プロローグ
大手映画会社「東邦」の企画会議室の一室である新人映画監督の処女作の企画が大詰めを迎えていた。
今年28歳を迎えた新人映画監督・真中淳平にとって映画会社の重役らを交えてのミーティングはこれからの夢への
第一歩の為の超えなければならない壁でありそれと同時に緊張と不安が混じり合った実に複雑な心境にあった。
真中淳平にとって初めて会社資本による劇場映画第1作目。
彼を直接支えるスタッフには泉坂時代からの頼りの後輩でプロデューサー補として会社側から外村美鈴の姿があった。
その他の会議出席メンバーは出演女優○○(所属はその兄外村ヒロシ運営の芸能プロダクション)、製作プロデューサー、
現場スタッフ数名、そして数年間真中が助手として仕えていた映画監督・角倉の姿もあった。
会議では具体的な制作期間とスケジュール調整に予算の配分とシナリオの最終的上り等について話し合われ
その日最終的な結論が明示され遂に会社側から正式なゴーサインが出されたのだった。
それは真中がずっとずっと待ち焦がれていた瞬間であった。
美鈴らとの会議打ち合わせが終わり真中は真っ直ぐに愛妻の待つマンションに帰宅した。
「おかえりなさい、どうだった?」
玄関先で妻・つかさが出迎えてくれる。
真中淳平と旧姓・西野つかさは数年間の交際を得て昨年晴れて結婚し都内の公営マンションに新居を構えた。
過去つかさはパティシエを目指し数年間パリに留学していたが結局は挫折の憂き目に会い現在は
近所のケーキ屋の美人店員として働きながら夫と共に家計を支えていた。
夕食を挟みながら真中は妻に会議での喜ばしい結果を報告した。
「なんとかうまく軌道に乗れそうだ。 2ヵ月後には撮影に入れるらしい。そうなると暫く家に帰れなくなるよ」
「そう、なんかさみしいな。素直に喜べないかも」
そう言いながらつかさはさみしそうに微笑む。
つかさは留学からの完全帰国後どこか影を引きずったような部分を漂わせるようになっていた。
真中もどこかそれを心配していたがそれよりも今はこれからの事に自然に心は熱くなっていた。
そうとも、遂に俺の念願の劇場映画を撮れるのだから。
真中はすっかり有頂天な気持ちでいた。
数日後真中の携帯に泉坂時代からの友人で独立芸能プロ社長・外村ヒロシから電話が入った。
映画のことを含めていろいろ話したいこともある、久しぶりに会って飲もう、との事だった。
外村とは映画主演の女優の件の事もある、それも含めて改めて話をしなきゃな。
そう思いながらその夜外村の指定するホテルのバーで落ち合った。
東大卒業後若くして独立芸能プロを発足、天性の勘の良さからか扱う女の子たちはどれも市場で受け入れられ
現在外村の会社は芸能界で今一番の成長株と言われている。
そしてその一番の古株は真中も良く知るあの端下ちなみであった。
映画の件で始まり二人は久しぶりの再会からか多くのつもり話を語り合った。
メールや電話、果ては妹の外村美鈴を通じて連絡は取り合ってたがここ2年間はお互い忙しさからかまともに
会って話す機会が設けられなかった(特に社長の身である外村は馬車馬の如き多忙さであった)。
昨年のつかさとの結婚式も結局互いの身内だけでの簡素なジミ婚で友人らには出席をご遠慮して頂いたのだ。
酒で心地よく酔いながら外村は遠くを見るような目で懐かしげに語る。
「本当は北大路や東城、それに今のお前の奥さんなんかも我がプロダクションに入ってもらいたかったんだがなあ。
まあこればっかはしょうがないよな。しかしホトホトあの頃のお前は羨ましかったよ(ブツブツああだこうだ)・・・・・・・」
横で外村の愚痴話をたっぷり聞かされながら真中は思う。
そういえば東城とさつき達は元気にしてるかな?あの同窓会からあってないんだよな・・・・。
東城は今や売れっ子作家、さつきはきっと人気仲居として京都で頑張ってる事だろう、ああ懐かしい・・・・・。
「ところでだ真中、ちょっといいか」
急に外村が口調を引き締めて言う。
真中もハッと回想から現実に戻される。
「東城なんだけど実は最近エッセイ集を出版したんだ。俺もこの間読んでみたんだが・・・・お前知ってた?」
「いいや、知らなかった」
ここ最近忙しさで自分の映画のこと以外はご無沙汰気味だった。
それでも東城の出す本は出れば必ず買って読んでいた。
そうか、小説じゃなくエッセイなんかも出したのか、それは俺も読まなきゃな。
外村が続ける
「読んでみたんだが正直ちょっとビックリする内容だったよ。最近の近況や日々自分が感じ思う事とか小説論とかが
主な内容なんだがそれとは別に昔の思い出、 それに初恋話に過去の恋愛経験などが描かれていた。それで初恋話だが
おそらくお前と思われる男の事を言及したものだった」
真中はマジマジと外村を見つめながら話に集中する。
「いいか、ここからが肝心だ。慶法大に入学した東城はそこで俺たちもよく知っているあの天地とどうも付き合っていたらしい。
無論実名表記などはないが知ってる人間が読んだらすぐに分かる。更に踏み込んだ内容だが東城は奴に大学3年の時に
抱かれたらしい・・・・まあつまり東城の初めての男は天地だったって事になるな」
真中は外村からの突然の話の中身に呆然とした。
・・・・そりゃあ俺と東城の間には何のやましい関係もない。今でも友達だろうし、いや同志といった方がいい。そもそも俺は
東城の小説で覚醒されたようなもんだ。そして俺たちはそういう間柄でいようと別れて・・・・・いや天地と・・・・・知らなかった。
そうだよ、何もおかしくないさ。同じ大学だったしなんといってもあいつは東城一筋だった。俺が何か言う権利など全く無い・・・。
実に似合いのカップルじゃないか!・・・・・。そして初恋話・・・・俺のこと?・・・・。
「話の続きなんだが、結局5年ほど付き合って別れたらしい。どうも天地の方から東城の元を去っていったそうだ。
書かれてある事が事実ならね。それ以上にショッキングな描写があるとすればその間のある出来事を境に東城にとっては
セックスにしろなんにしろ奴との間で本当の愛や感動のようなものは感じられなくなったんだそうだ。その事で彼には何も罪はない、
全ては自分に非がある、と書いてあったよ。・・・・・まあそんな内容だったぜ」
真中は別れ際女優の件で再度外村に礼をいい深夜の帰路についた。
そして静かに混乱していた。
何で、何で東城はそんな事を今更・・・・。
俺のことに天地のこと・・・・そしてある事を境にだって・・・・何が・・・・?。
家では妻のつかさが夫の帰りを待ち続けていた。
そして真中におもむろに手紙を差し出した。。
「淳平に手紙。差出人見てびっくりした。あとであたしにも内容教えて」
妻から受け取った手紙の差出人の名は東城綾とあった・・・・。
手紙の文面は突然の便りに対する断りから始まり最近の近況などを書き連ねつつ先日出版したエッセイ集の内容に対する
言及も記されていた。
そして最後は近日お仕事で真中君とお会いするかもしれません、そうなる事を心より祈りながら、と締めくくられていた。
「ねえ、あたしの勘が外れてなきゃその手紙の内容って東城さんがこの前出した本の事とかが書かれてるんでしょう?」
「え?・・・・う、うん」
「やっぱりね。あたしも東城さんの出す本はちゃんと読んでるし大抵発売日には買ってるから。今回淳平は
忙しかったからか珍しくまだ読んでなかったと思うけどちょっとビックリした。何か事情はよくわからないけどあんな
生々しい事書いてたから。・・・・それで初恋の人って多分淳平のことなんじゃないかな?」
真中はそれに対してうまく答えられない。
作家・東城綾の書く小説は大体恋愛物が主体となっていたがその中身は非常に情念のこもった男女の愛憎劇が多く
そのリアリティからか読者・ファンのみならず評論家たちからの評価も高かった。
真中は彼女の小説を毎度読んでいたがそれに圧倒されながらもいつもどこか居心地の悪い様な感情も抱いていた。
そして今回のエッセイ・・・・一体どういうつもりなんだろうか、東城は・・・・。
「ねえ、淳平!あたしから東城さんのところに行っちゃったりしないよね・・・・?ずっと一緒だよね?」。
「あ、当たり前だろ!突然何を言うんだよ!俺が本当に愛してるのはお前だけなんだから!」
突然の思いもかけないつかさの問いかけに思わず反射的に力を込めて否定する真中。
そしてそう言うやいなや無理矢理つかさを抱きしめその場で押し倒してしまった。
「ねえ、ずっと自信なかったんだ、東城さんにだけは・・・きっと東城さんが本気出していれば今頃こうやって淳平の胸で
抱かれてたのはあたしじゃなくて・・・・。昔からそう思ってた。そして今でも時々・・・・。」
真中に抱かれながらつかさはすがる様にそう口に出した。
「少し気が動転しただけさ・・・東城から手紙が来ただけじゃないか・・・・つかさ、俺は今ここにいるだろう?」
そして二人は自然と唇を重ね合わす・・・・。
そして夜は更けていく・・・・。