【prologue】  
 
「今回はずいぶん簡単な用件だったな……」  
ある日の夕刻、俺は調査書類を手に関東明治組に向かっていた。  
昨今の不況で一家心中などの事件が増えている。  
今回の依頼はそんな事件の一つで、今泉に新聞のベタ記事の切抜きを渡され、  
その事件の経緯、および家族の顔写真を入手して欲しいというものだった。  
記事の内容は世田谷区にある不動産会社の社長室田一清(39)が  
妻芙祐美(34)と息子の一久(9)を絞殺し、自分は首をつって自殺したというものだった。  
明治組のシマとは明らかに場所が違うが、組との付き合いでもあったのか?  
それとも不動産や借金がらみのトラブルでもあったのか……?  
ともあれ調査自体は簡単なものだったので2、3日で結果がまとまり、  
今日今泉と会う約束を取り付けていた。  
 
【明治組事務所 1】  
 
組に着き部屋に通されると、若衆に何事か言いつけている今泉が目に入った。  
「これは神宮寺さん、お待ちしてました。」  
「この間の依頼の件だが、一応目を通してみてくれないか?」  
今泉は封筒の中身の書類にざっと目を通し、そしてそっとデスクの上に置いた。  
「概要は大体わかりました。後でじっくり拝見させていただきます。」  
「じゃあ、俺はこれで……」  
といいかけたその時、若衆が酒の瓶とグラス、氷を盆に載せ入ってきた。  
「実は神宮寺さんとちょっと世間話がしたかったもんで。ごゆっくりしていかれませんか?」  
「いいのか、こんな早くから?」  
「今日はもう落ち着いてますんでね。どうぞ掛けてください。」  
(もしかするとさっきの依頼は単なる口実で、こちらが本題だったのかもしれないな)  
今泉に促され、ソファに腰を下ろす。俺の好きなカミュの香りがグラスから漂う。  
 
「洋子さんがお戻りになったそうですね。」  
「ああ……」  
まったく明治組の情報網にはかなわん。調査にかこつけて今日は俺を酒の肴にするつもりか……。  
「やっぱりあの方がいないとねぇ。薄汚い事務所にやる気のない探偵さんじゃ依頼も来ませんよ。」  
「おいおい、あの頃のことは勘弁してくれ……。」  
腑抜けてた俺を思い出しニヤニヤ笑う今泉に何の反論もできない自分が悔しく、俺はマルボロに火をつけた。  
確かに洋子は、事務所にとっても俺にとっても欠くことのできない存在だ。  
しかし女性として洋子のことを考えると、もっと幸せな道などいくらでもあるのではないかと思えてならない。  
彼女を改めて雇ったものの、そんな迷いは常に抱いていた。  
 
「まあ、実際のところお二人がお互いどう思われているのかはアタシにはわかりかねますけど、  
でもいつ拝見しても、探偵と助手として、その息の合い方には感心させられてますよ。  
優秀な片腕、しかもそれが美しい女性ってのは実にうらやましいですね。」  
「お前のほうこそどうなんだ、今泉? そういえば浮いた噂は聞いたことがないな。」  
「アタシも木石じゃありませんし、この世界に入って兄貴分に色々連れてってもらいましたしねえ。  
今は組のことを考えたら正直それどころじゃないですけど、まあ適当に遊んでますよ。」  
「新宿はその手の店には不自由しないしな。」  
「まったくです。」  
今泉とこんな話をするのは初めてだ。  
もっともお互いにいい年した独身男なのだから、今までなかったのが不思議なくらいかもしれない。  
 
「それにしても、息が合うとか肌が合うとか言いますけど、そういう相手との巡り合わせっていうのは  
もう絶対に変えられない宿命なんでしょうか。それとも自分の力でどうにかなるもんなんでしょうかねぇ?」  
今泉がまるで占い師のところに来た相談者のようなことを言い出した。  
さては女にでも振られたか?   
「あの風林豪造親分の懐刀と言われている男も、女に関しては門外漢か。」  
「陰謀、駆け引き、足の引っ張り合い……人を疑うことには聡くなりましたけど、  
信頼できる人間……特に女には久しく出会ったことがないな、と、ふと思いましてね。」  
「女なんてまるで違う生き物だから理解するのすら難しいし、男にしたら女は生活の一部に過ぎないしな。  
もっとも女にとってはそうじゃないらしいが。」  
「そのようですね。以前なじみの店に行ったら、どうも男と揉めたらしいホステスに  
『女が強くなったって言っても、結局ついてく男次第で女の人生変わっちゃうのよ。  
男はそうじゃないんだろうけど、女にとってはその男がすべてなんだから。』  
って八つ当たりされちゃいましてね。とんだとばっちりでしたよ。」  
「我々にとっては耳の痛い言葉だな。」  
自嘲気味に笑いながら、俺はグラスを傾けた。  
 
「ところで今泉。久しく、ということは、昔はそういう女がいたってことかな?」  
「名探偵さんには敵いませんね。」  
今泉はフッと息をつき、グラスの酒を飲み干した。  
「神宮寺さん、ちょっと昔話をしてもよろしいですか?」  
今泉が自分の過去のことを打ち明けるのは珍しい。酔いでも回ってきたか?  
「お前が話したいのであれば聞かせてくれ。」  
「あれはもう10年も前になりますかね。まだ私が下っ端の頃でした。  
高校の同級生でミドリって呼ばれてる女がいたんですけど、そいつと偶然再会しましてね。」  
「初恋の相手って奴か?」  
目を伏せて今泉はつぶやいた。  
「そう言われてみればあれがそうだったのかもしれません。  
しかし、男ってのはだめですね。何もかも終わってから大事な女にやっと気づくんですから……。」  
 
【今泉 回想 1】  
 
(兄貴に言いつけられた仕事も一段落したし、飯でも食いに行くかぁ……)  
陽の落ち始めた歌舞伎町をぶらぶらしていた時、俺をじっと見つめる女がいることに気がついた。  
(ヤクザ相手にメンチ切るなんざぁ、いい度胸してやがるな)  
「おら、そこの……」  
威嚇の言葉を発しようとしたまさにその時だった。  
「今泉君! 今泉君だよね? 久しぶり。私だよ、私。」  
「……お前……もしかしてミドリか?」  
「こんなところで会えるなんて! 高校卒業以来だから5、6年ぶりだよね。」  
なんて女だと思った。俺、どっからどう見てもその筋の人だぞ?!  
この街で学生時代の見知った顔はたまに見かけるが、大抵目ぇそらすか他人のふりだぞ。   
そんな男に歌舞伎町の真ん中で堂々と声かけて、しかもはしゃいでるやがる。  
 
高校時代からこいつの性格は、まったく変わっちゃいないんだな、と思った。  
俺は出席日数稼ぐためだけに学校行ってただけで、その頃からやんちゃばかりしてた。  
態度は最悪だわ目つきは悪いわで、遠巻きにしてる奴らがほとんどだった。  
だから俺の隣の席になった女は、大抵は無視を決め込むかオドオドしてるかなのに、こいつときたら  
「あれ、今泉君教科書忘れた〜? 一緒に見る?」  
なんて声かけてくるくらい、呑気っつうか無防備っつうか……俺授業中はお昼寝タイムだっつーのに。  
こんな感じだったから、こいつのことはちょっと気になっていた。  
もっとも付き合うとかそこまでの関心はなかったが、面白いやつだとはずっと思っていた。  
 
周りの歩行者の微妙な視線に耐えられなくなってきたのは俺のほうだった。  
「と、とりあえずここじゃ何だから、飲みにでも行くか?」  
……うっかり誘っちまった。  
でも、このまま帰すのはなんだかもったいない気がしちまったんだ。  
「行こう、行こう! 私あまりこの辺知らないから、今泉君に任せるよ。」  
行きつけの居酒屋で飲みながら、お互いの近況や高校時代の知り合いの噂話に花を咲かせた。  
ミドリは親父さんの経営する小さい工務店を手伝っているという。  
「就職活動しないで楽をしちゃった。私に外でのお勤めなんて向いてない気がしたし。」  
「ははは、なんかそれわかるぜ。お前みたいな呑気な奴じゃ世の中渡っていけねぇよ。」  
「なによー! 今泉君だって就職活動したわけじゃないんでしょ?」  
「何言ってんだよ、この稼業は弱肉強食でキビシーんだぜ。」  
何でこんなにテンション上がってんだ、と思うくらい話は盛り上がりまくり、夜はどんどん更けていった。  
 
「うー頭痛ぇ……」  
二日酔いの頭を抱えながら起き上がると、そこに発見したのは床に寝ている自分とベッドに寝ているミドリだった。  
「あー、今泉君おはよー。」  
「おはよーって……なんでお前ここにいんの?!」  
「だって夕べ『終電なくなったーっ』て言ったら、『俺んちここから歩いて帰れる』って今泉君言ってて、  
『じゃあ泊めてもらっていい?』って聞いたら『いい』って言ったじゃない。」  
……何一つ覚えちゃいねえ。  
とりあえず別々に寝てた、つーことは手は出してないってことだな……多分。  
 
「今泉君の部屋って居心地いいねー。」  
大きく伸びをしながらミドリは言った。  
そ、そうか? 風呂とトイレが申し訳程度についてる1Rのボロマンションだぞ、築30年の。  
家具だってベッドとテレビくらいしかありゃしない殺風景なとこだぞ。  
「そ、そりゃどうも。……けど、お前外泊して大丈夫なのか?」  
「大丈夫。私って親からは信用されてるから。」  
まあ、こんだけおっとりしてたら、さすがに親も怪しまねえだろうな。  
「それにさあ、いま家の中ちょっと荒れてるのよね。  
景気はどんどん悪くなってるし、父さんと兄さんが仕事のやり方めぐって険悪だし。  
私も家の手伝いしてるから、毎日そんなの目にしてると息が詰まりそうで。  
だから土日は買い物したり友達のとこ泊まりに行ったり好きにさせてもらってる。」  
俺らのシノギも厳しいけど、そっか、堅気もいろいろ大変なわけだ。  
家に帰っても楽しくねぇってのも、ちょっとかわいそうかもなぁ。  
「ねぇ今泉君、また遊びに来てもいい……?」  
 
【明治組事務所 2】  
 
グラスに2杯目のカミュが注がれた。一応仕事中ってことになっているからほどほどにしとかんとな。  
「それにほだされて『いいよ』って言ってしまったわけか。」  
「今では気をつけるようにしてますけど、この頃のアタシは本当にこういうのに弱かったもので。」  
「でも気に入ってた子だったんだろ?」  
「ええ、正直……惚れました。女と飲んであんなに楽しかったの久しぶりでしたよ。  
でも相手は堅気のお嬢ちゃん。ヤクザの女にしちまうには気が引けてました。  
ご存じでしょうけど、ヤクザの……しかも下っ端の女なんて幸せにしてるやつを見つけるのが難しいくらいです。  
女を風俗で働かせて自分はヒモやってたり、美人局の片棒担がせたり、  
それに男が下手打ったら女の方だって巻き添え食いかねない。そういう世界です。  
でも、仲のいい友達といいますか、妹分といいますか、微妙な距離を保った存在にしておけば、  
ずっとそばにいてもらえるんじゃないかと、そういう淡い期待があったんです。  
だから目が覚めた時に手を出していないとわかったときは、心底ほっとしまてね。」  
 
まるで俺の胸中を代弁されているかのような気がした。  
この女と一緒にいたい、でも自分では幸せにすることは難しい。  
この矛盾した気持ちを、若い頃の今泉も抱えてたことがあったのか……。  
 
「それから半年ばかり、ミドリが週末になると部屋にやってくるようになりました。  
でもアタシもミカジメやノミの回収やら雑用がありましたし、  
兄貴についてたり組事務所にもいなきゃなりませんし、  
ですから、たいがいあいつが勝手に上がりこんで、  
テレビ見たり昼寝したりして過ごしてたようなもんですがね。」  
 
「休みにデートなんかには連れて行ってやらなかったのか?」  
「……神宮寺さん。アタシみたいな風体の男が、ディズニーランドなんかにいたらどうなります?」  
思わず飲んでいたカミュを吹きそうになった。  
「あ、明らかに営業妨害だな。ゴホゴホ……でも人が寄ってこないから、アトラクション乗り放題だぞ。」  
「うちの組は、堅気に迷惑かけるのはご法度ですよ。」  
「わかってるよ、冗談さ。でも彼女の方は不満じゃなかったのか?」  
「あいつは職場と家が一緒だったじゃないですか。  
なんかこう、気を抜ける場所が欲しかったみたいでしてね。  
どこかに連れてって、なんて一言も言いませんでしたから、二人でまったりしてただけでしたよ。  
アタシも実家がいろいろ複雑だったし、組に入ってからも這い上がっていくためにピリピリした毎日でした。  
そんな時にふわっとあったかい風が吹き込んできたような時間が突然やってきて……。  
アレがアタシの人生で一番幸せな瞬間だったかもわかりません。」  
「どうして別れることになったんだ?」  
「ミドリに結婚話が持ち上がったんですよ。」  
 
【今泉 回想 2】  
 
ミドリがぷっつりと姿を見せなくなって3ヶ月が経った。電話も途絶えている。  
それでもやることは山ほどあったから、なるべくあいつのことは考えないようにしていた。  
でも、部屋に戻って一人でぽつんとしていると、  
あいつの存在がいかに自分の中で大きくなっていたかを知った。  
元々群れないで行動してきた俺だったが、一人がこんなに孤独なものなんだというのを初めて味わった。  
 
ある金曜の夜、俺は腕に切り傷を負って部屋にたどり着いた。  
ほかの組のチンピラとの些細ないざこざだったが、相手はナイフを持ち出してきやがった。  
誰かが通報でもしたのか、サツがやってきてちょっとした騒ぎになり、その隙に逃げ出した。  
部屋のドアを開けると、血だらけの俺を見て真っ青になるミドリがいた。  
「よぉ、久しぶり……。」  
「今泉君、その怪我……は、はやく手当てしなきゃ!」  
「たいしたことねえよ、死にやしない……。」  
傷は浅いのだが何箇所か切られて出血が多く、ひどい大怪我に見えたらしい。  
一通り傷口を消毒し包帯を巻くミドリの顔は今にも泣きそうだった。  
「こんなのしょっちゅうあることだ。気にするほどのことじゃない。  
それよりどうしてたんだよ、しばらく顔出さねえで。心配したぞ。」  
「……家から出してもらえなくなっちゃって……今日は女友達のとこ行くって嘘ついて出てきたの。」  
「何があったんだ、一体?」  
「ねえ今泉君……このままだと私結婚させられちゃう!」  
 
彼女の父親の会社と取引している不動産屋の社長の息子が、商談に訪れた際にミドリを見初めたという。  
相手はかなり大口の取引先で、もちろん両親にとって縁戚関係を結ぶのは願ってもない話だ。  
彼女を置いてきぼりにして話はどんどん進んでいったという。来週には結納を交わすというところまで。  
「お願い、今泉君。このままずっと私をここに置いて!」  
それができたらどんなにいいか。自分だってそう思っている。でも……。  
「……無茶言うな。」  
「今泉君……私がここに来るの迷惑だった? 私はずっとずっと今泉君のことを……」  
「だからだ! 俺だってずっとお前のことを好きだった。ずっとここにいて欲しかった。  
だけど俺は極道の世界でしか生きられないような男だ。  
こんなチンピラがどの面下げて『お嬢さんをください』なんて言えると思う?  
それにヤクザの女になったら、いつどうなるかなんて全然わかんねぇ。  
今日だってもし一緒にいたら、お前だって巻き添え食ってたかもわかんないんだぞ。  
そんな生活……俺はお前に味わせることはしたくねぇんだよ。  
……本当に、本当にお前のこと愛してる。だからこそお前には幸せになって欲しいんだ。」  
 
すすり泣く彼女の声に言葉を返せたのは、15分か20分もたった頃だろうか。  
「もう、ここに来ちゃだめだ……。お前のためにも、俺のためにも。」  
唇を噛み締めながら彼女は頷いた。  
「わかった……わかったから、今夜だけここにいさせて。」  
その言葉の意味することは、なんとなくわかってた。  
「結婚前のお嬢さんが男の部屋に外泊なんてしていいのか?」  
「私……初めてする人は今泉君だって決めてた。ううん、今泉君じゃないとダメだと思うの。」  
 
一瞬眩暈が襲ってきた。空耳ではないかと思うくらい、その発言が衝撃だった。  
「それじゃなおさら……」  
戸惑い気味の俺の言葉をさえぎるように、突然ミドリの唇がかぶさってきた。  
どのくらい唇を重ね、舌を絡めていたのか覚えていない。  
ほんの2、3分の出来事だったのだろうが、それが永遠に続くような気さえしていた。  
「キ、キスくらいはしたことあるんだからね、私だって。」  
今まで処女だったことを恥じているかのように、彼女はつぶやいた。  
「でも、それ以上はどうしてもダメ。体とか触られてるとすごく気持ち悪くなってきちゃって  
そういう状況には何回もなったことがあるけど、いつもいつも逃げ出しちゃってた。」  
 
「でも、何で俺なら大丈夫ってわかるんだ?」  
「もう忘れちゃってるかもしれないけど、高校で席が隣になったときに今泉君、  
私に寄りかかって寝ちゃったことがあったでしょう?」  
「ああ、よく覚えてる。寝てる俺を起こさないでそのままにしてくれてて、後で一緒に怒られたっけ。  
『あんまり良く寝てるから起こすのが悪いと思っちゃって』って先公に言い訳してたよな、お前。」  
「うん。でも本当は違うの。なんだかすごく不思議な感じがしたからなの。  
私も一緒に寝ちゃいそうなくらい、あったかいような懐かしいような……。  
親子でも兄弟でもないのに何でこんな安心しちゃうんだろうって。  
だから歌舞伎町で今泉君を見かけたときは本当にうれしかった。  
男の人に触れてそんな風に思えるの、今でも今泉君しかいないのよ。だから……。」  
 
【明治組事務所 3】  
 
「……そういうこともあるんだな。」  
仕事上いろいろな男女関係を見てきた俺も驚きを隠せない。  
「ということは、彼女は高校時代からずっとお前のことを……」  
「ええ。あいつの話では卒業式の時に告白しようと思っていたらしいんです。  
でもアタシは出席日数が足りてたんで、3学期の途中からバックれて  
明治組に入り浸って卒業式にも出ませんでしたから。」  
「彼女の決心は空振りに終わったわけか。」  
「アタシが真面目に卒業式に出てたら、どうにかなっていたんでしょうかね。」  
 
“チャンスの神様は前髪しかないからそれをつかむ瞬間を逃がしてはならない”とは言われているが、  
始末の悪いことにそのチャンスの神様ってやつは、我々に姿を見せてくれることなどない。  
過去を振り返ったときにやっと「あの時こうしていれば」と気づかされる。  
そして“あの時こうして失敗したから次はこうしよう”と思っても、それがうまくいくとも限らない。  
人生はそんなことの繰り返しだ。  
 
「で、彼女のお願いをきいてあげたのか?」  
「さすがのアタシも躊躇しましたよ。結婚前の堅気のお嬢さんの処女を、  
旦那になる人より先に奪って良いものなのか。  
でも『この女に二度と会えなくなる』と思ったら、アタシは気持ちを抑え切れませんでした。  
ずっとずっと堪え続けてきたことでしたから。」  
 
【今泉回想 3】  
 
先にミドリを風呂に入らせてる間も、俺は悩み続けていた。  
しかし、バスタオル一つで出てきたあいつの姿を見て覚悟を決めた。  
「おっしゃ、風呂交代な。ベッドで待ってろ。……先に寝ちまうなよ。」  
「えへへ、早く来ないと寝ちゃうかもよ。」  
最初で最後の夜。  
でもそんなことはなるべく考えないように、お互いが明るく振舞おうとしているのがわかった。  
 
風呂から出てくると、ミドリは裸のまま掛け布団にくるまっている。  
(コタツの中の猫だな、まるで)  
何とも言えない愛しさを感じながら電気を消し、俺もベッドにもぐりこんだ。  
薄暗がりの中で俺は、隣で横になっっている彼女の手を握り締めた。  
初体験の彼女もそうだろうが、俺のほうも相当緊張していた。  
なにせ堅気の、しかも処女相手なんて初めてのことだ。  
でも、どうすればいいかはわかっていた。惚れた女を優しく愛しむだけだ。  
 
そのまま彼女のほうを向いて抱きしめ、キスをしようとセミロングの髪の毛をかきわけた。  
「ねえ、もう少しこのままでいてもらってもいい?」  
「なんだ? 急に怖くなっちゃったのか。」  
「違うの。こうして抱き合ってるとね、どこまでが私の肌で、どこからが今泉君のなのかわからなくなっちゃうの。  
このまま今泉君と一緒になれちゃいそうで気持ちいいなあと思って。」  
「本当だな……。」  
ついまどろみそうになるくらいに暖かい空気に甘いにおいのする肌。  
何がそうさせるのかわからないが、まるで昔からずっとこうしていたような錯覚に陥る。  
今夜初めて肌を重ねるというのに。  
 
今まで目を閉じてその感覚に浸っていたミドリが、とろんとした声でささやいた。  
「ほらね。やっぱり今泉君なら大丈夫だった。」  
(ちぇっ、かわいい顔しやがって。まったくたまんねえよ……)  
その笑顔にそっとキスをし、体勢を変えて彼女の上になった。  
ケンカの傷が痛むが、なるべく彼女に体重をかけないように気遣いながら。  
ゆっくりと唇を合わせ、舌を絡める。  
ミドリの柔らかな舌の感触に、俺のほうがどうにかなってしまいそうだった。  
名残惜しそうに唇を離し、俺は言った。  
「できる限り優しくするけど、それでも痛かったり嫌だったりしたらすぐ言えよ。」  
 
唇を顔から徐々に体の下のほうに這わせていく。首筋に舌を這わせると、ミドリの小さなため息が漏れた。  
鎖骨の下にはやや小ぶりだが形のいい胸が並んでいる。  
「小さいから恥ずかしいな……」  
「十分かわいいよ。」  
左手で乳房を優しく包むように揉み、反対側の乳房に舌を這わせた。  
「ひゃん」  
気持ちがいいのかくすぐったいのかわからないが、嫌がるようなそぶりは見せていない。  
トクン、トクン、とすごい速さで脈打つ鼓動が聞こえる。ずいぶん緊張してるな。  
「心臓の音が聞こえちゃいそう。」  
「いや、聞こえてるよ。すげぇバクバク言ってる。」  
ミドリは恥ずかしそうに、ごめんね、とでも言うようにうつむいた。  
「いいんだよ。お前は何にも心配せず、黙って抱きついていなさい。俺うまいんだから。」  
「……どうしてうまいってわかるの?」  
思わず苦笑してしまった。ほんと天然だなこいつ。  
「お前を大事にしてあげるぞって自信があるからだよ。」  
その言葉に少し安心したのか、ミドリは笑顔を見せ、体からやっと力が抜けてきたようだ。  
 
胸に這わせていた手を、徐々に下半身のほうへと移していく。  
見た目以上に細いウエスト。抱きしめたら折れてしまいそうな気がした。  
ウエストからヒップのラインをゆっくりとなでまわす。  
滑らかな感触を味わいながら、だんだんと右手を太腿の辺りに近づけていった。  
俺の手の行く先に気づいたのか、ミドリは太腿を閉じようとした。  
そんなことには気がつかない振りをし、俺は強引に手を股の間にねじ込み繁みをまさぐった。  
「痛っ」  
ミドリが顔をしかめる。  
「悪い。乱暴にしすぎたか?」  
「ううん、爪が……痛いのかも。」  
日頃の身づくろいなんかまるでかまっちゃいない自分を反省しつつも、俺は作戦を変更した。  
「じゃあ、こっちにすっか。」  
会話の最中で油断していたミドリの股間に顔を埋め、舌で舐め回した。  
「!……い、いやあ、やめてぇ……。」  
「これなら痛くないだろ。」  
「いやぁ……恥ずかしい……恥ずかしいよぅ……。」  
 
ゆっくり時間をかけて小さな襞を弄ぶ。時には口に含み、時には舌先で軽くなぞる。  
と、さっきまでいやいやと騒いでいたはずのミドリが妙に大人しくなっていることに気づいた。  
ふと見上げると、必死にシーツを噛んで何かをこらえてるミドリが見えた。  
「どうした?」  
「だ……だって……ヘンな声が出ちゃいそうで……。」  
こいつ本当に初めてなんだなあ、と感慨を新たにした。  
「声出せよ。俺、聞きたい。」  
「だって恥ずかしいよぅ……。」  
「こういうことするっているのは、そういう風になるもんなんだよ。」  
ミドリが言い訳をしてる隙に、舌先を尖らせて襞と襞の間にある小さな穴に挿し込んだ。  
「はあぅ!」  
突然のことにミドリが声を漏らした。  
俺の唾液とミドリの体液の混ざった液体が、ピチャピチャと流れ、シーツを濡らしていく。  
「うぅん……あぁ……!」  
ミドリの声は徐々に大きくなり、息遣いが荒くなってくる。  
 
(そろそろ大丈夫かな……)  
ミドリのことを配慮しようとは思っても、さすがに俺も我慢できなくなっている。  
体を起こし、ミドリに顔を近づける。  
初めて味わう刺激に、恥じらいと困惑の入り混じったような顔をしている。  
震えている唇に優しくキスをして、彼女の手をとり、俺自身に触らせた。  
「俺ももうこんなになっちまった。」  
「すごいね……こんなのが入っちゃうの?」  
「それが入るんだよ。人間ってよくできてるよなぁ。」  
俺は手を添えて彼女の入り口に俺自身の先端をあてがった。  
「ごめん、こんなことになるとは思ってなかったから何も用意してない。外出しでいいか?」  
「ううん、そのまま中でして……全部今泉君が初めてのほうがいい。」  
冷静に考えたら止めさせるべきなんだろうけど、そんなこと言われて我慢できる男なんかいない。  
俺はしばらく先端で入り口を刺激し続けた。  
「んん……はぁ……あぁん……」  
俺から出る体液と彼女の体液が、徐々に奥を濡らしていく。  
俺は少し進んでは一旦引き、さらに奥へ進んでは引いてを繰り返し、  
できるだけゆっくり彼女の中に入っていった。  
「ん……くぅ……」  
途中まで悩ましげな声だったミドリが、徐々に何かをこらえるような声になってきた。  
眉間には皺がより、苦痛をこらえているような面持ちだった。  
 
「どうした、痛いか?」  
「ううん、ちょっとだけだから大丈夫だよ。」  
なんだかミドリが健気で胸が締め付けられそうになった。  
ほどなく、俺のすべては彼女の中に納まった。  
「入ったぞ。」  
「どんな感じ?」  
「そりゃ気持ちいいさ。あったかくて、柔らかくて……。お前は?」  
「うーん、痛いとかじゃなくてね、私の中が今泉君でいっぱいになってるの。すっごく幸せな気分……。」  
自分の惚れてる女が、こんな男に抱かれて“幸せ”って言ってくれている。  
そんな言葉に、もう俺は自分が制御できなくなりそうだった。  
「今から動くから痛いかもしれないけど、ちょっとの間我慢な。」  
 
……そこから先は頭が真っ白になってよく覚えていない。  
気がつくと、俺の腕の中でぐったりしていたミドリが顔をあげ、優しい顔で微笑んでいた。  
「ねえ、今夜は寝ないで、ずっとこのままでいてもいい?」  
「もちろん。」  
俺はミドリに腕枕をし、軽く抱きしめキスをした。  
今は一体何時頃なんだろう。できれば夜明けが来ないで欲しい、そんなことを考えながら。  
 
【明治組事務所 4】  
 
今泉の目はしばらくどこか遠くを見ているようだった。  
彼女を抱いたときの思い出でもよぎっているのだろうか。  
「これは失礼を。思わずぼんやりしちまいました。」  
「気にするな。別れの瞬間はいつだって辛い。子供が母親から引き離されるときに泣くじゃないか。  
あれが人間の本質なんだろう。」  
「あいつが出て行った後、部屋にへたり込んじゃいましてね。涙が止まりませんでした。  
少なくともアタシの記憶に残っている中で泣いたのはあれが最後です。  
それからですね、アタシのなかに甘っちょろい気持ちがなくなったのは。腹くくれました。もう失うものは何もない。  
命張って死ぬギリギリのとこまで何でもやってやろう、この世界でのし上がってやろうってね。」  
 
それから10年、決して規模は小さくないこの関東明治組で、34歳の若さで若頭まで上り詰めたのか、この男は。  
ヤクザな自分も、自分を認めない世間も、堂々と彼女と結婚できる男も恨んだことだろうに。  
苦しみや悲しみは人を強くすると言われている。  
もちろんそういう人間もいるが、俺は半分以上は奇麗事だと思ってきた。  
なぜなら今まで遭遇した事件で、苦しみや悲しみから犯行に至った人間をあまりにも多く見てきたからだ。  
しかしこの男は、その負の感情を見事に前向きな力に変えてここまでやってきたのだ。  
なぜ豪造親分が今泉を買っているのか、俺にはわかる気がした。  
 
「あの日ほど朝が来るのが嫌だと思ったことはありませんでしたね。  
一緒に寝転んだまま、今までの思い出やら取り留めのない話をして一睡もできませんでしたっけ。  
今でも最後に出て行くあいつの姿はよく覚えています。  
玄関先で俺を見つめて  
『今泉君、最後にあたしの名前を呼んでキスして。いつもあだ名でしか呼ばれなかったから、  
名前を呼び捨てにしてもらいたいんだ……。』  
って言われましたっけ。」  
俺は不思議な違和感を感じた。  
「……彼女はミドリっていう名前じゃないのか?」  
「それは苗字からついたあだ名なんですよ。実は名前は違うんです。  
あたしは言ってやりました。『幸せになれよ、芙祐美。』ってね。」  
 
芙祐美……? その名前を俺は最近どこかで聞いた気がしていた。  
…………!!  
「今泉、すまない。さっきの捜査資料をもう一度見せてくれ。」  
今泉から依頼された一家心中事件の調査。  
家族の写真と家族構成の資料。その一家の名前の中には……「室田芙祐美」  
 
「そうなんです。彼女の旧名は緑川芙祐美。アタシが唯一惚れた女です。」  
俺は体中から力が抜けていきそうになるのを感じていた。  
「……いつ、お前はこのことを?」  
「一週間前に新聞を読んでいたら、あいつと同じ名前が目に入ってきましてね。  
珍しい漢字じゃないですか。まさか、とは思いましたが、年もアタシと同じでしたから。  
本人かどうか一刻も早く確かめたかったんですが、昔の情けない自分を舎弟たちに知られるのも何ですし、  
神宮寺さんなら信頼できると思ってお任せいたしました。  
先ほど写真を見ましてね、あまり変わってないな、と思いましたよ……。」  
 
徐々に神妙な面持ちになる今泉に、俺は何も話しかけられなかった。  
写真には人のよさそうな中年の男性、おっとりした優しそうな女性、利発そうな少年が写っていた。  
(これがミドリちゃんか。…………えっ?!)  
最初は母親似だと思っていたこの少年、しかしこの何でも見抜いてしまいそうな眼差しは  
隣に立っている父親よりも、母親よりも、むしろ俺の目の前にいる男によく似ていた。  
子供の名前は一久。父親が一清だからそこにあやかったのかと思っていたが、そうではないかもしれない。  
 
俺の推論に過ぎないが、ミドリ、いや芙祐美さんは、この子の父親が今泉だと確信していたに違いない。  
一久の久は今泉直久からとったのだろう。年齢的に考えてもありうる話だ。  
とすると、今泉は自分でも知らない間に妻子を持っていたことになる。  
(この子はお前の……)  
そう言い出すのを俺はとっさにこらえた。今さらそれを知って何になる?  
昔愛した女が殺されただけでも衝撃が大きすぎるのに、  
一緒に殺された子供が自分の息子とわかったら……。  
それに切れ者の今泉のことだ。  
写真を見てすでにそのことに気がついていて、あえて口に出さないだけかもしれない。  
これ以上やつの傷口をえぐるようなことはしてはいけない。  
「なんてこった……。」  
やっと口から出たのは、その一言だけだった。  
 
「神宮寺さん、韮崎の件を覚えてますでしょう?」  
韮崎祐一。懐かしい名だ。明治組未来の幹部候補とまで言われた男だった。  
他の組との抗争に巻き込まれて、奴の恋人千夏は死んだ。  
奴は報復を望んだが、豪造組長から止められ、それを逆恨みして明治組の壊滅を謀った。  
優秀な男だったからこそ、そんな風に変わってしまった奴のことは忘れられない。  
「あいつの気持ちは痛いほどわかりましたけど、あの時はああするしかなかったんです。  
あの二人には絶対に幸せになって欲しかったんですがね……。」  
今泉はそこでふっとため息をついた。  
「でもね、こんな事言ったら不謹慎かもしれませんけど、今日ばかりは奴がうらやましいんです。」  
「…………?」  
「韮崎は千夏ちゃんの亡骸を抱きしめ、その死を悼むことができたんです。  
アタシは……幸せになることを祈っていた女の死すら今まで知らず、  
抱きしめることはおろか、線香の一本もあげることができない。……蚊帳の外なんです。」  
 
そうなのだ。この家族写真の真ん中にいるのは、本当は今泉であるべきなのだ。  
しかし、今泉と芙祐美さんの関係を知る者はなく、子供が今泉の息子であるということを証明する術もない。  
殺した男も死んでいる以上、今泉の怒りはどこにもぶつけようがない。  
今泉が見も知らぬ男に妻子を殺された、という“真実”は誰にも知られることなく、  
戸籍上のことだけで一家心中として扱われ、処理され、忘れられていく。  
本当の被害者を置き去りにしたままに……。  
 
「もちろんアタシの傍にいたら、もっと早く命を落としたかもしれないし、  
ひどい暮らしをさせていたかもしれません。  
でも今のご時世、堅気だっていつ普通の暮らしから地獄に転げ落ちるかわからない。  
ただ確率が低いってだけで、それはアタシらと変わらないんです。  
どうせ自分じゃ幸せにできないから身を引いた、なんて言い逃れもいいとこです。  
もし転げ落ちたとき、惚れた女に看取ってもらえたら……  
逆に惚れた女の死の間際に一緒にいてやれたら……。  
何にも知らずに取り残されるよりも、その方がはるかにマシじゃないかと、  
アタシは今とても後悔しています。  
自分に安らぎを与えてくれる女……そんなのめったに会えるもんじゃありません。  
手放しちゃいけないんです。」  
 
そこまで一気にまくし立てると、今泉は俺の目をじっと見つめた。  
「どこに危険が転がってるかわからない生き方……貴方もご自分でそうお思いでしょう。  
でも今のアタシみたいな気分を他の人には味わって欲しくない。神宮寺さん、貴方には特にね。」  
 
「最後はちょっとお節介でしたかね。」  
しばらくの沈黙の後、今泉がつぶやいた。  
「ですから今回の調査はアタシの個人的な依頼なんです。報酬をお支払いしないと…」  
俺は首を横に振った。  
「お前から報酬なんてもらえない。さっきのカミュで十分さ。  
それよりこんな重要な調査を俺に依頼してくれた上、話を聞かせてくれたことに感謝している。」  
「……おそれいります。」  
ソファから立ち上がり部屋を出る間際、俺は言った。  
「それに報酬以上のものをもらった。お前の気遣いは受け取ったよ。ありがとう今泉。」  
 
外に出た俺は今泉のいる部屋を見上げた。  
あいつの胸の内を思うと、何とも言えないやりきれなさは残る。  
しかしあいつは、今泉直久は、この悲しみに負けるような男ではないと俺は信じている。  
近い将来、あいつはこの世界の頂点に上りつめるに違いない。  
俺はそれを静かに見守っていくだけだ。  
 
【epilogue】  
 
事務所に帰る頃には、すっかり酔いは醒めていた。  
きれいに整頓し終わったデスクで、洋子は書類をまとめていた。  
「お帰りなさい、先生。今泉さんはお元気でした?」  
二度と戻らないと思っていた光景が目の前にある。すっきりと片付いた部屋に漂うコーヒーの香り。  
この事務所の雰囲気は、やはり彼女なしでは成り立たない。そのことを改めて思い知らされる。  
もうこの場所から、俺の傍らから、彼女に去られてはならないのだ。  
「コーヒー飲まれますよね?」  
立ち上がった洋子の進路をふさぐように俺は彼女に向き合った。  
「どうだい、ここに戻ってきた感想は?」  
不意の質問に意表を突かれながらも、洋子はすぐに笑顔を作った。  
「やっぱり私はここが一番落ち着きます。戻って来られて本当によかった。」  
「そうか。じゃあ、よかったついでに今日は残業を頼まれてくれないか?」  
「はい、何でしょう?」  
 
――手放しちゃいけないんです――  
 
今泉の言葉が、頭の中に何度も何度もよみがえり、そして俺の背中を押した。  
俺はそっと洋子を抱きすくめ、今までどうしても言えなかった言葉を耳元でささやいた。  
「今夜はずっと俺の傍にいてくれ。」  
一瞬洋子の言葉が失われ、体から力が抜けていくのがわかった。  
が、しばらくすると洋子は意を決したように俺の背に華奢な腕を回し、はにかんだような声で答えた。  
「先生の……指示に従います。」  
(今泉には大きな借りができちまったな)  
自分も、そして洋子もおそらく感じているであろう穏やかな空気の中で、  
俺たちは抱き合ったまま、いつまでも離れられずにいた。  
 
一方、今泉は事務所の窓から、外の夜景をぼんやりと眺めていた。  
神宮寺から受け取った写真をスーツの胸ポケットにしのばせ、そして目を閉じ静かに合掌する。  
(……ミドリ、すまない。アタシが不甲斐無かったばっかりに)  
歴史に「もしも」はないけれど、もしあの時自分が彼女の元を去らなければどうなっていただろうか。  
愛する妻と、自分の息子かもしれない少年と、幸せに暮らすことは果たしてできたのだろうか?  
 
答えなど出るはずもない。彼女たちはもうすでにこの世の人ではない。  
今の自分にできるのは、ただその現実を静かに受け止めることだけなのだ。  
明日からはまた明治組若頭として、組を背負うものとして、気の抜けない日々が始まる。  
でも、せめて今夜だけはただの一人の男、今泉直久でいたい……いきがっていたあの下っ端時代の。  
隣の部屋にいる若衆に気づかれぬよう、彼は嗚咽をこらえていた。  
 
それぞれの想いを飲み込むように、新宿には夜の帳が降り始めていた。  
 
Fin  
 

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