「勝手なことをするな!!」
あまりの怒声に、目の前の兄貴の鼓膜はもしかしたら破れたかもしれない。
「お、落ち着けよ三郎。黙ってて悪いとは思ってたが、先に話したらお前は絶対断るだろ?」
「これが落ち着いていられるか! 勝手に人の事務所の休日を調べて見合いをセッティングした上に、
当日予告もなしに、こんな朝っぱらから迎えに来られたら誰だって怒る!」
「だって日にちを教えたらお前逃げるだろ?」
「当たり前だ!」
俺は神宮寺コンツェルンの三男ではなく、一介の探偵神宮寺三郎として生きていきたいのに。
家は継がない、頼らない、と何度となく言ってきた。それを無視するとは……。
「いや、いい話なんだよ本当に。取引先の親族で旧宮家筋のお嬢さんだ。
家柄・格式の高さ・財力と、神宮寺家としては申し分のない縁だと思ってる。」
「俺は家の犠牲になんかなりたくない!」
「……そういうと思ったよ。」
兄貴がパチンと指を鳴らすと、屈強な体格をした黒服のSPたちがバタバタと事務所に入って俺を取り囲んだ。
「兄貴……何のつもりだ?」
「お前の腕っぷしにはかなわないと思ってな、応援を呼んでおいた。じゃ、下の車で待ってるから。」
「ちょ、ちょっと待て、あに……」
文句も言い終えられないまま、俺は男たちにスーツに着替えさせられ、下で待機しているリンカーンに放り込まれた。
もちろん両サイドはSPに囲まれている。
「犯人の現行犯逮捕だな、まるで。」
俺は天を仰いでため息をつき、仕方なく観念した。
「わかった。見合いはする。だが結婚は断る。俺は今の生活を続けたいんだからな。」
「そういうとは思ってた。だが親父の胸の内も察してやってくれよ。
板挟みの俺だって辛いんだぞ。今日は俺の顔を立ててくれ、すまん。」
ほどなく車は高級ホテルの前に止まった。
美しい庭園が一望できるラウンジで、先方と紹介者がすでに待っていた。
相手の女性は美しい振袖姿だったが、うつむき加減で顔はよく見えない。
「お待ちしておりました。お掛けくださいませ。」
紹介者の老婦人が満面の笑みで迎える。このお節介ババアのせいで……
ため息をつきながら席に座り相手の顔を見た瞬間、俺は凍りついた。
「こちら神宮寺コンツェルンの三男でいらっしゃる三郎さん。
こちら、五井グループのご縁戚の御苑家のお嬢様で洋子さん。」
神宮寺コンツェルンの三男……神宮寺コンツェルンの三男……神宮寺コンツェルンの三男……
紹介者のおばさまの声にエコーがかかっているように感じられ、危うく気を失いそうになった。
(どうして先生がこんなところにいらっしゃるの? それに今の紹介。“あの”神宮寺コンツェルン?!
珍しい苗字だとは思っていたけど、まさか本物だとは……)
嫁にも行かず好き放題している娘に業を煮やした父親に、私は今日の早朝突然たたき起こされ着付けに行かされた。
「お父様、一体何を考えてるのよ?」
「洋子! 今日はお前の見合いだ。」
「な、何ですってぇ――! 私になんの相談もなく!」
「留学から帰っておかしな探偵事務所に勤め始めたと思ったら、突然やめてまたアメリカへ行くわ……
そうかと思えば帰ってくるなりまた突然勤めだすわ……頼むからいい加減落ち着いてくれ。」
「私の人生は自分で決めさせてください!」
「馬鹿を言うな! 今日の縁談はだな、これ以上はないというくらい文句の付けようのない……
おっと時間に間に合わないではないか。急ぐぞ、洋子。」
早朝からの着付けとメイク、着慣れなくて窮屈な着物にすっかり疲れて、私は車の中で眠ってしまった。
ひどい睡魔に、ラウンジで待っている間のおばさまと父のはしゃぎようも、何にも耳に入ってこない。
(まあ、どうせ断ればいい話だわ。今日一日だけ我慢しよう)
しかし、目の前に現れた男性に私の眠気は完全に吹っ飛んだ。
(五井グループの縁戚で旧宮家との縁もあるお嬢様だぁ?
ニューヨークでヤク中の男と付き合って、挙句殺されそうになったのはどこの誰だ?)
(世界有数の巨大コンツェルンの三男坊ですって……?
ヤクザやらホームレスやら情報屋やら、怪しげな人たちと関わりをもってる人が?)
(安月給で申し訳ないと思っていたが、そのわりにはいつも高そうな服を着ていたな。
エルメスか何かのスカーフも見たことあるし、化粧品はイプサだとか言ってたな。
海外にも何度も行ってるし。何のことはない、実家が裕福だったということか。)
(普段は着替えもせずにソファで寝ちゃうし、シャツはいつもシワシワだし、
事務所が汚かろうが、灰皿にタバコがたまろうが、一切関知しないくらいだらしないくせに。
なるほど、自分では何もしないお坊ちゃまだったってわけね。)
(……しかし、あの品の良さは、確かに一朝一夕で得られるものじゃない。
それは確かに頷ける。聡明でマナーも立ち居振る舞いも完璧だ。
どこに行っても物怖じせず堂々と構えているのも、お嬢様たる所以か。)
(……でも、先生はいつ見ても自信に満ち溢れていて、態度も洗練されていた。
高級ホテルだろうが一流レストランだろうが、とても慣れた感じで振舞っていた。
それにオーストリアに調査に行ったときも、やけにドイツ語に堪能でびっくりしたっけ。)
もはや二人の耳には、仲介者の語る互いの経歴紹介など耳には入っていなかった。
どうせ嘘で塗り固めた経歴だ。本当のことはもう自分たちは知りすぎるほど知っている。
二人はじっと見つめ合い、まるでにらめっこをしているかのように吹き出すのを堪えていた。
しかしもう我慢の限界だった。
「あははははははは」
「ぷっ……ウフフフフ。」
「さ、三郎どうしたんだ?」
「洋子!先方に失礼じゃないか!」
二人は席を立ち、ほぼ同時にこう答えた。
「この縁談はお断りします。」
「俺には神宮寺コンツェルンの息子でなく、探偵としての俺の身を案じ補佐してくれる大事な助手がいますので。」
「私も今勤めている探偵事務所の所長のサポートが生きがいなんです。
神宮寺コンツェルンの御曹司なんてとてもじゃありませんが、私に釣り合いませんわ。」
唖然とする家族たちを尻目に、二人は手に手をとってその場から走り去っていった。
「とりあえず事務所にでも戻るか、洋子?」
「そうですね、私の着替えも置いてあることだし、この窮屈な着物を早く脱ぎたいんです。」
「じゃあ、脱ぐときに帯を引っ張って『あーれー』ってくるくる回すのをやってみたいんだが、どうかな?」
「もう、先生ったら。またそんな恥ずかしいことを……」
「ほーう、安月給でいつも申し訳ないと思っていたが、実家が裕福とわかったからには遠慮なくこき使えるな。
給料アップも考えていたんだけどなぁ、いや、実に残念だ。」
「もう、先生ったら……わかりました。どうぞご自由に! その代わりお給料上げてくださいね! 絶対ですよ。」
ひどい休日が、一転して楽しい一日になりそうだ。
俺は洋子を愛している。洋子も同じ気持ちでいてくれる。先のことはわからないが、今はそれで十分すぎるほどだ。
家なんぞに縛られてたまるか。俺たちは俺たちのやりたいようにするさ。
タクシーに飛び乗り、新宿にある事務所を俺たちは目指していた。
取り残された三郎の兄と洋子の父は、しばらくの間狐につままれたような面持ちでいた。
「この縁談は……どうなるんでしょうか?」
「二人とも断るって言ってましたけど……。」
「……どうも神宮寺家と御苑家の間では、お話はまとまっていないようなんですが……。」
「……しばらく本人たちに任せて様子を見ることにしましょうか。」
「……はぁ、もう一つ釈然としませんが、それしかありませんかねぇ。」
(あぁ、この顛末。親父になんて報告すればいいんだろうか……)
この騒動によるストレスで兄に10円大のハゲができたことを、神宮寺は知る由もなかった。
Fin