の闇と霧とに覆われて先がよく見えない。
だがまだ辺りが明るかった時に、遠目に見えていた建物のものとおぼしき灯が何処にも見当たらない以上、間違った道に入ってしまった事は確かなようだ。
神宮寺はやれやれと溜め息をつくと、車中に戻り助手席の洋子に声を掛けた。
「外れたらしい」
座席に腰を据えて、彼はやや疲労混じりの声で言う。零れた息は、ほのかに白かった。
「やっぱり、あそこで曲がれば良かったのでしょうか……」
申し訳なさそうに、洋子は俯く。
「すみません。余計な事を言ってしまったようで……」
「いや……」
落ち込んでいる洋子に戸惑いながら、神宮寺は答えた。
「俺も、こっちで合っていると思っていたから……」
気にするな、と彼が言うと、洋子は小さく頷いた。
「でも……これからどうしましょう。引き返しますか?」
「そうだな……しかし」
ここへ辿り着くまでの道程でさえ、かなり入り組んでいた。
視界の悪いこの状況で、下手に動くのは好ましくない。
朝になるまでこの辺りで様子を見た方が良いのかもしれない、が──
「……………」
神宮寺はちらりと洋子の方を見た。
自分一人なら、一晩ここに留まる事にさほど問題はないだろう。
真冬の時期の張り込みにも慣れているし、多少の空腹には耐えられる。
だが彼女まで付き合わせるのはどうだろう、と神宮寺は悩む。
女性だし、これまでに夜を徹しての張り込みをさせた事も殆どない。
ここは無理を通してでも、一刻も早く帰宅出来るよう、配慮してやった方が良いのではないかと。
「とりあえず、戻ってみるか」
「明るくなるまで、待ってみますか?」
異なる提案をする二人の声が、重なった。
互いに驚いた様子で、相手に問い掛ける。
「こんな状況で無闇に動くのは、危ないんじゃありませんか?」
「それはそうだが、良いのか? 一晩中こうしている事になるかもしれないぞ」
「私は、構いませんけど……」
僅かに目を伏せながら、洋子が零す。「先生が嫌だとおっしゃるなら……」
「そんな事はない」
神宮寺は間髪入れずに否定の言葉を発しながらも、何故か慌てている自分自身に戸惑う。
「……君の言う通りだ。霧が晴れるか夜が明けるまで、様子を見よう」
「はい」
「しばらくはこの調子だろうし、休んでおいた方が良いだろうな」
「そうですね」
頷きシートに深く身を沈め、洋子はそっと目を閉じた。
自身もしばし仮眠をとろうと瞑目したところで、神宮寺は胸中の動揺の理由に気付いた。
人気のない山中で、車内に二人きり──
真夜中に近い時間である為か、他の車も滅多に通らない。そんな状況下で、彼女と一夜を過ごさねばならないのだ。
決して嫌だとは思わない。思う筈がないのだが……
「……まずいだろう……」
「はい?」
「!?」
思わず口に出してしまった独り言を、洋子はしっかり聞いていた。視線を彼の方に向けて様子を窺っている。
「いや、何でもない」
「はあ……」
不思議そうな声を出しながらも、洋子は再度顔を前方に向ける。
神宮寺は更に疲れたような溜め息をつきながら、とにかく眠る事だけに集中しようと決め込むのだった。
* * * * *
「……………」
眠れない。
きっと寒さのせいだけではないだろう。
かれこれ一時間は経っているのに、緊張が解けない。
神宮寺の傍らでは洋子が微かな寝息を立てている。
余程疲労が溜まっていたのだろうが、無防備過ぎやしないかと彼の方が気にかけてしまう。
それとも、そういう対象として見られないのか……
「んん……」
何となく物悲しい気分に浸っていると、洋子の体が動いた。首をすくめ、小さく肩を震わせている。
僅かに開いた唇から漏れる息はやはり白く、顔の血色もあまり良くない。冷えすぎたのだろうか。
神宮寺はコートを脱ぎ、彼女にかけてやった。洋子の身よりも一回り大きなそれは、彼女の体をすっぽりと覆う。
温もりのあるコートに包まれながら、洋子がまた身じろぎした。今度はどこか、心地よさそうに。
安らいだ寝顔が、神宮寺の内側の何かを刺激する。じっと見ているからいけないのだと分かっているのに、目を離せない。
夜の闇のせいか、青白く見える洋子の頬。綺麗な線を描く輪郭に見惚れ、気付いた時には指で触れていた。
柔らかくて、それでいて張りのある肌。
見た目と違わぬ優しい感触。
だが──とても冷たい。
神宮寺は彼女の横顔を少し隠している髪を払い、掌全体で頬を撫でた。
「……ん……」
作りもののようだった顔に、表情が浮かんだ。
細い眉をぴくりと動かし、瞼を持ち上げ、何度か瞬きをする。
俯いていた顔が上がり、しばしぼんやりとしていた目が、ゆっくりと彼に向けられた。
「……先生」
「あ……」
起こしてしまったか、と神宮寺は手を引く。「すまない……」
離れようとするその手に、洋子はそっと己の手を添えた。
「……………」
驚いて何も言えずにいる神宮寺の手を両手で摩る彼女の目は、やはりまだどこか眠たそうだ。
「つめたい……」
冷えた手で摩っていてもなかなか温まらない彼の掌を顔の前まで持って行き、洋子はそっと息を吹き掛けた。
白い吐息が広がり、すぐに消えてしまう。温もりはそれこそ一息の内に薄れてしまった。
それでも繰り返し息をかけ続けると、彼の指先に次第に熱が通い始めた。
洋子はただ黙々と、彼に温もりを与え続ける。
魅入られたようにその様を凝視する神宮寺の心中を、知りもせずに。
しばらくそうしている内に目が覚めてきたのか、洋子はかけられている神宮寺のコートに気付いた。「これ……」
「寒そうだったから……」
静かに答える神宮寺。だが胸中のざわめきは失せない。
洋子は片手を彼の手から離してコートを返そうとするが、神宮寺は構わないと言って受け取ろうとしない。
「でも、先生……」
「俺は、十分温まったから」
そう言って、洋子の手が添えられている自分の手を動かす。元の体温を取り戻し、いくらか彼女の吐息の湿りけを帯びていた。
「そっ……そうですか……」
自身の行いを思い返してか、照れたように目を逸らし、洋子は神宮寺の手をぱっと離す。
「……………」
神宮寺は黙ったまま、しかし先程までと異なる目をして体をシートから持ち上げた。
そして洋子の肩を引き寄せ、自分の方へ向けさせる。
「え……」
戸惑う洋子に、神宮寺は顔を近付ける。
「何を、考えているんだ」
そんな無防備なところを見せて。
男と二人きりだというのに。
歯止めが効かなくなったら、どうしてくれるのか。
苛立ち混じりの何かが、抑えていたものを放とうとしているのを、神宮寺は感じた。
「せ、せんせ──」
何かを訴えるような声を唇で遮り、身をぐっと寄せる。
こんなに乾燥して冷え切った空気に晒されているのに、彼女の唇は柔らかい。
このまま内側まで侵してしまいたい。そう思って舌を動かしかけた時、洋子と目が合った。
「……………」
驚きと、怯えを含んだ瞳。
まだ残る理性に己を責められたような気がして、神宮寺は体を離した。
何を、考えているのか──
神宮寺は今度はその言葉を自身に投げ掛けた。
彼女に好意は抱いている。だが、それだけだ。今までそれを、言葉にも行為にも示さないようにしてきた。
彼女にも気付かれていないと思っていた。
それ以前に、彼女からそういう対象として意識されているとは思えなかった。
それで構わないと思っていた筈なのに、自分は何故、今苛立っているのだろう。
それを彼女にぶつけても、困らせるだけだというのに……
「せん……」
「悪かった」
語れる言葉が見つからない。ただ黙って、無かった事にして欲しい。「忘れてくれ」
「……嫌、でしたか?」
それなら、こんな事はしない。
「……………」
そう、そのまま黙っていて欲しい。これ以上、みっともない所を見せたくは──
身勝手な願いと、そんなくだらないものを彼女に強いている自分自身への嫌悪感とにしかめられていた表情が、固まった。
洋子の温もりの残る神宮寺の手の甲に、彼女のそれが乗せられた為だ。
「先生は」
重ねられた手に、力がこもる。「私の事、どう思ってらっしゃるんですか?」
問いが真っ直ぐすぎて答えられないでいる神宮寺に、洋子は静かに、今度は言葉を選びながら告げる。
「そういう風には……見て頂けないと思ってました。それでも良いとも。でも……」
全く同じだった。
神宮寺が抱いていたものと違わぬ想いを、洋子は躊躇いながらも紡ぎだしている。
「そんな風に手を伸ばして下さるなら、私……」
細い指先が、震えていた。
堪らなくなって、神宮寺は洋子の手に自身の指を絡めた。
伏せがちになっていた洋子の顔が上がり、おずおずと神宮寺を見る。その目は潤んでいた。
「何とも思っていないなら、何もしない」
神宮寺は笑った。他ならぬ己自身を。
彼女が泣きそうな顔をして想いを告げてくれているのに、自分はこんな言い方しか出来ないのだ。
「俺は……思い上がっても良いのか?」
挙げ句、彼女に最後の答を求めている……どうしようもないな。
自身を嘲る神宮寺を、それでも少しも狡いとも思わず、洋子は首を振った。
「思い上がりなんかじゃ、ありません」
それだけ聞くと、神宮寺はもう一度顔を近付かせ、洋子と唇を重ねた。先程のように強引にではなく、もっと自然に。
両腕を彼の首に回しながら、啄む乾いた唇に応えようと、洋子の方も触れては離れを繰り返す。
軽く、優しく、相手を窺いながらの口付け。
心地よかったが、それだけでは温もりを分け合えない。神宮寺は彼女の顔に手を添え、唇を舌で軽く撫でた。
察した洋子は赤く頬を染めながら、彼の舌を口内ヘ導く。
触れている頬は朱を浮かべているが、ひやりとして冷たい。
しかし唇の向こう側は温かく、居心地は思っていた以上に良かった。
絡んでくる舌と交わり続けているだけで、心身に熱を通わせられる。お互い、そんな風に思えて、なかなか繋がった唇を離せずにいた。
「っ……んん……」
しばしそうしていると、洋子の頬も耳も、その色と相応の熱を帯びてきた。時々漏れ出る声も、鼻にかかっていて甘い。
口全体で与え、求め合う内に体は温まってきていた。
しかしその分、彼の内側の抗い難い熱も浮かび上がってくる。
半ばそれに任せながら、服越しに胸の辺りに掌を押し付けた。
途端に慌てた様子で顔を離し、洋子は少し困ったような目で神宮寺を見つめる。
「あの……先生」
まだ息が整わぬままに、洋子は彼に呼び掛ける。真っ白な息が二人の間に溢れた。
「何だ?」
「こ、ここでは……これ以上はちょっと」
誰かに見られたら……と洋子は不安がっている。さっきまで抱き付いて口付けたまま、離れようとしなかったにも関わらず、だ。
大胆なのか何なのか……と、やや呆れ気味に神宮寺が反論する。
「こんな時間、こんな所に誰も来ないだろう」
「でも、車とか……」
「さっきから、車もバイクも全く通らないじゃないか」
「や……ちょ、ちょっと、先生っ、待って──」
洋子の制止も聞かず、神宮寺は彼女を押し倒そうと動いた。
それと丁度同時だっただろうか。対向車線側から来た車のヘッドライトが、神宮寺達を照らし、走り去ったのは。
眩い光が車内を包んだのは一時の事だったが、二人はそのままの体勢で固まっている。
「……………」
「……………」
「……通りましたね」
「ああ……」
洋子は神宮寺から身を離し、真っ赤になった顔を両手で覆った。
「見られてしまったかもしれません……」
「す、すまない……」
「だから止めたのに……」
羞恥に震える洋子と、表情には出さないものの、どうしたものかと手をこまねく神宮寺。
そんな二人の事などおかまいなしに、山の夜は更けていく。
霧が晴れ、無事に山を下り終えるまで、洋子はまともに神宮寺と口を利いてくれなかったとか。