『後悔はしません。例え、この先どんな事が起ころうと……』
その言葉の後に浮かんだ彼女の笑みは、以前と変わらぬ温かいものに映った。
もう一度あの安らげた時を取り戻せるのならと、戸惑いながらも再び彼女を迎え入れた。
本当にこれで良かったのだろうか。
しばらく経った今でもそう自問せずにはいられないのは、あの時の彼女の瞳に迷いがあったからだ。
決意を含んだはっきりとした口調に似つかわしくない、微かな揺らぎ。
それが今も、この胸の内をざわめかせている。
* * * * *
「お帰りなさい。すぐにコーヒーお淹れしますね」
辺りが暗くなった頃に事務所に戻った神宮寺を、洋子はそう言って迎えた。
彼女自身も調査を終えて帰って来たのはつい先程であったが、疲れを見せずにきびきびと動いている。
「……ありがとう。君も疲れたろう? 少し休むと良い」
淹れたてのコーヒーを受け取りながら、神宮寺が労いの言葉をかける。
だが洋子は首を振って微笑んだ。
「平気です。調査結果の報告をさせて頂いてよろしいですか?」
「ああ……」
神宮寺が促すと、洋子は今日の調査の成果を事細かく報告し始めた。
半年近くこの仕事を離れていたにもかかわらず、彼女は頼んだ仕事を完璧にこなしてくれている。
敢えて口にせずとも神宮寺の指示を察し、彼の負担を減らそうと、助手として十分すぎる程、よく働いている。
彼女が戻ってきてくれた事自体には、何一つ不満などない。
ただ、気にかかる事が一つ──
「……洋子君。今、何て?」
「ええ。この男性の職場の方とお会い出来まして、その方からお話を……」
「職場……」
今回の案件は失踪した男性の捜索だ。洋子の調査によると、その男性がタチの悪い消費者金融会社に勤めていた事が分かったらしい。
そこの社員と接触したというのだ。
神宮寺は僅かに眉根を寄せた。
「危険そうなら、あまり踏み込まないようにと言った筈だが……」
一拍おいて、洋子が答える。
「……すみません。でも、ちゃんと情報は得られましたので……」
「……そうか」
溜め息をついて、渋面のまま神宮寺は頷いた。「続けてくれ」
「はい……」
洋子の唇からもたらされた情報は、確かに有益なものではあった。
しかし神宮寺は、胸中でまただと呟かずにはいられなかった。
洋子を再雇用して、もう一ヶ月以上経つ。
その間、彼女に単独での調査を頼む事も何度かあったが、半年前とはどこか違う様子が時折見受けられた。
引き際を考えないというか、危険な状況だと分かっていながら、踏み込みすぎた調査をする事が多くなったようだ。
そうならないようにと、可能な限り主な部分を神宮寺が担当するようにしているのだが、それでも彼女は無茶をしてしまうのだ。
無理をして、必要以上に仕事に打ち込んでいる。まるで何かに急きたてられているかのように。
「……以上です。それで、明日の調査はいかがしましょう?」
聞き慣れた穏やかな声が、神宮寺の意識を引き戻した。
最近の彼女にしばしば見受けられるようになった危うさは、今の彼女の表情からは見られない。
だが早急に指示を求める様子から、動かずにはいられないという衝動のようなものが感じられる。
「……ああ。それじゃあ……」
平静を装って、神宮寺は彼女への指示を出した。「過去の依頼の書類整理を頼む」
「……書類の整理、ですか?」
明らかに戸惑った声で、洋子が復唱する。調査も佳境に迫ってきたこの状況で何故、とでも言いたげだ。
「あとは俺一人でも十分だ。それに」
あくまで自然に、神宮寺は苦笑してみせた。
「君がいない間の分が、かなりひどい事になっている」
「……分かりました」
納得しきってはいないようだが、洋子は承諾した。その目が少し寂しげに伏せられる。
「……もう遅いから、あがってくれて構わない。お疲れ様」
僅かに生じた沈黙さえ気まずくて、神宮寺はそう告げながらポケットから煙草を取り出した。
「あ、はい。それでは……」
神宮寺の様子から何かを感じ取ったのか、洋子は少し急ぎ気味に帰り支度を済ませる。
「お疲れ様です。ゆっくり休んでくださいね」
「ああ、ありがとう」
洋子がドアの向こうへ去り、足音が遠ざかると、神宮寺は紫煙混じりの深い溜め息をついた。
取り戻したこの日常は、決して居心地の悪いものではない。
だが以前とは確実に違う何かが、自分達の間に隔たりを作っているのが分かる。
はっきりと何が原因だとは言えないものの、神宮寺は半年前の事件の事を思い出していた。
かつて彼女に痛ましい傷を負わせ、そして守りきる事の叶わなかった、あの寒い冬の日の事を。
あの時の事については、これまで互いに話題に上らせる事はなかった。
そんな機会が特にないというのもそうだが、思い返したくないというのが本音なのかもしれない。
今更蒸し返したところで、彼女が受けた仕打ちがなかった事になる訳ではないし、何より──
「……………」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、神宮寺は書斎へと入って行った。
戸棚から取り出したカミュをグラスに注ぎ、一息に飲み干した。
記憶の蓋の隙間から滲み出してきた惨めな自分が、酔った頭の中でぐるぐると溶けていく。
深酒しそうだと分かっていながらも、ペースを抑える事が出来そうになかった。
目が覚めた時間は、思いの他早かった。
案の定、酔いの名残が頭を強く刺激してくるが、神宮寺は構わず身支度を始める。
酒は昨日のわだかまりを押し流してはくれなかったようで、何となく洋子と顔を合わせ辛く感じたのだ。
洋子のデスクの上に書き置きだけ置いておいて、早々に事務所を後にする。
まるで逃げているようだ、そう神宮寺は自嘲した。
* * * * *
その日も調査を終えて事務所前まで戻って来たのは、すっかり日が暮れた頃だった。
体調のせいでもあるのかもしれないが、順調だったとは言い難い。
やはり洋子を頼れば良かっただろうかと、神宮寺は少しばかり悔やんだ。
階段を登りながら、神宮寺は自分を迎えてくれるであろう洋子の事を思った。
顔も合わせずに外出した事についても、聡明な彼女であれば昨夜の件と結び付ける事はた易いだろう。
普段通りに接してくるか、それとも……
彼女の様子をあれこれと想像しながら、神宮寺は事務所へのドアを開いた。
「……あ……」
予想とはかけ離れた表情が、洋子の顔には浮かんでいた。
慌てて手にしていた資料を机上に置き、その手で俯かせた顔を拭いながら、彼女が席を立つ。
「お、お帰りなさい……先生」
「……………」
洋子の掠れた声には応えず、神宮寺はミニキッチンへと足早に近寄る彼女を阻む。
「コ、コーヒーを……」
彼は顔を伏せたままで離れようとする洋子の肩を掴み、頬を軽く押さえ、上を向かせた。
柔らかい頬に添えた掌を、温かい湿りけが濡らす。
彼女の眼には、涙が滲んでいた。
「……何が……」
それ以上言葉が続かぬまま、神宮寺は洋子のデスクの方に視線を移した。
つい先程まで彼女が目を通していたであろう書類。その見出しは──"連続保険金殺人事件"。
洋子を解雇するきっかけとなった、忌まわしい記憶だ。
「……洋子君」
「……ごめんなさい。なんでも、ないんです」
洋子は涙を拭いて、笑みを浮かべようと口角を歪ませている。
──何でもない訳がない。
ずっと避け続けていたからこそ、こうして今でも苦しんでいるのではないか。
今触れねばもう届かなくなるような気がして、神宮寺は彼女の頬に指を這わせた。
「辛かったんじゃないのか……?」
肩を抱いた腕をそっと背に回し、探るように問い掛ける。「今まで、ずっと」
洋子は答えない。呼吸を整えようと胸の辺りを押さえたまま、じっと立ち尽くしている。
「無理をしているだろう。今も……」
汚され傷つけられた記憶は、簡単には癒えない。
それでも何事もなかったように笑顔でいつづける事に、苦痛が伴わない筈がなかったのだ。
洋子は神宮寺の慰めを拒むように、即座に首を振った。
「無理していらっしゃるのは……先生の方、じゃないんですか……?」
「何……?」
考えもしない返答に、背を撫でていた神宮寺の手の動きが止まる。
「私をここに……もう一度おいて下さったのも、本当は……」
「何を言って……」
話が掴めない。
真意を知りたくて、逸らし続ける洋子の目を自身の顔へと向けさせた。
紅色の唇が震えている。
最も哀しい事を受け入れようとしている時のように。
「必要じゃない……って」
「え……」
小さな声が、うっすら開いた唇から零れる。
「私の事……必要じゃないって……言っていたから」
新たな雫が次々と、頬と彼の手を伝う。
「何の、役にも……立てて……いなかったからっ……」
『誰かを必要とした事など、ただの一度もない』
「………信じていたのか」
くだらない虚勢を。
その場しのぎの嘘を。
今までずっと、彼女は信じ続けていた。
傷ついて苦しんでいる彼女に非情な言葉を投げつけ、放り出した。
あの日優しさだと思ってした事は、結局こういう事でしかなかったのだ。
「……………」
泣きやまない洋子の背を、神宮寺は摩り出した。かけるべき言葉も思いつかず、ただ呆然としている。
再び顔を伏せて啜り泣く洋子の腕は、彼の背には回らない。そうしてはいけないのだと、自身に言い聞かせているかのようだ。
何度目かの謝罪の声が聞こえてきて、神宮寺は洋子の頭を自身の胸に埋めさせた。
戸惑い離れようともがく彼女を、決して離そうとしない。
「謝らなくて良い」
落ち着かせようと、静かに耳元に囁く。
「傍にいてほしくなかった」
細い肩が、少し強張った。
「傷つけたくなかったから」
不規則な呼吸が、一瞬途絶えた。
「本気で言ったと思ったのか……あんな事を」
もっとマシな言い方は出来ないのか、と神宮寺は自身を嘲笑う。
長い間独りで抱え込んでいた彼女に対して、こんな打ち明け方はあまりに酷いと。
おずおずと洋子が顔を上げた。涙の筋はまだ乾いていない。まるであの夜のような、傷ついた目をしている。
「……ん……」
哀しい言葉ばかり吐き出した唇を、そっと塞いだ。壁際へと誘い、おぼつかない様子で立っていた細い体をゆっくりしゃがみ込ませる。
まだ躊躇いがあるのか、洋子は神宮寺の胸を軽く押し、離れようとしている。その腕をなだめるように摩りながら、背に回した手で髪を梳いた。
いつかの夜には入り込めなかった温かい唇の内側に、神宮寺は舌を這わせた。奥で縮こまっている彼女の舌をなぞり、絡ませ、吸い付かせる。
隙間から漏れる吐息は、熱くて甘い。
溶け合うような口付けを施す内に、洋子の抵抗は止んでいた。
「ん……はぁ……」
唇を離して洋子のさまを窺うと、ぼんやりとした目で彼女が見つめ返してきた。泣きはらして赤く潤んだ眼が、神宮寺を捉らえる。
震えは止まったようだが、まだ不安げに神宮寺を見上げている。
衝動のままに求めようとする自分を抑え、洋子を抱き締めるだけの動きに留めた。彼女の腕を掴んでいた手も離す。
身勝手な嘘で突き放した事を、彼女は許すだろうか。
答を聞かなければ何処にも進めない。そう自分に言い聞かせて、神宮寺は洋子の言葉を待った。
「先生……」
いくらか落ち着いた声で洋子は呼びかける。
速度を増す鼓動を落ち着かせようと、神宮寺は深く息を吸った。
「私……ここにいてもよろしいんですか?」
是非もない問いに、声が上擦りそうになった。
「ああ」
「ここにいて……先生のお役に立てますか?」
「ああ」
「本当に?」
「……信じられないか?」
洋子がくすりと微笑んだ。見慣れた、懐かしい笑顔だった。
「いいえ」
洋子の両手が神宮寺の背に触れた。煙草の匂いの染み付いたシャツに頬を寄せ、その胸の温もりに浸る。
ようやく全てを取り戻せたのだと安堵し、神宮寺は洋子の髪に顔を埋めた。
間近で感じる彼女の匂いは、ほのかで優しかった。