身体を重ねるようになったのは、いつからだったろうか  
 
互いに想いを言葉に変えて告げた事は、まだない  
 
だが唇を重ね、視線を繋ぎ、互いの欲望の丈を交わらせる事で、この距離のない場所に辿り着く事が出来た  
 
……出来たと、思っている  
 
 
だが、本当にそうだろうか  
そう思っているのは自分だけなんじゃないのか  
 
本当の……  
 
本当の君は………  
 
 
「………生……先生……」  
 
「………?」  
呼び掛けられて視線を上げた先には、戸惑ったように俺を見つめる彼女の顔。  
「……先生。どうかなさいました?」  
「……いや……」  
無造作に投げ出したままの腕に少し重みをかけて起き上がろうとすると、彼女が痛そうに顔をしかめた。  
思考の底から意識が引き出され、漸く自分がどんな状況にあるか思い出した。  
「……すまん。重かったな」  
そう言って、彼女の肢体から自身の体を引き剥がす。どうやら彼女に覆い被さったままの体勢で惚けてしまっていたらしい。  
「……疲れてます?」  
彼女はくすりと笑みを浮かべながら、細い腕を俺の肩に回した。柔らかい掌が硬く張った二の腕を優しく摩る。  
「今日は、もう休まれたらどうですか?」  
 
遠慮がちに提案する彼女の唇を口付けで軽く塞いでから、さらりとした黒髪を指で梳かす。  
「まだ始めたばかりだろう」  
言いながら再び体を落とし、首筋に頬を寄せた。  
ほんのりと香る彼女の髪に顔を埋め、その柔らかいようなくすぐったいような感触を味わっていると、間近にあった彼女の横顔がそっとこちらに向けられる。お互いの顔を向き合わせて額を擦りつけると、温かい吐息を間近で感じ、身体が疼くのがわかった。  
寝着のボタンを片手で外しながら、もう一方の手をその内の素肌に伸ばした。少しかさついた俺の指に滑る柔らかな温もり。掌に吸い付くようなその感触が、次第に俺の欲望を昂ぶらせていく。  
だが意識をその流れに任せようとしたすんでの所で、彼女の手が俺の手首をそっと掴んだ。  
「……でも、お疲れでしたらあまり無理なさらない方が……」  
……確かに、その通りだとは思った。  
今日漸く終わりを迎えた事件の調査は、正直一筋縄ではいかないものだった。疲れていないと言えば嘘になる。  
だが……  
「依頼が来たら、またお預けだろう?」  
 
ここ数日、立て続けに受けた依頼のせいでこうして閨を共にする機会がロクに得られなかった。  
依頼を受けている内は、こちらから誘っても、生真面目な彼女にはやんわりとかわされてしまうのだ。  
仕事が多忙なのは実にありがたい事なのだが、こちらの意味では限界だった。  
少し顔を赤らめながら、渋々といった様子で俺の腕を離す彼女。その手の力が抜けたのを見計らって、今度は俺が彼女の細い手首を掴み、華奢な体を組み敷いた。  
上から見下ろす彼女の姿はどこか儚げで、少しでも乱暴にしたらた易く壊れてしまうような印象を醸し出している。  
「あ……あまりじっと見ないで下さい……」  
朱を帯びた顔を横に背けて彼女が言う。  
 
──何度抱いてもそんな初々しい表情を見せるから、余計に困らせてやりたくなるのに。  
 
そう心中で呟きながら、こちらを向いている頬をそっと舌でなぞる。そしてそのまま首筋へと舌を下ろし、暫くそのすべらかな感触を味わった。  
同時に指で鎖骨の線を辿り、衣服の前が開けて無防備な胸の形を歪めない程度に優しく撫で回す。  
「……ん……」  
俺が動きやすいようにする為か、喉を反らせたままでじっと耐えている。  
 
本当はくすぐったくて堪らないのだろう。舌と指を動かす度に喉元を震わせ、噛み締めた唇からは微かな声が漏れている。  
触れるだけの手の動きを速め、親指の腹でまだ柔らかな胸の蕾を軽く押し潰す。  
マシュマロのように真っ白く、柔らかい乳房。  
早くむしゃぶりついてしまいたいと急かす内なる獣欲を鎮め、彼女の理性を削る事を優先して、焦れるような動きを重ねた。  
「……っ……んん」  
喉元を湿らせていた舌を再び上方に向け、今度は耳朶をちろりと舐めた。曲がりくねった縁の奥まで舌先で撫で上げ、唾液をねっとりと塗り付ける。水気を帯びて薄闇に光るさまがなんとも美しく、思わず耳朶に歯を立てた。  
びくりと震え、ぎゅっと目を閉じ反応する姿がなんとも愛らしい。  
「……嫌だったか?」  
「い……いえ、そんな事は……」  
 
声を震わせながらも、何をしても決して嫌とは言わない。彼女はいつもそうだ。もっともあまり乱暴にはしないように気を遣っているし、汚い事も強要していないからというのもあるんだろうが……。  
 
しかし、拒まないとわかっていて彼女にわざわざ尋ねて言わせている俺は、少し意地が悪いのかもしれないな。  
嫌じゃないと答えた後の彼女はいつも不満そうにそっぽを向いてしまう。わかっているくせに、とでも言いたげに。  
それに気付かぬ振りをして耳にふっと熱い息を吹き掛けると、彼女は首筋をまた一つ震わせ、シーツを掴んで声を押し殺した。  
胸の突起は指の愛撫だけで次第に硬くなりつつあった。俺は彼女の耳から舌を離し、胸の膨らみへと顔を近付けた。  
白磁のような肌はほんのりと赤く染まり、さっきよりも温度が増しているようだ。拡げた掌で覆うようにして撫でていると、その火照りがよく伝わってくる。  
薄桃色の乳頭に軽く口付けると、先端がぴくりと震えた。  
最初は啄むように触れるだけのキスを落としていたが、すぐにそれだけでは物足りなくなって舌を突き出した。  
舌先だけで転がすものから、平の部分で舐め回し、濡れた音を立てる淫らな動きへと徐々に形を変えていく。  
「ぅん……っ、ああ……」  
小さく喘ぐ彼女。もっとその声を聞きたくて、双丘の頂きに唇を押し当て、音を立てて吸い立てた。  
 
ぴんと立った乳頭の感触に心を奪われ、何度も舌で転がしては、彼女の意識を快感で満たしてやろうと試みる。  
そして空いている方の突起を摘んで優しく擦り、硬さを増していくさまとその感触を楽しんだ。  
「んぅ……せっ、せん…せ……っ……」  
彼女の声にだんだん甘い響きが混じっていくにつれて、俺の中の理性が溶け出していくようだった。  
焦らして困らせてやろうという思惑とは裏腹に、蕾を弄っていた指の動きは激しさを増し、やがて乳房全体の形を歪めるように揉みしだいていく。  
「んっ、はあっ……」  
苦しそうでありながらも艶やかさが入り混じっている吐息。掌で膨らみを囲むようにして強く揉んでいると、より速さを増していく。  
舌でなぞった部分に軽く歯を立てては、鬱血の痕を赤らんだ肌に幾つも残す。それを見ると心の奥底から独占欲のようなものが湧き出し、理性の決壊に拍車をかけた。  
 
片手で胸を捏ね回しながら、もう一方の腕を彼女の腰に当てる。自身の体を脇にずらし、横から下腹部に舌を伸ばした。  
胸より若干弾力のある平らな腹部に頬を寄せながら、空いた左手で脇腹を摩る。  
その柔らかさと暖かさが疲労した体には心地良く、このまま眠ってしまいたいとさえ思う程だった。  
 
だが昂ぶった本能を抑制するだけの効果はなく、俺は胸から手を離して彼女のズボンと下着を脱がしていく。  
露わになっていく茂みが目に映ると、早くこの欲望の丈を注ぎ込んで、己自身で満たしきってしまいたくなった。  
再び彼女の脚の間に体を割り込ませ、我を忘れそうになる所を堪えながら、目の前の筋に指でそっと触れた。  
 
……もう濡れている。  
 
なぞる指にぬるついた液が絡んだ。何気なく彼女の顔を見ると、やはり恥ずかしそうに俯いている。  
 
暫くしていなかったから、感じやすくなっているのかもしれない。  
 
そう思いつつ、割れ目の中に人差し指を挿し込んだ。外にまで滲んでいるだけあって秘孔内はぬるりとして温かく、中を侵さんとする指をきゅっと締め付ける。  
軽く折り曲げてゆっくりと掻き混ぜ始めると、彼女は息を少し荒ぶらせた。  
「くうっ……ふぁっ、あ……」  
動かす度に指と割れ目の間から漏れ出す蜜。シーツに染み込ませてしまうのが勿体ないような気がして、舌を伸ばして受け止めた。  
彼女自身から愛液を搾り出し嚥下する度に、淫欲が俺の脳を支配し、余計な思考を壊していくかのようだった。  
 
もっと味わいたくて、舌で陰唇の縁を執拗に舐めて甘美な蜜の分泌を促す。  
加えて抜き差しする指を二本に増やし、異なる動きで彼女を翻弄する。  
更にもう一方の手の親指を陰核に添え、爪で軽く弾いた。  
「あっ……!や、はぁ……んんんっ……!」  
高まる嬌声に比例して淫液の量が増していく。腰の震えもだんだん痙攣じみたものになりつつある。そろそろ限界らしい。  
指で膣壁を引っ掻き回すようにして蜜を掻き出し、零れ出したそれを唾液と混じり合わせて陰核に擦りつけた。  
赤く腫れあがったそれを舌で転がし、薄皮を爪先で弄り回す。陰唇がひくひくと震え、秘肉が指をきつく締め上げた。  
「あっ、ぃ……ひ……っ!!」  
甲高い声を短く漏らし、震えていた全身が刹那硬直した。宙に伸ばされていた足先がぴんと張り詰め、やがてがくりとベッドに沈んだ。  
達したのであろう彼女の秘唇からゆっくりと指を引き抜いた。少し位置をずらしただけでとろとろと漏れ出す蜜が劣情をそそる。  
ぐったりしたままの彼女の様子を横目で窺いながら履いていた物を脱ぎ捨て、白い柔肌の上に今一度覆い被さると、それに気付いたのか彼女の唇が小さく動いた。  
 
「……ん……せ、先生……」  
呼び掛けるというよりも、無意識に呟いたような声。まだ恍惚としたままの潤んだ瞳。  
それらがどうしようもなく愛らしく思えて、まだ空気を求めて喘いでいる唇を奪った。  
もはや焦らす気などさらさらなく、欲するままに舌を押し込み、口腔を味わう。  
彼女の口内を愛液に塗れた口で貪るという淫猥な行為が、猛った本能を更なる快感に酔わせていく。じわじわと己を押し流す悦に任せて、音を立てて温かい唾液を啜った。  
「んっ……んふ…ぅ……んん……」  
頂きに行き着いた快楽の余韻が残っているのか、彼女はまだぼんやりとした表情で口吻を受け止めている。  
無防備な舌に自身のそれを絡ませ互いの体液を混ぜ合わせていると、息苦しさに耐えかねたのか、彼女は手を俺の頬に当ててそっと押し戻した。向き合った唇を、分かたれる事を惜しむかのように透明な糸が繋ぎ、やがて胸元に零れ落ちた。  
少し俯いて呼吸を整えると、彼女は一つ息を吐き出して顔を持ち上げた。顎を伝う唾液を拭いもせずに俺だけを見つめている。その眼は先程までの行為の熱に浮かされたままだ。  
 
──愛しい  
 
自然と頭に浮かび上がった言葉が、心身を熱く痺れさせる。  
濡れた瞳の妖しさに心を奪われ、促されるように陰茎を秘部に宛い、側面に愛液を擦りつける。  
裏筋に塗り付けられる粘液は温かく、湿った音を立てて触れ合う部分は少なからず快感を与えてくる。  
このまま続けているだけでも達するには充分だとさえ思えた。  
「んっ……」  
竿を秘所の入口で上下に動かしていると、敏感な箇所に当たるのか、彼女が微かに吐息を漏らした。  
伏せられた睫に指でそっと触れると、困ったような、それでいて非難するような眼で訴えかけてきた。  
「……どうした……?」  
その先を促している事はわかっている。それでも彼女自身の口から聞きたくて、つい意地悪く問い掛けてしまった。  
彼女は戸惑ったような顔をしたまま、じっと俺の目を見つめている。恐らく俺の意図に気付いているのだろう、唇が震え、次に吐き出すべき言葉を選んでいるようだ。  
 
ややあって、彼女はおずおずと白い手で俺の頭を引き寄せ、軽く頬に唇で触れた。  
あまり時間をかける事なく済んだ口付けは実にぎこちないものだったが、それが彼女の精一杯の答だったのだろう。これでは駄目か、と再び眼で問い掛けている。  
 
これ以上焦らすのは忍びないし、自分も持ちそうにない。  
陰唇に擦りつけて充分濡れた肉棒の先端を花弁の中心に押し当て……一気に貫いた。  
 
「……ぁっ……は……!!」  
一度の突きでペニスの半分程を沈めた。勢いをつけて狭い膣壁を抉って進入を果たしたが、動きを止めた途端に強い締め付けが自身を襲う。  
久々に味わう圧迫感に、自然と体が震えた。  
「あぁ……」  
上擦る声と共に息を吐き出しながら、繋がった瞬間の痛みと悦びに、刹那我を忘れかけた。  
その感覚を肉棒全体に広げたくて、腰を一度引き戻し、もう一度膣奥へと押し入った。今度はゆっくりと、味わい尽くすように。  
抜き差しを繰り返す内に膣肉がだんだん自身に馴染んでいく。温かい愛液を擦り付けては摩擦の痛みを追いやり、互いの秘部が溶け合っているかのような錯覚さえ摩り込んでくる。  
「ああっ……!は、んうっ……ひぁっ!!」  
薄紅色の唇から零れる喘ぎが次第に甲高いものになっていき、耳に心地よく響いた。  
更に彼女自身から漏れ出る何物にも勝る媚薬を肉杭に染み込まされ、律動の速さを自制出来なくなる。  
 
 
163 名前:名無しさん@ピンキー 投稿日:2007/03/20(火) 18:29:01 ID:wiXT6MkN 
突き込むペースを速めながら、揺れる乳房に両手を押し付け強く揉みしだいた。力任せに掴まれて形を変える膨らみの感触を掌に刻み込みながら、もはや抑える事もなく声を上げ続ける口を塞ぎ、舌をねじ込んだ。  
「んふ、んぅっ!う……ふっ……!!んんー……」  
まともに息が出来ずに苦しそうに呻く彼女。だがその眼に宿る熱と浮かんでいる涙は辛さからくるものとは異なるものであるとわかり、より深く腰を沈み込ませた。  
唇を離すと熱い吐息が混ざり合う。シーツを掴んでいた細い手を振りほどき、自分の手ときつく重ね合わせると、虚ろだった視線が俺の顔にぴたりと焦点を合わせた。  
「んっ…あぁ……」  
満たされたように笑みを浮かべる彼女。指を自分からそっと絡め、もう一方の腕を俺の背に回してきた。  
 
──愛しい  
 
嘘のない想いが色濃く込み上げる。  
なのに俺はまだどこかで躊躇っている。  
一体何を?こんなにも傍にいるのに。  
身体を繋ぎ合わせながら、意識の隅にこびりつく不安に問い掛けた。  
一つ問いを投げ掛けるとそれが幾つも幾つも根を張り、彼女への想いさえ覆い隠していきそうな気がして、それを振り払うように突き込みに没頭した。  
 
やがて訪れた限界。より強い締め付け。吐き出されていく欲望の塊……  
射精後も暫く身体を絡め合っていたが、何故か思っていた程の感慨は得られなかった。  
体はこんなにも満たされているのに。  
 
全てを委ねてくれている彼女に後ろめたさを感じつつ何も言えぬまま、心身に纏わり付く疲労を自身への言い訳にして眠りに落ちていった。  
 
 
仄暗い、闇の底。  
 
気付くとそこに立ち尽くしていた。  
周りを見回してみても、辺りは一帯の闇。光は、何処にもない──  
 
その中で視界の隅に蠢く何かの気配を見つけ、手探りで近付いていった。  
やがて俺が歩み寄ると同時に、気配を取り巻く闇が徐々に薄れ、ぼんやりとした光がそこに蹲っているものを僅かに照らした。  
 
泣いている、女──  
 
その場に座り込み、俯かせた顔を両手で覆い、声もなく泣いている。  
ストレートボブの黒髪の隙間から時折覗く嘆きに歪んだ顔貌、そして何度も傍で見、体全体で味わった透けるような肌の色から、すぐに“彼女”なのだと気付いた。  
俺が近付いている事に気付いていないのか、肩を震わせ、鳴咽を漏らしている。だがその声さえこの闇の中には響かない。  
声を掛けようか迷ったが、自分のそれさえここでは届かないような気がして、ただじっとその場に佇んでいた。  
 
よくよく彼女を見ていると、俯く顔のその傍に何かが横たわっているのがわかった。  
抜け殻のような、人形のような、生気の感じられない歪な塊。  
微動だにせず彼女の前にあり続けるそれを中心にして広がる小さな海。  
その色は、この暗がりにも映える鮮血の赤。  
顔は俯せていて見えないが、それがかつてこの手で壊した命の抜け殻である事が、何故か容易にわかった。  
同時にここが時折眠りの狭間で訪れる世界の一つである事も察する。  
 
俺は思わず溜め息をついた。  
幾度となく見てきた夢。それでも心の奥底にしまい続けていた痛みを思い出させるには充分だった。形こそ違えど、戒める為に見せている事に変わりはないのだろうから。  
 
後悔はしていない。そして、彼女の痛みと涙の重さから目を背けるつもりもない。  
ただ……  
 
もし彼女が、今でも俺を恨んでいるのだとしたら……  
今でもあの男を想っていて、その上で俺に抱かれてくれているのだとしたら……  
 
他ならぬ俺自身が彼女を苦しめているんじゃないのか……?  
 
漸く俺の存在に気付いたのか、彼女の顔がつとこちらを見上げた。  
あの時と同じように、怒りと悲しみに満ちた視線を外さぬまま、ゆっくりと立ち上がる。  
音も無く、彼女がこちらへと歩を進め始めた。その瞳に昏い憎しみの色を湛えて。  
だらりと垂れ下がった両腕がのろのろと持ち上がり、俺の方に伸ばされる。  
時間の流れが狂ってしまったかのような遅々とした動き。再び薄暗くなっていく周囲。音一つ立たぬ闇の中、彼女だけが陽炎のように揺らめき、ゆっくりと歩み寄ってくる。  
それはまるで、永遠のような時間だった。  
 
そろそろと、真っ白い両手が近付いてくる。  
俺の視界の中で、だんだん大きくなって──  
 
覆うように、俺の首元へ。  
 
締め上げるような形で掌が首に張り付き、押さえ込む力が少しづつ増していく。  
瞳に篭った悲嘆と憎悪の念は、喉を圧迫する手の力に比例して色を増し、何よりも強い鎖となって俺の心身を居竦める。  
 
 
音の無い暗闇──  
 
だが彼女の唇が紡ぐ声無き言葉は、確かに俺の意識の内に届いた。  
 
 ……人殺し  
 
       ……人殺し……  
 
幾つも幾つも、追い立てるように  
 
  ……人殺し……人殺し……人殺し……  
 
頭の中で反響しながら、呪阻のようにじわじわと俺の心身を覆い尽くす。  
 
  ……人殺し……人殺し……人殺し……人殺し……人殺し……人殺し……人殺し……  
 
再び深い闇に包まれた視界に映るのは、彼女の陰鬱な双眸。しかしそれさえも、だんだん薄らぐ意識と相まってぼんやりと霞む。  
 
喉元に彼女の親指の腹が重く食い込む。息が詰まり、鼓動が速まる。  
頭の中で誰かが叫ぶ。俺だったろうか。それとも彼女だったろうか。  
 
 
遠のく意識。途切れぬ声。  
叫びは騒音でしかなく、もはや何を訴えているのかさえわからない。  
 
耳障りな音が全身を蝕んでいく。遠く、近く、先程までの静寂が嘘のように響き渡る。  
 
途切れ途切れの思考の中に、彼女の絶望を映した眼が浮かび上がる。だがそれもすぐに立ち消え、喉を圧迫する痛みさえ他人事のようにしか思えなくなった。  
 
体が浮き上がり、やがて落ちていく。  
足元にぽっかりと開いた穴に吸い寄せられるように、全身が落とし込まれる。  
騒音は頭蓋の内で膨れ上がり、その狂った音色を外にまで撒き散らさんとしているかのようだった。  
 
音の波が脳髄を貫く。  
その頭を食い破られるような感覚に全身が震え、遠のいた筈の意識を強く刺激され、思わず目を開くと──  
 
 
 
薄暗い、闇。  
 
見慣れた寝室の天井。  
下ろされたブラインドの隙間から僅かに差し込むネオンの光。  
そして、傍らで小さな寝息を立てている彼女──  
漸く夢の中の戒めから解放されたのだと理解するのに、少し時間がかかった。  
思わず大きく息を吐き出し、額に手を当てた。汗ばんでべたついた掌が、同じく汗でじっとりとした顔を覆う。夢の名残か体全体がだるく、汗を拭う腕にもあまり力が入らない。  
本当に首を絞められていた訳でもないのにやたらと息苦しい。呼吸を整えようと試みるが、なかなかすぐには収まってくれそうになかった。  
それでも乱れたままの意識を鎮めたいと思ったせいか、俺の手は無意識の内にサイドテーブルの上のマルボロのパッケージに伸ばされていた。  
中から一本取り出し、ジッポを取ろうと再びテーブルに手を伸ばそうとしたその時だった。  
 
「……先生……?」  
 
耳元に囁かれた彼女の声に、刹那体が悪寒を覚えた。  
恐る恐る顔を彼女の方に向けると、その美しい相貌が薄闇に紛れて青白く浮かび上がって見えた。  
水底のように穏やかな瞳が、俺を捕らえて離さない。  
窓の外から微かに聞こえる喧騒の音が、次第に遠ざかっていく。  
 
──俺はまだ、夢を見ているのか……?  
 
音を無くした暗闇の中で俺を見つめる彼女の姿だけが、まだ曖昧な視界の中に映りこむ。  
 
そろそろと、真っ白い両手が近付いてくる。  
 
──それとも、これが現実……?  
 
その両手が、俺の視界の中でだんだん大きくなって──  
 
 
 
包み込むように、俺の頬へ。  
 
「…………」  
「……大丈夫ですか……?」  
言いながら、俺の頬をそっと撫でた。浮かんでいた汗が彼女の手を濡らす。  
ぼやけていた神経が急に鮮明になり、遠のいていた音達が戻ってきた。  
不安げに俺の顔を覗き込んでいる彼女。今、俺はどんな顔をしているのだろう。  
「先生……」  
「………あぁ……」  
気遣うような呼び掛けに応えようと漏らした声は小さく、随分しゃがれていた。  
言葉にすらなっていない声を聞くと、彼女は脱いであった寝着を纏ってベッドから降り、寝室を後にした。  
重い上半身を持ち上げ、まだ冴えない意識の望むままにマルボロに火をつけ、紫煙をゆっくりと吸い込んで吐き出す。それが渇いた喉にはきつかったのか、少し咳き込んだ。  
 
何度も見てきた、あの時の夢。  
だがあんな情景を見るのは初めてだった。しかもよりによって、彼女をあんな風に夢想するとは……。彼女の言うように、余程疲れているのか。  
それとも、心のどこかで彼女を信じきれていないのか……  
夢の中の事とはいえ、苛立ちを覚えずにはいられなかった。  
自己嫌悪を抱いたまま味わう煙草が旨く感じられる筈もなく、俺はまだ長い煙草の火を揉み消した。  
 
ふと顔を上げると、心配そうに俺を見下ろす彼女の姿。その手にはハンドタオルと水の入ったコップを持っている。  
コップを手渡されると、俺は中の水を一気に飲み干した。喉を通り抜けるひんやりとした感覚が、頭の内側に燻っていた熱と不快感を取り去っていく。  
息をつく俺の額の汗を、彼女が湿ったタオルで丁寧に拭いている。程よく冷えたそれを当てられていると、鬱々とした意識が少しづつ晴れていくような気がした。  
「……ありがとう」  
「いえ……」  
そう言って引き戻そうとした彼女の腕を掴んだ。あまり力を入れずに掴んだので簡単に解かれてしまうと思ったが、彼女は腕を持ち上げたまま、じっと俺を見つめている。  
夢で見たそれとは違う、穏やかで吸い寄せられるような眼差し。  
このまま飲み込まれてしまいたいとも、飲み込んでしまいたいとも思わせる瞳──  
 
もう一方の手で肩を抱き寄せ、柔らかな唇を塞いだ。同時に彼女が少し不満げに眉を潜める。  
 
……キスする時は煙草はやめろと前に言われていたな。  
 
それでも彼女は引き離すでもなく、黙って為すがままになっていた。押し込んだ舌にも嫌がる事なく自身の舌を絡ませてくる。  
やがて離れた唇から息が漏れ、俺の唇に吹きかかった。その生暖かさに惹かれ、着直された寝着の前を再び広げる。驚いた様子で彼女は俺を見上げた。  
「あ、あの……またなさるんですか……?」  
「……嫌か?」  
「そうじゃないですけど、もう休んだ方が……」  
いつものように俺を気遣う彼女。夢で見た時のような表情は少しも見られない……当然の事か。  
だが……  
「じゃあ……」  
言いながら彼女をベッドに横たえ、自身もまたその横に沈み込む。  
「………?」  
問い掛けるような視線を向ける彼女を緩く抱いて、耳元に囁いた。  
「このままで寝てくれないか?」  
暫く固まっていた彼女だったが、やがて肩をすくめて頷いた。その顔には困ったような、呆れているような笑みが浮かんでいる。  
 
受け入れてくれる彼女。きっとその笑みに偽りはないのだろう。  
 
 
だが……  
 
それでも俺は……  
 
 
 
君がこの腕の中からいなくなる事に怯えている──  
 

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