少し暗めの廊下を歩く男が俯きながら哲学的に考えていた  
哲学の議題は時間  
あらゆる人に平等に時間が刻まれていく  
しかしそれを自覚している人は少ない  
辛い事は長く  
楽しい事は短く  
時間に対し少しでも感情が入るとそこに微妙な感覚的誤差が生じる  
アンシュタインの相対性理論にもそれらしい事が書いてあった  
簡単にいえば同じ年月でも人によって感じる長さが違うという事だ  
 
男は目的の場所に着くと考えを一旦止めてそこにいる男に目を移した  
 
 『時効管理課』  
 
定時を過ぎた仕事場に時間を無視するように黒色の事件慕を開いている一人の男  
時計を見ていないのか  
それとも見ないのか  
彼は目の前にある過去の産物にしか興味がないのかもしれない  
当然自分に近づいてくる音にも伸びてくる影に気付く事もない  
「霧山」  
その影の主は目の前にいる彼の名前をよく通る声で呼んだ  
「今忙しいんで」  
その声に振り返る事もなく気のない返事を返す  
「相変わらずだな」  
十文字は素っ気ない態度に馴れているのか無視して自分の話を進める  
「最近どうだ」  
しかし霧山からの返事は返ってこない  
「今重大な事件を追っていてな……」  
しかし返事がなくても話しかけるのを止める気配は見せない  
「ちょっと静かにしてくれませんか」  
無視しようにもさすがに煩く感じたのかようやく自分の世界に十文字をいれた  
「いいからこっち向け」肩に軽く触れるがスッとそれを肩の動きだけではねのける  
「邪魔しないで下さい」霧山は何かのファイルに集中していて十文字に視線を移す事はない  
「手を止めて俺の話をちゃんと聞け!」  
霧山の態度にとうとう気持ちが抑えきれずドンと机を叩くと資料の山が崩れおちた  
 
「やめて下さいよ」  
その荒々しい行動にも霧山の反応が薄い  
すぐに崩れた資料を積み直すと作業に戻った  
「いい加減にしろ!」  
十文字の大きく響く声にようやく資料以外のものに目を移す  
「十文字さん」  
静かなトーンの声の後に眼鏡を軽く整える  
「これはただの趣味なんだから邪魔しないで下さい」  
十文字を知らない人を見る様に感情のない冷たい目で答える  
その目は昔の霧山を知る十文字にとっては驚く以上に胸を痛ませた  
十文字の知る限りこの霧山の感情のない目になるには約七年の月日が必要だった  
 
思ったより暖かい気温は長袖はいらなかったと感じさせる  
春のそよ風が三日月の柔らかい髪を揺らす  
目を閉じてしまうのは風の強さではなく春を感じた事による喜びのせいかもしれない  
霧山は風にそよぐ三日月の髪を見てそんな事を思っていた  
「あのね、霧山君」  
「どうしたの?  
またお腹でも減った?」霧山は冗談まじりに三日月の言葉に反応する  
三日月のすぐ隣で歩いている霧山は昔の霧山らしい霧山だった  
「そんなに食いしん坊じゃないわよ」  
そして三日月も三日月らしく答えてくれる  
少しふくれている三日月を見て霧山は声を出さず軽く笑った  
 
まわりの自転車や歩いている人が次々二人を追い抜いていく  
そんな事特に気にせず二人はゆっくりのペースを保ったまま歩いていく  
少し角度がついた坂にさしかかると、そのペースはさっきよりもゆっくりになった  
「仕事大変じゃない」  
「いつも通り時効管理課は暇だよ」  
「熊本さんとかまだ元気でいる?」  
「元気だよ。元気過ぎるくらい」  
なんでもない会話は誰と話すかで意味を変える  
二人にとってこの会話は意識していなくてもお互いを知るにおいて重要な意味を持っている  
 
会話を続けながら、しばらく坂を上っていくと見晴らしのいい場所に着いた  
秘密の場所なんて大層なモノではなかったが下に広がる街の全体を見渡せる風景は彼等のお気に入りの場所だった  
 
夕方という事もあってここには街を見つめている二人以外は誰もいない  
人だけでなく風の音もやみ静寂が包みこんでいる神秘的な情景は、まるで時間が止まっていると錯覚させるようだ  
二人だけの時が止まっている小さい世界で、三日月が真っすぐ街を見つめたままポツリと呟く  
「私でよかったの?」  
霧山にとっては何回か聞いた事があるセリフ  
「どうだろね」  
その答をはぐらかすのも何回目なのか数えてない繰り返しの言葉だった  
「そっか」  
決まった台詞のやり取りに自然と二人の顔が緩んだ  
それが合図となり時間の経過を知らせる為に沈んでいく夕日がお揃いの薬指のシルバーリングを赤く鈍く染める  
「ちょっとだけ本気で言わせてもらうと、最初はどうでもいい感じだったけど  
一緒に色々やってたらなんとなく、こう……」  
「意識するようになった?」  
「悔しいけど三日月君の勢いに負けちゃったのかもしれないね」  
霧山の返事に三日月が少し嬉しそうに寂しそうに下を向いた  
「でも結婚してから、趣味に時間割けなくなっちゃっね」  
言わずもがな趣味というのは二人で経験した数々の事件解決の事だ  
「二人で散歩って新しい趣味見つけたし」  
手と手が引きつけられるように繋がる  
そこからはただ無言で街を見つめるだけ  
夕日がゆっくり沈んでいき、うっすら暗くなっていく  
その移り変わりを眺めていると、星が小さく光り夜が来ているのがわかった  
「ホントにごめんね」  
あたりの暗さと反比例するような明るい微笑みを霧山にむける  
「三日月君は優しいな」その微笑みを壊さないように優しく霧山が包みこむ  
三日月を抱きしめて返ってくる感触が優しければ優しい程、心の奥にある気持ちが表に溢れ出してくる  
微かに震える霧山の手のせいで三日月の杖がパタンと静かに倒れた  
「暗くなっちゃった」  
「そうだね」  
杖を拾って渡すと自分の片方を三日月に貸す  
慣れた感じでそこに体を預けながらゆっくりと足を進めていく  
足音以外にコツコツとアスファルトを別の音をならしながら  
 

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