事務所へと近づく足音が聞こえ始めた瞬間、洋子はパソコンでの文書作成作業を中断し、小さなキッチンへと向かった。来客の備えるためではない。彼女は、その足音が誰のものであるかを知っていた。
カップに温かなコーヒーを注ぎ終えた直後、背後でドアが閉まった。
「先生、お疲れ様でした」
椅子に座った一人の男――神宮寺三郎の前に湯気をたてているカップを置く。
「ああ……すまない」
神宮寺の顔に、朝、事務所を出て行く時に見せた覇気がない。こういう表情をしている時の神宮寺は言葉を飲み込もうとする。いや、話すのも億劫なのだろう。
洋子は何も言わずにパソコンデスクへと戻った。調査で成果が出たのなら神宮寺が洋子へ話しかけることでおのずと会話は生まれる。成果が出ていなければ沈黙が続くだけである。
窓ガラスに、コーヒーに口をつけないまま立ち上がる神宮寺の姿が映る。キーを打つ洋子の手が少しだけ止まった。マウスを無作為に動かしながら、じっと神宮寺の動向を見守る。
神宮寺は洋子から離れた窓に近づき、眼下へと視線を向けていた。やがて、かすかな煙草の匂いが洋子の鼻腔へ入り込んできた。
神宮寺に何か成果があったのだ、と洋子は気づいた。それは自分が聞くべきものではない、ということをも同時に理解し、洋子はキリのいいところまで打ち込みパソコンの電源を切った。
「今日はこれで帰らせていただきます」
いつもより少し早めの時間帯ではあったが、神宮寺からは、
「ああ、お疲れさん」
という言葉だけが返ってきた。
事務所の書類を不用意に家に持ち帰るようなことはしない。洋子は、ファイルを棚へと片付け、デスクの横にかけていたバッグを肩にかけ、窓へ佇む神宮寺の傍を通り過ぎる。
ふいに、手をつかまれた。驚いた洋子の足が止まる。
「先生?」
そう聞き返すと、つかんだ当人である神宮寺も驚いた様子で、
「いや……何でもないんだ」
慌てて洋子から手を離した。
手は離れたものの、神宮寺の目が洋子を見つめている。引き止めるかのような視線に、洋子は歩を進めることができずにいた。
どうしたものかと思案し、やがて、洋子は神宮寺と向き合った。
「私は、今、必要ですか?」
咥えていた煙草を灰皿へと押し付け、神宮寺は短く首を振った。
「いや、君の仕事は終わった。帰ってもかまわない」
神宮寺の言葉は洋子を助手として扱っている。だが、彼の目や手は本音を語っているように、洋子には感じられた。このまま聞き続けていても、神宮寺はかたくなに洋子を帰そうとするだろう。
洋子は神宮寺の腕に手を添えた。『助手』ではない目で彼を見上げる。
「必要でないのなら、振り払ってください。すぐ、帰ります」
「洋子……君」
名を呼んだきり、神宮寺は洋子の手を見つめて黙っている。
受け入れられたわけではないが、拒否されたわけでもない。洋子は一歩進み、神宮寺の胸へと体を寄せた。わずかに震えた神宮寺だったが、やはり洋子を拒否する態度を見せない。
「洋子君……」頭上から低い声が降ってくる。「今の俺に、君のことを思いやれる余裕はない。優しくなどできないし、君の意思は無視してしまうだろう」
そこで神宮寺が言葉を切った。だが、洋子にはその後に続く言葉が想像できた。だから、強く頷いた。
「先生、私は大丈夫ですから……」
見上げたとたん、洋子の唇は神宮寺によって強引に塞がれた。
洋子の肩からバッグが落ちる。
それを合図にするかのように、二人は互いをうかがいつつもゆっくり舌を絡ませる。
神宮寺の手に背を支えられながらも、彼の勢いに押されるように洋子の体が窓へと押し付けられる。背中にあたる冷たい感触に洋子の遠くなっていた理性が少し戻ってきた。
洋子はやんわりと神宮寺の体を押して唇を離す。
突然の洋子の行動に驚いた様子の神宮寺だったが、やがて、また顔を近づけてくる。
「せ、先生、あの……外から見えてしまいます」
暗い外から、明るい事務所は丸見えの状態である。
洋子の肩ごしに外を見た神宮寺が、ふっ、と笑った。
「……そうだな」
洋子を置いて、神宮寺は窓のブラインドを下ろす。
いきなり現実に戻されたことに戸惑いながらも洋子は、
「じゃあ、私はドアの鍵をかけておきますね」
事務所の全ての窓のブラインドは神宮寺によって下ろされ、ドアの鍵は洋子によってかけられた。これで何の邪魔もなく二人で抱き合う準備は整ったのだ。
だが、窓の前にいる神宮寺と、ドアの前に立つ洋子は見つめ合ったまま動こうとしない。
先に沈黙を破ったのは神宮寺だった。
「すまない、洋子君。今日はもう帰っていいよ」
神宮寺もまた、洋子のように冷静さを取り戻したのだろう。いつも通りの彼の言葉と声音が、先ほどまでの二人をなかったことにしようとしている。『探偵』と『助手』へと戻そうとしている。
「それは、できません」
神宮寺の目を見て、きっぱりと洋子は答えた。
「どうして?」
「私は、大丈夫だ、と先生に言いました」
「だが、俺も、もう大丈夫だ」
神宮寺も目をそらすことなく、皮肉にも洋子と同じ言葉を使って返してきた。その真意を読み取ろうと洋子は神宮寺を見つめるが、探偵は何の感情も表情には出さない。
諦めるように洋子は頷いた。
「わかりました」
バッグを取るために洋子は神宮寺へと近づく。かがんでバッグへと手を伸ばした洋子の頭上から、
「俺で……いいのか?」
戸惑うような神宮寺の小さな問いが聞こえてきた。
「はい」
顔を上げて頷いた洋子の腕が神宮寺に強く引き寄せられる。洋子の華奢な体は、神宮寺の大きな体にすっぽりと収まっていた。
ブラインドも下りているし、事務所のドアの鍵もかけられている。二人の邪魔をするものは何もない。どちらからともなく唇を寄せた。わずかに開いた洋子の口から神宮寺の舌が入り込んでくる。
神宮寺の大きな手が急くように洋子のシャツのボタンをはずし、開いた胸元からブラジャーのホックを外す。少しかさついた手が、平均的な大きさをした洋子の胸を包んだ。
「ふっ……ん……」
久しく男に触れられていなかったせいか、神宮寺の指が肌を滑るたびに洋子の口から吐息と声が漏れる。神宮寺のネクタイにかけた洋子の指が震えた。
洋子から唇を離した神宮寺が、自分のネクタイへと指をかけて片手で強引に緩め、首から抜き取った。一連の作業を終えた手は、また、洋子の胸の愛撫へと戻る。
洋子は、神宮寺のシャツへと指をかける。ネクタイがなくなったおかげでボタンはずいぶんと外しやすくなっていた。そろりとシャツを開くと、神宮寺の鍛えられた胸に出会った。指でそっと触れると彼の体がぴくりと震える。
さらに指を下へと滑らせていき、割れた腹筋をなぞる。体力勝負の探偵業であるのは知っていたが、正直、神宮寺がここまで鍛えられた体をしているとは洋子も思っていなかった。
突如襲いくる快感に洋子はおもわず神宮時のシャツを握り締めた。
ブラジャーをずらした神宮寺が舌を胸の突端へと這わせているのだ。歯で噛み、ときに舌で舐め、さらには指でつまむなど、意外と多彩だ。
「先生、そこばかり……」
「洋子君、手を下ろしてくれないか」
「あっ、はい」
言われた通りに洋子は手を下ろす。
神宮寺の手が器用に洋子からブラウスとブラジャーを抜き取った。
その場に放り投げでもするのだろう、と洋子は思っていたのだが、神宮寺は足元のバッグを拾い、わざわざ歩いて椅子の背にそれらをかけたのだ。
だらしない神宮寺をよく知る洋子にとっては、彼の行動は意外すぎておもわず笑いがこみあげてきた。
戻ってきた神宮寺にも洋子の笑いの意味がわかったらしい。
「服のしわにはうるさい助手がいる」
「わかっていらっしゃるなら……」
こんな場で説教するのか、と言うかのような神宮寺の表情の変化に、洋子は言いかけていた言葉を収め、神宮寺へと近づく。
「先生のシャツもしわになってしまいますから」
「……そうだな」
神宮寺のシャツを脱がせ、きちんとたたんで椅子へと置く。
後ろから神宮寺が洋子を抱きしめてきた。何も邪魔するもののない胸の先端は、まだ先ほどの快感を忘れてはいない。
洋子の突起を神宮寺の指がとらえる。もう片方の手が洋子の太ももを撫で上げ、指先が秘所に触れる。下着の上からではあったが、洋子にも、くちゅり、と水音が聞こえた。
下着がわずかにずらされ、神宮寺の指が秘所を何度も撫でる。
下半身を襲う快感に耐えられず、洋子は事務所の大きなテーブルに上半身を預けた。
倒れる不安がなくなったとたん、秘所へ全ての意識が集中する。神宮寺の無骨な指の感触がはっきりとわかる。
神宮寺の指が秘所の中へ入り込んだ。ぐるりとかき回し、すぐに抜き取られる。何かを確認したようだ。
背後で神宮寺がベルトを外す音が聞こえた。
あわてて洋子は下半身を疼かせたまま体を起こす。
「先生……後ろからでは嫌です。顔を見せてください」
立ち上がって神宮寺と向き合うと、秘所から一筋の液が伝い落ちるのがわかった。
ベルトをはずす動作を中断した神宮寺が、すまない、と言って洋子を抱えあげる。
しばらく神宮寺の腕の中にいた洋子は応接室のソファへと下ろされた。
「少し、待っていてくれないか。すぐ戻る」
「はい」
その言葉通り、神宮寺はすぐに戻ってきた。手にはコンドームを持っている。
この事務所のどこにそんなものを置いていたのだろう、と洋子は不思議に思ったが、直接訊ねるほど気の利かない女ではない。下着とスカートを脱ぎ、じっと神宮寺なりの『準備』が終わるのを待つ。
やがて、神宮寺の手が洋子の足を開かせはしたが、彼はそれ以上体を進めてこない。
「君は……後悔しないか?」
そう呟く声に、神宮寺のためらいを感じた洋子は問い返す。
「先生こそ、後悔なさいませんか?」
「いや」
「私もです、先生」
秘所にあてがわれた神宮寺のものがゆっくりと中へ入ってくる。
破瓜の痛みはもう昔に済ませたが、それとは別のちくりとした痛みが洋子の心へはしる。恋情のないままに行為に及んだことへの悲しみだろうか――。
神宮寺が顔をしかめる。洋子はそっと彼の頬へ触れた。
「先生、大丈夫ですか?」
挿入されているのは自分だというのに、洋子は気づけばそう聞いていた。神宮寺のほうが苦しんでいるのはないか、と思ったのだ。
神宮寺の指が洋子の髪の中をすべる。
「大丈夫だ」
「私も大丈夫ですから、我慢なさらないでください」
「すまないが……」
神宮寺の言葉は途切れた。
ゆっくりと洋子の中で神宮寺が動き始める。
神宮寺が動くたび、洋子の中にある快感と切なさがかき混ぜられていく。愛しい男のものを秘所で締め付けることで、洋子は密かな想いを示した。
互いの吐息と、重なる箇所から漏れる水音だけが室内に響く。
言葉には出さないが、二人は恋人のように体を、腕を絡ませていた。
果てた余韻もおさまった頃、洋子はゆっくりと体を起こした。太ももや秘所にまとわりついていた液はすでに拭き取られていた。
ソファの近くに置いた下着とスカートを履いたはいいが、上半身を覆うものは事務所の椅子に置いている。洋子は胸を押さえて仕切りの向こうへと移動した。
神宮寺はすでにシャツを羽織り、椅子に座って紫煙を吐き出している。
「洋子君?」洋子を見て驚いた神宮寺だったが、椅子にかけられたブラウスに気づいた。「俺は上へ行こう」
戸惑いの表情のまま、灰皿で煙草をもみ消した神宮寺が、マルボロとジッポを手に立ち上がる。先ほど全てをさらけだして抱き合った後とは思えない。いつもの神宮寺がいた。
「あの、先生」その背に洋子は呼びかける。「私は……必要ですか?」
神宮寺の背が緊張に固まった。
洋子は恋愛の意味も含めて『必要か』と聞いたのだが、まだ、神宮寺の中にその答えはないのだろう。
「あの……助手として、私は必要ですか?」
質問を変えた。
ふっと神宮寺の小さな笑みが背中ごしに聞こえてきた。
「ああ、もちろんだ」
不思議と洋子の中で安堵が生まれる。
神宮寺だけでなく、自分もまだ関係の変化を望んではいないのかもしれない。
階段を上がっていく神宮寺を見送った洋子は、愛しい男が残した胸の痣にそっと指を這わせた。
◇終◇