いつしか辿り着いていた、距離のない関係  
 
 
 手を伸ばせば、た易く触れられる私達の立ち位置  
 
 
 私達は、こんなにも近くにいる  
 
 こんなにも繋がり合っている  
 
 
 でも、貴方の心はどこか遠くて──  
 
 
 
 *  *  *  *  *  
 
 
 
 心地よい重み。  
 
 ベッドに横たわった私の体に、先生が覆い被さったまま動かない。  
 どれ位ぶりの温もりだろう。最後に一緒に寝たのは遠いと思う程前の事ではない筈なのに、どこか懐かしささえ覚える。  
 押し潰されてしまいそうな圧迫感にも何とも言えない安堵を覚えて、そっと腕を先生の背に回した。シャツ越しに男の人の引き締まった背中の感触が伝わってくる。  
「……先生」  
「…………」  
 
 呼び掛けに応える声はない。私の胸の辺りに顔を埋めたまま、少しも動かない。  
「………先生?」  
「…………?」  
 何度目かの呼び掛けに気怠げに顔を上げた先生。なんだか眠たそうな目で私を見上げている。  
「……先生。どうかなさいました?」  
「……いや……」  
 言いながら、のっそりとした動作で起き上がろうとした。投げ出されていた腕に力が篭り、その下の私の肩の辺りに重みがかかる。  
 
 鈍い痛みに思わず顔をしかめた。  
 先生は慌てて腕を退け、私の体から身を持ち上げた。  
「……すまん。重かったな」  
 呟くように謝るその声はぼそぼそとしていて、あまりはっきりしていない。  
 
 ……ここの所、殆ど休みなく依頼が入っていたから、疲れているのかもしれない。  
 
「……疲れてます?」  
 先生の肩に腕を回しながら問い掛けた。逞しい二の腕に掌を這わせると、その温もりが布越しにも伝わる。  
「今日は、もう休まれたらどうですか?」  
 そう尋ねると不意に先生の顔が近付いてきて、彼の唇が私のそれに軽く触れた。同時に大きな手が私の頭をそっと撫で、髪の隙間に指を入り込ませてくる。  
「まだ始めたばかりだろう」  
 そう言いながら、横たわる私の隣に体を落とし、首筋に顔を埋めた。時折触れる頬の感触がくすぐったく、しかし気持ち良い。もう少しこのままこうしていて欲しいと思える。  
 でも正直な所、あまり無理をされても困る。ただでさえ仕事が不規則なのに……  
 
 もう一度制しようと顔を向き合わせると、彼が額を擦り合わせてきた。間近で見る先生の瞳。私の全てを見通して、捕らえようとするかのようなその視線に、言葉を失ってしまう。  
 
 
 その間にも、彼の動きは止まらない。  
 寝着のボタンを外し、露わになった素肌に手が伸びる。硬くて大きな掌に胸元をまさぐられ、身体がだんだん熱くなっていくような気がした。  
 少し汗ばんだ手が、そろそろと膨らみの方へと下ろされていく。熱くて、気持ち良い。  
 そのままこの感触を全身に滲み込ませて欲しい……そんな願望が思考を妨げようと疼いている。  
 ……このまま、飲まれてしまったら……  
 
「…………?」  
 ふと気付くと、手の動きが止まっている。戸惑って目を開くと、先生が怪訝そうに私を見ていた。私、というよりも、私の腕を……  
「……あ……」  
 どうやら気付かない内に彼の腕を掴んでしまっていたらしい。決して嫌だった訳ではないのだけれど……  
 気を悪くしてはいないだろうかと不安になって、慌てて次の言葉を探した。  
「……でも、お疲れでしたらあまり無理なさらない方が……」  
 そう言うと、先生は少し考え込むような顔をした。別段不満げという訳ではなさそうな表情に内心安堵しつつ、内なる欲求のままに行為が進まなかった事に物足りなさを感じている自分がいる事に気付いた。  
 
 でも……そう。これで良い。  
 だって、こういう事はいつでも出来るもの。  
 それに"した"夜の次の日は、お互いに疲れ切ってしまっていて、仕事にならない日もたまにある。  
 手加減、してくださらないんだもの……  
 ……とにかく、疲れているのなら無理せず休んで頂きたい。助手なんだし、こういう所はしっかりしないと。  
 そう自分に言い聞かせて、何とか心を鎮める事が出来たのだが……  
 
「依頼が来たら、またお預けだろう?」  
 そんな先生の言葉に、反論の声を失くしてしまった。  
 
 ……確かに、立て続けに入った依頼に追われていて、もう何日も"して"いない。  
 ……というか、誘われる事は何度かあったのだが、仕事に支障をきたしては困ると思ったので断っていたのだ。  
 目の前の男性はじっと私を見つめたまま動かない。何を言っても譲らない時の先生の眼を、私はよく知っている。  
 
「…………」  
 掴んでいた腕を、渋々離した。  
 こういう時に頑とした姿勢で拒否出来ない自分が情けなくも思えるけれど、この人にこんな風に迫られたら敵わない。  
 制止を諦めた途端、その離された手で私の手首を掴み、再び先生は私の体の上に覆い被さった。  
 
 先程と同じくじっと見つめてくるその眼には、色濃い熱を帯びた欲求が宿っている。  
 
 ……そんな目で見つめられると──  
 
「あ……あまりじっと見ないで下さい……」  
 
 ──駄目になってしまいそうになる。  
 
 言いながら顔を背けると、からかうように頬を舌でなぞられた。厚くてざらついた舌の生暖かさに、身体がびくりと震える。  
 そのねっとりした感触は首筋へと下ろされ、胸元に触れる指の動きと交わっていく。  
「……ん……」  
 くすぐったくて、体を捩じってしまいそうになる。喉元が震えているのが自分でもよくわかる。  
 じっと耐えていると、肌に優しく触れていた指が胸の突起を弄り出した。強く押し潰すようなものではなく、やはり触れるような小さな愛撫。  
 
 足りない、と私自身が訴えているのがわかった。  
 時折先生は、こうして焦らすような動きをする事がある。私からの動きや言葉を引き出そうとするような愛撫ばかり重ねては、私の中の理性と欲求とをじわじわと揺るがせていく。  
 狡い人だ、と思わなくもない。  
 
「……っ……んん」  
 喉元を唾液で湿らせていた舌の動きが、今度は耳元に移った。舌先を尖らせるようにして縁を何度も舐め上げては、熱い吐息を掛けてくる。  
 
 舌の動きが止まったと思ったら耳朶を甘噛みされて、思わずぎゅっと目を閉じてしまった。  
 指の動きがぴたりと止まり、彼の唇が耳元から離れた。  
 
「……嫌だったか?」  
 問い掛ける声に頤を上げると、思ったよりすぐ側に先生の顔があった。  
「い……いえ、そんな事は……」  
 そう答えかけて、ふと気付いた。  
 気遣うかのように見えるその眼には、少なからず好奇の色が混じって見える。まるで試すような視線。  
 きっと先生は気付いているのだ。どんな事をされても、私が「嫌」という事はないのだと。わかっていて尚、私の答を聞きたがっている。私の口から"それ"を言わせようとする。  
 
 本当に、狡い人──  
 
 そう思ったら、すぐ目の前にある顔が愛しくも憎らしくも思えてきて、つい彼の顔から視線を逸らしてしまった。  
「っ……!」  
 再び耳に息を吹き掛けられ、高まってきていた神経が疼く。ぞくぞくするのに不快じゃない。声を上げそうになる所を、シーツを掴んでぐっと堪えた。  
 
 触れるだけの胸への指の動きは、やがて硬くなってきていた突起を摘むような動きに変わっていた。更に耳朶から離れた唇がもう一方の頂きに触れ、小さな刺激をもたらす。  
 
 軽く啄むだけの優しいキスから、膨らみ全体に舌を擦り付け、湿った音を立てるような大胆な愛撫へ。  
「ぅん……っ、ああ……」  
 声が、抑えきれなくなる。  
 一方は唇にくわえられて強く吸いたてられる。そしてもう一方は親指と人差し指に挟まれ、ぎゅっと押し潰されたり、優しく擦られたりしている。  
 もう焦らす気はないのだろうか、それらの動きは次第に速さを増してきているような気がする。  
 息が……つけなくなりそう……っ  
 
「んぅ……せっ、せん…せ……っ……」  
 止めて欲しいのか、せがんでいるのか、自分でもよくわからない。  
 ただ触れる温もりが心地よくて、嬉しくて、言葉にならない想いが呼び掛けに変わる。  
 胸の突起を弄っていた手が大きく拡がり、膨らみを捏ねるような動きを見せた。指が肌に食い込んでくる圧迫感が、ぼやけかけてた意識を鮮明にさせる。  
「んっ、はあっ……」  
 痛いけど……暖かい。包み込まれているみたいで、何だか安心する……  
 舌で濡らされた方の膨らみには、口付けと甘噛みを施された赤い刻印が散らされ、上塗りされた唾液がほんの少し滲みた。  
 
 でも、その痛みさえ先生が私を求めてくれている証なのだと思ったら、どうしようもなく嬉しくなって、身体が反応してしまう。  
 
 私の上に重くのしかかっていた温もりが離れたのに気付いて見下ろすと、先生は体を横にずらして、空いている方の手で私の下腹部を優しく撫で始めていた。  
 頬を擦りつけ、舌先でちろちろと舐めては、彼が触れていた痕をつけてそこをくすぐる。  
 胸を揉んでいた手が離れ、私の寝着のズボンに伸ばされた。下着も一緒に取り去られ、大事な箇所が露わになる。両足を広げさせられて"そこ"を覗き込まれると、身体全体がかぁっと熱くなった。  
 足と足の間に大きな体が割り込んでくる。そして先生の指が"そこ"をそっと撫でた。ぬるっとして滑るような感触。もう外側まで濡れてきているみたい。  
 それに気付いてか、彼が私を見上げてきた。何故か咎められているような気分になって、思わず目を逸らしてしまった。いやらしいと思われたりしてはいないだろうかと、不安になってしまう。  
 しかしそんな私の気持ちを余所に、先生は特に気にした様子もなく私自身の中に指を一本差し込んだ。  
 
 さほど苦しくはないけれど、久しぶりに異物を受け入れた"そこ"は侵入物を確かめるかのようにきつく締め上げてしまう。  
 太くてごつごつとした先生の指。  
 折り曲げたり掻き回したりして、膣を拡げようと暴れ回っている。  
「くうっ……ふぁっ、あ……」  
 敏感になってきている部分を擦られ、自分のそれじゃないような高く掠れた声が出てくる。堪らなく恥ずかしくなって、抑えなきゃと思うのに、止まらない。  
 指を出し入れされる度に、隙間からぬるついたものが零れ出てきて彼の手やシーツを濡らしていく。  
 そこにいきなり舌を押し付けられて、入口の縁にまでその熱くぬめった感触を擦り付けられた。彼の唾液と私の中から漏れ出たものとが混ざり合ってはしたない音を出している。  
 そうして出来た、いとも淫らな蜜を、彼が音を立てて啜っている。決して綺麗とは言えない、私の欲求の寄せ集めのようなそれを……  
 
 恥ずかしくて、いやらしくて……拒んでしまいたいと理性が訴えている。  
 
 それでも、私の身体はこんなに悦んでいる。  
 貴方に求められて、貪られて、こんなに高められている──  
 
「あっ……!や、はぁ……んんんっ……!」  
 
 中を拡げる指が二本に増え、"そこ"より少し上から、また別の快感が私の思考を麻痺させようと蠢いた。  
 先生の親指が、一番感じやすい小さな突起を弄んでいる……  
 痛みを覚える訳でもないのに、涙が浮かんでくる。  
 痛くなる程掴んでいるシーツの感触も、汗と唾液に濡れた肌の、外気に触れてひんやりとした感覚も……何もかもが曖昧になって、ただ"そこ"を攻め続ける快感の波ばかりが、確かな形となって私を苛んでいく。  
 
 駄目……駄目……駄目……駄目っ……!!  
 
「────っ!」  
 舌が突起を舐め回し、爪が何度か"それ"を引っ掻いた。  
 目の前が真っ白になって、身体ががくがく震えた。  
「あっ、ぃ……ひ……っ!!」  
 私が小さく声を上げた。消え入りそうな嬌声。  
 でももう、他人事のようにしか思えない。自分の声じゃないみたい……  
 
 
 わからない もう何も──  
 
 体が 浮き上がっているような感じ  
 
 熱くて 苦しくて……  
 
 
 でもとても 気持ち良い──  
 
 
 ぼんやりとした視界に、重たい影が覆い被さってきた。  
 痺れるような快感と重なる確かな温もり。安心出来る、この感じ。  
 
 知っている。この愛しささえ覚える重みが誰のものなのか、私は知っている──  
 
「……ん……せ、先生……」  
 まだうっすらと霞んだ意識のまま、言葉を紡いだ。  
 不意に影が目の前に近付いてきて、私の唇を塞いだ。ぬめる舌が中に入り込んで、探るように這い回っている。呼吸の整わぬままに口内を貪られて、意識がまた遠のきそうになった。  
「んっ……んふ…ぅ……んん……」  
 まともに動かせない私の舌に、先生のそれが激しく絡みついてくる。溢れ出しそうになる唾液を啜っては掻き混ぜ、口腔に彼の唾液を送り込んできた。  
 お互いの体液が私の口の中で混ざり合い、やがて体内へ流されていく。そのひどく淫らな感触に、まるで一つになった時のようだと錯覚さえした。  
 
 もう少しこのままでいたかったけれど、さすがに息が苦しくなってきて、彼の頬をそっと押し離した。  
 唇と唇を繋ぐ透明な糸が、吐息に揺れてぽつりと零れた。胸の辺りに落ちたそれはまだ生暖かったけど、呼吸を整えている内に冷たくなっていった。  
 
 落ち着いてきた所で顔を上げると、私の上に馬乗りになったままの先生と目が合った。  
 口付ける前に脱いだのだろうか、既に衣服を着ておらず、頑強そうな身体がまだ少しぼやけた目に留まる。  
 私を見下ろす眼には、相変わらず情欲を孕んだ熱が宿っている。  
 より強く、濃く、溺れてしまいそうな程に深い視線。そこで漸く、恍惚に浸るにはまだ早い事に気付いた。  
 
 ……ああ、そうだった。  
 
 まだ終わっていない。  
 お互いに満たされるのは、これからだった。  
 
 でも、今でさえこんなに乱れてしまっているのに、貴方自身を受け止めてしまったら、どうなってしまうのだろう──  
 
 ……どれだけの悦びを得る事が出来るのだろう。  
 
 期待に戦慄く身体が、自分のものではないかのようだった。  
 
 淫らな蜜を零す"そこ"に熱く滾ったものを押し当てられ、朦朧としていた意識が引き戻された。  
 
 どれ位ぶりかの快楽を、今やっと味わう事が出来る。  
 抑えつける理性も、自分を戒める羞恥心も、今はいらない。  
 どうか貫いて欲しい。貴方を、そして私を満たす為に。  
 
 ……ところが、先生は自身を"そこ"の外側に押し付けて上下に擦り付けるばかりで、なかなか挿れてくれない。  
 溢れた液が彼自身の裏側に塗り付けられて、恥ずかしい音を立てている。  
「んっ……」  
 突起と入口を擦っては、先程同様の小さな快感を与えてくる。  
 
 でも、これじゃ足りない……どうして"して"下さらないの?  
 
 目で問い掛けると、先生はやっと口を開いてくれた。意地悪そうな笑みを浮かべて。  
 
「……どうした……?」  
 ただ一言だけ、聞いてきた。その言葉の響きに、彼の行為の意味を見出す事が出来た。  
 
 ……焦らしているんだ。こんな、今更になって。  
 求める言葉を私に言わせたくて、欲しがる私を知っていながら、こんな風に困らせている。  
 
 
 言ってしまいたい  
 
 貴方が欲しいと  
 
 でも……  
 
 
 でも私、まだ………  
 
 
「…………」  
 私は両手で彼の顔を引き寄せ、頬に口付けた。短い、触れるだけのキス。やがて顔を離すと、縋るような想いで先生を見つめた。  
 
 ……言えなかった。  
 
 願望よりも羞恥が先に立ってしまった。  
 いつだって私は、自分を解放する事が出来ない。必ずどこかで欲求をせき止めてしまう。  
 
 こんな事だから、いつもこうやって焦らされてしまうのかもしれない。  
 
 望む通りに出来ない私を、先生は求めてくれるのだろうか。  
 
 ……愛想をつかされたりはしないだろうか。  
 
 
 やがて先生は、ふっと息をついて彼自身の先端を私の中心に宛った。しびれをきらしてしまったのだろうかと思ったけど、特に不服そうな顔はしていなかったので、少し安心した。  
 挿入に備えてゆっくり息を吐き出そうとしたが、そんな間もない程唐突に、衝撃に見舞われた。  
「……ぁっ……は……!!」  
 いきなり私自身が大きく押し拡げられ、息が詰まった。先生自身が、勢いをつけて"そこ"を貫いたのだ。  
 たった一突きで内側を抉られ、圧迫される私自身。彼のものをきつく締め上げては、その形を確かめようと蠢いている。  
「あぁ……」  
 一つ息を吐き出して、うっすらと目を細める先生。心地良さそうにしているその顔が堪らなく愛おしく思えて、心が体ごと震えるような想いだった。  
 入ってきた時とは打って変わって、随分ゆっくりとした動きで彼自身が引き抜かれる。そして再び中に潜り込んでくる動作もまた、遅々としたものだった。  
 
 まるで繋がる感触をよく味わおうとしているかのよう。  
 痛みにも近い摩擦感は、次第にお互いを絡め合う事で、ゆるゆるとその形を変えていく。  
 開かれる苦痛も温もりに失せて、今まで身体を重ねる度に味わってきたあの感覚が、私の意識と思考を途切れさせていく……  
 
「ああっ……!は、んうっ……ひぁっ!!」  
 声を抑える事さえ忘れて、私は先生の欲求の塊をくわえ込んでいた。開いたままの口から、自分でも信じられない程甘い嬌声が零れている。  
 律動に揺れていた体が押さえ付けられ、胸が彼の手に覆われる。力任せに掴まれ、揉みしだかれる事に痛みを感じるのに、私の身体は悦びに打ち震えていた。  
 
 身体が……熱いっ……!  
 
 これ以上されたら……本当に私、壊れちゃいそう──  
 
「んんっ!!」  
 声を上げ続けていた口に、先生の唇が重ねられた。  
「んふ、んぅっ!う……ふっ……!!んんー……」  
 呼吸を遮られ、顔が火照ってくる。奪い尽くすように口内を掻き回す舌の動きに、頭の中が真っ白になってくる……全部、蕩けてしまいそうになる……  
 
 離れた唇から行き場を得た吐息が零れ、お互いの顔に吹き掛かる。  
 でもその感覚さえ曖昧で、意識が浮き上がったまま、戻ってこないでいるようだった。  
 シーツを掴んだままの手を引き剥がされ、先生の手が重ねられた。太くて硬い指をきつく絡められて、今こうして繋がり合っている事に幸せを感じた。  
「んっ…あぁ……」  
 嬉しさに小さく声を漏らした。絡んだ指に少し力を込め、もう一方の腕を彼の背に回す。そうして改めて先生の眼を見つめると、熱に浮かされてぼんやりしていた意識が、急に落ち着きを取り戻し出した。  
 
 
 欲に満ちた瞳の中に、僅かな影が落ちている。  
 自身を圧迫する痛みや、苦痛に対するものとは違う。  
 
 それはどこか、哀しみにも似た色を宿していて──  
 
「……んん!ふぁっ、ああぁっ!!」  
 貫く彼自身の動きが激しくなった。再び快感の波が私の思考をさらっていこうと大きさを増していく。  
 熱に侵された眼が私を射抜いた。獲物を捕らえた動物のような、決して抗う事を許さない視線。  
 抱かれる度に心を竦められてしまう、畏怖さえ覚える瞳……  
 
 
 なんて眼をしているんだろう  
 
 私が貴方を拒む訳がないのに  
 
 
 どうしてそんな、哀しい眼をしているの……?  
 
 
「く……ぐっ、ううぅ……っ!!」  
「はあっ……!あっ、あぁ……」  
 呻くような声と共に、私の中で先生の溜め込んでいたものが弾けた。  
 どろどろとした熱の塊が、中でじわじわ拡がっているのがわかる。粘性の強いそれは、彼自身が抜かれた後もなかなか零れ出さずに、奥の方にこびりついている。  
 
 先生が、私を欲しがってくれていた証拠……  
 
 悦びと疲労感に満ちて眠気に襲われる中、もう一度先生を見た。  
 満ち足りないという訳ではないようだけれど、あの切なそうな眼はそのままだ。  
 
「…………」  
 何かを言おうとして口を開いたけど、言葉が出てこない。睡魔に意識が押し負けて、夢の中へと誘われていく。  
 
 せめてあと少しだけでも、想いを言葉に出来たなら、貴方にそんな眼をさせなくて済んだだろうか。  
 
 
 沈んでいく頭で、そんな事を想った。  
 
 
 
 *  *  *  *  *  
 
 
 
 二人一緒に眠る夢を見た  
 
 重なる体温が心地よくて 暖かくて 優しくて  
 
 そっと見上げると 嬉しそうに笑う男の人  
 
 
 ああ でも この人は  
 
 
 ──先生じゃない  
 
 
 ………『彼』だ  
 
 
 好きだった人  
 
 大切だった人  
 
 支えたかった人 でも  
 
 
 もう二度と 逢えない人  
 
 
 『彼』は笑っている  
 懐かしいその顔で……  
 
 
 やっと 気付いた  
 
 どうしてあの人に 想いを告げる事を躊躇うのか  
 
 きっと恥ずかしさだけじゃなかった  
 
 
 後ろめたかったんだ………『彼』に  
 
 
 どんなにあの人を想っても 『彼』への想いも消えなくて 比べる事なんて出来なくて  
 
 
 ……選ぶ事なんて出来ない  
 
 
 
 でも──  
 
 あの人は私を必要としてくれている  
 
 全て受け止めて それでも私を傍に置いていてくれる  
 
 
 だから………  
 
 
 「行かなくちゃ」  
 
 そう呟いた  
 
 『彼』が 戸惑ったように私を見ている  
 そんな『彼』に一つ言葉を投げ掛けた  
 
 「ありがとう」  
 
 私を 愛してくれて  
 
 
 ……でも 私はまだ 一緒に行けない  
 
 
 許してなんて 言わないけれど  
 
 それでも もう一言呟いた  
 
 「ごめんなさい」  
 
 
 目の前が ぼんやり霞んでいく  
 
 
 意識も 遠くなってきて  
 
 
 鮮明になった視界に映ったのは──  
 
 
 
 *  *  *  *  *  
 
 
 
 薄暗い、闇。  
 
 眠る前と変わらない、先生の寝室。  
 
 夢から醒めたぼやけた眼で傍らを見ると、サイドテーブルに手を伸ばす先生がいた。少し荒い呼吸が部屋に響いている。起き上がるのも怠そうな様子の彼の肌は、やや汗ばんでいるように見える。  
「……先生……?」  
 小さく呼び掛けると、大きな背中がびくりと震えた。  
 ぎこちなくこちらへと顔を向ける先生。そこに浮かぶ表情も、何だか強張っているみたい。  
 
 何かに怯えるようなその眼が、彼のものとは思えない程哀しそうに見えて、それがとても辛くて、私は彼に手を伸ばしていた。  
 
 
 貴方は、何を見ているの?  
 
 何が貴方を、そんな風に苦しめているの?  
 
 私は……  
 
 
 私は本当に、貴方の傍にいますか……?  
 
 
 両手で彼の頬にそっと触れた。熱く火照り、汗に湿った肌の感触が掌に伝わる。  
「…………」  
 心底驚いた様子で、私の顔を見つめる先生。その眼にはもう、さっきまでの怯えの色はない。  
「……大丈夫ですか……?」  
 私の問いに応える声はなく、ただじっと見つめる瞳がそこにある。  
 
「先生……」  
「………あぁ……」  
 もう一度呼び掛けると、漸く先生は口を開いた。けれどそこから零れた声は、小さく涸れたようなものだった。  
 ……水を持って来よう。  
 そう思って寝着を纏い、私は寝室を離れた。  
 
 
 *  *  *  *  *  
 
 
 『彼』の夢を見たのは、どれ位ぶりだっただろうか。  
 もう随分見ていなかったのに。  
 
 忘れた事などないけれど、いつの間にか、夢でも逢えなくなってから寂しいと思う事も少なくなっていた。  
 先生といるようになってからだろうか……  
 
 私はあの人に、こんなにも満たされている。  
 
 それなら私も、あの人の心を満たせる存在でありたい……答は、それだけで充分だ。  
 もう躊躇う事などない。想う気持ちに、嘘など何一つないから……  
 
 
  *  *  *  *  *  
 
 
 冷えた水で満ちたコップと濡らしたタオルを手に、私は寝室に戻った。部屋には煙草の臭いが漂っている……さっきまで吸ってらしたのだろうか。  
 コップを手渡すと、先生は中の水を一気に飲み干してしまった。余程喉が渇いていたらしい。もう一杯注いで来ようかと思いつつ、濡れタオルで汗を拭き取っていった。  
 
「……ありがとう」  
 そう言った彼の様子は既に落ち着いているようだった。 穏やかな横顔に、少なからず安堵を覚える。  
「いえ……」  
 幾らか温くなってきていたタオルを引き戻そうとした所で、腕を軽く掴まれた。欲求の熱は失せているものの、飲み込まれてしまいそうな程に深い色を湛えたその瞳に、一時心を奪われていた。  
 乾いた唇が私の唇をそっと塞ぐ。煙草の臭いの混じった舌が入り込んできて、思わず眉をしかめてしまったが、あまり意識せずに自分の舌を絡めていた。  
 唇が離れると、先生の手が寝着の襟に伸ばされた。ボタンを外そうとする動きに驚いて、遠慮がちに尋ねてみる。  
「あ、あの……またなさるんですか……?」  
「……嫌か?」  
 答える声に、試すような響きはない。どうやら本気でもう一度"しよう"と思っているらしい。  
 
「そうじゃないですけど、もう休んだ方が……」  
 疲れていらっしゃる上にあれだけ"した"のだもの。これ以上は絶対に駄目だ。  
「じゃあ……」  
 そう言って彼は私の体を横たえた。やはりまだ"する"気なのだろうと思い、身を起こそうとしたけど、横ざまに抱き締められてしまった。  
「………?」  
 顔を向かい合わせてみるが、その眼に行為の時のような熱は見られない。眼で問い掛けると、先生は私の耳元に唇を近付け囁いた。  
「このままで寝てくれないか?」  
 
 一瞬、何を言われたのか、よくわからなかった。  
 今までそんな事を言われた事はなかったし、何より、そんな甘えるような事を言う人じゃないと思っていたから……  
 
 でも……  
 
 
「…………」  
 彼の問い掛けに、小さく頷いて応えた。きっと私は笑みを抑えきれないでいるのだろう。先生は憮然として私の髪に顔を埋めてしまった。  
 
 こういうのも 悪くない  
 
 
 
 『彼』を想っていた気持ちに嘘はないのに、あの人を求める自分を、薄情だと思った事もあった  
 
 
 でも失ってしまう事や、心を繋ぎ合えない事の方が、ずっと哀しい事だと知っているから──  
 
 
 きっとこれからも 私はこの人の傍を離れる事はないだろう  
 

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